救い主は二千年前にこの地に降りてこられました。しかし、この地は、今も救いを待ち望んでいます。アダムが、神が禁じた「善悪の知識の木」から「その実を取って食べ」てしまってから (創世記2:17、3:6)、その結果として起きた世界の矛盾は今も基本的に変わらずに残っています。そこに被造物全体の「うめき」があります。ただ、キリストの降誕以来、それは希望に満ちた「産みの苦しみ」に変えられています。私たちは、世界のうめきと希望の両方を見る必要があります。
クリスチャン精神科医のトゥルニエは、スイスの教会の現状を、「過半数は生気がなく、もの悲しげで疲れた心の持ち主によって占められている。信心深いと思われる人々の中に、人間として成熟した人格を持っている人はごくわずかしかいない……」と嘆いていました。彼らはしばしば、「アダムは戒めを守るのに失敗して罰を受けたから、私たちは今度こそは失敗してはいけない……」という、神の罰を恐れる神経症的な読み方しかできません。しかし、堕落の記事に際立っているのは、神の権威に挑戦した人が一転して「私こそ犠牲者だ!」と訴える幼児的な姿ではないでしょうか。彼らは大人として造られたのに、子供になってしまいました。善悪の知識の木は、神への主体的な愛の告白の場となり得たはずでした。しかし、彼らはそれを神の意地悪と受けとめ、次々と自分の責任を回避し続けました。それこそが悲劇の始まりでした。
1.さばきとともに与えられた希望
神である主が、「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と、事実を問われた時、人は、自分の過ちを認める代わりに、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので……」と答えました(3:11、12)。神は、敢えてそれ以上問い詰めずに、女に、「あなたは、いったい何ということをしたのか」と問いました。女は、男と同じように責任転嫁をし、「蛇が私を惑わしたので……」と答えます。彼らは、自分たちの責任能力を否定しています。神のようになりたいと思った人が、自分を野の獣以下におとしめたのです。今も、多くの人が、自分のあやまちを、親や環境のせいにしています。しかし、それは、「私は人間であることをやめます」と宣言するのにも等しいことではないでしょうか。「責任」は、英語で Responsibility と表現されますが、これは Response(応答)する ability(能力)を意味します。これこそ、「神のかたち」の基本です。ところが、人は、神の問いかけに正面から答える代わりに、自分を「無力な被害者」に仕立て上げてしまいました。神は、過ちを犯すことも自分の弱さも恥じる必要もない方ですが、皮肉にも、神のようになった人間は、それによって自分の過ちも弱さも認めることができなくなったのです。
もし、アダムやエバが、正直に、「私は罪を犯しました。赦してください」と言うことができたとしたら、歴史は変わっていたことでしょう。しかし、そのように自分の弱さを認めることができなくなるということが、彼らが自分を神のようにした当然の帰結でした。そして、今、彼らの子孫も、自分を犠牲者だと言い張って、自分をおとしめてしまいます。
「神のようになり、善悪を知るようになる」とは、自分を世界の中心、善悪の基準にして、まわりを非難する生き方の始まりでした。そこにおいて、最初に創造された男と女は、エデンの園における、「神のかたち」として調和を、自分から失ってしまいました。私は最初、この箇所を読んだとき、善悪の知識の木の実自体に何かを起こす力があったのかと誤解しました。しかし、神は、エデンの園に毒りんごを植えるような方ではありません。「善悪の知識の木」から取って食べるという行為自体が、人を害してしまったのです。それは神の競争者になるという意思の表明に他ならなかったからです。
その上で、神はまず諸悪の根源となった蛇に対しさばきを下されます。蛇は最も賢い野の獣でしたが、今や、最ものろわれた獣となり、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べざるを得なくなりました。その際、蛇に直接語りかけはしません。それは、神は、神のかたちに創造された人間とは対話をされても、野の獣とは対話をなさらないからです。それにしても、蛇にさばきがあるなら、さばきの対象となり得ないほどに責任能力のない人間はいないということが断言できます。
ところで、神はさばきの前に、ひとつの希望を語ります。15節はしばしば原始福音と呼ばれます。まず、蛇の子孫と女の子孫との間に敵意が置かれることで、人はさらなる蛇の誘惑から守られます。そして、これはまた、女の子孫として生まれる救い主が、かかとを噛み付かれるような傷を負いながら、蛇の背後にいたサタンの頭を踏み砕くことと理解されます。イエス・キリストは非業の死を遂げたようでも、それはかかとの傷のようなものに過ぎません。なぜなら、主は三日目に死人の中からよみがえられたからです。一方、これによってサタンの敗北は決定的なものとされました。イエスにつながっている者は、すでに「死からいのちに移って」いますから、サタンはもう、死の力で人間を脅すことはできなくなりました。
