ローマ7章7〜25節「私は本当に惨めな人間です?」

2009年12月13日

約25年ほど前、ドイツが東と西に分かれていた頃、私は車で西ドイツの国境を抜け東ドイツに入りました。国境を越えてすぐの東ドイツの道路は広くまっすぐでした。でもすぐに警察に止められ、速度違反で罰金を払わされました。スピードを出しても安全な道路に、ほとんど見えないほどの速度制限の標識をつけながら、彼らは外貨を稼いでいました。それと同時に、自由に慣れた西側の人間を萎縮させ、従順にさせようとしたのでしょう。

同じような解釈を神の律法に当てはめる人がいないでしょうか。神は最初から守ることができない命令を与え、罰によって人間を萎縮させ、従順にさせようとしている、「神は意地悪な方であると・・・」と誤解している人々がいます。私はかつて旧約聖書に対して同じような矛盾した気持ちを抱いていました。

たとえば、創世記2,3章の記事を読んで最初に疑問に感じたのは、「なぜ神は、明らかに人が食べたくなるような善悪の知識の木の実を園の中央に置いて、人をつまずかせたのだろう・・・」、「それとも神は、これによって人間を脅し、萎縮させようとしているのだろうか・・・。それにしても、神はなぜ、そのように、すぐに罪を犯したくなるような人間を造ったのだろう・・・神は人を欠陥品として造ったのだろうか・・」というような一連のことでした。

実は、それは私だけの疑問ではないようです。パウロがローマ人への手紙7章7節から25節を記した背景には、彼に投げかけられた二つの疑問があったと思われます。その第一は、「律法は罪なのでしょうか?」(7:7)というものであり、第二は、「人間は、生まれながら善ではなく悪ばかりを望んでいるのだろうか・・・」(7:18,19)というものです。つまり、「教えが悪いのか、人間が悪いのか」という疑問ですが、パウロはその両者を否定しています。

1.律法は罪なのでしょうか?

キリストは私たちを律法の束縛から解放してくださいました(7:6)。しかし、そのように言われると、「律法」は何か悪いもののように聞こえます。それでパウロは、「律法は罪なのでしょうか?」と問いかけた後で、すぐに、「絶対にそんなことはありません」と強く否定し、律法を擁護します(7:7)。その上で、「私」ということばを敢えて用いながら、アダム以来の人間に共通する傾向を、読者への批判にならないように優しく語ります。

律法の核心は、十戒ですが、その第十番目は、「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」とまとめることができます。それがここでは、「むさぼってはならない・・」と記されています。しかし、彼は、「罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました」(7:8)と不思議なことを言っています。

これは、「善悪の知識の木」の実の場合を考えると良く分かります。神は、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と豊かな祝福を与えながら、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と、ひとつの例外を設けることで、かえって、神の恵みを意識させようとされました。これは、空気がなくなるということを前提にして初めて、空気のありがたさが分るようなもので、この限界設定は、神のことばに従う中での自由と喜びを教える意味がありました。しかし、そこで「蛇」は、「この戒めによって機会をとらえ」て女を誘惑し、女の心に、その木の実を欲しくてたまらないという「むさぼりを引き起こし」たのでした。

そのことが、「罪が私を欺き、戒めによって私を殺した」(7:11)と言われます。蛇は、神が「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われた聖なる「戒め」を逆手に取って、人を「死の力」に服させてしまったのです。

同じことがイスラエルの歴史の中で起こりました。神はイスラエルを周りの国々の罪に染まらない理想的な国に育てようとし、そのために愛に満ちた「御教え」としての「律法」を、モーセを通して授けました。そして、最後にモーセは、「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と、分り易い二者択一を迫りました。ところが、身近な異教の女たちはイスラエルの男たちを次々に堕落させ、ダビデの子ソロモンまで堕落させました。つまり、アダムもイスラエルも誘惑に負けて、死を選び取ってしまったのです。

