エゼキエル16章〜19章「生きよ!」

2009年10月18日

「どうせ私なんて・・・やるだけ無駄だ・・」という自己嫌悪と絶望感は、多くの人の心の底に巣食っています。ですから、大切な試験の最中でも、多くの人は、ふと無気力になることがあります。これは自分に負けることとも言えるでしょう。また、生命の危険が伴う激しい痛みの中で、人は、ふと、「もう、死んでしまいたい」と願うことがあります。また、「私の願いは、もう叶うことがない・・」と思うとき、ふと、自暴自棄になり、破滅的な誘惑に身を任せてしまうということさえあります。これも、霊的な死の始まりです。しかし、その一歩手前で、「生きよ!」という主からの声が心の奥底に聞こえ、教会に立ち寄ったという人もいます。主は、滅び行く罪人に、「生きよ!」と語りかけられます。

1.「あなたは、自分の美しさに拠り頼み、自分の名声を利用して姦淫を行い・・」

エルサレムはまもなくバビロンによって滅ぼされようとしていますが、そこの住民は、自分たちが置かれている危機的状況を直視しようとせずに、自分たちの町に「平安(シャローム)」が続くと信じていました。彼らは、神の栄光が神殿を去ったことも知らずに、神の都は神が守ってくださるはずという幻想の元に、自分たちの町を誇っていました。それに対し、主はエゼキエルを通して、エルサレムの出生の卑しさを、「あなたの起こりと、あなたの生まれはカナン人の地である。あなたの父はエモリ人、あなたの母はヘテ人であった。あなたの生まれは、あなたが生まれた日に、へその緒を切る者もなく・・・だれもあなたを惜しまず・・・あなたにあわれみをかけようともしなかった。あなたの生まれた日に、あなたはきらわれて、野原に捨てられた」(16:3-5)と描いています。当時の人々は自分たちの血筋を大切にし、それを誇っていましたが、主は、エルサレムははるか昔、当時のイスラエルの民が軽蔑していた異邦人の町であって、誰からも惜しまれることのない、惨めな捨てられた町であったと語ります。

そして、主ご自身が今にも滅びそうなエルサレムに目を留められた様子を、「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ』と言った」(16:6)と記します。昔から、どの国にも、貧しい娘が、王子に目を止められて、一夜にして王女になるという物語があります。ここでも、主ご自身が、人知れず生まれ、人々から見捨てられていたエルサレムに目を留め、「生きよ」と語ってくださったという一方的なあわれみを思い起こさせようとしておられます。童話の白雪姫にしても、シンデレラにしても、彼女たちにもともと備わっていた美しさが発見され、彼女たちが幸せになるというストーリーですが、ここでは、誰の目にも醜い者に、主が目を留めた結果として、彼女が美しく成長するという物語が描かれています。昔から、自己嫌悪の思いに苛まれた多くの人々が、このみことばによって慰めを受け、新しい歩みを始めることができました。それは、神の愛が、愛されるにふさわしくない人を、愛されるにふさわしい人に成長させてくださるところに表されるからです。つまり、すべては、目を留めてくださった方のあわれみから始まっています。そのことを主は、「わたしはあなたを野原の新芽のように育て上げた。あなたは成長して、大きくなり、十分に円熟して、乳房はふくらみ、髪も伸びた」(16:7)と、ご自身が彼女を美しく成長させたと言われ、同時に、「しかし、あなたはまる裸であった」と、傷つきやすさと保護者の必要性を示します。

そして、主がしばらく離れていた後に、再び彼女に目を留めた様子が、「わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。─神である主の御告げ─そして、あなたはわたしのものとなった」(16:8)と描かれます。「衣のすそをあなたの上に広げ」とは、ルツ記3章9節にも記されるプロポーズの印であり、「あなたに誓って・・契りを結んだ」とは結婚の誓約に相当します。その際、夫は妻に、生きている限り、彼女に誠実を尽くすと誓い、妻は、決して他の男を求めないと誓うことになります。