そして、女へのさばきは、エデンの園の外にいる私たちすべてを支配している現実です。その第一はみごもりの苦しみが大いに増し加わることです。それはエバに由来します。ある方は、出産の激しい苦しみの中で、ふと、これは自分の身体の問題以前に、エバの責任なのだと示され、気が楽になりました。なお出産は女性に与えられた最大の喜びですが、神はそこに痛みを伴わせました。ですから、私たちは、苦しみを避けて喜びだけを味わうことができなくなりました。
また、第二は、妻は夫を恋い慕いつつも、夫の権威の下に置かれるということです。「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる」とは、愛を求めながら、そこに力関係が働くことですが、これは互いが自分を神としたことの当然の帰結と言えましょう。そして、これは交わりを求めながら、交わりによって傷つけられるというすべての関係の原点でもあります。ですから、夫婦関係は、順調に行かないのが当たり前です。うまく行かないのは、あなたの伴侶が悪いからではなく、アダムとエバが神の競争者になろうとしたことにあります。私たちは、だれしも、人との親密な関係にあこがれながら、そこに支配関係が入り込むことを悩んでいます。そして、今や、互いの主体性を尊重する夫婦関係なら、そこに争いが生まれるのは避けがたいこととさえ言えましょう。人生は、矛盾と皮肉に満ちています。しかし、希望があります。神の御子ご自身が女のからだから生まれ、女の子孫としての人生を生き、解決を備えてくださったからです。
神の御子キリストは、死に至るまで神に従順に生き、また、弟子たちの足を洗うほどに仕える生き方を示されました。そして、男にも女にも、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」と命じながら、特に妻に対しては、「主に従うように自分の夫に従いなさい」と言われました (エペソ5:21、22)。これは妻に、従うことにおいて主導権をとらせるということです。夫は威張りたがるものです。それをたしなめる代わりに、従順の模範を示すことで、夫は自分の愚かさに気づくのです。
2.一生、苦しんで食を得る
土から造られた人(男)に対しては、その源である「土地があなたのゆえにのろわれてしまった」ことで、「一生苦しんで食を得……顔に汗を流して糧を得、ついには土に帰る」と宣告されました (3:17-19)。アダムに対するさばきの宣言において、神は、「あなたが、妻の声に聞き従い……」(17節) と、彼が自分の責任能力を否定したことを問題にしました。神の命令を聞いたのは、妻ではなく彼自身だったからです。アダムは、土地(アダマー)を管理する責任が委ねられていましたが、自分の責任を放棄したとき、土地はのろわれたものとなりました。これこそ、すべての環境破壊の原点です。
「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」とは、すべてのアダムの子孫が、この地に生きる限り避けられない現実です。私たちはみな、仕事がうまく行かないと、上司を、会社を、また政治を非難します。しかし、第一に非難されるべきなのはアダムなのです。そこでは、豊かな土地を作ろうとしても、かえっていばらやあざみが生えて、労力が無駄になります。実際、人間を楽にするはずのコンピューターの発達が、かえって情け容赦のない、機械的な時間に追われる職場環境を作り出しました。私たちは、文明の発達が労働を楽にするということが幻想に過ぎないことを実感しています。この世界では、ひとつの問題の解決が、必ず、新しい問題の原因となるからです。そして、歴史の発展に関わらず、決して変わり得ないこと、それは、人は、この地上生涯の最後には、たったひとり裸で葬られて土に帰るという現実です。
私たちは、本来、神のかたちとして、仕事を喜ぶことができたはずでしたが、仕事に苦しみと空しさが入ってきたのは、アダムが自分を神のようにした結果だったのです。そして、今、自分を神として生きようとするすべての人は、一見、たくましく生き生きと仕事をしているようであっても、それによって心の渇きが増し加わるだけで、真の喜びを体験することができなくなります。しばしば、真面目な信仰者にかぎって、仕事を楽しむことができないのは、自分の信仰が未熟なせいではないかと自分を責めますが、それはかえってせっかくの信仰生活に無用な葛藤を生み出すだけではないでしょうか。仏教の教えが、人生の四苦八苦を理解することから始まるように、苦しみを正面から受け止め、仕事の中でうめきながら、主に祈ることが何よりも大切です。主のみこころは、仕事を喜ぶということ以前に、強がりを捨てて主にすがることです。神の助けなしに仕事を正しく行うことができないと認めることです。そして、仕事において、主のあわれみを体験する中で、徐々に、その仕事は主から与えられたものであり、主はそこでご自身の栄光をあらわしてくださるということがわかります。それらの結果として、仕事を誠実に行うことが主に仕えることに他ならないということが見えてきます。
