2010年9月5日
「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)、たった四はいで夜も眠れず」という、宇治の高級茶と黒船をかけた狂歌が、江戸時代の末期の日本の現実をよく現しています。現代の日本も、目覚める必要があると言われています。しかし、なかなか方向が見えていないという現実があるのではないでしょうか。本日の箇所では、三重の「さめよ」という呼びかけがなされています。その第一は、不思議にも、まるで眠っているように見えた「主の御腕」に向かっての「さめよ」という語りかけです。多くの人が祈りの時間も惜しんで忙しく動き回っています。しかし、真剣に神に訴え続けることこそすべての始まりです。第二は、酒に酔って現実を見ていない人への「さめよ」という語りかけ、そして、第三は、絶望に打ちひしがれている人に希望を生み出すという意味での「さめよ」という呼びかけです。
1.「わたしに聞け・・わたしに心を留めよ」
51章の最初のことばは、「わたしに聞け」から始まります。その上で、「義を追い求める者、主(ヤハウェ)を尋ね求める者よ」(1節)と言われます。彼らには、エルサレムの滅亡という悲劇の中で、神の義を見失い、神に失望する恐れがあったからです。そのような中で、主の恵みのみわざを思い起こすようにという訴えが、「目を向けよ。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴に」と記されます。これは、神が、アブラハムとサラを、偶像礼拝の民の間から選び出し、「神の民」を創造してくださったという原点に立ち返らせるものです。「それは、彼ひとりをわたしが呼び出し、祝福し、その子孫をふやしたのだから」(2節)とは、アブラハムの信仰を導き、その子孫を増やして行ったすべての働きが、神の一方的なあわれみによるということを示すためです。
そして、「まことに主(ヤハウェ)はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、荒地を主(ヤハウェ)の園のようにする」とは、主ご自身が神の都エルサレムを再興し、そこをエデンの園のような祝福で満たしてくださるという約束です。神の民の歴史は、エデンの園から始まって黙示録に預言されている「新しいエルサレム」として完成されます。そして、「そこには楽しみと喜びが見出され、感謝と歌声とがある」というのです。
この世界の歴史は、神による創造の喜びから始まり、神による完成の喜びに向かっています。神の世界の歴史は喜びに始まり、喜びに向かっています。この世の悲しみは一時的な通過点に過ぎません。
「わたしに心を留めよ。わたしの民よ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしのさばきを国々の民の光として現す」(4節)とは、私たちが「世界の光」とされ、用いていただくために必要なことは、何よりもまず自分の心を神に向け、神の御教えに耳を傾けることから始まるという意味です。
「わたしの義は近い。わたしの救いは出ている。この腕は国々の民をさばく」(5節)とは、先のエルサレムに対する約束が既に実現に向かっていることを指します。そればかりか、「島々はわたしを待ち望み、この腕に拠り頼む」とは、神の救いがイスラエルばかりか全世界に及ぶことを示しています。
そして、「目を天に上げよ。また下の地に目を向けよ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者も同じように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけない」(6節)とは、目に見える世界のはかなさと、神の救いのご計画の永遠性が対照的に描かれたものです。私たちはたとえば、光の速度で五十億年もかかる遠い銀河団の暗黒物質を撮影することさえできます。大宇宙は私たちの想像を超えた広がりを持っています。しかし、この宇宙はビッグバンとか呼ばれるどこかの時点から始まり、どこかの時点で崩壊するというのは多くの科学者にとっての定説となっています。多くの科学者は、この宇宙は137億年前に、太陽は46億年前に始まったと言います。ちなみに太陽のエネルギーは、水素原子4個がヘリウムに変わるという核融合によって生まれていますが、どこかの時点でこれが燃え尽きるというのは、誰もが認めざるを得ません。
つまり、目に見える世界は、人の感覚には永遠に続くように見えても、始まりと同時に終わりがあるというのは誰もが認めざるを得ないことなのです。後に使徒ペテロは、「天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:12,13)と告白しました。しかも、目に見える世界が滅びるのは、「神の正義」が全世界を覆う「新しい天と新しい地」を迎えるための前提に過ぎないというのです。私たちの信仰とは、世界の完成を待ち望むことにあります。そのことを、主は、イザヤを通して、「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけない」と言っているのです。
7節では、1節と同じように、「わたしに聞け」という訴えがなされ、「義を知る者、心にわたしの教えを持つ民よ」と語りかけられます。ここでは、「義」が「わたしの教え」と言い変えられています。そして、「人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな」と言われながら、「しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす」と神の民の敵の滅亡が預言されます。そして、そのように断言される根拠が、「わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ」(8節)と記され、神の義と神の救いの永遠性が再び強調されています。
