2009年4月26日
シンガポールのショッピングセンターを歩いているとき、「エレミヤ29:11」という名の雑貨屋さんのような店がありました。それほどにこのみことばは世界中の人々から愛されています。ある教団の重責を担い続けてこられた先生が65歳の定年を機に、牧会と執筆に専念しようとしておられました。私たちは夫婦でスイスでのセミナーに参加させていただきましたが、この先生ご夫妻は、老年に向かってますます夫婦としての交わりを豊かにしようと誓い合っておられました。しかし、その五ヶ月後に、癌のために天に召されました。私たちは、「主よ、なぜなのですか・・・」と問わざるを得ませんでしたが、奥様は夫とともに、主が、「わたしは知っている・・」と力強く言っておられることばにすがり、牧会の働きを続けておられます。私たちの目には「不条理!」としか思えないことをも、主のご支配のもとのあると信じることができるとき、「今、ここで」問われている責任を担う勇気が沸いてきます。
1.「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」
29章には、預言者エレミヤが、バビロンに引かれて行った捕囚の民、長老たち、祭司や預言者たちに向けてエルサレムから書いた手紙のことが記されています。すでにバビロンには、「エコヌヤ王と王母と宦官たち、ユダとエルサレムの貴族たち、職人と鍛冶屋たち」(29:2)が住んでいました。エレミヤは、「イスラエルの神、万軍の主(ヤハウェ)」からのことばを伝えますが、主は、「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に」と呼びかけ、バビロン捕囚が主のみわざであることを強調します。そして彼らに早期の帰国を望む代わりに、「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み・・・そこでふえよ。減ってはならない・・・その町の繁栄を求め、そのために主(ヤハウェ)に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」(29:5-7)と告げます。不本意に異郷の地に連行された人々には受け入れがたい言葉だったことでしょう。
そして主は、「あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな」(29:8)と言います。偽りの預言者たちは、人々の期待するような言葉を伝えますが、それは主から与えられた言葉ではありませんでした。私たちも自分の期待に反した地に住み、期待に反する働きをせざるを得ないことがあるかも知れません。そのようなとき、都合の良いことばに耳を傾ける代わりに、今置かれている場の祝福とその寄留の地の繁栄を望むことが大切ではないでしょうか。
そのような中で主は、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」(29:10)という具体的な希望を告げられます。あなたが今、悲惨な状況の中に置かれているなら、どのように感じるでしょう。「それでは遅すぎます!」と言いたくなるのではないでしょうか。そんな絶望感を味わう人に向かって主は、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」(29:11)と言われます。ここで主は、「わたし」ということばを強調しながら、「わたしは知っている」、また、「わたしが立てている計画」と語りながら、ご自身がすべてのことを支配しておられるということを確信させようとしておられます。しかも、そのことばは、天地万物の創造主であられる「主(ヤハウェ)」ご自身による「御告げ」であると記され、「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と解説されます。ユダの民にとって、バビロン捕囚は「わざわい」としか思えませんでしたが、それは「平安(シャローム、平和)」を与える計画であり、彼らに「将来と希望を与える」ためのものであるというのです。イスラエルの民は経済的な繁栄の中で、それらすべてを与えてくださった神のみわざを忘れました。それで主は、彼らに苦しみを与えることによってすべてが神の恵みであることを心から悟ることができるようにと導かれたのです。
人々は主が御顔を隠しておられるように感じますが、主が与えてくださる「将来と希望」とは、「わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる」(29:12-14)と、主が彼らの祈りを聞き、見つけられることであると保障しておられます。そればかりか、主は、「わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集め・・・あなたがたを引いて行った先から・・・帰らせる」(29:14)と、国を失なわせ、また回復させるというわざわいも幸いも、すべて主ご自身の主導によって実現するということを強調しています。
