2010年7月25日
米国滞在中にシリコン・バレーの大手企業に働く当教会員の夫N兄のオフィスを見させていただきました。その企業は20年前に株式が上場されたばかりですが、現在は四万人の従業員を抱え、インターネットシステムのインフラ装置を供給する世界最大の会社です。興味深かったのは、30もの建物が、極めて簡素に、何の特徴もなく同じように建てられていることでした。それは、いつでもオフィスビルを手放し、売却できる備えのためであるというのです。彼らは20年後にも自分の会社が安泰であるなどという幻想は持っていません。そこにアメリカの活力を感じました。今日の箇所には、「楽しみにふけり、安心して住み、『私だけは特別だ・・』と言う者」の破滅が宣告されています。自分の人生の土台が、神の御心しだいで一瞬のうちに崩れ得るということを知ることは、何よりも大切な知恵ではないでしょうか。N兄はリージェント・カレッジで神学を学んだ後、この一見、無関係な仕事に着いていますが、彼は聖書を学んだおかげで、人の顔色を伺うことなく、大胆に自分らしく生きることができるようになったと言っていました。また、どんな過ちを犯しても、そのたびに主に告白し、新たな出発ができるようになったと言っておられました。私たちの人生を導いてくださる神を知ることこそ、明日何が起こるかわからない世界で働く最大の基盤になります。なお、詩篇40篇7節に、「巻き物の書(聖書)に私のことが書いてあります」とありますが、私は聖書に私個人の失敗や挫折、そして希望、私に対する神のご期待が書いてあることが分かり、本当に気持ちが楽になりました。それと同時に、何度失敗しても、神との対話のうちにやり直す勇気と力をいただくことができています。
1.「私たちを贖う方、その名は万軍の主(ヤハウェ)、イスラエルの聖なる方」
47章は原文で、「下って、ちりの上にすわれ」という命令から始まっています。それは創造主を忘れて自分の力を誇っているすべての者への語りかけと言えましょう。「バビロンの娘」も「カルデヤ人の娘」も、自分たちの栄華を誇っているバビロン帝国の貴族たちを指しています。主は彼らに、「王座のない地にすわれ・・・もうあなたは二度と優しい上品な者とは呼ばれないからだ」と言われます。人は、一時的に没落しても、復活できるという希望に生きていますが、主はバビロンの貴族たちに永遠ののろいを宣告しておられます。
そして、その彼らの永遠の没落のことを、神は当時の人々にわかりやすいように、「ひき臼を取って粉をひけ」と、女奴隷の仕事に落とされることとして描きました。「顔おおいを取り去り、すそをまくって、すねをだし、川を渡れ」(47:2)とは、それまでベールをかぶりロングドレスを着て、台座に載せられて運んでもらっていたときとの対比です。また、「あなたの裸は現れ、その恥もあらわになる」とは女性としての尊厳が奪われる様子を表しています。
これらはすべて、エルサレムを廃墟にしたバビロン帝国へのさばきですが、そのことを主は、「わたしは復讐をする。だれひとり容赦はしない」(47:3)と言われます。ところがそこで突然、「私たちを贖う方、その名は万軍の主(ヤハウェ)、イスラエルの聖なる方」(47:4)と、主への賛美が記されます。当時の世界の人々にとって、エルサレムがバビロン帝国によって廃墟とされたということは、エルサレムの神が無力な神であるという証拠になりました。しかし、主は、イスラエルを奴隷状態から「贖う」ことができる万軍の主、他に比類のない「聖なる方」であるというのです。
なお、当時の人々にとっての主の「救い」は、何よりも自分を虐げる者に、主が明確な復讐をしてくださることとして表現されました。イエスは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と言われましたが、これは、「ドア・マットのように踏みつけられるままになりなさい」という弱者の道徳ではなく、神のご支配に信頼して、暴力の連鎖を断ち切ることを勧める勝利への道でした。実際、イエスの時代のユダヤ人過激派はローマ帝国に武力で対抗しようとして、二千年の流浪の民としての悲惨の道を開きました。しかし、ローマ帝国はその数百年後、イエス・キリストの前にひざまずくことになりました。
