エゼキエル24章〜28章「国際貿易都市ツロの繁栄と没落」

2009年11月8日

今から40年前、「大きいことはいいことだ・・」などという森永チョコレートのCMソングがはやりました。しかし、大きな国は意外に短命な一方で、小さな都市国家が千年も続くということがあります。それは、過去にはツロであり、ヨーロッパではヴェネチアであり、また、現在はシンガポールなのでしょうか。それは教会にも適用できることかもしれません。今から十年前、世界的に有名なっているリージェント・カレッジの創立者のジェームス・フーストン先生がこの教会でお話しをしてくださったとき、「神は、小さいものの神です。そして、神は、小さなものを私たちの想像を超えるほどに大きくしてくださいます・・異なった背景を持つ者同士が結び合わされること、それこそが霊的なできごとの本質です。霊的であるとは、あるものをあるものに結びつけることです」と語ってくださいました。しかし、そこで、「私はネットワーク作りの天才だ・・」などと高ぶったとたん、ツロのような破滅に至ります。ツロは自分の小ささを自覚することによって繁栄することができたからです。小さなことの良さを生かしながら、同時に、長い繁栄を享受するための秘訣、それは日本のバブル崩壊後二十年の歩みを振り返ることからも見えてくるものがあります。

ちなみに、当教会の礼拝は日本経済のバブル崩壊の三ヶ月前に始まりました。私は長らくその意味が分からず、劇的な教会成長の話を聞きながら、あせってばかりいました。バブル崩壊以前は、みんなそろって豊かになることができました。しかし、経済が収縮し始めるとき、いろんな悪循環が起きます。それはしばしばマフィア経済と呼ばれます。それは競争相手の支配地を奪うことによってしか自分の成長が望めないからです。そこに疑心暗鬼が、場合によっては残酷な殺し合いが生まれます。しかし、キリストの教会は、自主的な分かち合い(コイノニア)を大切にすることで、皆が貧しいはずなのに、「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった」(使徒4:34)という不思議が生まれていました。ただ、それはすべて、人と人とが結び合わせられるネットワークから始まっています。

1.「わたしは・・・あなたの愛する者を取り去る」

「第九年の第十の月の十日」(24:1)とは、Ⅱ列王記25:1に記されているのと同じくバビロンの王がエルサレムに攻め寄せた日です。これは紀元前588年1月15日に相当し、包囲は一年間半も続き、町にいた民衆には食べ物がなくなりました。エゼキエルはこの時、遠いバビロンの捕囚の民の中にいましたが、主はこの日のことを知らせてくださいました。その際、主はエルサレムを「さびついているなべ」(24:6)にたとえながら、「わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった・・」(24:13)と、厳しいさばきを下す理由を説明されました。

その上で主はエゼキエルに、「人の子よ。見よ。わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る」(24:16)と言われます。ここには彼が愛妻家であったことが示唆されていますが、主は彼女のいのちを一瞬のうちに取り去ると予告した上で、彼に喪中の慣習に反する行動を取るように予め命じ、「嘆くな。泣くな。涙を流すな。声をたてずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない」(24:17)と言われました。当時は、悲しみの表現として、頭に灰をかぶり、はだしで歩き、口ひげをおおい、悲しみのパンを食べる慣習がありましたが、それが禁じられたのです。

