伝道者3章16節〜5章7節「神のかたちとして生きる」

2008年11月30日

伝道者の書 3章16節~5章7節 私訳

さらに私は日の下で見た。さばきの場、そこに悪があり、正義の場、そこに悪があるのを。3:16
私はこの心に語りかけた。「正しい者も悪人も、神がさばかれる。すべての営みとすべてのみわざには時があるからだ。」17
私はこの心に語りかけた。「人の子らについては、神は彼らを試練に会わせ、自分たちが獣に過ぎないことを見るようにされた。人の子に起こる出来事と獣に起こる出来事、その出来事はひとつ。18、19
これも死ねば、あれも死ぬ。すべてのものの霊(息)ひとつ。人は獣にまさりはしない。すべては空しい。すべてはひとつの場所に行く。すべては塵から成った。すべては塵に帰る。20
人の子らの霊、それが上に上り、獣の霊、それが地の下に降りてゆくなどと、誰が分かろうか。」21
そして、私は見た。人はその働きの中で喜ぶ以上に善いことがない。それこそ人の受ける分だから。その後に何があるかを、誰が見られるようにできるというのか。22

そして改めて、私は、日の下で行われているすべての虐げを見た。4:1
虐げられている者の涙を見よ。彼らには慰める者がいない。力は虐げる者の側にある。しかし、彼らには慰める者がいない。私は、まだいのちのある生きている人よりは、既に死んだ死人を称賛しよう。2
この両者よりさらに善いのは、まだ存在しなかった者だ。3
日の下でなされる悪い働きを見ないでいられるのだから。また私は、すべての労苦を見て、すべての働きの才能には隣人へのねたみがあることを見た。4
それもまた空しく、風を追うようなものだ。愚か者は手をこまねいて、自分の身を食い尽くす。5
片手に憩いを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うよりも善い。6
そして改めて、私は日の下の空しさを見た。7
ひとりの人がいて、相棒もなく、息子も兄弟もいない。8
そのすべての労苦には終わりがなく、その目は富に満足することがない。「誰のために私は労苦し、たましいの満足をも犠牲にしているのか?」これもまた空しく、つらい労苦だ。ふたりはひとりよりも善い。彼らには労苦において善い報いがあるから。9
もし彼らは倒れても、ひとりがその仲間を起こす。10
惨めなのは、倒れても起こしてくれる相棒がいないひとりの人。また、もし二人が寝れば暖かいが、ひとりならどうして暖まれよう。11
しかも、もしひとりの強い人がいても、二人なら立ち向かえる。12
さらに三つよりの糸は簡単には切れない。貧しくても知恵のある若者は、年をとっても教えられることを知らない愚かな王よりは善い。13
確かに、彼(若者)は、王国の中で貧しく生まれながらも、獄屋から出て王となったのだから。14
私は見た。日の下に歩いている生き物のすべてが、王の下に立つこの第二の若者の側につき、15
彼がその先頭に立つすべての民には終わりがないほどだった。16
しかし、その後に来る人は、彼を喜ばなかった。これもまた空しく風を追うようなものだった。

神の家に行くときには、あなたの足に気をつけなさい。聴くために近づくことは、愚か者が 5:1
いけにえをささげることにまさる。彼らは、自分たちが悪を行っていることを知らない。あせって口を開き、心せいて、神の前にことばを出すな。神は天におられ、あなたは地の上に 2
いるのだから、ことばを少なくせよ。仕事が多いと夢を見る。ことばが多いと愚か者の声となる。3
神への誓願を立てるとき、それを果たすのを遅らせてはならない。主は愚か者を喜ばれない。4
誓ったことは果たしなさい。誓って果たさないよりは、誓わないほうが善い。5
あなたの口があなた自身を罪に定めないようにしなさい。使者の前で、「あれは間違いでした」6
などと言ってはならない。神があなたの声に怒り、あなたの手のわざを滅ぼさないだろうか。夢が多いこと、それは空しい。またことば数が多いことも。それゆえ神を恐れよ。7

