エゼキエル20章〜23章「わたしは、ねたむ(やきもちをやく)神」

2009年10月25日

聖書の神の特質は、何よりも、「ねたみ」にあると言われます。事実、「十のことば」の中で、主は、「わたしはヤハウェ、あなたの神、ねたむ神である」(出エジ20:5私訳)と言われます。しかし、これは現代の日本人にはなかなか理解しにくいことばです。なぜなら、広辞苑で、「ねたむ」とは、第一に、「他人のすぐれた点にひけめを感じたり、人に先を越されたりして、うらやみ憎む」と記されているからです。しかし、聖書の神は創造主ですから、他の神々にひけめを感じることも、うらやむこともありません。ですから、新共同訳では、「わたしは熱情の神である」と訳されていますが、ただ、これもわかり易いとは言えません。広辞苑では、「ねたみ」の第二の意味を、「男女の間でやきもちをやく」と記しますが、この「やきもち」の方がわかり易いと思われます。それは熱い愛情の裏返しです。

私はジョン・レノンのジェラス・ガイという歌を聞いて、彼の正直さに感動しました。彼はそこで洋子に向かって、「君を傷つけるつもりはなかったのに、ごめんね、君を泣かせてしまって。傷つけたくはなかったのに・・。僕はただの嫉妬深い男なのさ I’m just a jealous guy。僕は、君に振り向いてもらいたいと必死だった。君が僕から顔を隠そうとしているように思えたから。I was tryin’to catch your eyes, Thought that you was tryin’ to hide. それで僕は、その痛みを必死に呑み込んでいたんだ」と歌っています。彼は、「ジェラシー(ねたみ)」という言葉を使い、洋子への愛を、驚くほど謙遜に、しかも強烈に表現しています。その中心は、「君の目を僕に向けて欲しい」という燃える思いです。主は私たちの心の奥底で、「わたしの顔を、慕い求めよ」(詩篇27:8)と、熱くささやいておられます。

私はクリスチャンになったばかりの頃、「神の栄光を現すとは、仕事で成功することだ」と思っていた面があります。そのとき私は、自分が注目されることを願っていたのかと思います。しかし、それは自分の心をかえって愛情飢餓に置き、窮屈にしました。いつでも、どこでも、神を慕い求めるとき、私たちは自由になることができます。

1.「わたしの名のために・・・諸国の民の目の前で、わたしの名を汚そうとはしなかった」

「第七年の第五の月の十日」(20:1)とは、1章2節、8章1節での計算と同様、エホヤキン王の捕囚から数えて第七年目、つまり、紀元前591年8月のことです。これはエルサレムがバビロン軍によって崩壊する約五年前です。捕囚の地バビロンに住む「イスラエルの長老たちの幾人かが」、主のみこころを求めるために預言者エゼキエルのもとを訪ねます。それに対し主は、彼を通して、「願いを聞き入れない」と言いつつ、「彼らの先祖たちの、忌みきらうべきわざ」を知らせようとされます(20:3、4)。そして、主ご自身が、イスラエルとの関係を振り返られます。

主はまず、イスラエルの民に、「わたしがあなたがたの神、主(ヤハウェ)である」と言われながら、「彼らをエジプトの地から連れ出し、わたしが彼らのために探り出した乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に入れる」ということを「誓った」と言われます(20:5、6)。その際、主は、「おのおのその目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。エジプトの偶像で身を汚すな」と言われました(20:7)。これは、結婚の誓約と同じです。夫は妻に、「わたしはお前を幸せにすると約束する。だから、昔の男との思い出の品を隠し持つようなことをするな」と語るようなものです。

しかし、彼らは、それほど難しくもない主の願いを軽蔑しました。それに対し、主は、ご自身の「憤りを彼らの上に注ぎ・・怒りを全うしようと思われ」ました(20:8)。ところが、主は、その怒りを鎮められました。その理由を、主は、「わたしの名のために、彼らが住んでいる諸国の民の目の前で、わたしの名を汚そうとはしなかった。わたしは諸国の民の目の前で彼らをエジプトの地から連れ出す、と知らせていたからだ」(20:9)と言われます。もし、主がイスラエルの民を滅ぼしてしまえば、人々は、主(ヤハウェ)を無力な神と、御名を軽蔑することになるからです。