そして、エゼキエルは、「夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした」(24:18)と淡々と記しますが、彼の心はどれほど痛んだことでしょう。民は、彼の愛妻家らしくない振る舞いに驚き理由を尋ねます。それに対し主は、彼を通して、「見よ。わたしは、あなたがたの力の誇りであり、あなたがたが愛し、心に慕っているわたしの聖所を、汚す」(24:21)と言われます。そればかりか、「あなたがたが見捨てた息子や娘たちは剣で倒される」と言われますが、これは捕囚になった人々がエルサレムに残して来た子供たちのことだと思われます。つまり、彼らの心の憧れの場所と最愛の人々を一瞬のうちに失い、そのあまりにも大きな悲しみのために、呆然として、喪の慣習さえも忘れてしまうほどになるというのです。そして、このとき彼らは、主のさばきの恐ろしさを心から味わいます。その様子が、「ただ、自分たちの咎のために朽ち果て、互いに嘆き合うようになる」(24:23)と描かれます。私たちは悲しみの中でさえ人の目を意識し、慣習に従った振る舞いをするばかりで、自分と真に向き合っていないのかもしれません。自分の弱さや醜さと向き合い、心から嘆くことから、神のみわざが私たちのうちに始まります。

2.エルサレムが廃墟になったことをあざけった国々に対するさばき

25章ではイスラエルの周辺諸国に対するさばきが宣告されます。その第一は、アモン人に対するさばきで、その理由を主は、「わたしの聖所が汚されたとき、イスラエルの地が荒れ果てたとき、ユダの家が捕囚となって行ったとき、あなたは、あはは、と言ってあざけった」(25:3)と言われます。つまり、神と神の民に対するあざけりに対し、主が報復されるというのです。主のさばきは、アモンから南下してエドムにいたり、時計回りに、今度はその北西の海辺の民ペリシテへのさばきにいたります。とにかく、これらを通して、主はアブラハムへの約束、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12:3)を実現しておられることがわかります。パウロはこれをもとに、「神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と言いました。イスラエルは決して、その軍事力の弱さによって周辺の国々に滅ぼされたのではありません。彼らも、自分たちの神をあざけったことで、さばきを受けたのです。私たちは、主以外の誰をも恐れる必要はありません。

26章から28章にかけて、ツロに対する神のさばきが記されます。このような小国の興亡が詳しく記されているのは不思議です。ツロは、イスラエルの北にある地中海岸の港町で、紀元前13世紀から栄え、ダビデ、ソロモンの神殿建設を助け、バビロンのネブカデネザルによる13年間の包囲に奇跡的に耐え、紀元前332年にアレクサンダー大王に滅ぼされるまで約千年間の独立と繁栄を誇った奇跡の港町です。大陸から離れた小島に町を作り、ガラス製品を生産し、地中海貿易で栄えるという点からは、紀元7世紀から紀元1797年のナポレオンに至るまで一千年あまりの独立と繁栄を誇ったヴェネチアにも似ています。大陸ではなく、海を領土として栄える国もあるのです。

26章の初めが、「第十一年のその月の一日」(26:1)と何月かが記されませんが、24章1節では「第九年」でしたから、これがエルサレム滅亡の時を指しているのは明らかです。そのときツロは、かつて深い友好関係にあったエルサレムが廃墟となったことを「あざけった」というのです(26:2)。それに対し、主は、「ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう・・・そこを裸岩にする。ツロは海の中の網を引く場所となる」(26:3-5)というさばきを宣告されます。ツロには「岩」という意味がありますが、そこが裸岩とされ、国際貿易都市から寂しい漁師町に転落するというのです。

その際、主は、「わたしは、王の王、バビロンの王ネブカデレザルを、馬、戦車、騎兵をもって多くの民の集団とともに、北からツロに連れて来る」(26:7)と記されます。ただし、29章18節の記述によると、ネブカデネザルの攻撃は成功というわけには行かなかったとも描かれています。26章7-14節を見る限り、ツロはネブカデネザルによって滅ぼされたかのように解釈できますが、その中心は、主が、「わたしはおまえの騒がしい歌をやめさせる」(26:13)と言っておられるように、彼らがエルサレムの滅亡をあざ笑うような歌を歌えなくさせることにあったと言えましょう。ツロを裸岩とし、二度と建て直せなくしたのはこれから約250年後に攻めてきたアレクサンダー大王ですが、大切なのは、主ご自身が、ご自身の都の滅亡をあざける者に、「王の王」を用いてさばきを下すという点です。

