エゼキエル8章〜11章「失ってみて初めてわかる恵みの大きさ」

2009年9月13日

「かわいい子には旅をさせよ」ということわざがあります。放蕩息子のたとえでは、弟息子は、父の身近にいたとき、その恵みの大きさがまったくわかりませんでした。しかし、父の家を飛び出し、無一文になったとき、父の家にどれだけ大きな恵みが満ちていたかを思い出し、家に帰りたいと願いました。今日のところで、栄光の神が汚れた民の間を離れ、その結果、民が想像を絶する苦しみを体験し、その上で、主の救いにあずかるという過程(プロセス)が記されています。私たちの前には、苦しむことによって初めて見えてくる恵みの世界があります。事実、私たちはみなどこかで、かけがえのない宝物を失った体験がないでしょうか。それは健康、家族、仕事、友人、失った機会、その他様々なもので、喪失の痛みは今も生々しく残っていることでしょう。しかし、それを通して、改めて、人の優しさに触れ、また人の痛みに優しくなることができたかもしれません。そこに愛の交わりが生まれました。神からの最高の贈り物を失ったことによって、神をかえって身近に感じられるようになるというのが信仰の神秘です。

1.イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしている

「第六年の第六の月の五日」(8:1)とは、1章2節にあったのと同じように、エホヤキン王の捕囚から数えて第六年目、つまり、紀元前592年の9月のことだと思われます。そこで、「私が見ると、火のように見える姿があった。その腰と見える所から下のほうは火で、その腰から上のほうは青銅(琥珀金)の輝きのように輝いて見えた・・・」(8:2)とありますが、これは主の栄光が、主の宮から遠く離れたバビロンの地に住むエゼキエルの上に現れ、そして、主は彼を不思議な方法でエルサレム神殿に運び、そこで行われている偶像礼拝の様子を見させたということです。

そこで、主は彼に四種類の偶像礼拝の姿を見させます。第一は、「北のほうの祭壇の門の入口にねたみの偶像」(8:5)です。それはアシュラの彫像だと思われます。その際、主は、「イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしている」(8:6)と、彼らが主から離れようとしている罪を責めます。第二は、エゼキエルに神殿の「庭の入口」の壁の向こうの暗闇で、「はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた」(8:10)中での礼拝です。そこで彼らは、「主は私たちを見ておられない。主(ヤハウェ)はこの国を見捨てられた」(8:12)と言っていました。そして、第三は、タンムズ礼拝です。これはバビロニア神話に登場する美しい牧神への礼拝で、その死を悲しむことで、その神が復活し繁栄が回復されるという儀式でした。そして、第四は、太陽礼拝です。彼らは、主の救いを受けたとき、主との固い約束を結んだのに、それをことごとく反故にしてしまいました。それに対して主は、「彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている・・・だから、わたしも憤って事を行う。わたしは惜しまず、あわれまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない」(8:17、18)というさばきを宣言されます。

「十のことば」で安息日律法と合わせて強調されていることばは、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主(ヤハウェ)であるわたしは、ねたむ神(わたしはヤハウェ、あなたの神、ねたむ神)、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」(出エジ20:4-6)という命令とさばきの警告と祝福の約束です。イスラエルの民は、主のねたみを引き起こすようなことばかりを隠れて行っていました。それに対するさばきが、いよいよ主ご自身から下されるというのです。

この警告は、現代の私たちにも適用できる部分があります。私たちも神との約束を忘れ、みこころに反する方向へと突き進んでしまうことがあるかもしれません。そのような人に向け、ヘブル書6章には、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです」(4-6節)という厳しいことばが記されています。ただし、アメイジング・グレイスの作者ジョン・ニュートンは、大暴風雨の中、沈没しそうな船の中で、このみことばがこころに迫り、このままでは自分が地獄に行くしかないと思い、生まれて初めて心から真剣に神に祈りました。しかし、その結果として、許しがたい罪人を救ってくださる驚くべき恵みがわかったといわれます。つまり、しばしば私たちを恐怖に陥れるみことばこそ、私たちを真剣な祈りへと導き、救いに預からせてくれるのです。