それで、主は、イスラエルの民をエジプトの地から連れ出し、シナイの荒野で、「それを実行すれば生きることのできる」(20:11)という主の御教えを与えられました。それが、モーセの律法です。それは、彼らを束縛し、押さえつける教えではなく、彼らを真の意味で「生かす」ための教えでした。その中心こそ、「安息日」でした(20:12)。

その目的を主は、「わたしが彼らを聖別(聖化)する主(ヤハウェ)であることを彼らが知る」(20:12)ことができるためと言われます。イエスの時代のパリサイ人は、自分の理想とする聖さの基準を求め、神が何を求めておられるかを忘れていました。しかし、神は何よりも私たちに、人を聖化することは、神ご自身のみわざであるということを知って欲しいと願っておられます。そのために、何よりも大切なのは、神のふところに飛び込むことです。ところが、イスラエルの民は、「そのわたしの定めをもないがしろにし、わたしの安息日をひどく汚し」たので、主は、「荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを絶ち滅ぼそうと」と思われたというのです(20:13)。

しかし、それでも、主は再び、「しかし、わたしはわたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった」(20:14)と言われます。ただ、彼らへの罰として、主に背いた大人の世代を約束の地には入れてくださいませんでした(20:15)。その上で、主は、彼らの子供の世代を訓練されました。しかし、その子供の世代も、父と同じように、主の御教えをないがしろにし、安息日を汚しました(20:21)。

それに対し、主は、三度にわたり、彼らを滅ぼしたいと願われながら、「わたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった」(20:22)と言われます。そして主は、今度はその罰として、「わたしもまた、良くないおきて、それによっては生きられない定めを、彼らに与えた」(20:25)と言われます。これは何とも不思議な言葉です。これは、「彼らがすべての初子に火の中を通らせたとき、わたしは彼らのささげ物によって彼らを汚した」(20:26)という記述と切り離せない関係にあります。「わたしは・・彼らを汚した」という表現は、先の、「わたしが彼らを聖別(聖化)する」ということばと対照的です。これは、主が彼らを汚れるように仕向けたという意味で、神が与えた「良くないおきて」とは、「それなら、勝手にしたらいい・・」という主の放任を指すと思われます(ローマ1:24,26,28)。これは、放蕩息子のたとえに出てくる父が、弟息子が破滅に向かうのを知りながら、財産を分与したことに似ています。依存症からの回復のためには、底つき体験を早めることが重要です。それは、「どうにかなるさ・・・」、「いざとなったら、誰か助けてくれる・・・」という甘い考え方を捨てさせ、社会の厳しさ、生きることの厳しさを、心の底から分かるように、その人を絶望のふちにまで速やかに追い込むということです。

そして、主は、ご自身のさばきの理由を、「それは・・・わたしが主(ヤハウェ)であることを彼らが知るため」(20:26)と述べられます。放蕩息子を敢えて破滅に追いやった父は、息子の帰りを、首を長くして待ち続け、苦しみ続けていました。主のさばきの裏には、哀れみに胸を熱くする主の情熱的な愛があります。残念ながら、人は、様々なものを失って初めて、この世界のすべてが主の恵みによって、守られ、支えられていることを実感できます。

主は、三度にわたって、ご自身の憤りを鎮められました。それは、ご自身の御名のため、ご自身の御名を人々の前で汚すことにならないためと記されています。しばしば、「私なんかがクリスチャンだと言えば、かえって御名を汚すことになる・・・」と謙遜に思いますが、それは自殺行為です。主は、イスラエルのような救い難い民を何度も赦し、守ってくださいました。それは、そうすることで、主(ヤハウェ)の名が世界であがめられることになるからです。