Great is Thy faithfullnessという賛美がありますが(Ⅱ賛美歌191)、「神の義」とは、主を待ち望む者を、主は決して裏切ることはないという真実さを表しています。「人のそしり」とか、「ののしり」に一喜一憂してしまう私たちに、神はご自身の真実を示しながら、「わたしに聞け」と言われます。あなたの目と耳は、どこに向けられているでしょうか。昔いた会社では、「会社はきちんと君のことを長い目で見ているから、あせらなくても大丈夫・・・」などと言われましたが、今、その会社は、驚くほど多くの外国人の専門家を雇い入れ、社員の評価システムが劇的に変えられたと言われます。そこでは、多くの外資系企業のように、自分をアピールしなければ認めてもらえないようになってきているのかも知れません。しかし、それを信仰の世界でしてしまうと、パリサイ人と同じになってしまいます。彼らは、神の恵みは、自分の信仰または真実への報酬かのような誤解をして自分の信仰をアピールしていました。
しかし、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)とあるように、神の救いのご計画に耳を傾けることこそがすべての始まりです。私は長らく、自分の信仰を計りながら一喜一憂するという歩みをしていました。しかし、聖書を読めば読むほど、私の救いは神の一方的な選び、神のあわれみに始まるということがわかりました。私は自分の真実には信頼できません。しかし、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)とあるように、神は不信仰、不真実な私に信仰を与え、それを完成へと導いてくださいます。そして、この世界もエデンの園の喜びと祝福の回復という完成に向かっています。そして、成長の原動力は、常に、自分で「掴み取る」という姿勢ではなく、「力を抜いて聞く」ことに始まるのです。
2.「さめよ。さめよ。力をまとえ。主(ヤハウェ)の御腕よ」
「さめよ。さめよ。力をまとえ。主(ヤハウェ)の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように」(9節)とは不思議な表現です。これは救いをもたらす神の御腕が眠っているように見えているという訴えだからです。「さめよ」という動詞は、50章4節の「主のしもべ」の「主が・・私を呼びさまし、この耳を呼びさまし」という告白と同じです。そして、「それはあなたではないか」と繰り返しながら、「ラハブを切り刻み、竜を刺し殺した」というエジプトに対する神のさばきを思い起こしています。なお、30章7節で「ラハブ」はエジプトの別名、また「竜」とはエジプトの王パロを指します(エゼキエル29:3別訳)。その上で、再び、「それはあなたではないか」と問いかけながら、「海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて贖われた人を通らせた」という、「主の御腕」が紅海をふたつに分けて民を通らせたという不思議な救いを思い起こしています。その両方において、主の御腕が偉大な救いをもたらしてくださいましたが、今は、それがまるで眠っているように見えているので、「さめよ」と失礼な訴えがなされているのです。
ただ、そのような訴えの直後に、救いを確信した喜びが表現されます。ここでは、そのような全能の「主(ヤハウェ)の御腕」が目を覚ます結果として、「主(ヤハウェ)に贖われた者たちは帰ってくる。彼らは歓喜のうちにシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく」と、バビロン捕囚にされていた神の民がエルサレムに帰還する様子が描かれ、そのときには、「楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る」(11節)と美しく描かれています。
詩篇44篇23節には「起きてください(さめよ)。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください」という祈りが記されていますが、これを読んだとき、何か、心がすーっと楽になった気がしました。そのように作者が訴えたのは、その前の節に、「あなた(主)のために、私たちは一日中殺されています。私たちはほふられる羊と見なされています」と嘆かざるを得ない絶望的な状況があったからです。しかし、使徒パウロも、主の福音のために、死の一歩手前までの鞭打ち刑を受けたことが五度、船が難破しかことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあり、「たびたび眠られない夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」と告白しています(Ⅱコリント11:23-27)。パウロは、そのような苦しみの中で、いつも、「ハレルヤ!」と主に感謝していたのでしょうか?たぶん、彼は、そのような中で、この詩篇44篇を開きながら「起きてください。主よ」とか、「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ」と訴えていたのではないでしょうか。しかし、このイザヤ書にも明らかなように、主への必死の祈りの直後には、歓喜が生まれるのです。ですから、パウロも、自分の苦しみを先の詩篇44篇22節で表現しながら、「しかし、これらすべてのことの中にあっても」と言いつつ、「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となっている」(ローマ8:37)と断言しています。つまり、主に向かって疑いを含めた正直な気持ちを訴えるところから、圧倒的な勝利の確信が生まれてくるというのです。