そればかりか、当時、エルサレムに残った人の方にこそ「将来と希望がある」と思えましたが、主は「見よ。わたしは彼らの中に、剣とききんと疫病を送り、彼らを悪くて食べられない割れたいちじくのようにする」(29:17)と、バビロンに引っ張られなかった人々こそがはるかに大きな苦しみを味わうと断言します。つまり、不幸になると思われた人が幸せになり、自分の幸せを夢見ていた人が不幸になるというのです。もし今、あなたが、「夢も希望も消えてしまった・・」と落ち込んでおられるなら、そのときこそ、主の圧倒的な救いのみわざを見る機会かもしれません。
その上で主は、バビロンで偽の希望を語っている預言者「コラヤの子アハブと、マアセヤの子ゼデキヤ」がバビロンの王によって殺され、その名がのろいの象徴とされるようになるというさばきを宣告されます(29:21,22)。そればかりか、バビロンに住む「ネヘラム人シェマヤ」が、エルサレムの宗教指導者にエレミヤの捕縛を願ったことに対して、「見よ。わたしはネヘラム人シェマヤと、その子孫とを罰する」(29:32)と警告されます。いつの世でも、安易な希望を語る人が好まれますが、彼らは「主(ヤハウェ)に対する反逆をそそのかした」者として厳しくさばかれます。神の民にとっての敵としか思えなかったバビロンに対する勝利を告げている者が、主に対する反逆者であるというのは何という皮肉でしょう。人は誰しも、苦しみを忍ぶべきときがあります。しかし、偽教師は苦しみから逃れることばかりを教え、苦しみに人を成長させ、作り変える力があることを忘れさせます。苦しみを避けることより、苦しみを正面から受け止め、それを成長の機会とされるように祈ることの方が、はるかに大切なのではないでしょうか。
2.「その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの繁栄を元どおりにする」
その上で主は、「見よ。その日が来る・・その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの繁栄を元どおりにすると、主(ヤハウェ)は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する」(30:3)という希望を述べられます。「その日」とは、七十年後の救いを超えた「終わりの日」のことを指します。そして主は、「おののきの声を、われわれは聞いた。恐怖があって平安はない・・・なぜ、男がみな、産婦のように腰に手を当てているのか。なぜ、みなの顔が青く変わっているのか」(30:5、6)と問いながら、これを、喜びをもたらす産みの苦しみにたとえながら、「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる」(30:7)と、主の最終的なさばきと同時に、イスラエルの民の救いを告げ知らせます。
しかも主は、「その日になると・・わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない。彼らは彼らの神、主(ヤハウェ)と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう」(30:8、9)と言われます。これはダビデ王国再興の希望です。そして主は、「わたしは、あなたを散らした先のすべての国々を滅ぼし尽くす・・しかし、わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが」(30:11)と言われます。「公義」とは、神の公平なご支配の原則で、しばしば「さばき」とも訳されることばです。神はご自身の命令を軽蔑する者に対して「あなたはのろわれる・・」(申命記28:15以降等)と警告しておられました。それで、神は「公義」によって彼らを、「懲らしめ」「罰せ」ざるを得ないのですが、それでもアブラハムの子孫である彼らを「滅びし尽くすことはない」というのです。
主はイスラエルの民に、「あなたの傷はいやしにくく、あなたの打ち傷は痛んでいる。あなたの訴えを弁護する者もなく、はれものに薬をつけて、あなたをいやす者もいない」(30:12、13)と言われますが、これは主の懲らしめを受けるとき、人間的な解決策が何の助けにもならないことを知らせるためです。しかし、それと同時に主は、「わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやす」(30:17)と保障されます。ですから、「私は今、主の懲らしめを受けているのか・・」と感じておられる方に何よりも求められていることは、主のふところに飛び込むということです。
そして主は、「見よ。わたしはヤコブの天幕の繁栄を元どおりにし・・・彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る。わたしは・・彼らを尊くして、軽んじられないようにする・・・」(30:18-20)という祝福の王国を実現する王のことが、「その権力者は、彼らのうちのひとり・・から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか」(30:21)と描かれます。これはキリスト預言であり、その方は神に近づくためにいのちをかけてくださるというのです。そして、「主(ヤハウェ)の燃える怒りは、御心の思うところを行って、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを悟ろう」(30:24)とありますが、今、私たちの主イエスキリストがこの神の怒りを引き受け、私たちに対する神の怒りを去らせて下さったのです。