サイモンとガーファンクルの最後の名曲『明日に架ける橋』は今も多くの人々に「友情」の価値を訴えかけていますが、そこでは、「君が疲れ果て、自分をちっぽけに感じ、涙が止まらないようなとき、僕がその涙を拭き、君のそばにいるよ……逆巻く流れに架かる橋のように、僕は自分を差し出そう」という崇高な歌詞が歌われています。それは1970年に世界的なヒット曲になりましたが、これを最後に音楽に対する方向性の違いから解散しました。この曲の録音のときふたりの間には大きな葛藤がありました。しかし、そのような中だからこそ、理想の友情への憧れが美しく歌われたのだとも言えましょう。人間関係で苦しむとき、自分の理想によって人をさばいてしまうか、それとも、必ず和解できることを信じながら、その関係を保とうとするのか、それが問われています。私は、「Love is not our duty, but our destiny(愛は義務ではなく目的地である)」ということばが大好きです。私たちは愛の交わりを完成に導いてくださる神を信じるのです。そのとき、理想とはほど遠いながらも、ここに交わりがあるということ自体を喜ぶことができます。 は、「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのである」と語っています。神と人とを愛し続けることは非常に困難なことです。しかし、それができなければ、私たちは獣と同じになります。なぜなら、神のかたちとは、愛する生き方だからです。

1.人はその働きの中で喜ぶ以上に善いことがない。それこそ人の受ける分だから

「さらに私は日の下で見た。さばきの場、そこに悪があり、正義の場、そこに悪があるのを」(3:16) とは、この世の不正を正すべき裁判制度や、神への礼拝を導く指導者たちの中に「悪がある」という不条理です。これでは社会が堕落して行くばかりです。そのような中で、著者は自分の心に、「正しい者も悪人も、神がさばかれる。すべての営みとすべてのみわざには時があるからだ」と語りかけます(3:17)。これは、先に、「天の下のすべての営みには時がある……人は、神のなさるみわざを、初めから終わりまで見極めることはできない」(3:1、11) と言っていたことを思い起こさせる表現です。目に見える世界の不条理を、神が治める「天の下」という視点から見るとき、すべての「時」が神のご支配のもとにあり、神が「正しい者」には豊かな報酬を、この世で横暴に振舞っている「悪人」には厳しいさばきが下されるということがわかります。それでこそ、私たちは自分の「心」を慰めることができます。

そればかりか、著者は、「私はこの心に語りかけた」と言いながら、「人の子らについては、神は彼らを試練に会わせ、自分たちが獣に過ぎないことを見るようにされた。人の子に起こる出来事と獣に起こる出来事、その出来事はひとつ。これも死ねば、あれも死ぬ。すべてのものの霊(息)はひとつ。人は獣にまさりはしない。すべては空しい。すべてはひとつの場所に行く。すべてはちりから成った。すべてはちりに帰る。人の子らの霊、それが上に上り、獣の霊、それが地の下に降りてゆくなどと、誰が分かろうか」(3:18–21) と記します。これは人間の尊厳をあまりに軽く見るような表現とさえ思えます。ここで、神は人の子らを試練に合わせ、自分が獣と変わりはしないということを思い知らせるとありますが、人はしばしば、飢えの中では、食べることしか考えられなくなると言われます。また、生死の境目では、ただ生き延びることしか考えられなくなるでしょう。それは動物的な本能のようなものです。たとえば、極度の飢えの中で、母親が自分の子供を食べてしまったという記事は、世界中にあります。それは敵に包囲された神の都エルサレムの中でも起こったということが何度も記されています (哀歌2:20、4:10)。

