伝道者の書 7章1節〜8章1節 翻訳
名声は香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。
喪中の家に行くのは、祝宴の家に行くのにまさる。
そこにはすべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
苛立つことは笑うことにまさる。
暗い顔は心を良くする。
知恵ある者の心は喪中の家にあり、愚か者の心は快楽の家にある。
知恵ある者の叱責を聴くのは、愚か者の歌を聴くのにまさる。
実に、なべの下のいばらがはじける音のように愚か者は笑っている。
これもまた、空しい。
知恵ある者でも、虐げられれば狂い、賄賂によって心を滅ぼす。
事の終わりは、その初めにまさり、気が長いことは気位が高いことにまさる。
気短に苛立ってはならない。
苛立ちは愚か者の胸に宿るのだから。
「昔のほうが今より良かったのはどうしてか?」などと言ってはならない。
このように問うのは、知恵によるのではないから。
知恵は遺産と同じように良いもの。
それは日を見る者に益をもたらす。
金銭が避け所になるように、知恵も避け所になるが、
知識が益になるのは、知恵がその持ち主を生かすことにある。
神のみわざに目を留めよ。
神が曲げたものを、誰がまっすぐにできよう。
幸せな時には幸せを味わえ。
災いの時には、(神のみわざに)目を留めよ。
これもあれも神のなさること。
このため人は後の事を見極めることができない。
この空しい日々の中で、すべてを見てきた。
正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。
正しすぎてはならない。
知恵がありすぎてはならない。
なぜ自分を滅ぼすのか。
悪すぎてもいけない。
愚かであってもならない。
なぜその時でもないのに死ぬのか。
一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。
神を恐れる者はすべてをくぐり抜ける。
知恵は知恵ある者を、町の中の十人の権力者よりも強くする。
善いことだけを行って罪を犯すことがないような正しい人間は、この地に誰もいないのだから。
人の語るすべての言葉に心を留めようとしてはならない。
あなたのしもべがあなたを呪うのを聞かないで済むために。
あなた自身も他の人々を呪ったことが何度もあることを心で知っているからだ。
私はこれらすべてを知恵によって試し、「知恵ある者になりたい」と言ってみた。
しかし、それは私の遠く及ばないことだった。
すべて存在するものは、遠く、非常に深い。
誰がそれを見極めることができよう。
私は心を転じて、知恵と悟りとを、知り、探り、求めようとし、また、悪行の愚かさと愚行の狂気を知ろうとしている。
私は死よりも苦いものを女に見出した。
彼女はわな、その心は網、その手はかせとなる。
神に喜ばれる者はそれ逃れるが、罪人は捕らえられる。
「見よ。これが私の見出したこと。」—説教者は語る—「一つ一つから悟りを得ようとして……」
私のたましいはまだ求めているが見出さない。
千人のうちに一人の男を見出しても、そのすべてのうちに一人の女も見出さなかった。
ただし、私が見出したこれに目を留めよ。
「神は人をまっすぐに造られたが、人は(神を離れた)多くの悟りを求めている」
誰が知恵のある者のようだろうか。誰が物の道理を知っているだろうか。
知恵は人の顔を輝かせ、こわばった顔を和らげる。
八年余り前、二十台の若さで天に召されたある女性の葬儀を司式させていただいたとき、私は、「彼女の死になんの解釈を加えずに、ただこの現実をそのまま悲しみ、彼女の思い出を宝物にしましょう……」という趣旨のことを話させていただきました。その後、ご遺体をお花で飾るときに、友人の奏楽者が、教会の礼拝では弾くことのない曲、ビートルズの Let it be を静かに演奏し続けました。その始まりは、「When I find myself in time of trouble Mother Mary comes to me, Speaking words of wisdom, Let it be……(困難のただ中にいるとき、母マリヤが僕に現れ、『そのままに』という知恵の言葉をかけてくれた……)」というものです。私は一瞬、驚きながらも、「これほどこの場にふさわしい曲はない……」と感動し、今もそれが心に残っています。作者のポール・マッカートニーは十四歳のときマリヤという名の母を亡くしていますが、大きなストレスを抱えていた時、夢の中に彼女が現れ、「Let it be(そのままに)という知恵のことばをささやいてくれた」とのことです。