その神秘をパウロは、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから購い出してくださいました・・・このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶため」(ガラテヤ3:13,14)と記しています。イスラエルの民は自業自得によって神ののろいを受けました。しかし、神は彼らを見捨てることなく回復させてくださいました。今のこの時代、既にキリストが異邦人である私たちの身代わりにのろいを受けてくださいました。ですから、私たちは既に、祝福の中に置かれています。私たちが受ける苦しみは、決して「のろい」ではなく、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」(ヘブル12:6)とあるように、主に特別に愛され、受け入れられているしるしです。それは、「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自身の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」(同12:10)とあるように、神の子とされていることのしるしです。
3.「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」
「その時・・わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」(31:1)とは、エレミヤの百年余り前にアッシリヤ帝国によって滅ぼされた北王国イスラエルに対する希望です。彼らは遠い国々へと強制移住をさせられていますが、そこで、「主(ヤハウェ)は遠くから、私に現れた」というパーソナルな出会いを体験し、主ご自身による、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」という語りかけを聞くというのです。「誠実」とはヘブル語の「ヘセッド」の訳で新改訳では多くの場合は「恵み」と訳されていますが、この箇所は、「契約を守り通す愛」というこのことばの意味を端的に表現しています。
その回復の希望のことを主は、「おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し・・・再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる」(31:4、5)と言われますが、これは、神を侮るものへののろいが、「ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない」(申命記28:30)と預言されていたことと対照的です。ただし、その際、彼らは主(ヤハウェ)に向かって、「主(ヤハウェ)よ。あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を」と叫ぶ必要がありました(31:7)。歴史的には強制移住させられた多くの民は、アッシリヤの民族同化政策に屈服して神の民としてのアイデンティティーを失っていましたが、それでもそこには「残りの者」(レムナント)と呼ばれる信仰を全うしている人々がいました。そして、彼らの帰還のことを主は、「見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には目の見えない者も足のなえた者も、妊婦も産婦も共にいる・・・彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る・・・」(31:8、9)と約束されます。ここで主は、ヨセフの子でサマリヤの地を相続したかつての北王国の中心的な部族「エフライム」を、その後、徹底的に堕落した恩知らずの彼らを、「わたしの長子」と呼んでおられます。今も、神の民としての歩みを始めながら、この世で様々な苦しみを体験し、信仰を捨ててしまったと思えるような人がいます。しかし、その人も、「残りの者」として神の御名を呼び求めるなら、どんなに堕落した状態からでも回復させていただけるのです。
「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている」(31:15)というみことばは、イエスの誕生の際、ヘロデ大王がベツレヘム周辺の二歳以下の男の子をみな殺したという記事に結び付けて引用されます。イエスの誕生は、神がイスラエルの民の悲しみのただなかに降りてこられたという意味を持っているからです。ラマはエルサレムの北八キロメートルにあるベニヤミン族の中心都市で、そこに後にバビロン捕囚として連行される人々が集められました(40:1)。ラケルはヨセフの母で、彼女からエフライムとマナセという北王国の中心部族が生まれましたから、北王国の悲しみがラケルによって表現されているのだと思われます。ただし、ここでは、「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ・・・あなたの将来には望みがある・・あなたの子らは自分の国に帰って来る」(31:16、17)と告げられます。「あなたの将来には望みがある」という表現は、先に主が、「わたしの計画は・・・あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」(29:11)と言われたことに結びつきます。