ペテロは、横暴な主人に仕えること、また、善を行いながら不当な苦しみを受け、それを耐え忍ぶことが、何よりも、キリストの御跡に従うことだと言いました (Ⅰペテロ2:18-20)。そして、キリストは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(同2:23)。私たちに求められているのは、成果を出すこと以前に、目の前の課題に誠実に向き合うことです。私たちの労苦の実を横取りする人がいたとしても、それは大昔から常に起こっていた不条理であり、人の知らないようなものではありません。しかし、主は必ず、ご自身の時に、すべてを正してくださいます。それが、「正しくさばかれる方に任せる」ということです。これは決して、泣き寝入りすることの勧めではありません。涙を流しながら、この世の不条理を必死に主に訴え、さばきを求めることこそ主のみこころです。そのとき、主は、目の前の問題を一挙になくす代わりに、一歩一歩、道を開いてくださるということが見えてくることでしょう。
3.逃亡を続ける者に皮の衣を与えてくださった神のあわれみ
ところで、アダムは、これらのさばきの宣告を聞きながら、人は、「必ず死ぬ」との神のさばきに対抗するようなことをします。「人は、妻の名をエバと呼んだ」(3:20) とあるのは、彼が妻を支配する者となったということの象徴です。それは、人がすべての生き物に名をつけたのと同じ行為だからです。しかも、エバとは「生きている」を語源としますが、これは、「必ず死ぬ」という宣告への反抗です。彼は、それに、「すべて生きているものの母」という意味付けをしましたが、それ以来、人は、「ちりに帰る」という現実を直視する代わりに、自分のいのちの証しを、家の存続や子孫の繁栄に見出し、そこから慰めを得ようとします。アダムは、ここにいたってもなお、神の御前から逃亡を続けながら自分の幸せをつかもうとしています。それは、女に対する支配権の主張とともに、新しい命を生み出して死を乗り越えようとする意思の表明です。
私たちは、「もっと能力があったら……もっと職場環境がよくなったら……」などと期待します。たしかに、安易に現状に甘んじることは避けるべきですが、エデンの園の外における改善には終わりがないという現実も、しっかりと受けとめる必要があります。安息日を犠牲にしてまで、また、家族や人との交わりを犠牲にしてまで、働き続けることは本末転倒です。肉体はちりに帰りますが、神との交わりは、永遠に続くものです。今、このとき、神は、この地の矛盾を指し示すことによって、人々を神のみもとに招いておられます。神を離れて、人はだれも幸せにはなれないからです。
それにも関わらず、主 (ヤハウェ) は、その反抗に、愛をもって答え、彼らが恥じて逃亡しないようにと「皮の衣を作り、彼らに着せて」くださいました (3:21)。それは、彼らが立ち止まって、主ご自身に向き合うことができるようになるためでした。アダムは、「私は裸なので……」と言って、神の御前から逃亡を重ねていたからです。神は、彼らの首根っこをつかみ、「おまえたちのやったことの結果を思い知らせてやる!」などと力で屈服させようとはなさいませんでした。かえって、裸を恥じ、恐れている気持ちに寄り添って、「いちじくの葉」の代わりに「皮の衣」をくださったのです。それは、神ご自身が彼らの弱さを覆ってくださるのとの招きでした。「皮の衣」の背後には、動物の犠牲がありました。神は、人がご自身の前から逃亡しようとすることを優しく引きとめるために、動物の犠牲の血を流すことまでやってくださったのです。
それは、自分を神のようにした結果として生まれた恥の感覚を大切にさせようとの主のあわれみでもあります。私たちは、恥の痛みにおいて、自分の本質的に孤独で頼りない者であることを意識し、自分が根源において、神から引き離された存在であることを覚えることができます。人は、痛みを感じなければ、救いを求めることもないのが現実だからです。
痛みの感覚は、とっても不快なものでもありますが、同時に神が与えてくださった賜物でもあります。ですから、私たちに与えられた救いは、痛みを感じなくてすむことではなく、痛みにまさる喜びが与えられることです。恥の痛みと良心の呵責は、人を神の前に導くための神から与えられた受信機のようなものです。それを感度のよい状態に保つのが私たちの責任です。ですから、信仰の成長は、悲しみや痛みがなくなることでは決してありません。悩むことのない人間になってはいけません。悩みながら、迷いながら、主の導きを求めることこそ、主のみこころと言えないでしょうか。
4.閉ざされたいのちの木への道とキリストによって開かれる道
22節は、「人は、われわれのようになった」とは記されていません。人は、御父、御子、御霊が永遠の愛の交わりに生きておられるようになったのではなく、ただ、自分を神の「ひとり」のような立場にしたからです。人は、被造物としての立場を超え、神と人とをさばく者になっていました。ひとりひとりが、神に代わって自分の正義を主張するなら何が起こるでしょう。先日、自分のペットが殺されたことを恨んで、厚生省の役人を殺害した人の裁判が行われました。被告人は不思議な論理を展開しながら、堂々と自分の正義を主張していました。人間は、見知らぬ人を殺害することさえ正当化できるのです。私たちだって振り返ってみると、身勝手な論理を展開しながら自分の過ちを正当化した記憶がないでしょうか。それを思うとき、自分を神のひとりのようにすることが、どれだけ社会に混乱と争いを起こすことになるかがわかります。