私たちは、「人は神のかたちに創造された」という意味を、拡大解釈して、人と獣がまったく異なった存在であるかのように理解することがありますが、詩篇104:29、30は、この地のすべての生き物に対する神のみわざに関して、「あなたが……彼らの息(霊)を取り去られると、彼らは死に、おのれのちりに帰ります。あなたが御霊(あなたの霊)を送られると、彼らは造られます」と記します。旧約聖書では、「霊」も「息」も同じことばが使われていますから、人も獣も、「神の霊」によって生かされているという点では何の区別もありません。しかも、その素材は、「ちり」とありますが、これは風で吹き飛ぶような土地の表面の粒子を指します。素材に関する限り、人は無生物とも同じなのです。この宇宙は、「ビックバン」というひとつの瞬間から始まったという見方が宇宙物理学では一般的になりつつありますが、 氏は「人間の体内の原子のほとんどは、古代の超新星の核融合炉の中で作られたもので、あなたは文字通り星のくずからできているのだ」と記しています(フランシス・コリンズ「ゲノムと聖書」中村昇、佐知訳NTT出版2008年P68)。創世記2章7節では、「神である主 (ヤハウェ) は土地からちりの人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(2:7私訳) と記されますが、この「生きもの」ということばは、すべての生物を指す言葉と同じです (1:20、21、24)。つまり、「ちり」と「神の息」という構成要素からすると獣と人間は何の区別もありませんですから、この著者の問いかけ、人の子らの霊と獣の霊の行き先の違いは誰も説明できないということです。詩篇49篇では、「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい」(20節) と言われます。

最近、人体の膨大な遺伝子情報が解明されました。それによって改めて発見されたことは、ヒトとねずみは、たんぱく質に関する指示が含まれている遺伝子配列の99%が同じで、チンパンジーとは100%同じだというのです。これがあるからこそ、人体の医学に関する実験をマウスで行うことができるのでしょう。また人体には23組の染色体がるのに対して、チンパンジーには24組の染色体がありますが、その違いは、人の二番染色体がチンパンジーでは二組に分かれているだけで、他の22組の染色体はまったく同じだというのです(フランシス・コリンズ「ゲノムと聖書」PP120–132)。つまり、生物学的に見ると、人も猿もねずみも大差はないということが明らかになっているのです。そして何よりの共通性とは、すべての生物は「死」に向かっているということです。そこから「人の子に起こる出来事と獣に起こる出来事、その出来事はひとつ」という、すべての生物に見られる共通性と、無生物との決定的な差が見えてきます。機械なら故障したとき、しばらく放置しても、部品を入れ替えるなら元と同じように動き出します。しかし、生命はひととひとつがユニークで、逆戻りできない取り替えようのない微妙なバランスを保ちながら常に変化し動いているのです。福岡伸一氏は「生物と無生物のあいだ」という著書の中で、「機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことができない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことができない時間というものがない。生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに従って折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある」と記しています(講談社現代新書2007年P271)。

そのような中で、著者は、「そして、私は見た。人はその働きの中で喜ぶ以上に善いことがない。それこそ人の受ける分だから。その後に何があるかを、誰が見られるようにできるというのか」(3:22) と結論付けます。3章16節で、「私は見た」と日の下の不条理が描かれ、3章17、18節で二度に渡って、「私はこの心に語りかけた」ということばで神からの視点が記されます。神が時間を支配しておられる、神は人に「自分たちが獣にすぎないことを見るようにされ」ました。人のすばらしさは、この世の不条理に心を痛めることができるということと、自分のいのちのはかなさを認識できるという点にあるのです。そのような中で著者は、「そして、私は見た」ということばで始めながら、今、生きて働くことができているということ自体が神の恵みであると理解できたのです。

私たちは誰も、明日のことは分かりません。生きていることは当たり前ではないのです。 は、ナチスドイツの強制収容所の中でのことを、「当時、私たちは、食べるとか腹をすかすとか、凍えるとか眠るとか、ミツバチのように働くとか、殴られるといった、人間にふさわしくない問題ではなく、ほんとうに人間らしい苦悩、ほんとうに人間らしい問題、ほんとうに人間らしい葛藤にどれほど恋い焦がれたことでしょう」と記しています(「それでも人生にイエスと言う」山田邦男訳、春秋社1993年p71)と記しています。人生に悩みながらも、家族や友人とともに、そのことを分かち合いながら、今、ここで食事をしているということ自体が神の恵みです。それが決して当然のことではなく、人の未来には、「死ぬ」こと以外に確実なことなどないということを知っていることの中に恵みがあります。中世の修道院では、memento mori(死を思い起こしなさい、keep death in your thoughts)と挨拶しあっていたと言われますが、それは、暗くなることではなく、今、ここでの生活を楽しみ喜ぶことにつながることではないでしょうか。