パウロは、改めて、「この良いものが、私に死をもたらしたのですか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって極度に罪深いものになりました」(7:13)という論理を展開します。それは、「神の御教え」、つまり「律法」が人間に死をもたらしたのではなく、罪が人間に死をもたらしたということを敢えて強調するためです。

私はモーセ五書、つまり、律法の解説の書のタイトルを、「主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って」としました。それは申命記7章7節のみことばであり、律法の要約は、主がイスラエルを恋い慕って与えた愛の教えであるという意味です。しかし、それと同時に、神はかつて弟アベルに嫉妬しているカインに向って、「罪は戸口であなたを待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(4:7)と言われました。

つまり、神が私たちを恋い慕っておられることが明らかになればなるほど、罪が私たちを恋い慕って、私たちを殺そうとする力が働くというのです。しばしば、「私たちが新しい地に教会を建てると、必ずサタンも隣に悪霊の基地を建てる」と言われます。「光」は常に「闇」を浮かび上がらせる力があるように、模範的な親のもとでかえって不良が育つという現実さえあるのです。それを子育ての失敗と呼ぶ人は、「闇」の力を知らない人です。

2.「それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」

その上でパウロは、「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と言います。つまり、律法が悪いのではなく、人間にその力がないのです(7:14)。

それでは次に出てくる疑問が、神がイスラエルに律法を与えたのは、「豚に真珠」というような無駄なことだったのだろうか・・ということです。それではイスラエルが悪いのではなく、選んだ神が悪いということになるからです。

しかし、イスラエルは豚のように、最初から「律法」を軽蔑したのではなく、神の「愛のことば」として喜んでいました。その現実をパウロは、「イスラエル」と「私」を重ね合わせて、「律法を良いものであることを認め」ながら、「私のうちに住みついている罪」が、私を、「したくない悪を行なう」ように駆り立てていると分析しています(7:16-19)。

たとえばあなたは、ある時には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と聞いて良い気持ちになり、次の時には、「あなたの罪がイエスを十字架にかけたのです」と言われて落ち込むということがないでしょうか。それは、聖書のメッセージが矛盾しているのではなく、あなたの心の中にある相矛盾する気持ちが反応を起こすのです。

私は昔、仕事が思い通りにならなくて自己嫌悪に陥ると、ホテルのスカイラウンジなどに上ってちょっと贅沢な食事をしたくなりました。そこで束の間、世界が自分を中心に回っているような気持ちに浸りたかったのです。それは、「僕って、何て駄目なんだろう」という自分を卑下する気持ちと向き合うのが厭だったからでしょう。

しかし、パウロはここで驚くほど冷静に、アダムの子孫としての「私」の現実に向き合っており、自分を救いがたい人間だと卑下しているわけではありません。人によっては、「お前は生きている価値がない・・」という声を心の中に聴き続け、それを誤魔化すために幻想的な成功の夢へと駆り立てられ、失敗し、さらにひどく落ち込むということを繰り返す人がいます。自分を強がって見せる人は、内側に自己嫌悪の思いを隠しているものです。そのような人は、自分ばかりか周りの人を傷つけてしまいます。自己卑下や自己嫌悪は健全な信仰と相容れないものです。

たとえば、36歳で自殺した芥川龍之介は、24歳のとき、「周囲は醜い。自分も醜い。そしてそれを目の当たりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのまま生きることを強いられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は憎むべき嘲弄だ」と語っています。それにも関わらず、彼は神を求め続け、彼の最後の枕許には聖書がおいてありました。本当に悲しいことですが、彼にとってはイエスの十字架を仰ぎ見るだけで救われるという福音はあまりにも安易に思えたのではないでしょうか。それは、旧約聖書全体から、イスラエルの不従順にたいする神の痛み、神の葛藤という視点から十字架を見ることができなかったからだと思われます。