そして、夫が妻に誠実を尽くす様子が、「それでわたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った・・・こうして、あなたは金や銀で飾られ、あなたは亜麻布や絹やあや織り物を着て、上等の小麦粉や蜜や油を食べた。こうして、あなたは非常に美しくなり、栄えて、女王の位についた」(16:9-13)と描かれます。つまり、彼女を美しくし、栄誉を与えたのは、主の一方的な恵み、彼女への誠実の表れであったというのです。

そして、「その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ」(16:14)とは、主が、ダビデとソロモンの時代に、エルサレムを世界の奇跡と言われるほどに繁栄させ、シェバの女王を初めとする世界中の人々がそれに憧れたことを指します。「ところが、あなたは、自分の美しさに拠り頼み、自分の名声を利用して姦淫を行い、通りかかる人があれば、だれにでも身を任せて姦淫をした」(16:15)と非難されることになります。エルサレムの繁栄とともに世界中の人々が集まり、様々な国々の宗教が入り込んできました。それらは、聖書のような高い道徳基準を持たず、その場限りの享楽や刺激や恍惚体験を約束していました。私たちが世界中の様々な料理に興味を持つのと同じように、エルサレムの住民は、主から受けた富を用いて、様々なこの世の享楽と結びついた偶像礼拝に貢いで行きました。

そればかりか、主は、「あなたはまた、わたしのために産んだ自分の息子や娘たちを取り、その像にいけにえとしてささげて食べさせた。あなたの姦淫はささいなことだろうか・・」(16:20、21)と彼らを責めます。これは、モレク礼拝と呼ばれ、エルサレムの南西にあるベン・ヒノムの谷で、雄牛の頭を持った青銅の像の突き出した手の上に子供を載せ、下から火をたいていけにえとし、祭司たちは太鼓をたたき続けて子供の叫び声を消したと言われます(Ⅱ列王21:6、エレミヤ7:31等参照)。残念ながら、そのような残酷さの中に身をおいて、恍惚状態を味わうことができるという歪んだ性向を持った人間は数多くいるといわれます。それは、ローマ帝国の繁栄の中で、市民たちが剣闘士の殺し合いに熱狂したことに似ています。それに宗教が絡むと恐ろしいことになります。

そして、主は、「あなたは、あらゆる忌みきらうべきことや姦淫をしているとき、かつて自分がまる裸のまま、血の中でもがいていた若かった時のことを思い出さなかった」(16:22)とありますが、残念ながら人間は、目の前の苦しみが過ぎ去ると、何ともいえない倦怠感に苛まれて、刺激を求めてしまうという傾向があります。ショーペン・ハウエルが言ったこと、「あらゆる人間の生活は、苦痛と退屈の間を行ったり来たり、揺れ動くだけ」というのは永遠の真理のように思えてきます。古来、人心を掴むのに長けた為政者とは、民衆のパンとサーカスの必要を満たすことができた人かもしれません。それこそが罪人の心の現実なのでしょう。残念ながら人は、苦しみすぎても肉体的な死を望み、また、退屈になりすぎても、放蕩に身を任せるという霊的な死を望んでしまうのでしょうか。

