2009年2月15日
昨年以来、証券会社や投資銀行の評判は悪くなるばかりで、その一員であった私は、何とも複雑な気持ちを味わっています。先日、日本福音自由教会協議会総会で、不本意にも、四人の役員の一人に選ばれました。担当を決める際に、「先生は金融機関に勤めていたから、会計をしてよ・・」などと言われ、さらに嫌な気持ちになりました。同じ金融機関でも、銀行と証券は水と油です。銀行は利ざやで生きていますから、百のうちの一社でも焦げ付けば、すべての利益が吹き飛んでしまいます。しかし、証券業は、百社のうちの一社を見出して人々にリスクをとって投資するように勧めるのが仕事です。敢えて言えば、証券業のロマンとは、銀行から見向きもされないような企業の成長性に期待して、人々にその夢を訴え、そこに危険を覚悟したお金を集めることです。それは、本日の聖書箇所で、「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」とあるように、世の専門家たちが見向きもしない石の中から「礎の石」を探し出すことです。銀行は成功している企業の既得権益を守る方向に働きますが、証券はその既得権益を打破する成長企業を支援する方向に働きます。既得権益を守る世的な常識を打破しなければ新しい成長は生まれません。その際、投資の尺度として何よりも尊重されるのは、その企業自身が目先の利益ではなく、消費者の支持を得られる長期的な利益をもたらす真の夢を持っているかということです。銀行は目に見える担保をもとにお金を貸しますが、証券は、企業家の夢を担保にお金を集めます。人々の評価などを気にしないほどに熱い情熱を持っている企業家は魅力的です。同じように、神に向かってまっすぐに生きている人は魅力的です。イエスの時代の宗教指導者たちは、自分たちの既得権益を守ろうとして、イエスを十字架にかけました。しかし、彼らはすぐに歴史から姿を消さざるを得ませんでした。自分の立場を守ることばかりを第一に考え、神から与えられた真のビジョンを忘れる者のいのちははかないものです。それは同時に、現代的な問題です。誰のために、何のために仕事をするかというロマンを忘れた人々によって、現代の世界不況がもたらされたからです。
1.「わたしも・・・あなたがたに話すまい・・・」
「イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、イエスに言った」(1,2節)とは、イエスが十字架にかけられる数日前のエルサレム神殿での出来事を指しています。エルサレムの宗教指導者たちはイエスに、「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください」(2節)と迫りました。祭司長は神殿の管理を神から委ねられているはずの立場ですから、イエスが神殿から商売人を追い出したり、民衆を教えたりしていることは、神が立てた権威を侵害していると考えられました。それも当然のことと言えましょう。
たとえば、この教会の礼拝の最中に、見知らぬ人が入ってきて、突然、講壇から何かを教えようとするようなことがあるなら、私にはその人を排除する権威が与えられています。ところが、彼らは民衆がイエスに信頼を寄せている様子を見て、真正面からイエスを排除しようとするなら自分の身が危ないと思い、イエスに罠をしかける質問を投げかけたのです。イエスが「父なる神から・・」と言うなら、彼らはイエスを、目に見える神殿の指導者の権威を否定する偽預言者として告発できると思いました。一方、「神の民である民衆が自分に権威を与えてくれた・・」などと答えるなら、イエスをローマ帝国の支配を覆そうとする革命指導者として訴えることができました。
それに対しイエスは、「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか」と反対に質問を投げかけます(3,4節)。私たちも人から質問を投げかけられたとき、それに馬鹿正直に答える代わりに、質問者の意図を探る必要があります。イエスの場合は、彼らの悪意を瞬時に見抜いていましたから、彼らが罠にかけようとした同じジレンマを引き起こさせました。それで彼らは、「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから」と言って、「互いに論じ合った」というのです(5,6節)。彼らの正直な気持ちとしては、ヨハネのバプテスマは神殿の権威を否定し、民衆を惑わすものであると言いたかったはずです。しかし、ヨハネは当時、ヘロデ・アンテパスの不道徳な結婚を非難して首をはねられた殉教者として人々の尊敬を集めていましたから、正直な意見を述べることは、民衆の怒りを買うだけであることを知っていました。彼らは、人に向かっては命がけで信仰を全うするように勧めていながら、自分の事に関しては、人の目ばかりを意識する臆病者に過ぎませんでした。それで、彼らはイエスの質問に正直に答える代わりに、「どこからか知りません」と答えたのでした(7節)。これによって彼らの偽善が暴き出されました。
これに対してイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われたというのです(8節)。それは、彼らが真実を知ろうとしているのではなく、自己保全しか考えていないということが明確になったからです。聞く耳のない人に語ろうとすることは、「豚に真珠」です。この諺はイエスが、「聖なるものを犬に与えてはなりません。豚の前に、真珠を投げてはいけません」(マタイ7:6)と言われたことに由来します。それはイエスが、彼らを豚のように扱ったという意味ではありません。彼らはイエスとの対話を通して、自分たちが神よりも人を恐れている臆病者に過ぎないということに直面させられました。彼らは自分の惨めさを知ることができたのです。人は誰も、自分の惨めさに直面することがなければ救い主を求めることはできません。イエスは彼らの偽善を真っ向から指摘して追い詰める代わりに、彼らがそれを自分で気づくように導いてくださったのです。私たちもイエスのみことばを聴くことによって、自分の罪を自覚させられるかもしれません。しかし、一見、冷たく感じられるイエスのことばの背後には、常に、私たちをご自身のもとへ招こうとされる熱い思いが込められています。