そして主は再び、47章5節で、バビロンへのさばきを、「もうあなたは二度と諸王国の女王と呼ばれることはないからだ」と宣告しながら、かつて神の民が彼らに屈服せざるを得なかった理由を、「わたしの民にわたしが怒り、わたしの嗣業をわたしが汚し、彼らをあなたの手にわたしが渡した」と、神の民、神の財産を、神ご自身がさばいた結果だと強調します。しかし、彼らは自分の力を誇り、イスラエルの民に無慈悲に振舞いました。そのことを主は、「あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた」と責めます(47:6)。これが、主のさばきであるなら、バビロンにも同じ悲劇がもたらされる可能性があるのに、バビロンの貴族たちは、「『いつまでも私は女王でいよう』と言って、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった」というのです(47:7)。
しばしば、日本の神学者は現在のアメリカの繁栄を滅び行く大バビロンにたとえて論じますが、今回、アメリカに少し旅してみて、日本の方がはるかに危ないと思いました。少なくともアメリカの大企業はいつの日か新興企業に追い抜かれる可能性を極めて現実的に見ているのに、日本には今なお、大企業に対する憧れとねたみが満ちています。どんな大企業も20年先はどうなるか分からないということを本当に知っていたとしたら、もっと日本の政治は危機意識を持って政治経済のシステムの改革を行うことができているはずではないでしょうか。いろいろマスコミがパニック的な危機意識をあおってはいますが、それは足の引っ張り合いを生み出す効果しか出ていないような気がします。そして、互いに批判し合いながら、何も改革が進まないというのは国の没落の何よりの兆候です。
どんなに強大な国も、大きな会社も、滅びるのは一瞬です。多くの日本人は、自分たちこそ社会の犠牲者であるかのように思っていますが、世界経済の均一化(グローバライゼーション)の影で、アジアやアフリカの貧困はますます深刻化していることを忘れてはなりません。多くの日本人は自分たちの知恵と力と勤勉さが現在の繁栄を築いたと自負していますが、多くのアジア諸国から見たら、日本は、第二次大戦のときもまたその後も、彼らの犠牲に上に繁栄を築いてきていると見られています。神は、何よりも人々の傲慢に対してさばきを下されます。貧しい国々の痛みを自業自得と軽蔑する者は、同じように、自業自得で滅びに向かいます。私たちは、創造主を忘れた日本のために、また貧しい国々のために、日本に住む者の代表者としてとりなしの祈りをする必要があります。
2.「『私だけだ。他にはいない』と言う者よ・・・わざわいがあなたを襲う」
「だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住み、心の中で、『私だけだ。他にはいない。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう』と言う者よ」(47:8)節)とありますが、これは45章5,6,18,21節で繰り返された神ご自身の宣言、「わたしは主(ヤハウェ)。ほかにはいない」ということばを、人間に過ぎない者が自分に当てはめ、自分を神の立場に置くという意味のことばです。それは14章12-15節に記されたバビロンの王に対するさばき(サタンのことを示唆しているとしばしば解釈される箇所)に通じる表現です。
創世記によると人間の堕落とは、皮肉にも、高い所から低い所に「落ちる」というよりは、「神のようになり、善悪を知るようになる」ことを意味しました(同3:5,22)。私たちは常に、いろんな意味で成長を目指すべきなのは当然なのですが、それが、「私だけは特別だ!」という意識につながるとしたら、それは創造主に逆らうという最も大きな罪を犯すことになります。たとえば、真の科学者や哲学者は、「研究すれば研究するほど、分からないことが増えてくる・・」と言います。真の成長とは、自分の限界を深く自覚することであるはずなのに、中途半端な成長は人を傲慢に導きます。パウロも、「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」と、人間の知識の限界を示しながら、「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」と、神への愛こそが何よりの人生の基礎となることを語っています(Ⅰコリント8:2,3)。