2.「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ・・・まずわたしの聖所から始めよ

主は、これらの偶像礼拝を罰するために、「六人の男」を遣わします。彼らは、「おのおの打ちこわす武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来」ます(9:1)。それとそこに、「もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にい」ました(9:2)。「そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向か」い、その人を呼び寄せ、「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行われているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ」と言われました(9:3、4)。「しるし」ということばは原文で、ヘブル語の最後の文字の「タウ」と記され、最終的な「救い」の保障を意味します。これは新訳聖書の言語であるギリシャ語では、Xに相当し、ギリシャ語のキリストの最初の文字、また十字架のしるしでもあります。黙示録では、神が終わりの日にもたらす様々なわざわいから額に小羊の名が記されている144,000人(全ての民を包含する象徴数)が守られ、救われると約束されています(7:2,9:4,14:1)。

そして、主は、「ほかの者たち」、「六人」に、「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ」と言われました(9:5、6)。

後に使徒ペテロは、このみことばをもとに、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう」(Ⅰペテロ4:17)と警告していました。それは、自分をキリスト者と自称しながら、「初めの愛から離れてしまった」者たちに対する神のさばきと言えないでしょうか(黙示録2:2-5)。イエスも、ご自身の教会に、「毒麦」が育ってしまうことを警告しながら、それを抜き取るのは私たちの使命ではなく、終わりの日に、まず神ご自身がご自身のしもべを通して行うことであるということを警告しておられます(マタイ13:24-30)。そして、残念ながら、世の終わりに近づくにつれ、毒麦が大きく成長してしまい、教会に混乱が生まれます。しかし、そのとき私たちに問われるのは、毒麦を選別することではなく、そこに起こっている「すべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しむ」(9:4)ということです。さばきを下すのは、主の責任です。私たちの責任は、「初めの愛に立ち返る」ことです。私たちはイエスに出会ったとき、「こんな罪深い私のためにイエスは十字架にかかってくださった・・・」ということを純粋に感動しました。しかし、時を経るにしたがって、自分が救われることを当然のことと受け止め、他の人をさばくようになってしまいます。イエスの時代のパリサイ人と同じように、自分が救いがたい存在であることを忘れた者は、主ご自身から厳しく責められます

ただしそのとき、主が最も怒りを発せられる罪とは、「主(ヤハウェ)はこの国を見捨てられた。主(ヤハウェ)は見ておられない」と言い張って、主のご支配を否定し、主にある希望を否定することにあります(9:9)。私たちは、どれほど罪深くても、主の救いのみわざを否定しない限りにおいて救われます。「私は大丈夫・・」と言う者ではなく、自分の罪や周囲の罪に涙を流す者の額に、救いのしるし、「X」が記されているのです。

3.「庭は主(ヤハウェ)の栄光の輝きで満たされた」

「私が見ていると、ケルビムの頭の上の大空に、サファイヤのような何か王座に似たものがあって、それが、ケルビムの上に現れた」(10:1)とは、1章26節にあった表現とほとんど同じで、今、主ご自身がさばきを下そうとしておられることを示しています。主は、「亜麻布の衣を着た者」に命じますが、この人は、他の六人のような破壊の武器を持つ御使いではなく、信者を守るためのしるしをつけた御使いです。ところが、主は守護天使のような彼に、「ケルブの下にある車輪の間に入り、ケルビムの間の炭火をあなたの両手に満たし、それを町の上にまき散らせ」(10:2)と言われました。これは明らかに、「火」をもって汚れた町を「聖める」という意味がありました。

そして、そこに、「その人が入って行ったとき、ケルビムは神殿の右側に立っていて、雲がその内庭を満たしていた。主(ヤハウェ)の栄光がケルブの上から上り、神殿の敷居に向かうと、神殿は雲で満たされ、また、庭は主(ヤハウェ)の栄光の輝きで満たされた」(10:3,4)という、輝かしい主の栄光の臨在のしるし(シェキナー)が現れます。これはエルサレム神殿を覆った最後のシェキナー、主が神殿を滅ぼす前に最後に見せてくださった栄光きです。

その上で、9-14節には、1章で描かれていたと同じ情景が描かれます。先には、ケルビム(単数はケルブ)という名が記されていませんでしたが、ここでは明記されます。なお、1章10節では「牛の顔」と記されていたのが、ここでは。「ケルブの顔」と記されていますが、これは写し間違いかも知れません。黙示録4章7節でも「雄牛」と記されているからです。そして、エゼキエルは、「そのとき、ケルビムが飛び立ったが、それは、私がかつてケバル川のほとりで見た生きものであった」(10:15)と、これが1章と同じ生き物であることを強調しています。