私たちは、何か大きな困難に直面したとき、すぐに原因を突き止めようとしますが、それがしばしば、怒りや恨みや自己嫌悪を加速させるだけになる場合があります。先日も、見知らぬ他人の過失と思われることで家内が怪我をしたとき、本当に苛立ってしまいました。そのとき、Let it be の奏楽者が、男性用のエプロンをプレゼントしてくれました。それは、家事を楽しむようにとのジョークに満ちた励ましでした。
私たちが困難に直面したとき、問うべきことは、「Why(なぜ)」よりも、「How(どうする)」ではないでしょうか。起こったことの意味は、わかるまで、Let it be(そのまま)にするのが最善です。必要なのは、変えられない過去を受け入れながら、今、このときをどのように生きるかを問い続けることです。そして、私たちはやがて神の前に立つとき、すべての意味を知ることができます。なぜなら、この世界のすべての不条理の原因は、人間の罪であるのですが、それは神にとって制御不能のことではなく、神は人の過ちをも益に変えることがおできになるからです。
1.「苛立つことは笑うことにまさる。暗い顔は心を良くする」
「名声は香油にまさり」(7:1) とは、香油に象徴される富よりも、人としての高潔さに価値があるという意味で、これは世の常識でもあります。それと同じように、「死の日は生まれる日にまさる」と、著者は人々の常識に逆らうことを言いながら、「喪中の家に行くのは、祝宴の家に行くのにまさる」(7:2) と重ねて言います。それは、「そこにはすべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになる」という理由によります。これは、人々の意表をつくアイロニーと言えましょう。それは、3章18-22節で述べられた真理を思い起こさせる表現でもあります。
「苛立つことは笑うことにまさる。暗い顔は心を良くする」(7:3) というのもアイロニーですが、これは日頃からつぶやくことの多い私には大きな慰めです。あるとき、歯科医でそこの助手さんから、「牧師さんならもっと微笑んでくださらないの……」などと言われ、落ち込んでしまったことがあります。しかし、牧師の最大の務めは、人の痛みに寄り添い、この世の不条理に苛立っている人に共感することではないでしょうか。無愛想さのために人を不快にするのは確かによくありませんが、自分の苛立ちや暗い顔をそのままに (Let it be) にしておくとき、神ご自身が私たちのうちに働き、「心を良く」してくださいます。自分の力で取り繕おうとすることは、神のみわざに対して心を閉じることになりかねません。イエスは、このみことばを思いながら、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです……義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」(マタイ5:4、6) と言われたのではないでしょうか。
「知恵ある者の心は喪中の家にあり、愚か者の心は快楽の家にある」(7:4) とは、この世の楽しさばかりを求めがちな私たちに対する警告です。そしてさらに、「知恵ある者の叱責を聴くのは、愚か者の歌を聴くのにまさる」(7:5) とあるように、耳に心地よいことばを聴くよりも、愛の伴った叱責をこそ私たちは聞くべきでしょう。そして、「愚か者の笑い」が、「なべの下のいばらがはじける音のよう」であると皮肉に描かれます。これらのことを通して、自分を陽気にすることばかりを正当化する文化全体を指して、「これもまた、空しい」と結論付けられます。