2.「ふたりはひとりよりも善い」

著者はこの世の不条理に再び目を向けながら、「そして改めて、私は、日の下で行われているすべての虐げを見た。虐げられている者の涙を見よ。彼らには慰める者がいない。力は虐げる者の側にある。しかし、彼らには慰める者がいない」(4:1) と、「救い」が見えない現実を前に、「私は、まだいのちのある生きている人よりは、既に死んだ死人を称賛しよう。この両者よりさらに善いのは、まだ存在しなかった者だ。日の下でなされる悪い働きを見ないでいられるのだから」(4:2) という皮肉を述べます。生きることはときに耐え難いほどの苦痛となるからです。

そればかりか、「また私はすべての労苦を見て、すべての働きの才能には隣人へのねたみがあることを見た。それもまた空しく、風を追うようなものだ」(4:4) と述べます。私たちはある人の能力を常に別の人との比較で測ります。そこに、「ねたみ」があるというのです。なお、ヘブル語でねたみ」と「熱心」は同じ語源のことばです。私たちの努力の動機は、少しでも人の先を行きたいという熱い動機から生まれます。それは「空しい」ことだと分かっているのですが、世界中がインターネットでつながっているような社会では、誰も傍観者になることはできません。競争に負けた者は居場所を失ってしまいます。それは昔からの変わらない現実でもあります。それがここで、「愚か者は手をこまねいて、自分の身を食い尽くす」と言われます。傍観者は自滅せざるを得ないのです。ただ、すべての事柄に関して、人より先を走ることばかりを考えていては、身が持たなくなります。そのことが、「片手に憩いを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うよりも善い」と描かれます。「両手に労苦を満たす」とは、張り詰めた状態を保ち続けることですが、この世の競争には際限がありませんから、それは「風を追う」ように空しいことです。ですから、「片手に憩いを満たす」とあるように、半分、力を抜いて、今を喜ぶことが大切だというのです。

「そして改めて、私は日の下の空しさを見た」(4:7) という、この世の空しさに目が向けられます。それは「孤独」という問題です。そして、「ひとりの人がいて、相棒もなく、息子も兄弟もいない。そのすべての労苦には終わりがなく、その目は富に満足することがない」(4:8) という状態が描かれます。何かを達成しようと必死に働きながら、ふと何とも言えない寂しさに圧倒されるということが、どの人にもあるのではないでしょうか。

太宰治の「人間失格」を改めて読みながら、人とは何と寂しい生き物なのかと思わされました。太宰は文学者としての成功の影で、恐ろしいほどの孤独感に苛まれていました。野獣と変わりはしない人間の身勝手で凶暴な現実を恐れて生きていました。彼の作品が今も人々から愛読されるのは、彼が人間のたましいの奥底にある不安と孤独を真正面から描いているからでしょう。私たちは、何かを成し遂げることで、心の満足を得られると期待しますが、人の心の渇きは、富によっても成功によっても満たされることはありません。

そのような中で、著者は突然、一人称で、「誰のために私は労苦し、たましいの満足をも犠牲にしているのか?」と問いかけます。何かを達成しようとするなら、時間を無駄に使ってはいけないのは当然です。しかし、今ここに与えられている家族や友との交わりや、自分のたましいにとって善いと思えることを犠牲にして、何かを成し遂げたとしても、それが何になるというのでしょう。まさに、「これもまた空しく、つらい労苦だ」と言わざるを得ません。