たとえば私は、最初、野村證券で三年間、厳しい営業の仕事をしました。私はその仕事が大嫌いでした。それでも、行き場がなかったので、ノルマを達成できるようにひたすら祈りました。営業場で電話をする先がなくなると頻繁にトイレに行って祈り、また、訪問する当てがないと、喫茶店に入って祈りました。どうにかノルマを達成し続けましたが、やり方を競合する課から批判され、「お前は、それでもクリスチャンなのか・・」と罵倒されたこともありました。そして、娘が生まれてまもなく、「もっと全うな仕事をしよう・・」と思ったとたん、営業成績が落ちてきました。支店の営業責任者が心配して家に来てくださった時、「僕は、この仕事にどうしても誇りを持つことができません・・・」という趣旨のことを言ってしまいました。それから間もなく、社費によるドイツ留学の機会が与えられました。人事部の担当者は、「君は、百数十名いる同期の営業マンの中で、ただひとりだけ、二年間の留学の機会を与えられた」と言ってくださいました。どうして自分が選ばれたのか、今も不思議です。ただ、ひとつだけはっきりしています。社内で、私のことを知っている人で、私がクリスチャンであることを知らない人はほとんどいませんでした。神は、キリストの名がついている者を守ることによって、ご自身の「御名を汚そうとはしなかった」のではないでしょうか。私たちは、自分の立派さによって主を証しするのではありません。そうではなく、神は、箸にも棒にもかからないような人間の祈りを聞き、その人を生かすことによって、ご自身の栄光を現してくださいます。ですから、自分の無力さ、無能さ、ずるさを自覚すれば自覚するほど、私たちは、自分が主にすがっていることを証しするべきなのです。

2.「わたしはあなたがたを・・荒野に連れて行き・・顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく」

20章33節から44節は、イスラエルの希望を語ったものです。主は、まず、「わたしは生きている・・・わたしは・・・必ずあなたがたを治める」(20:33)と言われながら、「わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める」(20:34)と保障されます。その過程で、「わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく」(20:35)と説明されます。「さばく」の中心的な意味は、「支配する」ということです。つまり、主は、イスラエルを敢えて「国々の民の荒野」という身の置き所のない孤立無援に追いやることで、ご自身の決定的な権威を現されるというのです。そのときに、主は、ひとりひとりに、「むちの下を通らせ」ながら、新しい「契約を結ぶ」者と、「反逆者を、えり分ける」と言われます(20:37、38)。私たちも、人生の荒野の体験を通して、「顔と顔とを合わせて」、主に向き合うように導かれます。その際、イエスにつながる者は、主(ヤハウェ)のご支配を、恐れを持って喜ぶことができます。私たちにとっての人生の試練は、主ご自身との交わりが深められるために与えられている恵みです。

その後、主は、敢えて、「おのおの自分の偶像に行って仕えるがよい。後にはきっと、あなたがたはわたしに聞くようになる。あなたがたは二度と自分たちのささげ物や偶像で、わたしの聖なる名を汚さなくなる」(20:39)と言われます。これは、偶像の空しさを、彼らの失望体験を通して知らせようとすること、先の人生の底尽き体験を早めさせようとする神の逆説的な愛です。その上で主は、「わたしがあなたがたを・・その散らされている国々から・・・集めるとき、わたしは、あなたがたをなだめのかおりとして喜んで受け入れる」(20:41)と言われます。主は、私たちがささげるいけにえではなく、私たち自身を「なだめのかおりとして喜んで受け入れる」というのです。

パウロはこれをもとに、「私は、神のあわれみのゆえにあなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受けいれられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:1)と言いました。

そしてその際、「その所であなたがたは、自分の身を汚した自分たちの行いと、すべてのわざとを思い起こし・・・自分自身をいとうようになろう。わたしが、あなたがたの悪い行いや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき・・あなたがたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(20:43、44)と言われます。主は、自分を恥じるしかない罪人たちを救うことで、ご自身の栄光を現してくださるというのです。

残念ながら、多くの人々は、主の前に自分の敬虔さをアピールしながら、主からの恵みを受け取ろうとします。それこそパリサイ人の過ちでした。しかし、主は、「こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と泣いてすがった取税人の祈りを喜んで受け入れてくださいました。多くの人々が、「主のみこころは、どこにあるのでしょう・・」と迷い、尋ねます。しかし、それは何よりも、すべてが、主の一方的なあわれみであることを知ることなのです。パウロは、救いが主の一方的な選びから始まっていることを説いた上で、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように」(ローマ11:36)と主を賛美しました。