「主(ヤハウェ)の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。すると、ケルビムが翼を広げて、私の前で、地上から上って行った。彼らが出て行くと、輪もそのそばについて行った。彼らが主(ヤハウェ)の宮の東の門の入口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった」(10:18,19)とは、「主(ヤハウェ)の栄光」が、今、まさに神殿から出てゆこうとする様子を描いたものです。まず、主の栄光がケルビムの上にとどまったのは、これからケルビムに乗って移動するというしるしです。そして、ケルビムが一時的に「東の門の入り口で立ち止まった」のは、神殿に別れを告げるしるしではないでしょうか。今、主の栄光は東の門から出ようとしています。

神殿は、聖なる神が汚れた民の間に住むことを可能にするために、神ご自身が備えてくださった恵みの場でした。イスラエルの民が神の御心に沿った礼拝をささげているとき、主は彼らの只中に住むことができました。しかし、人間が、神の神殿自体を汚してしまったとき、神はその場にとどまることができなくなったのです。聖なる方は、汚れの中に住むことはできないからです。しかし、この終わりの時代に、神の御子は、何と、アダムとエバの子孫であるマリヤの胎において私たちと同じ肉体をまとわれました。そのことを使徒ヨハネは、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と描きます。これは、イエス・キリストにおいて、「主(ヤハウェ)の栄光」が汚れた人々の間に住むことが再び可能になったことを意味します。この時代の神の「シェキナー」こそ、イエス・キリストです。イエスが、ロバにのってエルサレム神殿に入場したことは、主の栄光が神殿に再び戻ってきてくれたしるしでした。この私たちの時代、主の栄光はイエスを通して現されています。それは、汚れた私たちを恐怖に陥れる栄光ではなく、私たち自身を神の聖さにあずからせるための主の栄光でした。そして、ケルビムから取り出された炭火は、私たちにとって、イエス・キリストが十字架で流してくださったご自身の血です。イエスは、ご自分の血で、私たちの罪を聖めることによって、聖なる神と汚れた私たちを隔てる壁を取り去ってくださいました。

4.「こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」

その上で、主はエゼキエルに、エルサレムに残された指導者たちの姿を見せます(11:1)。彼らは、「家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ」(11:2)と言っていました。それは、バビロンが攻撃してくるのにはまだ間があり、エルサレムが鉄のなべのように堅く守られ、そこに残されている民は、なべの中の肉のように貴重な存在として扱われるという楽観論です。

そのような中で、主はエルサレムの残りの者たちをさばくという意味で、「わたしは、あなたがたをその中から取り出そう。あなたがたは剣を恐れるが、わたしはあなたがたの上に剣をもたらす・・・わたしはあなたがたを町から連れ出して、他国人の手に渡し、あなたがたにさばきを下す」(11:7、8)と言われます。そして、このようにエゼキエルが預言しているとき、「ベナヤの子ペラテヤが死んだ」というのです(11:13)。これは、主が終わりの日のさばきを事前に見せてくださったしるしとして理解されました。それでエゼキエルは、「ひれ伏し、大声で叫んで」、「ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか」と主に尋ねました(11:13)。

そのとき、主は彼に、「あなたの兄弟、あなたの同胞、あなたの身近な親類の者たち、またイスラエルの全家のすべての者に対して」(11:14)の慰めのことばを語ってくださいました。エルサレムの住民は、すでに捕らえ移された人々のことについて、「主(ヤハウェ)から遠く離れよ。この地は私たちの所有として与えられているのだ」(11:15)と、彼らを軽蔑し、自分たちがエルサレムを受け継ぐかのように言っていましたが、主ご自身は、「わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた」(11:16)と、ご自身が遠い異教の地で彼らとともにいてくださると約束しておられました。