当時の宗教指導者たちは、自分に都合の悪い人を巧妙に排除する方策ばかりを考えて、ものの本質を見ることを忘れていました。今ここで、真に問われていることが何なのかを見ることができない人は、本当に惨めです。
2.ご自分の力を隠しながら、「どうしたものか・・」と葛藤される神
このような中でイエスは「民衆に」向けて、たとえを用いて宗教指導者たちの危険性を指摘しました。なぜなら、聖書知識があっても、神から委ねられた責任を自覚しない者は教師にふさわしくないからです。イエスはまず、「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た」(8節)と言われますが、この背後にイザヤ5章の記事があります。そこで神は、「エルサレムの住民とユダの人よ・・・わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか」(イザヤ5:3,4)と問いかけておられます。つまり、ぶどう園の主人が、ぶどうの収穫のために必要なすべてのことを備えたので、その収穫の分け前はすべて主人に属するものであり、農夫たちには定められた賃金以上のものを受け取る権利はないということが、このたとえの前提にあるのです。事実、マタイの並行記事では、「ひとりの、家の主人・・は、ぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」(21:33)と、主人の働きが詳しく描写されています。
また、「それを農夫たちに貸した」(9節)とは、父なる神がイスラエルの民に約束の地の管理を任せたこと、「長い旅に出かけた」とは、神がしばらくの間、沈黙していたことを指します。かつて神はイスラエルの民に約束の地の真ん中にエルサレム神殿を与えてくださいましたが、それは神が彼らの真ん中に住んでくださるというしるしでした。ところが、彼らの心はしだいに自分たちの神から離れてしまい、特に宗教指導者たちは、エルサレム神殿を利用して私腹を肥やすようになって行きました。今も、昔も、宗教は金儲けの最も効率的な手段になりえるからです。彼らの心が神から離れたとき、神も彼らから離れて行かれました。彼らが外国の軍隊によって苦しめられたのは、神が無力だったからではなく、主の栄光がエルサレム神殿から離れてしまった結果でした。
ただし、それでも神は、イスラエルの民を見捨てることなく、忍耐をもって多くの預言者を遣わし、イスラエルの民に語り続けました。そのことがここでは、ぶどう園の主人が、「季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした」こととして描かれます(10節)。これは、イスラエルの民とその指導者たちに、主ご自身から委ねられた責任を自覚させるためでした。彼らは、世界に対して、神の栄光とあわれみを証しするために神によって選ばれた神の民だったからです。
人生には喜びよりも苦しみの方がはるかに多いと言われますが、そんな人生を人は、何のために生きる必要があるのでしょう。その答えを使徒パウロは、「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません」(ローマ14:7)と言っています。これはすべての人に適用できることばです。人はみな、誰かのために生き、誰かのために死ぬのです。それは、家族のため、共同体のため、国のためかもしれません。現代の日本人はその使命感を忘れてはいないでしょうか。その結果、自殺が広がる一方で、その場限りの快楽を求める刹那的な生き方が生まれます。それはイスラエルでも同じでした。彼らは、ぶどうを主人に渡す代わりに、ぶどう酒を心行くまで飲みたいと願いました。彼らは約束の地という理想的な環境を手にしたとたん、それを可能にしてくださった神を忘れて、自分の快楽のためだけに生きるようになってしまったのです。
昨年、米国の投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻の理由を、「それは強欲の故である」と言い放った人がいます。真のロマンを忘れた仕事は必ず行き詰まります。富は使命を果たすことへの報酬であることを忘れてはなりません。ここでも、「ぶどう園の収穫」は、ぶどう園の主人のものであり、農夫たちはその管理を任されている者に過ぎませんでした。これは、基本的に私たちのすべての仕事に適用できる原則です。私たちは数え切れないほどの恵みによって生かされています。土地も空気も水もすべて神の賜物です。仕事も神によって与えられたものであり、私たちは神に対して説明責任を負っています。そのことが先のローマ人への手紙では、「こういうわけですから、私たちはおのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります」(14:12)と記されています。ところが、多くの人々は、それを忘れて自分のためだけに生きようとして、自分を管理する方を心の中で消し去ろうとします。