「知恵ある者でも、虐げられれば狂い、賄賂によって心を滅ぼす」(7:7) とは、人の心の脆さを言い表したものです。そして、「事の終わりは、その初めにまさり、気が長いことは気位が高いことにまさる」(7:8) と忍耐の大切さが説かれていますが、「気が長い」とは、「気短に苛立つ」(7:9) ことがない心の状態を指しています。「苛立ちは愚か者の胸に宿る」とは、3節に矛盾するように見えますが、ここでは「苛立ち」が一時的ではなく、永続的に「宿る」ことの愚かさが指摘されています。それも神のみわざに心が閉ざされた状態です。なおここで、「気が長い」「気位が高い」「気短」のすべての「気」ということばは原文で「霊」ということばが用いられています。興味深いのは、「霊」の「高い」ことが評価されずに、「長い」ことの方が「良い」とされていることです。イエスはこれをもとに、「心(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3) と言われたのではないでしょうか。「気位が高い」と、心から神にすがるということができなくなり、その場を取り繕うことしかできなくなるからです。私たちの人生は、終わりになるまで評価を下すことはできません。「霊性」の「高さ」を意識する代わりに、自分の心の弱さや貧しさを正直に認め、神の霊が、私たちの「霊」を支配することができるように、心を開き続けていることです。
2.「これもあれも神のなさること」
私たちは、どの時代においても過去を懐かしみながら、「昔のほうが今より良かったのはどうしてか?」(7:10) などと問いかけることがありますが、著者は、「このように問うのは、知恵によるのではない」と、そのような問いの愚かさを指摘します。だいたい、「私の人生は順調に行くはず……」と思うこと自体が、大きな誤解であり、世間を恨みながら生きることの最大の原因ではないでしょうか。米国のオバマ大統領の就任式の祈りを導いた 師は、「見えるもの見えないもののすべては、ただあなたによってのみ存在し……あなたに属し、あなたの栄光のために存在しています。歴史 (History) は、あなたの物語り (story) です……私たちは、 が、この日を天国で喜んでいるのを知っています……」と感動的な祈りをささげていましたが、私たちはそれぞれ何らかの使命を果たすために生かされています。そして、働きの実を見ることができるのは天国に行ってからということも多いのが現実です。それでもリック・ウォレン師が、その祈りの最後に、「どうか私たちのだれもが、いつの日か、あなたの前に立ち、責任を問われるということを忘れることがありませんように」と閉じていましたが、それこそ常に、私たちが覚えるべきことです。その観点から言うと、人生の困難は、神からの期待の大きさのしるしとさえ言えましょう。
「知恵は遺産と同じように良いもの。それは日を見る者に益をもたらす」(7:11) と記されている「知恵」の基本とは、このような神のご支配を知ることにあります。また「金銭が避け所になるように、知恵も避け所になるが」(7:12) と記されているのは、「金銭」には私たちを飢えや苦しみから守る力があるというこの世の常識以上に、「知恵」こそが私たちを守ることができるということを覚えることが大切だからです。しかも、「金銭」はしばしば、私たちの心を窒息させるように働くのに対して、「知識」や「知恵」の場合は、「その持ち主を生かす」ように働くことができます。
そして、「知恵に生かされる」生き方の基本とは、「神のみわざに目を留めよ」(7:13) という勧めに要約されます。その上で、「神が曲げたものを、誰がまっすぐにできよう」と不思議なことが記されます。これは、神が私たちの人生に試練を与えようとしておられるときに、それを避けることは誰にもできないという意味です。そして、「幸せな時には幸せを味わえ」(7:14) とは、どちらにしても人生には、必ず苦しみの時が来るのが明らかだからこそ、束の間の幸せを心から享受するように勧められます。なぜなら、命をかけてヒトラーと戦って殉教した が、「力の源は、感謝に満ちた思い出である」(ザビーネ・ボンヘッファー著「ボンヘッファー家のクリスマス」1993年新教出版社ロコバンド・靖子訳P10)と言っているように、幸せを味わうことは、この世の困難に直面する最大のエネルギーになるからです。もちろん、その際、神を忘れて傲慢になってしまうことの危険を忘れてはなりません。