そのような中で著者は、突然、「ふたりはひとりよりも善い」(4:9) という単純な人生の現実を主張します。たとえば、太宰治は、「走れメロス」という短編で、友のために命をかけるという最高の友情の美しさを描きました。私たちはみな、そのような友情に憧れます。しかし、理想が高ければ高いほど、現実の自分にも、友にも、また家族にも失望せざるを得ません。そして、つい口から、「あなたは結局、自分のことしか考えていない!」という非難が出てきます。しかし、私たちはそれでも、常に不満を抱かざるを得ない相手であっても、友を、そして家族を求めるのではないでしょうか。20世紀初頭にドイツで生まれ米国に亡命したユダヤ人の精神分析学者エーリッヒ・フロムは、「人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するほかない。なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ」(「愛するということ」鈴木晶訳紀伊国屋書店1991年p25)と語っていますが、現代の日本社会は、外の世界を消してしまった人の凶暴な犯罪に怯えています。しかも、その恐怖が、より多くの人を、さらなる孤独の牢獄に追いやり、狂気に駆り立てられた事件を生み出すことでしょう。私たちは、どんな友であれ、家族であれ、「ふたりはひとりより善い」というのが人間の現実であることを覚えるべきでしょう。そこから隣人への感謝が生まれてくるのではないでしょうか。

「彼らには労苦において善い報いがあるから」とは、ふたりで何かに取り組むことの最大の報酬です。成し遂げたことを互いに喜び合うことができることにまさるたましいの満足感はないのではないでしょうか。また、「もし彼らは倒れても、ひとりがその仲間を起こす。惨めなのは、倒れても起こしてくれる相棒がいないひとりの人」(4:10) とありますが、私たちは仕事のパートナーと一緒に転ぶようなことがあったとしても、どちらかが先に立ち上がり、手を差し伸べてくれるのではないでしょうか。これは、相手がかなりのエゴイストであったとしても期待できることでしょう。しかし、そのような友がだれもいないことは、人生最大の恐怖になります。それに加えて、「また、もし二人が寝れば暖かいが、ひとりならどうして暖まれよう」と記されていることの基本は、夫婦関係のことではありません。これは夜露に濡れながら野宿をしている羊飼いをイメージさせるようなことばだと思われます。多少、気の合わない相手でも、互いの身体を温め合うことならできます。「しかも、もしひとりの強い人がいても、二人なら立ち向かえる」という現実もあります。互いに考え方の違う人どうしであっても、共通の敵ができたら一致できます。そして、その敵がどれほど強くても、ふたりなら立ち向かうことができます。私たちにはみな、そのような相棒が必要です。

8、10節で「相棒」と訳したことばは、原文では「第二の」という意味の形容詞です (4:15参照)。それは生きて行く中で、自分の隣にいるすべての人に適用し得ることばで、親友から仕事のパートナーまでのすべてを含むことばだと思われます。つまり、どんな相棒であれ、人生には必ずあなたの味方になってくれる人が必要なのです。

そして、それに続いて「さらに三つよりの糸は簡単には切れない」と記されますが、これは基本的には、「ふたりはひとりよりも善い」ことを前提に、「三人いればさらに善い」という単純な事実を述べたものと言えましょう。これは毛利元就が三人の息子たちに、「三本の矢を束ねると容易には折れない。だから三人が力を合わせて生きるように」と諭したことにも似ています。ただ、ここでは、「三つ撚りの糸」となっているように、三本が一本の糸にされている状態を指します。三人の関係は、常に、二対一に分かれる危険をはらんでいます。しかし、イエスを中心の糸としてふたりが結ばれるなら、「三つ撚りの糸」として力を発揮することができることでしょう。

3.「神を恐れよ」

「貧しくても知恵のある若者は、年をとっても教えられることを知らない愚かな王よりは善い」(4:13) とありますが、当時は、豊かであることと年を重ねることは、「知恵」が増し加わることと理解されていました。ですから、ここでは、若者は「貧しい」にも関わらず「知恵のある者」であり、「王」は、「年をとって」いるにも関わらず「教えられることを知らない」という対比が描かれているのです。「王」は、多くの賢い家来を抱えることによって初めて、正しい政治を行うことができるのですから、「教えられることを知らない」というのは王として失格です。ただ、これこそ権力の罠とも言えましょう。人は権力を握れば握るほど、批判的な情報が入らなくなります。ですから、指導的な立場に立つ人は人一倍教えられやすくなるのでなければ、大切な情報が入らなくなるということを肝に命じるべきでしょう。