そして、主は、その後のご計画について、「わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える」(11:17)と、彼らをイスラエルの地に連れ戻してくださると約束してくださいました。そして、その際、「すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう」(11:18)と、主ご自身が、イスラエルの地からすべての偶像の神々を取り除くと言われます。しかも、主は、「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである」(11:19、20)と、イスラエルの民の心を内側から造り替え、彼らが自分から主の御教えを喜んで実行することを可能にしてくださると約束してくださいました。なお、これは私たちにとって、聖霊が与えられるという約束であり、それが私たちのうちに成就しています。パウロは自分に反抗するコリントのクリスチャンたちのことを、「あなたがたは・・・キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた」(Ⅱコリント3:3)と、彼らのうちに既に聖霊が宿っていること、そして、自分たちの心のうちでささやく御霊の導きに心を開くことを勧めました。私たちは、強制力の伴う外からの命令によってではなく、内側から沸き起こってくる思いによって、真心から主の教えを全うすることができます。大切なのは、様々な不安や欲望に囚われたこの心を、神の御霊の働きに明け渡すことです。

「こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(11:20)という表現は、主がモーセに、イスラエルの民をエジプトから救い出すことの意味を、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」(出エジ6:7)と説明しておられたことに通じます。また、黙示録ではやがて実現する新しいエルサレムの姿が、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」(21:3,4)と記されていました。神が私たちを救ってくださる目的は、ご自身との親密な愛の交わりを建て上げることにあるのです。天の御国は、苦しみも無い代わりに退屈が支配するようなところではありません。そこは、神と人との愛の交わりが完成する場所なのです。

ところで、最後に、「ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動き出し、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。主(ヤハウェ)の栄光はその町の真ん中から上って、町の東にある山の上にとどまった」(11:22、23)と描かれます。これは極めて簡潔な記述ながらも、エルサレムが廃墟に向かう決定的な転換点です。これは、主(ヤハウェ)がエルサレム神殿から立ち去ってしまわれたということを指します。「東にある山」とは、オリーブ山のことですが、それは旅人がエルサレムを見下ろしながら別れを告げる場所です。主は、オリーブ山からエルサレムを見下ろしながら、この町に訪れる戦争や飢饉で苦しむ人々の姿を、悲しんでおられたのではないでしょうか。

エルサレムはもはや、神の御住まいではなくなりました。そして、「霊が私を引き上げ、神の霊によって幻のうちに私をカルデヤの捕囚の民のところへ連れて行った。そして、私が見たその幻は、私から去って上って行った。そこで私は、主(ヤハウェ)が私に示されたことをことごとく捕囚の民に告げた」(11:24、25)とは、主ご自身がエゼキエルの霊とともに、捕囚の地に来られ、そこから去って行き、彼がその地に住む民に主のみことばを述べ伝えたということをあらわします。主の栄光は、主のさばきを恐れ、また悲しむ者の「霊」とともにあるからです。

エルサレム神殿は神の臨在のしるしでした。しかし、イスラエルの民は、その神殿を失うという痛みを通して、神が自分たちの苦しみをともに担い、いつでもどこでも、神が私たちとともにおられる(インマヌエル)という真理を知るようになりました。また、神はエルサレムを聖めるために、まずエルサレムを滅ぼし、廃墟とする必要がありました。同じように、私たちが聖霊に満たされるためには、自分が空っぽになって行くというプロセスが必要です。私たちはイエスの召しに従って行こうとするときに、自分の罪深さ、身勝手さが嫌になるほど示されることでしょう。それは自分だけの世界に引き篭っていたときには見えない現実でした。しかし、そこから恵みの世界が始まるのです。以下のマザーテレサの詩をともに覚えてみましょう。これこそ、御霊に満たされ生かされる道ではないでしょうか。

からっぽ
マザー・テレサ

神はいっぱいのものを満たすことはできません。
神は空っぽのものだけを満たすことができるのです。
本当の貧しさを、神は満たすことができるのです。
イエスの呼びかけに「はい」と答えることは、
空っぽであること、あるいは空っぽになることの始まりです。
与えるためにどれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが問題なのです。
そうすることで、私たちは人生において十分に受け取ることができ、
私たちの中でイエスがご自分の人生を生きられるようになるのです。
今日イエスは、あなたを通して御父への完全な従順をもう一度生きたいのです。
そうさせてあげてください。
あなたがどう感じるかではなく、あなたの中でイエスがどう感じているかが問題なのです。
自我から目を離し、あなたが何も持っていないことを喜びなさい。
あなたが何者でもないことを、そして何もできないことを喜びなさい。