それがここでは、「ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した」(10節)と描かれます。これはたとえば、イスラエルの民が最初の預言者エリヤにとった態度です。彼の努力は何の実も結ばないように見えました。ただ彼は、多くの迫害は受けながらも、生きたまま神のみもとに引き上げられました。ところが、その後、状況は悪くなるばかりでした。そのことが、「そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した」(11節)と描かれます。預言者イザヤなどは、エルサレムがアッシリヤの軍隊に包囲されたとき、ヒゼキヤ王に対して決定的な影響力を発揮することができましたが、その後の王マナセのもとで殉教したと言われます。また預言者エレミヤなどは、「嘆きの預言者」と呼ばれるほどに、その生涯は苦しみに満ちていました。ぶどう園の主人は、この段階で農夫たちを追い出してもよかったはずですが、なおも「三人目のしもべ」を遣わします。それに対し、「彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した」(12節)というのです。これは最後の預言者、バプテスマのヨハネを指していると思われます。当時の民衆は彼を預言者として信じていましたから、イエスのこのことばの意味をよく理解できたことでしょう。
不思議にも、ぶどう園の主人は、ご自身の力を隠して、しもべに託した「ことば」だけで彼らを悔い改めさせようとします。そして最後に、「ぶどう園の主人」は、「どうしたものか」と思案したあげく、「よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう」と期待したというのです(13節)。ところが、「農夫たちはその息子を見て、議論しながら」、「あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ」(14節)と言ったというのです。彼らは、主人が軍隊を送ってこないことを、主人はすでに死んでしまったしるしと解釈しました。そして、相続者のいない土地は、そこに住んでいる者の所有とされるという法律がありましたから、彼らはあと取り息子を殺すことで、ぶどう園を手に入れようと思いました。農夫の姿は、当時の宗教指導者たちがエルサレム神殿を利用して利得を得ていたことを示しています。「そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった」(15節)というのは、彼らがイエスをエルサレムの城壁の外で十字架にかけられて殺されることを示しています。
このたとえはイエスご自身の十字架を早める効果がありました。これを聞いた宗教指導者たちは、イエスが自分を神から遣わされたあと取り息子に例えていることがわかったはずです。彼らにとっては許しがたい神への冒涜と思えたことでしょう。彼らはこれを聞いたことで、イエスへの殺意を正当化できました。しかし同時にこれは、イエスの十字架と復活の後、彼らを悔い改めに導くためのものでもありました。彼らは、自分たちが神から遣わされたひとり子を殺害したことの報いがどれほど大きなさばきになることを思い起こし、神に赦しを請うこともできたはずです。少なくとも、このたとえを聞いた民衆の一部は、この意味を理解して、キリストの弟子となったことでしょう。
この世の不条理がなくならないのは、神が忍耐をもって、みことばによって人々の心を変えようと、さばきを遅らせておられるためです。「主は・・・あなた方に対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むのを望んでおられるのです・・主の忍耐は救いであると考えなさい」(Ⅱペテロ3:9、15)とあるとおりです。しかし、主の忍耐のゆえに、主をあなどってはなりません。主は、時がきたら、私たちひとりひとりが誰のために、誰への説明責任を意識して生きてきたかを問われるからです。
3.「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」
イエスは、ここでこの話を聞いてきた民衆に向かって、「こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう」(15節)と質問します。人々は、「この後、どうなるのだろう・・・」と考えたことでしょう。その上でイエスは、ぶどう園の主人が「戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます」(16節)と言いました。それは、この約束の地からイスラエル民が追い出されて、別の民族がその地に住むようになるという意味でした。人々はそれを理解したので、「これを聞いた民衆」は、「そんなことがあってはなりません」と言ったのです。
それに対してイエスは、「彼らを見つめて」、「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった』と書いてあるのは、何のことでしょう」と再び質問しました(17節)。これは詩篇118編からの引用です。そこでは、「私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」(21-23節)と記されています。これは、人間的な利害を超えた主への信頼が報われるという告白です。私たちの前には、「そのような損な役回りは避けたい・・・」と思われるような働きがあるかもしれません。しかも、それを引き受けることによって、かえって、人の誤解や中傷を受けることがあるかもしれません。しかし、主はご自身に信頼する者を決して裏切ることがありません。それどころか、人から裏切られ、見捨てられた者を、ご自身の働きのための「礎の石」として用いてくださいます。イエスが「彼らを見つめた」のは、ご自身こそが、人々から見捨てられながら、神によって「礎の石」として用いられる者であるということを、彼らを招くような目で知らせるためでした。