2.「だが、わたしは、あなたの若かった時にあなたと結んだわたしの契約を覚え」

ソロモン以来、エルサレムの東にあるオリーブ山は、偶像の神々の礼拝の場で満ちてしまったようです(Ⅰ列王記11:7,8)。そこにはエジプトの神々、ペリシテ人神々などがありましたが、彼らは、「それでもまだ飽き足らず、アッシリヤ人と姦通し」(16:28)ました。事実、アッシリヤが北王国イスラエルを滅ぼす直前、エルサレムの王アハズは主の宮から金銀を持ち出してアッシリヤの王に大量に貢ぎながら、同時に、主の宮の祭司に命じて、偶像のための祭壇を築き、偶像にいけにえをささげました。そればかりか、アッシリヤの攻撃を奇跡的に退けることができた模範的な信仰者のヒゼキヤ王でさえ、「商業の地カルデヤとますます姦淫を重ねる」(16:29)という過ちの道を開いてしまいました(Ⅱ列王記20:12-19)。その子のマナセは、ヒゼキヤが蓄えた富を用いて、アッシリヤとの宥和政策を取り、主の宮の庭にバアルの祭壇を築き、ベン・ヒノムの谷では幼児をいけにえとするモレク礼拝を行いました。

彼らは、夫からもらった生活費を、よその男性に貢ぐ浮気女のように、主から与えられた富を偶像に貢ぎました。その愚かさを、主は皮肉を込めて、「あなたの心は、あえいでいることよ・・・あなたは、自分のほうから持参金をすべての愛人たちに与え、彼らに贈り物をして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした」と描かれます(16:30-33)。一般的に遊女は、他の男性から求められ、それに応えることで報酬をもらいます。しかし、エルサレムは、誰からも相手にされなくなった結果、報酬を支払ってまでも、姦淫の相手を求めたというのです。

それに対して、主は、「わたしは、姦通した女と殺人をした女に下す罰であなたをさばき、ねたみと憤りの血をあなたに注ぐ」(16:38)と言われます。その際、主は、エルサレムが姦淫を犯した相手の国々を用いて、エルサレムを「まる裸にし」、報酬を払えなくすることによって「淫行をやめさせる」と言っておられます(16:39-41)。

その上で、主は、アッシリヤによって滅ぼされたサマリヤをエルサレムの姉と呼び、悪徳の町の代名詞ともいえるソドムを妹と呼びながら、ソドムの罪はエルサレムよりはるかに軽く、また、「サマリヤもまた、あなたの罪の半分ほども罪を犯さなかった」(16:51)と言いました。そして、主は、「ソドムとその娘たちの繁栄、サマリヤとその娘たちの繁栄、また彼女たちの中にいるあなたの繁栄を元どおりにする。それは、あなたが、あなた自身の恥を負い、あなたが彼女たちを慰めたときにしたすべての事によって、あなたが恥じるためである」(16:53、54)という不思議なご計画を明かされます。それは、エルサレムの住民たちが軽蔑しているソドムとサマリヤを姉妹と呼び、彼女たちの昔の繁栄をエルサレムに先駆けて回復させることによって、エルサレムの面目を失わせるということです。

その上で主は、「わたしはあなたがしたとおりの事をあなたに返す。あなたは誓いをさげすんで、契約を破った」(16:59)とエルサレムを責めます。これはエルサレムが主をさげすんだので、エルサレムもさげすまれるということをさしています。しかし、その上で、「だが、わたしは、あなたの若かった時にあなたと結んだわたしの契約を覚え、あなたととこしえの契約を立てる」(16:60)と言われます。これこそ、神の恵み、真実の愛(ヘセッド)の表れです。それは、イスラエルの民が主との契約を破っているにもかかわらず、主は民との契約を守り通すという真実です。このヘセッドこそが、聖書を貫く神の救いのストーリーの核心です。そのことをパウロは、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13)と記しています。主は、アブラハムの子孫を守り通し、祝福すると言われたご自身のことばを否むことができないのです。