この世の道徳は、「神の前での恥じない生き方」を求めます。パリサイ人は当時、最も尊敬され、自分で自分を律することができた人々でした。それに対し、取税人は、お金の誘惑に負ける自制心のない者たちで、軽蔑されていました。しかし、イエスは、この取税人の信仰を評価されました。彼は、現代的には、「民の荒野」の中で、「あれでも、クリスチャン?」と軽蔑されながら、ただ主のあわれみにすがり主の御顔を慕い求めていたからです。

22章23-31節では、指導者たちの罪が指摘されますが、特に、「その祭司たちは、わたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚し、聖なるものと俗なるものとを区別せず、汚れたものときよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。こうして、わたしは彼らの間で汚されている」(22:26)と、彼らの罪が何よりも、主ご自身を汚したことにあると指摘します。これはレビ記のテーマでもあります。私たちは、主を礼拝することにおいて、聖なるものと俗なるものが区別され、主の御名が聖なるものとされるということをいつも心がけなければなりません。主の祈りの第一は、「あなたの御名が、聖められますように」となっていることの意味を覚えたいものです。この意味は、主が人々の間で汚されているということの対比で理解されます。主は、ご自身の御名が、「私たちの間で、聖なるものとされる」ことを何よりも望んでおられます。そのとき、天地万物の創造主ご自身が、私たちの真ん中に住むことがおできになります。そして、それこそが、私たちの救いにつながります。

3.オホラとオホリバに対する主のねたみ

23章では、ダビデ王国から生まれた北王国イスラエルと南王国ユダの罪が、「同じ母の娘である、ふたりの女」(23:2)の淫行として描かれます。彼女たちはエジプトにいたときから、「その処女の乳房はもてあそばれ」(23:3)ていました。つまり、主は、淫行に走ることが明らかな娘たちを妻としたというのです。そして、「その名は、姉はオホラ、妹はオホリバで、ふたりはわたしのものとなり、息子や娘たちを産んだ。その名のオホラはサマリヤのこと、オホリバはエルサレムのことである」(23:4)と描かれます。オホラとは「彼女の天幕」、オホリバとは「わたしの天幕は彼女のうちに」という意味がこめられた名前で、「主の幕屋」のことが示唆されていると思われます。

まず、「オホラは・・アッシリヤ人を恋い慕った」(23:5)と描かれます。彼女は、夫である主との約束を忘れて、「彼らと姦通」(23:7)しました。それで、主は、「彼女が恋い慕う恋人たちの手、アッシリヤ人の手に彼女を渡し」(23:9)ました。すると、「彼らは彼女の裸をさらけ出し、その息子や娘たちを奪い取り、彼女を剣で殺してしまった」(23:10)というのです。まさに、男の欲望の餌食とされ、最後には、飽きられ、捨てられるという女性の悲劇です。

ところが、「妹のオホリバはこれを見たが、姉よりいっそう恋情を腐らせ、その淫行は姉の淫行よりひどかった」(23:11)というのです。実際、エルサレムの王家には、サマリヤを堕落させたアハブの子孫の血筋が入り込み、その堕落がエスカレートさせました。彼らは、アッシリヤに貢物を贈りながら、その偶像礼拝を見習い、エルサレム神殿の中に偶像礼拝を持ち込みました。そればかりか、彼らは後に、アッシリヤを牽制するために、その背後にあるバビロンに助けを求めました。そのことが、「彼女は淫行を増し加え・・・カルデヤ人の肖像を見た・・・それを一目見ると、彼らを恋い慕い、使者たちをカルデヤの彼らのもとに遣わした」(23:14-16)と記されます。そして、「バビロン人は、彼女のもとに来て、恋の床につき、彼女を情欲で汚した」のですが、不思議にも、「彼女が彼らによって汚れたものとなったときに、彼女の心は彼らから離れ去った」というのです(23:17)。その結果、主もまた、「わたしの心は、かつて彼女の姉から離れ去ったように、彼女からも離れ去ってしまった」(23:18)と言われます。