そして、「海辺の君主たちはみな・・おまえについて、哀歌を唱え」て、「海で強くなり、ほめはやされた町よ・・・海沿いの島々はおまえの最期を見ておびえている」と歌うと言われます(26:16-18)。興味深いのは、エルサレムの滅亡をあざけったツロは、その滅亡を地中海に散らばる国々からは、悲しみとおののきとされるという点です。それは、ツロが愛され、慕われた町であったことを示しています。しかし、主のツロに対するさばきは、厳しさに満ちています。「深淵をおまえの上にわき上がらせ、大水がおまえをおおう」(26:19)とありますが、これは、天地創造の際に全地を覆っていた大水がツロを呑み込むということを指します。そしてそのことを主は、「わたしはおまえを穴に下る者たちとともに、昔から廃墟であったような地下の国に住ませる。わたしが誉れを与える生ける者の地におまえが住めないようにするためだ」(26:20)と記されます。これは、人々の賞賛を受けていたスパースターが転落し、人々の記憶からなくなってしまう悲劇に似ています。それが、神の都の滅亡をあざけった罪への報いでした。

3.ツロの繁栄の秘訣と警告

27章では、ツロの哀歌に先だち、その繁栄の様子が描かれます。ツロは「海の出入り口に住み、多くの島々と取引をする」(27:3)とあるように国際貿易都市でした。ツロはまず、「私は全く美しい」(27:3)と自分を誇りますが、その美しさが豪華な船としてたとえられます。「おまえの領土は海の真ん中にあり」(27:4)とあるように、ツロの支配地は、何よりも、大きな海であり、ツロは海の上に浮かぶ船のような状態で領地を治めていました。その船のような本拠地の作りとその働きや防御が当時の最高のもので構成されている様子が、12の構成要素から記されます。

その「船板」は「セニル」(ヘルモン山の北に連なる峰)に生える「もみの木」で(27:5)、「帆柱」は高価な「レバノンの杉」(27:5)、「かい」は「バシャン」(ヨルダン川東側の肥沃な地)の「樫の木」、「甲板」は「キティム」(キプロス)の「檜」で(27:6)、「帆」は「エジプトのあや織りの亜麻布」で、船の「おおい」は「エリシャ(別名「アラシア」でキプロス東岸)の島々」からの「青色と紫色の布」で作られていました(27:7)。そして、ツロと競争関係にあった地中海岸北の町々の「シドンとアルワデの住民が、おまえのこぎ手であった」(27:8)、また、「ツロ・・熟練者」が「船員」として人々を指示し、シドンとアルワデの間にある町の「ゲバルの長老と熟練者」が船の修理をし、「海のすべての船とその水夫たち」がツロのために「商品を商った」というのです(27:9)。また、「ペルシャやルデ(小アジア)、プテ(エジプトの西の地中海沿岸)」などという繁栄を誇る地方の人々がツロを守る軍隊となってくれました(27:10)。しかも、 「アルワデ(シドンの北の沿岸の町)とヘレク(小アジアのキリキア地方)の人々は、ツロの「回りの城壁の上に」、また、「ガマデ人」(位置不明)は「やぐらの中にいて」、それぞれがツロを「全く美しくした」と記されます(27:11)。つまり、ツロの強力な船団、豊かさと美しさは、周辺の国々によって支えられていたということが強調されています。これは、軍事力ではなく経済力で、周辺の国々との協力関係を築くということの模範と言えないでしょうか。