ただ、その際、彼らの側には、そのような恵みを受ける何の理由もないということを明らかにするために、「わたしが、あなたの姉と妹とを選び取り、あなたとの契約には含まれていないが、わたしが彼女たちをあなたの娘としてあなたに与えるとき、あなたは自分の行いを思い出し、恥じることになろう」(16:61)と記されます。エルサレムは契約の外にあるサマリヤとソドムの救いを見ながら、自分たちの不誠実を恥じ、同時に、主がこの世のいかなる契約相手と異なることを覚えて、主に感謝をするというのです。そのことが、「わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう。それは、わたしが、あなたの行ったすべての事について、あなたを赦すとき、あなたがこれを思い出して、恥を見、自分の恥のためにもう口出ししないためである」(16:62、63)と記されます。「契約を新たにする」とは、まさに、私たち新約の時代に実現し始めていることです。私たちは、主の一方的な恵みによってすべての罪を許され、神の子供とされながら、自分がそれを受ける価値がないということを恥じます。そして、そのような心の状態になるとき、私たちは他の人々に対しても寛容になることができます。

3.「契約を破って罰を免れるだろうか。わたしは生きている」

17章には二羽の大鷲のたとえが記されます。第一の大鷲はバビロン帝国のネブカデネザル、第二の大鷲はエジプトの王です。ネブカデネザルは、エルサレムの王エホヤキンをバビロンに連行し、ゼデキヤを新しい王として立て、彼に忠誠を誓わせました。ここで、「たけは低いが、よくはびこるぶどうの木」(17:6、13,14)とはエルサレム最後の王ゼデキヤを指します。ところが、「見よ。このぶどうの木は、潤いを得るために、根を、その鷲のほうに向けて伸ばし、その枝を、自分が植わっている所から、その鷲のほうに伸ばした」(17:7)というのです。それはゼデキヤが、さらなる繁栄を願って、エジプトからも援助を受けようとする裏切り行為を指します。

しかし、「このぶどうの木は、枝を伸ばし、実を結び、みごとなぶどうの木となるために、水の豊かな良い地に植えつけられていた」(17:8)とあるように、ゼデキヤはネブカデネザルの保護のもとで繁栄できるはずでした。それはバビロンがエルサレムをエジプトに支配権を広げるための前線基地にしようと計画していたからです。

17章9節の主のみことばは、多くの翻訳では、「それは栄えるだろうか。彼(ネブカデネザル)は、その根を抜き取り、その実を摘み取り、芽のついた若枝をことごとく枯らしてしまわないだろうか。それは枯れる」と訳されています。つまり、バビロン王の保護を受けながら、それを裏切る不誠実は、必ず厳しい処罰を受けるというのです。

それが具体的に、「彼はバビロンの王に反逆し、使者をエジプトに送り、馬と多くの軍勢を得ようとした。そんなことをして彼は成功するだろうか・・・契約を破って罰を免れるだろうか」(17:15)と描かれます。その上で、主は、バビロンとの契約を蔑むことは、主との契約を蔑むことと同じだということを明確にするため、「わたしは生きている。彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約、これを必ず彼の頭上に果たそう・・・わたしは彼をバビロンへ連れて行き、わたしに逆らった不信の罪についてそこで彼をさばく」(17:19)と言われます。

ゼデキヤの周りには、エルサレムの独立を目指すことは主のみこころであり、そのためにバビロンとの契約を破ることは正しいと主張する人々がいました。しかし、それは詭弁に過ぎません。「主は、生きておられる」とは、人を一時的に騙すことができても、主は、その心の動機を知っておられ、裏切りに報復するという意味でもあります。

ですから最後に、この世の損得勘定を越えて、すべてを支配する主に信頼することの大切さが、「主(ヤハウェ)であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させる・・」(17:24)と改めて記されます。私たちが栄えるか滅びるかは、主の御心しだいであり、主を恐れることこそ、繁栄の基なのです。

4.「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか・・・彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか」

ところで、主は、「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか」(18:2)と彼らを責めます。彼らは、自分たちの先祖が、主を怒らせてしまった責任を子供の世代が負うというのは、不公平だと言いたかったのでしょう。これは、主が十のことばで、「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」(出エジ20:5)と言われたことの誤解から生まれています。その際、主は、主の命令を守る者への祝福を千代にまで及ぼすという祝福との対比を強調しておられ、父が犯した罪の責任を、その子に問うというのは本来の趣旨ではありません。