ところが、そこで、「彼女は、かつてエジプトの地で淫行をしたあの若かった日々を思い出し・・・あの若い時のみだらな行いをしきりに望んだ」(23:19-21)というのです。つまり、オホリバは、アッシリヤからバビロン、バビロンからエジプトと浮気に次ぐ浮気を繰り返したのです。それに対するさばきとして、主は、「わたしはあなたをわたしのねたみとする」(23:25)と言われます。これは、「わたしのねたみをあなたに向ける」とも訳すことができます。つまり。主のねたみの憤りを、彼女のかつての恋人たちが代わりに表すという意味です。エルサレムは浮気に浮気を重ねることで、周辺の国々のねたみの火を起こしてしまったのです。それが、「彼らは怒って、あなたを罰し、あなたの鼻と耳とを切り取り、残りの者を剣で切り倒す・・・」(23:25)と描かれます。そしてそのことが、また、「彼らは憎しみをもってあなたを罰し・・あなたの淫行と淫乱と売淫の恥はあばかれる」(23:29)と描かれます。オホリバは主を裏切ったばかりか、アッシリヤもバビロンも裏切り続けたので、その報いを受けるのです。

そして、彼女が自分から進んで破滅に向かうことが、主の憤りの杯を飲み干すこととして描かれ、「あなたは姉の杯、深くて大きい杯を飲み、物笑いとなり、あざけりとなる・・・恐怖と荒廃の杯、これがあなたの姉サマリヤの杯。あなたはこれを飲み、飲み干して、杯のかけらまでかみ、自分の乳房をかき裂く」(23:32-34)と描かれます。

そして、主は、オホラとオホリバの悪行を、何よりも、「わたしの聖所を汚し、わたしの安息日を汚した」(23:38)ことにあると指摘します。彼らは、何と、主の宮で、偶像を拝んだからです(23:39)。そして、大胆な浮気の様子が、「あなたがたは、遠くから来る人々を、使者を遣わして招いた・・・彼らのために身を洗い、目の縁を塗り、飾り物で身を飾り、豪奢な寝台に横たわり、その前に食卓を整え、その上にわたしの香と油とを置いた」(23:40、41)と描かれます。彼らは、主のために聖別されたはずの香と油を、よその神々の気を引くために用いたというのです。

それに対し主は、彼女たちを徹底的に苦しめることで、「わたしはこの地からみだらな行いをやめさせる」(23:48)と言われます。そればかりか、それが見せしめとなり、「すべての女たちは自分自身を戒めて、あなたがたがしたような、みだらな行いをしなくなる」というのです。私たちは、イスラエルに下されたさばきを見ることによって、偶像礼拝の愚かさを知ることができました。そして最後に、主は、「このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう」(23:49)と言われます。つまり、主は、ご自身のことを知らせるために、彼らにさばきを下されたのです。

ヴィクトール・フランクルというユダヤ人の精神科医は、ナチス・ドイツのアウシュビッツ強制収容所での体験を「夜と霧」という本に記しています。ユダヤ人たちは、真冬の凍てつく寒さの中、まだ日が昇る前から、作業場に向かって行進させられていました。朝焼けが始まろうとする中、ふと、愛する妻の面影を思い浮かべることができました。彼はよろめき歩きながら、妻の面影と語り合いました。彼は、「私は、彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑むのを見る・・・たとえそこにいなくても・・・彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった」という感動を味わいました。そして、その瞬間、彼は、「私を封印のようにあなたの心の上に置いてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです」(雅歌8:6)という真理を知りました。それは、「愛による、そして、愛の中の被造物の救い」を指し示していました。私たちは、なぜあのような悲惨を神が許しておられるかの意味を知ることはできませんが、どんな逆境の中でも、神の御顔を慕い求め、神の永遠の眼差しの中に、憩うことができます。それは、決して神の御顔をイメージすることではありません。ただ、目の前に神がおられることを、信仰をもって受け止めるのです。そうする者は、どんな暗闇の中にも、光を見出し、互いに愛し合うことができます。