その上で、貿易の広がりが十二種類の取引として詳しく描かれます。これは現代の経済学者を興奮させるような二千六百年前の驚くべき記録です。第一は、地中海の反対側にある「タルシシュ」(スペイン南部)からの「銀、鉄、すず、鉛」との「交換」(27:12)、第二は、「ヤワン(ギリシャ)、トバル(トルコ中央部)、メシェク(トルコ北東部)」からの「人材と青銅の器具」との「交換」(27:13)、第三は、「ベテ・トガルマ」(アルメニア)からの「馬、軍馬、騾馬」との「交換」(27:14)です。そして、第四は、「デダン人」(北西アラビア)がツロの市場に参入させてもらうために「象牙と黒檀」を「みついだ」(27:15)という商業権取引の記録、第五は、近隣の「アラム」(シリヤ)からの「トルコ玉、紫色の布、あや織り物、白亜麻布、さんご、ルビー」などの高級嗜好品との「交換」(27:16)、第六は、当時の三国貿易を表す「ユダとイスラエル」を経由した「ミニテ」(アモンの一地方)からの「小麦、いちじく、蜜、香油、乳香」との「交換」(27:17)という多様な取引が記録されています。そして第七は、商品の多様性を生かして、商業的には競争相手になる「ダマスコ」からの「ヘルボンのぶどう酒と、ツァハルの羊毛」での「商い」(27:18)、第八の「ダンとヤワン」とは意味不明ですが、彼らは商人として「ウザル」(イエメン)からの「銑鉄、桂枝、菖蒲」との「交換」をしたのかと思われます(27:19)。また、第九として再び「デダン」が登場しますが、彼らは「鞍に敷く織り布」で「取り引をし」(27:20)、第十として「アラビヤ人と、ケダル(アラビア半島北部)の君主たち」が、ツロの指示に従う「御用商人」として働きながら「子羊、雄羊、やぎ」などの家畜を「商い」(27:21)、また、第十一として、アラビア南部の「シェバとラマの商人たち」は、「上等の香料、宝石、金」などの嗜好品との「交換」を取次ぎ(27:22)、第十二番目としてメソポタミヤ地方にある「ハラン、カネ、エデン、それにシェバの商人たち、アッシリヤとキルマデ」という残りの幅広い商人たちは、「豪華な衣服や、青色の着物、あや織り物、多彩な敷き物、堅く撚った綱」などの繊維製品を持って「取り引きをした」(27:23、24)と描かれます。これはツロが当時の世界のあらゆる名産品を取り次ぐ中継点(ハブ港)として栄えたことを示します。そして、最後に地中海の果ての「タルシシュの船」が、ツロの品物を運び、ツロは「海の真ん中で富み、大いに栄えた」と描かれます(27:25)。貿易のリストがタルシュシュから始まり、その記録の最後もタルシュシュで終わるのが印象的です。それは、ツロの支配地が、地中海全域に広がっていたことを象徴する表現です。

ところが突然、ツロの没落が、「おまえのこぎ手はおまえを大海原に連れ出し、東風は海の真ん中でおまえを打ち破った」(27:26)と描かれます。「東風」とはバビロン帝国の攻撃を指していると思われます。そして、「おまえのくずれ落ちる日に、おまえの財宝、貨物、商品、おまえの水夫、船員、修繕工、おまえの商品を商う者、おまえの中にいるすべての戦士、おまえの中にいる全集団も、海の真ん中に沈んでしまう」(27:27)と、彼らが誇っていたすべてのものが一瞬のうちに失われるという破滅が描かれます。そしてその滅亡が、周辺諸国に影響を与える様子が、「おまえの貨物が陸揚げされると、おまえは多くの国々の民を満ち足らせ、その豊かな財宝と商品で地の王たちを富ませた。おまえが海で打ち破られたとき、おまえの商品、全集団は、おまえとともに海の深みに沈んでしまった」(27:33、34)と描かれます。これは、現代の株式市場での繁栄と破滅を示唆するかのようです。