神は、安逸をむさぼっているバビロンの女王に、「これら二つのことが一日のうちに、またたくまにあなたを襲う。子を失い、やもめになることが。」と、彼女の人生の土台がいかに脆いものかを指摘します(47:9)。その上で、彼女たちの宗教がそれに対して何の役にも立たないということを、「どんなに多く呪術を行っても、どんなに多く呪文を唱えても、これらは突然、あなたを襲う」と、皮肉を込めて描かれます(47:9)。なお、バビロン帝国の遺産は、今も身近なところにあります。十二星座を用いての星占いは、この帝国に由来します。今も、「あなたの星座は、牡羊座ですね。今日のあなたの運勢は・・」などということばに耳を傾ける人が身近に数多くいますが、天体の法則を把握したと誇っていたバビロン帝国の中東支配はたった七十年間で終わり、史上稀なほどはかないものでした。
そして、彼らの愚かさが、「あなたは自分の悪の中で安心し、『私を見る者はいない』と言う」(47:10)と指摘されます。人は、誰も、自分が人から見られ、評価されていることを意識しているものです。そして、それが道徳的な制御力になります。日本的に言うと、「恥を知る」ということです。しかし、バビロンの貴族たちは、自分をこの世の価値観から超越したものとしてしまった結果、恥知らずな行動を取りながら、なお「安心して」いました。これはかつて、日本の軍隊の指導部が戦争中に従軍慰安婦などという恥知らずな残虐行為を行いながら、「神国日本は無敵である!」などと豪語していたことに似ています。そして、そのようになった原因を、神は、「あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた」と皮肉を込めて言います。中途半端な「知恵と知識」は、人間を傲慢にしてしまいます。
そして、彼らの傲慢さが再び、「そして、あなたは心の中で言う。『私だけだ。他にはいない』」と描かれます。それに対し先の場合と同じように、「しかし、わざわいがあなたを襲う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたに降りかかるが、避けることはできない。破滅は突然、あなたを襲う。それをあなたは知らない」(47:11)と、彼らの占星術の知識もありとあらゆる「まじない」も、何の役にも立たないということが指摘されます。
その上で、12節から14節において、バビロンの呪術師に対する皮肉が描かれています。神は今、東のペルシャ帝国を用いて、瞬く間にバビロン帝国を滅ぼそうとしておられますが、それを前提に、主は彼らをあざけりながら、「さあ、呪文や呪術の数々をもって立ち上がれ。若い時からそれを労してきたように。あるいは役立つかもしれない・・・さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。見よ。彼らはわらのようになり、火が彼らを焼き尽くす。自分のいのちを炎の手から救い出せない」と宣告されます。これは、今もバビロン由来の占星術を生業としている者に適用できるのではないでしょうか。
なお、「あなたに助言する者が多すぎて」(47:13)とは、多神教に対する最高の皮肉とも言えましょう。多くの神々を持つことと、自分を神とすることは相反するようで、同じことです。それは、自分を世界の中心において、自分に都合の良い教えだけを集め、自分の中で統合しようとする試みです。この世界はそのような勧めで満ちています。
あなたの周りにも、「あの先生はこう言っている、この先生はこう言っていた」などと多くの情報を知っていても、「では、あなたは・・」と聞くと答えに窮する人がいることでしょう。しかし、本当に必要な知識は、二つだけです。それは、「創造主を知ることと、自分を知ること」です。それが聖書に記されています。私が何よりもお分かちしたいと思っているのは、聖書を通して読みながら、そのストーリーの中で自分の人生をとらえなおすということです。いろんな先生の話を聞いても、自分で聖書を読み、自分で考えることをしなければすべては徒労に終わります。
ですから、「さあ・・・あなたを救わせてみよ」(13節)という言葉は、この世の知者や哲学者に、「あなたを救わせてみよ・・・」という訴えとして適用することもできます。どんなにこの世を生きる知恵を習得しても、最終的な神のさばきの前では何の役にも立ちません。神の審判の炎は、身を暖める暖炉の火のようなものではないからです。