何か大きな失敗をしたとき、自分を責める代わりに、自分がアダムから受け継いでいる固有の罪の性質は何なのかを、距離を置いて分析してみると良いのではないでしょうか。ある人にとって簡単に自制できることが、あなたにはできないということがあるでしょう。また反対に、ある人にはとてもできない愛の小さな行為を、あなたはごく自然にできるかもしれません。あなたの中には、少なくとも聖書の教えを喜ぶ心が宿っています。しかし、あなたの中には同時に自分でどんなに頑張っても克服できない罪の性質が宿っているのです。あなたが悪いというより、アダム以来の罪の蓄積があなたのうちにあるのです。ダビデは、家来ウリヤの妻バテシェバを奪い取り、ウリヤを殺した罪に真正面から向き合いながらも、「たしかに、私は生まれたときから咎の中にあり、母が私をみごもったときから罪の中にありました」(詩篇51:5私訳)と自分を支配する罪の力の根深さに思いを向けています。

なお、パウロは、律法は「聖なるもの・・・霊的なもの」(7:12,14)であると言いながら、「罪の律法のとりこ」(7:23)などと、別の律法があるかのような表現を用いています。それは、良い教えがかえってその人の絶望感を深めることにしか作用しないという逆説があるからです。あなたも人から正論を言われて、かえって落ち込むということがないでしょうか。教えが正しければ正しいほど、あなたの絶望感が深くなるということがあります。また、聖書を読むたびにかえって自分が責められているような感じがして、聖書を開けなくなるという人もいます。そして、絶望感はかえって、あなたを「罪のとりこ」にします。その意味で、「聖なる律法」が同時に「罪の律法」となっているというのです。それはすべての人に適用できる原則でもあります。あなた自身が愛されるに価しないのではなく、あなたのうちに住んでいる「罪」が悪いのだと納得することがすべての始まりになります。そして、それがアダム以来から積もっている罪の性質であるならば、人間の力によって勝つことができないのはあまりにも明らかなことです。

今、静まりながら、「もし私が自分でしたくないことを行なっているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住み着く罪です」(7:20)というみことばを心から味わって見ましょう。そこにあるのは、自分の責任を否定する思いではありません。また自分は救いがたい愚か者だという自己卑下や敗北主義でもありません。それは祈りの始まりです。自分で罪に勝つことができないからこそ、神の助けを求め、神にすがるのです。

実際、パウロはこの箇所の結論として、「私はほんとうにみじめな人間です」と言いつつ、アダムの子孫である私たちはすべて、自分の力で自分を罪の支配から解放することができないということを認めた上で、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と、キリストにある救いを喜び賛美しています(7:24,25)。

3.新しい律法という預言の成就

7章14節で、「律法が霊的なもの」と記されていました。そして、霊的な教えは肉的な努力によっては守ることはできません。ただ、霊的な教えは、神の霊によってしか全うすることができないということを認める必要があります。ですから、申命記30:6、エレミヤ31:32,33、エゼキエル36:26,27などを代表に、旧約の至るところで、神はイスラエルが失敗した後で、神ご自身が彼らを内側から造りかえてくださると約束しておられます。7章最後でパウロは、「ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」と記していますが、私たちを内側から動かす肉の束縛から解放するために、キリストは私たちと同じ肉をとってくださいました。自分で自分を変えようと空回りを起こしている私たちを救うために、神ご自身のほうから私たちに近づいてくださったのです。

たとえば、タバコを吸う人で、それが自分の身体に悪いということを知らない人はいないでしょう。しかし、どんなにわかっていても、自分の肉体がそれを欲し、意思を動かしてしまうということがあるのではないでしょうか。つまり、問題は知識が足りないのではなく、肉が意思を動かしてしまうという現実をどうするかということなのです。そのとき、「あなたはなぜタバコをやめられないの・・・そんな意志薄弱な人は信頼できません」などと説教したところで、何の効果もないばかりか、かえってその人のプライドを傷つけ、自己嫌悪を加速させて自分を変えようという気力を失わせるばかりか、そのような侮蔑的なことばを発する人への憎しみが増し加わるだけではないでしょうか。