イエスの誕生の際の悲劇ばかりかイエスを主と信じることによってかえって家族や共同体に分裂と悲劇が到来すると思えることがあります。しかし、それは力の均衡によって保たれていただけの見せかけの平和が崩されるということです。しばしば、自分の回心によって家族を敵に回したと思われる人が、最終的に全家族の救いの始まりであったということがあります。真の自由と平和をもたらしてくださるのは神です。神にのみ将来と希望があります。
そして主は、今、裏切りの民、エフライムに対するご自身のお気持ちを、「わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(31:20)と描かれます。日本で唯一世界的に有名になった神学者、北森嘉蔵は、「わたしのはらわたは・・わななき」という「異常な言葉を見出して以来、私は昼も夜もこの言葉を考え続けてきた」と記していますが、その黙想から「神の痛みの神学」という名著が生まれました。それは拙著、「哀れみに胸を熱くする神」の出発点となる洞察です。それはご自身に背き続ける者のために、ご自身の御子を十字架にかける神の痛みでもあります。
ですからここでは、それに続いて、主は、「おとめイスラエルよ。帰れ・・・裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか」と彼らの回心を訴えます(31:21)。そのときに起こる不思議が、「主(ヤハウェ)は、この国に、一つの新しい事を創造される。ひとりの女がひとりの男を抱こう」(31:22)と預言されます。「強い男が弱い女を抱く」というのが当時の常識ですが、神の力が、弱さの中に表されるとき、この逆転が生まれます。イエスはひ弱な一人のマリヤという女性に抱かれて成長しました。そして、今も、多くの男性の信仰は女性によって守られ支えられています。
そしてエレミヤは、主(ヤハウェ)が再び民の真ん中に住まわれるという希望を、「ユダの国とその町々で」、「義の住みか、聖なる山よ。主(ヤハウェ)があなたを祝福される」と喜び合うという夢として見て(31:23)、「ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった」(31:26)と嘆きの預言者が平安に満たされる様子が記されます。
そして、「かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう」(31:28)と、主がのろいを祝福に変えるという逆転が預言されます。しかも、「その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない」(31:29)と預言されますが、これは当時の人々が「なぜ父の咎の責任を子が担わなければならないのか・・・」という不満を述べていたことへの答えだと思われます。「十のことば」で、主は「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(出エジ20:5)と警告しておられましたが、七十年のバビロン捕囚はそれの成就でした。しかし、新しい時代には、親の失敗の責任を子供が担うというのろいの連鎖は断ち切られるというのです。
そして、このエレミヤ書に記された最も画期的な福音が、「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」(31:31)と描かれます。これこそ「新約」の由来です。それは、まず第一に、「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった」(31:32)と描かれながら、その上で、「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(31:33)と記されます。
パウロはこの表現を用いながら、福音から離れそうになっているコリントの信徒に向けて、「あなたがたは・・・キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた・・・文字は殺し、御霊は生かすからです」(Ⅱコリント3:3,6)と励ましています。律法の核心である「十のことば」は「石の板」に記されましたが、イスラエルの民はそれを守ることができず、自らのろいを招いてしまいました。それをパウロは「文字は殺し」と表現しました。それに対し、この新約の時代においては、神が私たちのうちにご自身の「御霊」を与え、私たちの心を内側から作り変えてくださるというのです。もちろん、私たちが自分の心の内面を見るとき、御霊の働きを感じられないことの方が多いかもしれません。しかし、私たちが、「私の心は何と醜く、空っぽなのだろう・・・」と認めていること自体の中に御霊の働きがあるのではないでしょうか。なぜなら、パリサイ人のように、「私は善意に満ちている・・」と思っている心を神は満たすことはできないからです。