そのことを主は、「その子が父の行ったすべての罪を見て反省し・・・イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず・・だれをもしいたげず・・・わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる」(18:14-17)と約束されました。そして主は改めて、「子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない」(18:20)と言われます。「親の因果が子に報い・・」という悪循環を主は断ち切ってくださいます。

人によっては、「私は取り返しのつかない過ちを犯した。神も人も、自分を見捨てて当然だ・・・」と思うほどに絶望することがあるかもしれませんが、主は、「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行った正しいことのために、彼は生きる。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。─神である主の御告げ─彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか」(18:21-23)と言われます。これは途方もない福音です。詩篇の中には、悪者の滅亡を願うような祈りが満ちているようにさえ思えます。しかし、それは、人間の正直な願望に過ぎません。ところが、主は、悪者の死を喜ぶどころか、彼が悔い改めて生きることを喜ぶというのです。しかも、罪は忘れてもらえます。ですから、どんな人にも、やり直しの機会があるのです。

ところが、「それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない』と言っている」と、主は二回にわたって彼らの不当な非難に嘆きながら、「さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか」と、同じように二回にわたって彼らを責めます(18:25,29)。人は、自分を犠牲者に祭り上げる天才です。たとえば、自分の怠慢さや不誠実を責められても、「私は人間不信にならざるを得ないような環境で育った。その気持ちが、あなたにわかるはずはない・・・」などと居直り、たしなめた人を反対に非難するような人がどこにもいます。人は、自分の愚かさを、生まれ育った環境のせいにして、神と人とを責めることができます。しかし、そこに眠っている思いは、自分の行動に責任を負うことへの恐れ、また、新しい歩みに踏み出すことへの恐れではないでしょうか。人は、自分を被害者にしておくことができる限り、責任を取らずにすむからです。

それに対して、主は、「わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく・・・悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ」(18:30、31)と言われます。主は、ひとりひとりに、徹底的に、自己責任を問われます。神のかたちに創造された者は、原則、誰も、「責任能力がない・・」などということはないのです。たとえば、どれほどの、知的障害がある人でも、不思議なほどに、人を操作したり、反対に、感謝することを知っています。居直りと被害者意識こそ信仰の敵です。主は、「新しい心と新しい霊を得よ」と招いておられます。たとえば、やる気が湧かなければ、「私のやる気を湧かせてください」と祈ることだってできるのです。ある方は、昔、「愛する主よ」と祈っていたのに、そう祈ると、自分が偽善者になっている気がするので、「あわれみ深い主よ」と祈るようになったと言っておられました。「新しい霊」とは、まさに、聖霊のみわざであり、聖霊は私たちの心のうちに、愛の足りなさを示すとともに、神への愛を起こしてくださるお方です。イエスは、「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう」(ルカ11:13)と言われました。

その上で、主は、「イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。─神である主の御告げ─だから、悔い改めて、生きよ」(18:32)と語りかけられます。私たちは知らないうちに、感覚が麻痺することがあります。しかし、それこそ、死の始まりです。エルサレムは、自分たちがどれだけ危険な状態にあるかということに目をつむって、互いに、「平安だ」と言い合うことによって、滅びようとしています。それに対し、主は、「なぜ、死のうとするのか」と、まず、彼らの目を覚まさせることばをかけておられます。

信仰とは、自分の信念の力ではありません。自己憐憫と被害者意識、無気力と倦怠感、自己嫌悪と自暴自棄に流れがちな私たちの心を作り変えてくださるという主の約束に対する信仰です。自分で自分を変えるのではなく、主が変えてくださることに信頼することです。それは、「主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔の覆いを取りのけられて、主の栄光を鏡に映すように見ながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられてゆきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:17,18別訳)とあるとおりです。私たちは自分の不真実を恥じるしかありません。しかし、主の真実が私たちを造り変えてくださるのです。