同時にそこにはイザヤ8章の記事が背景にあります。そこでは、「万軍の主(ヤハウェ)、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ」(13節)と記されていますが、私たちはどの方を「恐れ」とするかが問われています。「そうすれば、この方が聖所となられる」とはイエスご自身が神殿となられるという事を指し示しています。それと同時に、「しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕らえられる」(14、15節)と記されています。残念ながら、「人はうわべを見る」(Ⅰサムエル16:7)とあるように、それまでイエスに将来の希望を託していた民衆たちは、数日後、ローマの兵隊に無力に捕らえられている姿を見てつまずき、そろって、「十字架につけろ!」と大合唱してしまいました。イスラエルの民にとって、ローマ帝国の前に無力な救い主などありえなかったからです。しかし、主は、ご自身の力を隠しておられたのです。昨年来のウォール街の悲劇、それは人が見せかけに騙されて、ものの本質を見ることを忘れてしまったことの結果と言えましょう。
ただし、そこには、イエスを殺そうとする者への神のさばきが警告されていました。マタイによる福音書では、イエスご自身が宗教指導者に向かって、「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」と語ったと記されています(21:43)。これは、神の国がイスラエルから取り去られてイエスの弟子たちの共同体であるキリスト教会に受け継がれることを示唆したものです。
そのことをイエスは別の角度から、「この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです」(18節)といわれました。これは恐ろしい警告です。イエスに信頼する者は救われるという一方で、ご自身を救い主として認めないものは、自滅するということを語ったものです。なお、これは、聖書の神を知らない多くの人々のことについて語ったことではなく、イエスを殺そうとする者たちへの警告です。それは、このイエスのことばから40年後に、エルサレムはローマ帝国の軍隊によって滅ぼされ、ユダヤ人はその後、約二千年間近くにわたって国を失うという形で実現しました。そこには、目に見える権力者よりも神から遣わされた「礎の石」としてのイエス・キリストをこそ恐れなければならないという意味が込められています。地上のすべての王国は、次から次と滅びてゆきました。しかし、イエス・キリストの王国は、二千年前にパレスチナの片隅で始まり、今も世界中に広がり続けています。あなたの周りに百年以上にわたって活力を保ち、繁栄を続けているような会社があるでしょうか。しかし、イエス・キリストの教会は今も活力を保ち成長を続けています。
なお、このイエスのことばの背景には、ダニエル2章で記されているバビロン帝国の大王であるネブカデネザルが見た夢のことがあります。そこではバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国などの歴代の巨大帝国のことが描かれていますが、最後の帝国には鉄の強さと粘度のもろさとが共存しており、一見、強いように見えてもその実態は、団結力のない国です。それが「一つの石」によって「打ち砕かれ、絶滅する」というのです。これは当時の現実としては、祭司たちとヘロデの勢力の結びつきのようなものです。昔から敵の敵は味方であるというように、彼らは理念を共有しているのではなく、共通の敵であるイエスの前に結びついているに過ぎません。それは現代の日本の政治状況であるとともに、私たちの周りにある現実です。鉄のように強い権力があったとしても、それは粘土と混ざっています。しかし、鉄と粘土が融合することがないように、この地上の権力はすべて、とてつもないもろさを抱えています。キリストによって結びついている共同体に勝つことができる権力は存在しません。かえって、キリストに敵対する権力は、一時的な繁栄を誇っているように見えても、あっけなく消え去ってゆくのです。
ところで、最後に、「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた」(19節)と記されています。ここで興味深いのは、「やはり民衆を恐れた」という記述です。宗教指導者たちはイエスが自分たちを非難しているということを理解し、怒りに燃やされながらも、民衆を恐れてイエスに手出しをすることができません。彼らは口先では、神への信仰のためならいのちをも捨てるべきだと説いていました。しかし、自分の身に関しては、少しの危険をも避けていたいと願うばかりでした。彼らは人の目ばかりを意識して、真に恐れるべき方から目をそらしていました。
この世の権力機構などは、鉄と粘土の組み合わせのように、驚くほどに脆いものです。イエスは当時の宗教指導者たちから見捨てられた石です。しかし、それこそが、神の国の「礎の石」でした。それは私たちにも適用できることです。この世の評価や力を恐れて生きる者は、強いように見えても驚くほど脆い存在です。私たちは今、経済的に驚くほど不透明な時代に生きています。しかし、そのようなときこそ、主の目を意識しながら、この世の評価を恐れず、リスクをとることができるキリスト者が輝くことができます。民衆を恐れて自滅したイエスの時代の宗教指導者のようになってはなりません。常に、イエスの眼差しを意識して、与えられた使命に情熱を持って生きましょう。