なお、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」(新改訳) という訳では、「反省せよ」という言葉の意味が、「なぜこのような災いにあったのかを反省せよ」という意味に誤解されがちです。しかし、それは創造主を認めない因果応報の考え方と混同されかねません。ある方は、苦しみのただ中で、この新改訳のことばを、文脈を無視して投げかけられ、傷口に塩を塗られるような気持ちを味わったとのことです。私たちはみな、そのようなとき、どうしても物事を必要以上に悪く見る傾向があることを知るべきでしょう。原文では、「災いの時には目を留めよ」と記されており、これは先の「神のみわざに目を留めよ」ということばを、省略して繰り返したものです。しかも、文脈から明らかなように、「災い」はあくまでも、「神のみわざ」によるもの、また「神が曲げた」結果と記されているからです。
そのことを前提に、「これもあれも神のなさること」(7:14) と記されます。哀歌の著者はこれを、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか」(3:38) と語っています。そして、ここでは続けて、「このため人は後の事を見極めることができない」と記されます。これは、起こるすべてのことは、私たちの思いを超えた神のみこころによるということを受け止め、未来を自分で掌握しようとする努力をあきらめることの大切さを語ったものです。新約聖書においては使徒ヤコブが、「あなたがたには、あすのことはわからないのです」(ヤコブ4:14) と断言しています。自分で自分の未来を切り開くという責任感を持つのは大切ですが、それよりもはるかに大切なのは、私たちの未来を支配しておられる方、「すべてのことを働かせて益とする」ことがおできになる方に信頼することです。天地万物の創造主にとって、制御不能 (out of control) なことはありません。イエスは、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることがありません。また、あなたがたの髪の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれたものです」(10:29–31) と言われました。私たちが雀に勝っているのは、何よりも、自分の弱さを自覚し、神に向かって祈ることができることにあります。
なお、このイエスのことばは、その前に、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどのことを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい」(10:28) と記されています。私たちの人生には、順境の日と逆境の日の繰り返しが必ずあります。そのときに、「なぜ」という意味での「反省」をするのではなく、「これもあれも神のなさること」と、現実をそのまま (Let it be) に受け止め、そこで神から問われていること、つまり、今、対処すべきことに心を集中すべきでしょう。しかも、そのように見てくると、どのような災いの中にも、神がそれに合わせて数多くの恵みを与えていてくださることがわかります。神は私たちが試練に耐えることができるように、「試練とともに脱出の道も備えて」いてくださいます (Ⅰコリント10:13)。
3.「正しすぎてはならない……悪すぎてもいけない」
そして著者は、「この空しい日々の中で、すべてを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある」(7:15) というこの世の不条理に目を留めます。これはこの書で繰り返されているテーマでもありますが、ここでは、「正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜ自分を滅ぼすのか」(7:16) という不思議な展開になります。聖書には、「主の御教えを守るなら、あなたは幸せになる」という趣旨のことが繰り返し書いてあります。これは本来、主を愛していること自体の中に幸せがあるという意味ですが、「私たちの側に正義があれば、幸せになる」という因果応報の考え方と混同されがちです。人は、どんな悪人でも、自分の正当性を主張します。20世紀初頭の米国暗黒街の帝王アル・カポネは逮捕された時、「俺は働き盛りの大半を、世のため人のために尽くしてきたのに……」と、自分の慈善事業が認められなかったかのように嘆いたとのことです。