そして、12節では、「わたし、このわたしこそがあなたがたを慰める者」と、主ご自身の一方的な主導権によって救いをもたらすと宣言されます。そして、主は神の民に向かって、「何者なのか、あなたは。死ななければならない人間や、草のように置かれた人の子を恐れるとは」と問いかけます。これは、神の民としてのアイデンティティーを忘れていることへの警告です。先に主は、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」(49:16)と言っておられました。私たちはこのような主の語りかけを忘れた結果として、人の脅しに屈するようになります。そのことを主は、「そして、あなたは主(ヤハウェ)を忘れている。あなたを造り、天を引き延べ、地の基を定めた方を」と訴え、そして、その結果として、「それで、一日中、絶えず、おびえている。まるで滅ぼす備えができているかのようないたげる者の憤りを前にして」という事態になります。創造主を恐れることを忘れた者は、この世の権力者を恐れるようになるからです。そして、再び、「しかし、しいたげる者の憤りはどこにあるのか。押さえつけられている者はすぐに解放される。死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠くこともない」(14節)という民の解放が告げられます。そして、15、16節の、「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたの神。海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主(ヤハウェ)。わたしのことばをあなたの口に置き、この手の陰にあなたをかばい、天を植え、地の基を定め、『あなたは、わたしの民だ』とシオンに言う」と言われます。これは、十のことばを与えた神のパーソナルな語りかけと同じ表現から始まっています。創造主を忘れることこそ、罪の根本です。
主はここで、「何者なのか、あなたは」と問いかけてくださっています。人の憤りを恐れて、それに屈しながら、主を忘れるような生き方、それが問われています。自分で自分に向かって、「恐れるな!」と励ますのではなく、主の永遠のみわざに思いをめぐらすことこそ、「恐れ」から解放される道です。自分のうちに沸きあがってくる恐怖感情を抑えるのではなく、それを主に正直に訴えることこそ、すべての始まりです。
3.「さめよ。さめよ。立ち上がれ、エルサレム」
17節の始まりは、先の「さめよ」と同じ動詞の再帰形を用いながら、「さめよ(自分をさませ)。さめよ。立ち上がれ。エルサレム」(17節)と告げられます。それは、エルサレムに対する神からの必死の語りかけです。私たちのまわりにも、非常に危険な状況に置かれていながら、とてつもなく呑気に生きているという人がいるかもしれません。「そんなことしていて大丈夫なの・・・」と心配しても、本人は、「どうにかなる・・・」と悠然と構えています。そうなるのは、幼いときから、何か失敗するたびに親が尻拭いをして、しっかりと責任を取らせてこなかったからかもしれません。それにしても、責任を取らせることと、助けの手を差し伸べることのタイミングは驚くほど難しいものです。なぜなら、それは神と神の民との関係でも起こっていることだからです。イスラエルの民も、何度も神にそむき、自業自得で苦しみを招いたのですが、そのたびに神が御手を差し伸べる必要がありました。しかし、その繰り返しの中で、彼らは、主を甘く見るようになりました。それに対して、主は、彼らに警告したとおりの苦しみを与え、自分がそれだけ愚かな生き方を続けてきたかに目覚めるように迫っています。まず、自分の絶望的な状況をきちんと直視できないと、本当の意味で、創造主に助けを求めるということができません。真剣な祈りは、絶望感から生まれるからです。
ここでは彼らが目を覚ますべき状態にあることが、「主(ヤハウェ)の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した者よ」(17節) と描かれています。これは、エルサレムが神の怒りを真っ向から受けていることを意味します。神の怒りとは、多くの場合、神ご自身が直接の罰をくだすというよりも、やりたいようにやらせ、生きたいように生かすことによって、自業自得による自滅を導くということに表されます。それは、毎日、酒びたりになりながら、自己破産に向かって行く人を、そのままにしておくことです。彼らは酒によって現実を見ることができないのか、現実を見たくないから酒に逃げるのかわかりませんが、とにかく当人は、神のさばきを受けているという自覚がまったくないままに滅びに向かっています。その様子をパウロはローマ人への手紙1章24、26,28節で、「それゆえ、神は、彼らの欲望のままに汚れに引き渡され・・・情欲に引き渡され・・・良くない思いに引き渡され」と描いています。
しかし、神はここで、彼らが自分の愚かな生き方に目覚めるように望み、「さめよ、さめよ」と語りかけ、現実を直視させようとしておられます。その彼らの悲惨な現実が、まず、「彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導く者がなく、彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女の手を取る者がない」(18節)と描かれます。これは、エルサレムに生まれ育った者が、そこを導くことができないという指導者不在、また、エルサレムを守るために戦う者がいないという状況です。これは現代の日本の課題ともいえましょう。日本は非常に危ないところに立たされています。ところが、明確なビジョンを示す指導者がいないとばかりか、国民もみんな評論家気取りで、国を守るために立ち上がるなどという気概がどこにも見られません。神はそんな日本人に、「さめよ」と言っておられます。