なお、主は、神のひとりのようになった人間が、「今……手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」と言われながら、「人をエデンの園から追い出され」ましたが、「いのちの木」が必要になるのは、人が善悪の知識の木から取って食べ、死ぬべき者となってしまったからに他なりません。そして、自分を神とした人間は、神の設定された限界を無視し、いのちの木から取って食べることによって神のさばきから逃れようとするのは明白です。しかし、それは、人がサタンになることに他なりません。神はそれを防ごうと思われたからこそ、人を追放して、いのちの木への道を、ケルビム(神のかたわらでさばきを執行する最高の天的存在)と輪を描いて回る炎の剣によってふさぎました (3:24)。
ただ、同時に、それはすべての人が楽園を失い、苦しみながら死に向かってゆくという空しい生活の始まりでした。それは、本来の神の創造の意図ではありませんでした。主 (ヤハウェ) は、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言っておられたのに、人はそのことばを軽蔑して自分から死を選び取ってしまいました。今、エデンの園の外に住むすべての私たちは、「必ず死ぬ」ように定められています。死の問題は、決して、人間の力では解決できない現実です。それをパウロは「罪によって死が入り、こうして、死が全人類に広がった」(ローマ5:12) と語っています。
もし、アダムが、すぐに悔い改めたなら、いのちの木への道が開かれたかもしれません。しかし、アダムは神の前から逃亡を重ねました。ですから、神は、わざわざ、皮の衣によって、彼の逃亡をやさしく食い止めるとともに、みこころを痛めながら、彼らをエデンの園の外に追い出されました。神のようになった人間は、神の前に謙遜になることができなくなりました。神が今、人に苦しみを与えておられるのは、ひとりひとりが自分の弱さに向き合い、自分の創造主を慕い求めるようにさせるためです。神は、今、人がエデンの園の空しい人生の中で、自分の過ちに気づき、神のもとに立ち返ってくるようになるのを待っておられます。救いへの道は、きよい生活をすること以前に、神に立ち返ることから始まります。
しかも、だれも自分の努力によって永遠のいのちを得ることはできません。ただ、人が神に立ち返ると同時に、神である方ご自身が、いのちの木への道を開いてくださるのでなければいのちを得ることができません。そして、その道を開いてくださったのがイエス・キリストです。そして、イエスは終わりの日に、「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう」(黙示録2:7)と約束してくださいました。私たちは、もうエデンの園に戻ることはできませんが、神は、キリストによって、それにまさる、新しい都エルサレムを用意してくださいました。そこにはいのちの水の川が流れており、川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができるのです (黙示22:2)。
ですから私たちは、イエスにつながることなしに救いを得ることはできません。もし、私たちが自分こそがアダムの子孫であることを認め、自分の努力では自分を救うことができないとイエスにすがるときに、イエスは、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5) と安心させてくださいます。アダム以来の恥の感覚は、今はしばしば、「見捨てられ不安」とも表現されることがありますが、イエスにつながる者は、見捨てられる心配はないのです。
私たちと同じ人間になり、十字架にかけられ死んで、復活されたイエスは、私たちに、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20) と約束してくださいました。ですから、もう死の力が、私たちと神との交わりを引き裂くことはできません。それこそが、キリスト者に与えられた「永遠のいのち」の意味です。
神は過ちを犯すことがありません。しかし、自分の意思で過ちを繰り返してしまう人間が、神のようになるとき、それは、自分の責任と過ちを認められないかたくなさ、神の御前からの逃亡になりました。しかし、イエスは、私たちが自分の罪を認めることができる前に、一方的な赦しを宣言してくださいました。私たちは、悔い改めた結果として神の赦しを得るのではなく、神の赦しを知った結果として、大胆に悔い改めることができるようになったのです。なぜなら、「罪にさだめようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:34) と記されているからです。そして、私たちは、もう自分を強がることなく、自分のうちに働くキリストの力によって「私が弱いときこそ、私は強い」(Ⅱコリント12:10) と告白しつつ、失敗を恐れることも、神のさばきも恐れることなく、自由に大胆に自分に与えられた使命を全うすることができます。