そこにあるのは、自分の正当性を主張することで、自分の人生を把握していたいという思いではないでしょうか。しかしそれは、神ではなく自分を善悪の基準とした最初の人間アダムの罪そのものです。アダムは、神から、「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と問われただけで、「あなたが私のそばに置かれたこの女が……」と、神と女とを非難しました (創世記3:11、12)。残念ながら、今も、同じ夫婦喧嘩がどの家でも同じパターンで続いています。「私は正しい。あなたは悪い」と徹底的に主張し合うなら、結婚関係は必ず破綻します。そして、家族を失ったとき、自分は何を得ようとして自分の正当性をあそこまで主張していたのかと反省したとしても遅すぎます。夫婦喧嘩のたびに、「正しすぎてはならない」ということばを自分に言い聞かせるべきでしょう。
また、「知恵がありすぎる」というのも大きな落とし穴です。ソロモン王は、この世の誰よりも知恵がありましたが、妻をたくさん持ちすぎて、妻たちの偶像礼拝に付き合い、神からの警告にも耳を傾けなくなってしまいました。自分こそ知者だと思う人は、神にも人にも聞くことができなくなります。ですから、「正しすぎる」ことも「知恵がありすぎる」ことも、神と人のありがたさを忘れさせるきっかけになってしまい、人に滅びをもたらすのです。
ただし、同時に、「悪すぎてもいけない。愚かであってもならない。なぜその時でもないのに死ぬのか」(7:17) とも言われます。これは、悪や愚かさに居直ることの危険です。「どうせ、私は生まれが悪いから……」などと居直って成長する努力をあきらめることは、自分で自分を死に追いやることです。神のかたちに造られたすべての人には、良心があり、悪いことをしたら心が痛みます。しかし、悪いことをしすぎると、その良心の呵責という痛みも感じなくなります。それは私たちが生ける屍になった状態です。また「愚かであってもならない」とは、私たちはだれでも、創造主からの贈り物としての固有の才能が与えられており、それを生かし成長させる責任が与えられているからです。私たちの人生は自転車に似ているのかも知れません。適度に走っていて初めてバランスがとれます。成長をあきらめたとき、生きる気力もなくなります。そのとき、私たちはまっすぐに歩くこともままならなくなるでしょう。
「一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者はすべてをくぐり抜ける」(7:18) とは、「……すぎてはいけない」というこのふたつの真理を同時に大切にすることの勧めです。私たちは自分の罪深さや愚かさを自覚することと同時に、自分が「神のかたち」に創造された「高価で尊い」存在であるということの両方をいつも忘れてはなりません。この両方を覚えることが、「神を恐れる」ことです。そして、神を恐れる者の人生を神は守り通してくださいます。そして、「知恵は知恵ある者を、町の中の十人の権力者よりも強くする。善いことだけを行って罪を犯すことがないような正しい人間は、この地に誰もいないのだから」(7:19、20) と描かれるのは、知恵の本質が何よりも、自分の限界を認識することにあるからだと思われます。実際、自分の弱さと尊厳の両方を知っている人は、人との協力関係をうまく築くことができます。なぜなら、「神を恐れる」人は、他の人に向かって自分の正当性を必死に主張する必要を感じませんし、相手の置かれている状況や弱さを優しい眼差しで見ることができるからです。
4.「神は人をまっすぐに造られたが、人は(神を離れた)多くの悟りを求めている」
そして、「人の語るすべての言葉に心を留めようとしてはならない。あなたのしもべがあなたを呪うのを聞かないで済むために。あなた自身も他の人々を呪ったことが何度もあることを心で知っているからだ」(7:21、22) というのも人間関係を築く上での大切な知恵です。人は誰でも、困難に直面したとき、それを他人のせいにして、人を責めたくなるものです。そうしないでは自分が成り立たないような気持ちに追い込まれている結果として、人を呪うようなことまでするのですから、そのようなことばを真正面から受けて自分を責める必要などはありません。