たとえば日本のバブル崩壊は1989年12月末に、日経平均株価が最高値38,915円87銭を付けたのをピークに暴落に転じ、9ヵ月後の1990年10月1日には半値の20,000円割れになりました。ちなみに現在の日経平均株価は約9700円でバブル絶頂期の約四分の一です。しかし、それでも、多くの会社は繁栄が再び来ると期待し夢を求め続けました。山一証券が淡い夢を抱きながら廃業に追い込まれたのはそれから7年後の1997年11月ですから、人々の心が現実の変化に付いて行くのがいかに遅いかがわかります。私たちの前身である東京武蔵野教会も、1994年から様々なことがマイナスに転じましたが、それを受け入れるのに何と長い歳月を必要としたことでしょう。同教会による東村山の土地と会堂取得はバブル崩壊を理解できなかった結果かもしれません。その痛みを東村山教会はなおも引きずっています。ちなみに、大型ディスコ、ジュリアナ東京の閉店は1994年8月のことでした。

ところでニューヨークダウは2000年1月の高値が11,908ドルでしたが、その後、急落の後、再び上昇し、2007年10月に14,164ドルの最高値をつけます。その後、サブプライの問題が発覚し、2008年9月にリーマン・ブラザーズが破綻し、2009年3月の平均株価は半値の7000ドル割れに至り、現在は9800ドルの水準に戻っています。世界経済における日本の停滞が際立っているように思えます。日本もツロのように沈んでしまったのでしょうか。

残念ながら、しばしば、ツロの営んだ国際貿易自体を悪く見る傾向が日本のキリスト教会の中にはあるような気がします。しかし、イザヤ書でも、タルシュシュの船で国々の財宝が集められてくることは、主の祝福の実現として見られ評価されています(60:9等)。バブル的な富の追求の問題が現在は問われているのであって、世界中がひとつの市場のように機能すること自体が「悪」とされているわけではありません。今から2600年前の記録に、国際貿易のことがこれほど詳しく残されていること自体が驚異です。それぞれの地方にある特産品が自由に交換されることによって世界が豊かになり、その中心点としてツロがあったと言えないでしょうか。それは、私たちの国や教会が模範にできることかもしれません。今、世界経済は、右肩上がりの拡大路線から、ネットワークを生かした国際協調に移っているのかもしれません。生産が増えない中で、豊かさを保つ道がここに記されてはいないでしょうか。ただし、それはすべて信頼関係から成り立っており、一瞬のうちに崩れる危険もわきまえる必要があります。

4.「あなたは自分の心を神のようにみなした」

28章ではツロの滅亡の理由が神の視点から描かれます。ツロの君主は、「心高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った」というのです。それに対し神は、「あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない」(28:2)と言われます。「あなたはダニエル(ダニエル書の著者とはスペルが少し異なる。ヨブとならぶ古代の賢人14:14参照)よりも知恵があり、どんな秘密もあなたには隠されていない」(28:3)とは、皮肉なのか現実なのかはわかりませんが、「あなたは自分の知恵と英知によって財宝を積み、金や銀を宝物倉にたくわえた。商いに多くの知恵を使って財宝をふやし」とあるように、その類まれな知恵が財産を増やすことに役に立ったことは確かですが、その結果、「あなたの心は、財宝で高ぶった」という傲慢を生み出してしまいました(28:4、5)。それに対し、主は、「他国人、最も横暴な異邦の民を連れて来て、あなたを攻めさせる。彼らはあなたの美しい知恵に向かって剣を抜き、あなたの輝きを汚し、あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の真ん中で、刺し殺される者の死を遂げる。それでもあなたは、自分を殺す者の前で、『私は神だ』と言うのか。あなたは人であって、神ではない。あなたはあなたを刺し殺す者たちの手の中にある」(28:7-9)と、その不安定さを指摘します。

ただし、主は、ご自身にとってツロがいかに大切な存在であったかを、「あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった」(28:12)と描きます。ツロの繁栄は、神の祝福の現われでした。そのことが、「あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた」(28:13)と記されますが、この箇所の9種類の宝石はイスラエルの大祭司がつける胸当ての12種類の宝石と重なります(出エジ28:17-20)。その上で、主は、「わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石(宝石を意味する)の間を歩いていた・・・あなたの行いは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった」(28:14、15)と言われますが、これは主が最初の人アダムをエデンの園に置いたことを思い起こさせるための表現です。神はツロの知恵や美しさを、最初の人、アダムを創造したときのように喜んでおられたのです。ですから、私たちはツロを反面教師として見る以前に、その堕落前の知恵を模範として見るべきなのではないでしょうか。