そして今、「そのようにして、人々はもはや、『主(ヤハウェ)を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」(31:34)というみことばが実現しつつあります。私たちは、自分の回心の体験を振り返るとき、一方的に新しい知識を教え込まれたという以前に、不思議に、心の中にイエスの救いを慕い求める思いが沸いてきたということがなかったでしょうか。それは、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:1)とある通りです。そして主は、そのときに起こることを、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」と言っておられますが、それこそが十字架のみわざです。私たちは御霊の働きを誰の目にも霊的な立派な人に変身できることと考えがちですが、29章11-13節においても「わたしを見つける」ことと記され、この箇所においても「わたしを知る」と記されています。つまり、主との交わりの回復こそ御霊の働きの中心です。御霊は私たちに罪の赦しの福音を確信させるものです。
そして、天地万物を治める主の全能の力が描かれながら、「もし、これらの定めがわたしの前から取り去られるなら・・・イスラエルの子孫も、絶え、いつまでもわたしの前で一つの民をなすことはできない」(31:36)といわれます。これは、もし主(ヤハウェ)が太陽も月も星もまた海をも支配しておられないとしたら、イスラエルに対する神の計画も成就されることがないと言えようが、実際、神は全宇宙を治めておられるのだから、イスラエルをも新しくすることができるという意味です。しかも主は、「もし、上の天が測られ、下の地の基が探り出されるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべての事のために退けよう」(31:37)と言われます。これは、どれほど人間の知恵が進んでも天や地の基の神秘を知り尽くすことができないのと同じように、神の救いのご計画は人間には計り知れないものであるという意味です。実際、イスラエルの不順順を見るならば、彼らは神から完全に見捨てられ、滅ぼされても当然なのに、神はご自身の民に対して、私たちの想像を超えたご計画をお持ちなのです。
そして最後に、「死体と灰との谷全体、キデロン川と東の方、馬の門の隅までの畑は、みな主(ヤハウェ)に聖別され、もはやとこしえに根こぎにされず、こわされることもない」(31:40)とエルサレム周辺ののろいの場さえも聖なるところとされるという途方もないことが記されています。エレミヤは、かつて7章30-34節で、エルサレムの南のベンヒノムの谷において異教の神モレクへの幼児犠牲礼拝が行われていることへの主のさばきがくだされることを警告していましたが、今、そののろいの谷が神の御前で聖なる場とされるというのです。なお、新約聖書で、永遠のさばきの場が「ゲヘナ」と呼ばれているのは、この「ヒノムの谷」がギリシャ語化されたことばであると言われます。
「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う」(箴言16:2)とあるように、人は、自分の生き方が行き詰まることがない限り、自分を正当化し続け、「生き方を変えよう・・」とは思うことができません。ユダヤ人は、良きにつけ悪しきにつけ、「聖書の民」としてのアイデンティティーを三千年にわたって保ち続けていますが、彼らが偶像礼拝の恐ろしさを心から悟ることができたのは、バビロン捕囚という七十年の苦しみを通してでした。彼らは国を失うという悲劇を通して、自分たちの存在は神にかかっていると知ることができました。ただ、彼らはそれによって真に謙遜になる代わりに、誤った熱狂主義に陥ってしまいました。残念ながら今も、神を知ることがパリサイ的な律法主義につながってしまう例があります。イエスはそのような中で、「心の貧しい者は幸いです」と語りながら、神が喜ばれる信仰の基本は、自分の無力さと無知とを心の底から味わい、神にすがることにあると言われ、罪人のままの私たちを神の子として受け入れるために十字架にかかってくださいました。そして今、いつも自己正当化に走ってしまう私たちを神の前に謙遜にし、イエスの生き方に習うことができるようにと、創造主ご自身である聖霊が与えられました。イエスは裕福な者がいかに救われがたいかを語ったとき、弟子たちは、「それでは、だれが救われることができるのでしょう」と問いましたが、イエスは、「人にはできないことが、神にはできるのです」とお答えになりました(ルカ18:24-27)。これこそ旧約と新約の違いです。良い教えを聞いても実行できない私たちの心の中に働きかけてくださる聖霊のみわざこそ、この時代に与えられた神の恵みです。そしてその中心は「神を知ること」に他なりません。