本当の知者とは、自分の無力さと愚かさを知っている人、イエス・キリスト以外に私たちを救うことができないということを知っている人、また、あなたにイエスご自身を指し示してくれる人です。この世には、いろんな助言者がいますが、神が遣わされる真の助言者とは、イエスがあなた個人の人生に表れてくださったことに気づくことを助け、あなたとイエスとの固有の出会いを深めることを助けてくれる人ではないでしょうか。
3.「今から、新しい事、隠されてきたことをあなたに告げよう」
48章の初めで、主がイスラエルに向けて、「これを聞け」という命令とともに、「あなたは・・・主(ヤハウェ)の御名によって誓い、イスラエルの神を告白するが、誠実をもってせず、また正義を持ってしない」と叱責しておられるのは、彼らが、自分たちが神の民とされていることに安住し、神の愛に応答する責任を忘れていたからです。今も、名前だけのクリスチャンと呼ばれる人々がいますが、そのような人に対する語りかけでもあります。
「先の事は、前からわたしが告げていた・・」(3節)とは、イスラエル王国の没落からバビロン捕囚、またそれからの回復のすべてが、すでにレビ記や申命記に記されていたということを示しています。特にイザヤの活躍したダビデ王国の没落の過程では、ユダ王国の民は、アッシリヤ、バビロンやエジプトのような大国のご機嫌を取りながら、それらの大国の偶像にも敬意を払うようなことをしていました。バビロンの支配が広がるとバビロンの神が、ペルシャ帝国が支配権を持つと、ペルシャの神があがめられるというのは当時の世界の常識でした。それを前提に、主は、「あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに、聞かせたのだ。『私の偶像がこれをした』とか、『私の彫像や鋳た像がこれを命じた』とか言わせないためだ」(48:4,5)と、ご自分の預言の意味を説明されます。何よりも不思議なことは、イスラエルの民が、自分たちの神殿を破壊された後で、支配者の国々の偶像をあがめる代わりに、それを自分たちの神、主(ヤハウェ)のさばきとして受け止めたことです。それは、彼らが自分たちを襲うあらゆるわざわいが、すでにモーセの時代から警告されていたことの成就だと知ったからです。そして、「あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ」(48:6)とは、その事実を認めるようにとの迫りであり、また、「あなたがたは、告げ知らせないのか」とは、彼らがその後、自分たちの神、主(ヤハウェ)こそ、全世界の支配者、歴史の支配者であることを告げ知らせるべきであるとの勧めです。
そして、主は、「今から、新しい事、秘め事を聞かせよう。それらをあなたは知らない」(6節)と言われます。これは、異教徒であるペルシャの王クロスによって救いをもたらすという不思議です。申命記30章4節などには、「たとい、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、主(ヤハウェ)は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す」と記され、レビ記26章の終わりでも同じ事が示唆されていました。しかし、主がペルシャ帝国の王を動かしてそれを成し遂げられるなどとは、誰も予想もできないことでした。そのことが、「それは今、創造された。ずっと前からではない。きょうまで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた』と言わせないためだ」(48:7)と描かれます。なぜなら、そのような不思議な救いが意味あることばとしてイスラエルの耳に届く前に、彼らがエルサレムの滅亡を、イスラエルの神によるさばきであると心の底から反省することが必要だからです。私たちは過去を反省しながらも、未来については、先入観を持たずに神のみわざを期待する必要があります。