ただし、彼らは、その自分の知恵に酔って、自分を神としてしまいました。そのことが、「あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した」(28:16)と描かれます。それに対し主は、「そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた」と言われます。これは、神のようになったアダムをエデンの園から追い出したことを思い起こさせます。ただし、主のさばきは、このときはるかに厳しいものになりました。そのことが、「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた・・・あなたは不正な商いで不義を重ね、あなたの聖所を汚した。わたしはあなたのうちから火を出し・・すべての者が見ている前で・・あなたを地上の灰とした」(28:17、18)と記されます。

その上で、最後に、神の民への希望が、「イスラエルの家にとって、突き刺すいばらも、その回りから彼らに痛みを与え、侮るとげもなくなる」(28:24)と言われます。つまり、主はご自身の民をあざける者を裁くことによってご自身の栄光を現されるというのです。そして、その後の希望を主は、「わたしがイスラエルの家を、散らされていた国々の民の中から集める・・・彼らはそこに安らかに住み、家々を建て、ぶどう畑を作る・・・回りで彼らを侮るすべての者にわたしがさばきを下す」(28:25、26)と記されます。長い繁栄を誇ったツロは人々の記憶から消えてしまう一方で、主はイスラエルの場合は、彼らを徹底的に謙遜にした上で、繁栄を回復させてくださるというのです。

私たちは教会開拓二十周年を祝った日に、大洪水で苦しむフィリピン福音自由教会の兄弟姉妹への援助の必要を覚えました。その思いは日本中の福音自由諸教会に広がり、この一ヶ月間に二百万円を超える義捐金が日本の福音自由からフィリピン福音自由に送られるまでになりました。それはすべて、人と人との結びつき、ネットワークから始まっています。福音自由アジア会議においてフィリピンの兄弟姉妹はほんとうに献身的に私たちをもてなしてくださいました。私は、帰国後、フィリピンでの感動をメッセージで語り、そのメッセージはインターネットを通して、アメリカの友人に届きました。彼女は、フィリピンの大洪水のことをとっても心配して私にメールをくださいました。日本での報道は限られていましたから、私はそのメールを見て初めて、フィリピンに問い合わせる必要を感じさせられました。その後、フィリピンからの想像を超えた悲惨な生の状況を知らされ、協議会役員会に報告をし、全教会に支援をアピールすることが決められ、この教会の牧師室がフィリピンと日本をつなぐ中継点となりました。生きがいを求める日本の兄弟と、生きるためのお金を必要とするフィリピンの兄弟がつながれ、今、思いもよらなかった絆が生まれてきています。私たちの教会は、貧しく、小さいですが、神に喜ばれていたときのツロのように、謙遜に、人と人とを結び付けることに献身するなら、大きなことが起こります。ツロが富と情報の中継点として栄えたように、私たちも栄えることができます。ただ、その際、私たちはツロの失敗から学ぶ必要があります。私たちはどんな働きをしていても、人々の目をイエスに向けなければなりません。フィリピン福音自由の会長が私たちの支援に対し、毎回のように、we accept it with great joy and gratitude to our Lord.(私たちの主への大きな喜びと感謝とともに、これをお受けします)と書いてあります。彼は何よりも、「主」が私たち日本の教会のうちに働いていてくださることを共に喜んでくれているのです。そこには、キリストにある交わりをともに喜ぶ姿勢が満ちています。私たちは、自分に与えられている知恵や能力や富にブレーキをかけることなく、大胆に生かすことができます。ただし、そこでは常に、自分を神とする危険があることを覚えながら、心の目を主イエス・キリストに向ける必要があります。