そのようなときに、神は、上から指導する代わりに、ご自分の御子を「罪深い肉と同じような形でお遣わし」(8:3)くださいました。それは、創造主ご自身が、私たちの罪を一挙にさばく代わりに、罪の根元にある不安や孤独、渇きなどをともに味わう所まで降りてくださったばかりか、心の内側から造り替えようとしてくださったということです。

そして、エレミヤ書に記された最も画期的な福音が、「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」(31:31)と描かれます。これこそ「新約」の由来です。それは、まず第一に、「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった」(31:32)と描かれながら、その上で、「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(31:33)と記されます。

パウロはこの表現を用いながら、福音から離れそうになっているコリントの信徒に向けて、「あなたがたは・・・キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた・・・文字は殺し、御霊は生かすからです」(Ⅱコリント3:3,6)と励ましています。律法の核心である「十のことば」は「石の板」に記されましたが、イスラエルの民はそれを守ることができず、自分自身で「のろい」を招いてしまいました。それをパウロは「文字は殺し」と表現しました。それに対し、この新約の時代においては、神が私たちのうちにご自身の「御霊」を与え、私たちの心を内側から作り変えてくださるというのです。もちろん、私たちが自分の心の内面を見るとき、御霊の働きを感じられないことの方が多いかもしれません。しかし、私たちが、「私の心は何と醜く、空っぽなのだろう・・・」と認めていること自体の中に御霊の働きがあるのではないでしょうか。なぜなら、パリサイ人のように、「私は善意に満ちている・・」と思っている人の「心」を、神は満たすことはできないからです。

そして今、「そのようにして、人々はもはや、『主(ヤハウェ)を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」(エレミヤ31:34)という預言が実現しつつあります。私たちは、自分の回心の体験を振り返るとき、一方的に新しい知識を教え込まれたという以前に、不思議な力が働いて、心の中にイエスの救いを慕い求める思いが沸いてきたのではないでしょうか。それは、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:1)とある通りです。そして主は、そのときに起こることを、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」と言っておられますが、それこそが十字架のみわざです。私たちは、御霊の働きを、誰の目にも霊的な立派な人に変身させることと考えがちですが、救いの目的は、「わたしを知る」と記されています。つまり、主との交わりの回復こそ御霊の働きの中心です。

たとえば、私にとって、聖書の最初の五つの書、つまり、モーセ五書は無味乾燥なばかりか自分を落ち込ませるだけの教えでした。しかし、今、それは、「主が私を恋い慕って」おられるという愛の教えに変わりました。同じ教えなのに、その意味が自分にとって百八十度変わったのです。同じことがあなたにも起きていることでしょう。

それは、神が私たちに御霊を遣わし、私たちを内側から造り変えてくださったからです。私たちは、今、御霊に導かれることによって、神の律法を喜び、律法を実行し、それによって生きる者とされたのです。

私たちはアダム以来の肉の力に縛られて生きています。せっかくの良い教えを聞いても、それを実行することができませんでした。それは、罪が肉に住み着いているからです。ところが、神はご自身の御子を女から生まれさせて私たちと同じ肉を引き受けさせたばかりか、私たちすべての罪を御子に負わせ、「肉において罪を処罰され」、私たちを「罪の奴隷」状態から解放してくださいました。愛は、愛によってしか生まれないからこそ、神はご自身の愛を私たちに溢れるばかりに注ぎ、私たちの内側に、神と人への愛を生まれさせて下さったのです。私たちに今、求められていることは、何よりも、この神の恵みのみわざを思い起こすことです。私たちの目に見える肉体は滅びに向かっていたとしても、私たちの内側には、すでに新しい御霊のいのちが始まっています。私たちはもう、自分に失望する必要はありません。すでに始まった新しいことに、この身を委ねて歩みさえすれば良いのです。