ところで著者は、このような人生の真理を、「知恵によって試し」ながら、さらに「知恵ある者になりたい」と願ったのですが、「それは私の遠く及ばないこと」であったと分かり、「すべて存在するものは」、自分の理解の範囲から「遠く、非常に深い」もので、「誰がそれを見極めることができよう」と言わざるを得ないものでした (7:23、24)。ところがそれでも、著者の好奇心はその限界に留まることができず、「知恵と悟りとを、知り、探り、求めよう」としたばかりか、「悪行の愚かさと愚行の狂気」についてさえも、実際の体験によって「知ろう」としてしまいました (7:25)。そこで彼は、「死よりも苦いものを女に見出し」ました。そして、「彼女はわな、その心は網、その手はかせとなる」ということがわかりました (7:26)。男性にとって、女性の誘惑は抵抗しがたいものになります。ただ、それは制する必要があります。そのことが、「神に喜ばれる者はそれ逃れるが、罪人は捕らえられる」と記されます。
そして、彼は自分自身の体験から、「見よ。これが私の見出したこと」と語りますが、それは「一つ一つから悟りを得ようとし」ながら、「私のたましいはまだ求めているが見出さない」という自分の限界でした (7:28)。そして彼は、「見出す」ということばを繰り返しながら、自分が評価できるような「知恵」を持っている人を見出そうとしても、「千人のうちに一人の男を見出す」ということがあっても、「一人の女も見出さなかった」(7:27) という現実を体験しました。これは、女性蔑視のことばのように誤解されがちですが、著者自身の当時の体験を語っているに過ぎません。
今も昔も、女性は霊感が鋭いと言われます。そして、霊媒や占いの働きも女性が主流でした。異教の神殿にはどこにも売春婦を兼ねたような「巫女」がいました。著者は、ここにおいて、何よりも知恵の探求における落とし穴を強調しているのだと思われます。ソロモン自身が、あれほどの豊かな知恵を与えられていながら、国を傾けてしまったのは、女性の誘惑に負けたからです。昔から多くの英雄が、道を誤ってしまうのは、「知恵」を霊感の鋭い女性に求めてしまったからです。「知恵」はあくまでも、神との交わりの中に求めるべきものなのです。
著者はここで最後に、「私が見出したこれに目を留めよ」と言いながら、「神は人をまっすぐに造られたが、人は(神を離れた)多くの悟りを求めている」という結論を述べます (7:29)。それは、神が人を、失敗を犯さない者としてとして造られたというようなことではなく、神が人をご自身に向けて創造されたのに、人は自分を神のようにして、自分に都合のよい「悟り」を求めるようになったという意味です。人は、自分を正当化する事に関しては天才的です。しかし、何よりも大切な知恵は、「誰が知恵のある者のようだろうか。誰が物の道理を知っているだろうか」(8:1) とあるように、人間の限界を謙虚に認めて、何よりも、「神を恐れる」という知恵を大切にすることです。そして、そのような「知恵」は、「人の顔を輝かせ、こわばった顔を和らげる」ことができるというのです。
私たちは自分で自分を元気づけたり、自分の知恵によって他の人を圧倒することによって、自分の世界を安定させようとします。しかし、世界は自分の期待通りには動きません。いつも第一に求めるべきなのは、自分が状況を把握しようとする前に、すべてのことを把握しておられる神に信頼することです。目の前におきることを敢えて自分の視点から解釈しようとするのではなく、そのままに (Let it be) して、それらすべてを支配しておられる神を見上げることこそ、私たちが求めるべき知恵です。私の中には、いつも、世界を解釈する枠を自分で持っていたいという強い欲求があります。しかし、枠が強すぎると神のみわざが見えなくなるということがわかってきました。
イエス・キリストが与えてくださった救いは、奇想天外なものです。私たちが自分を正当化しなくて済むように、まず、罪の赦しを、ご自分の血によって提供してくださいました。しかも、それによって、究極の敵である死の力を滅ぼし、私たちを死の恐れから解放してくださいました。人生にはいつも数々の障害物が横たわっていますが、それをそのまま (Let it be) にしてイエスを仰ぎ見るなら、それらすべてがまったく違ったものに見えてくるでしょう。「こんなはずではなかった……」というつぶやきを止めて、今、このときをキリストとともに歩ませていただきましょう。