その結果、「滅亡と破滅、ききんと剣」という二組の悲惨が、エルサレムとその住民に襲いかかります(19節)。
そのような中で、「だれが、あなたのために嘆くだろうか・・・だれが、あなたを慰めようか」と問われます。
そして、その住民の絶望的な状況が、「あなたの子らは気を失う。網にかかった大カモシカのように、すべての町かどに倒れ伏す」と記されます。野生の大カモシカは逃げ回ることに俊敏ですが、一度、つかまってしまうと気力が萎えてまったく動けなくなるということのようです。そして、そのような絶望感に襲われているもともとの原因は、「主(ヤハウェ)の憤りと、あなたの神のとがめとが満ちている」ためです(20節)。
その上で、「それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ」(21節)という語りかけがなされますが、これは、先の、「憤りの杯・・を飲み干し」て、悩み苦しんでいるエルサレムの住民を指します。そして、22節では、「あなたの主、ヤハウェは、こう仰せられる」から始まり、その方は、「ご自分の民を弁護するあなたの神」と描かれ、その慰めのことばが、「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯を二度と飲むことはない」です。これはイスラエルに対する神のさばきが終わったことを指します。彼らは、酔いから覚めて、主の救いを真剣に求めなければなりませんが、茫然自失の状況です。それに対して主は、ご自分の主導権によって、彼らを酔いから覚ましてくださるというのです。
イエスはゲッセマネの園で、「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころの通りになさってください」(マタイ26:42)と祈られましたが、これはイエスご自身がイスラエルの王として、主の憤りの杯を飲み干してくださったことを示しています。それはイエスが私たちの身代わりとしてこの「憤りの大杯」を飲んでくださったことを意味します。私たちはイエスにつながることによって、この「憤りの大杯」を二度と飲む必要はありません。私たちはそのしるしとして、イエスの契約の血としての祝福の杯を、聖餐式において受けさせていただきます。
「それを、あなたを悩ます者たちの手に渡す・・・あなたは背中を地面のようにし・・彼らが乗り越えて行くのに任せた」(23節)とは、エルサレムを踏みにじったバビロンが、代わりに、主の憤りの杯を飲まされて苦しむことを意味します。そしてこれは後に、イエスを十字架にかけたユダヤ人たちが悔い改めなかったことによって主の憤りの杯を飲むことになったことを指すものでもあります。イエスの十字架と復活の約四十年後、エルサレムがローマ帝国によって滅ぼされ神殿も廃墟とされましたが、それは神の御子を不当に苦しめた者たちへの神のさばきでした。
52章初めでは、「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム」と呼びかけられますが、これは、主のさばきを受けて、ちりの中に伏していたエルサレムを、喜びの祝宴へと招いている優しい語りかけです。「無割礼の汚れた者が、もう入って来ることはない。ちりを払い落として立ち上がれ。もとの座に着け、エルサレムよ。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ」(1,2節)とは、エルサレムが神の都としてすべての国々の上に立つことを意味します。これは、明らかにバビロンの支配から解放されることを意味しますが、現実には、エルサレムはその後も、ギリシャ帝国やローマ帝国の支配下で苦しみ続けました。
イエスの時代の人々は、エルサレムが無割礼の汚れたローマ人の支配から解放されることを切望していました。そして、黙示録では、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから出て、天から下ってくる」(21:2)と記されますが、それこそ、この預言が成就するときです。
神の民は、昔、エジプトに苦しめられ、またこのときはアッシリヤによって、そして後にはバビロンによって次々に苦しめられます。それによって、イスラエルの神、ヤハウェの御名も世界中で侮られることになっていますが、それは神が無力だからではなく、その民が神に逆らい続けた結果です。
イエスは、最後の晩餐において契約の杯をお与えになった後で、「わたしの父の御国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ26:29)と言われました。これはイエスによる断酒宣言ではありません。かえって、天の御国の祝宴が間近に迫っているという励ましのことばです。イエスご自身も私たちといっしょにこの天の祝宴を待ってくださっています。そして、私たちが守る聖餐式は、天の祝宴を先取りして祝うものです。聖餐式のたびに、私たちは「はるかにそれを見て喜び迎える」という心の姿勢が問われています。そして、その契約の杯で覚えられることは、私たちの意志表明ではなく、イエスによる約束なのです。
イエスがゲッセマネの園で苦しんだのは、「主の憤りの杯」を飲むことの恐怖を心から知っていたからでした。それを知らずに滅びに向かっている人が何と多いことでしょう。それにしても、そのとき弟子たちは、眠りこけていました。彼らは自分たちの置かれている状況を知ろうとはしていなかったからです。イエスはそんな彼らに、「さめよ」と言われました。そこには最初に述べた三重の意味で、「さめよ」が含まれているのではないでしょうか。