残念ながら、今も、「先の事」と「新しい事」の区別がついていない人が多くおられます。私たちが歴史を通して学ぶことができるのは、失敗には共通の法則があるということです。しかし、過去の成功例を前提に将来のことを決めようとすると、時代錯誤な決断をして失敗をします。イスラエルの民が、神の救いのみわざが、日々新しいということを心から知っていたとしたら、イエスを十字架にかけることもなかったはずですし、ローマ帝国に無謀な戦いを挑んで、二千年間の流浪の民になることもありませんでした。それは、日本の第二次大戦の悲劇が、日露戦争に勝利したことに酔いしれたことから始まっているのに似ています。失敗の法則はすべての人に共通していても、成功の法則は、日々新しいということを忘れてはなりません。既成概念にとらわれている人は、時代の流れから取り残されてしまいます。今は特にそれが加速されています。それは、主が、「先の事を思い出すな。昔のことを思い巡らすな。見よ。新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている」(43:18、19)と言われた通りです。
ただし、イスラエルの失敗は、主にとって想定外のことではありませんでした。そのことが、「あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった」との対比しながら、「確かにわたしは知っていた。あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれていることを」と描かれます(48:8)。たとえば、人は何かの失敗をしたとき、「私としたことが・・・」とか、「やはりあの人は・・」などと失望しますが、私たちの反抗は神にとって意外なものではなく、それによって神のご計画が無に帰することはありません。
しかも、神は、神の民に向かって、「わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のためにこれを押さえ、あなたを断ち滅ぼさなかった」(9節)と言われます。それは、彼らの存在を無くしてしまうなら、世界の人々は神を知ることができなくなるからです。同じように、主は今も、キリストの名をもって呼ばれる私たちのことを、守り通してくださいます。神は私たちをご自身に立ち返らせるために、ときに応じて適度な試練を与えます。人は、自分で痛い目に会うまで、生き方を変えようとは思わないのが常だからです。しかし、恐れる必要はありません。私たちが主にすがっている限り、主はご自身の栄誉のために私たちを守り、助けてくださるからです。
そして、主は、「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う」(48:10)と言われます。銀の場合は溶けますが、主は私たちをそこまでは溶かしません。そのことが、「わたしは悩みの炉であなたを試みた。わたしのために、わたしのためにこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を他の者に与えはしない」(10,11節)と記されますが、神はイスラエルが苦難を通して神に立ち返り、それによって神の栄光が全世界であがめられることを願っておられました。なお、神の救いのご計画は、私たち自身のしあわせというより、神ご自身の栄光のためにあるということは、なかなか理解しにくいことです。しかし、それこそ、私たちが自分自身から自由にされる道、神の平和が世界に広がる道なのです。自分の幸せばかり求めている人には神が見えなくなります。なぜなら、目の前には不条理が消えることがないからです。しかも、私たちの信仰の程度に応じて、神は幸せを与えてくださるはずだなどと思い込んでいると、まじめに自分を振り返る人ほど息が詰まってしまうことでしょう。しかし、神が、私たちの状況に無関係に、ご自身の理由で私たちを守りとおしてくださるなら、希望を持つことができます。
主の祈りの第一は、「あなたの御名があがめられ(聖とされ)ますように」というものです。私たちが神のあわれみなしに生きて行けると思うことこそ、もっとも神を侮辱することです。自分を神のようにして、心の中で、「私だけだ。他にはいない」と言っていたバビロンはまたたくまに滅びました。バビロンで発達した占星術は何の役にも立ちませんでした。それは、明日のことは誰にもわからないということの何よりの証拠になっています。一方、私たちの犯す様々な罪や、失敗は、私たちの創造主にとっては何の意外なことでもありません。私たちが自分の愚かさや弱さを認め、主の前に謙遜になることこそ、主の御名が私たちの心の中で聖とされることの始まりです。その意味で、私たちは自分の人生が順調と思うときこそ、危ない所に立っていると言えましょう。彼らは神を求めなくなるからです。しかし、主は、心の中で主の御名があがめられている者の生涯を、守り通し、祝福してくださいます。