「確かに、彼(若者)は、王国の中で貧しく生まれながらも、獄屋から出て王となったのだから」とは、彼が「愚かな王」の迫害を受けながら、新しい「王」になったことが描かれます。しかも、彼は王国の中では本来見向きをされないような小さな存在だったというのです。これは、しばしば歴史の中で繰り返されていることではないでしょうか。試練や貧しさは、人を「知恵ある」者へと成長させる契機になります。旧約聖書に登場する最高の王は、ダビデですが、彼は前王サウルからいわれのない迫害を受けることで、かえって人々の心をつかむことができるような王となることができました。その結果、「私は見た。日の下に歩いている生き物のすべてが、王の下に立つこの第二の若者の側につき、彼がその先頭に立つすべての民には終わりがないほどだった」と描かれますが、人々の心が愚かな王を退け、知恵のある若者の王である側につき、彼に従う人々は、数え切れないほどに増えたのです。

しかし、それにも関わらず、「その後に来る人は、彼を喜ばなかった」と描かれます。それは、この賢い王も、権力を握ってしばらくすると、後継者から世代交代を迫られることになるというのです。ダビデも、権力の絶頂期に、とんでもない過ちを犯し、それを契機に、家族関係が壊れ、やがて自分の息子によってエルサレムから追い出されることにまでなってしまいました。まさに「これもまた空しく風を追うようなもの」です。なぜなら、どれほど賢い王であっても、やがて後継者から疎まれるのだとしたら、それまでの苦労は何だったのかと思えるからです。

このような権力者の交代は、猿の社会ではいつも起こっています。私はあるとき動物園のサル山をじっと見ていながら、この世の人間社会と同じではないかと思わされました。ボス猿のまわりに取り巻きがいて、そのすぐ下に、落ち着いた親子猿の社会ができ、それを取り囲む若い猿が歯向かっては抑えられ、そのさらに外側に、群れから排除された満身創痍の何匹かの疲れきった猿がいます。まさに人は何も獣にまさってはいないと思わされました。

「神の家に行くときには、あなたの足に気をつけなさい。聴くために近づくことは、愚か者がいけにえをささげることにまさる。彼らは、自分たちが悪を行っていることを知らない」(5:1) とは、神に向かって自分の敬虔さをアピールすることが、実は神を悲しませる「悪」になっていることを知らない現実を指します。イエスを十字架にかけることで主導権をとったのは、当時の神殿に多くのささげものをしている宗教指導者たちでした。彼らは正しいことをやっているつもりで、神が遣わした救い主を殺してしまったのです。神が求めておられることは何よりも、私たちがへりくだって神のみことばを聴くことです。私たちが「神のかたちに創造された」ことの基本は、私たちは神になってはならないこと、すべての点で神に聴きながら、神に任された働きを神のご意思に従って行うということです。

「あせって口を開き、心せいて、神の前にことばを出すな。神は天におられ、あなたは地の上にいるのだから、ことばを少なくせよ。仕事が多いと夢を見る。ことばが多いと愚か者の声となる」(5:2、3) とは、自分の「夢」に突き動かされるように、そのために神に必死に祈るような姿勢の愚かさです。「神は天におられる」のですから、この地上の私たちの価値観にしたがって神を動かすような発想は危険です。地上にいる自分の「ことば」を少なくして、天の視点からこの世界を見ることができるようにされること、それこそ神との交わりの基本です。この書では、日の下での不条理と、天の下での神のご支配のことが対照的に記されています。日の下の視点からのみこの世界を見るとき、私たちは不条理に圧倒され、生きる気力さえなくなってしまうのではないでしょうか。

「神への誓願を立てるとき、それを果たすのを遅らせてはならない。主は愚か者を喜ばれない。誓ったことは果たしなさい。誓って果たさないよりは、誓わないほうが善い」(5:4、5) とは、自分の大切な「夢」を神に訴えながら、その際、神への献身の表現として、自分の大切なものを神に差し出すという祈り方の際の注意です。「誓願を立てる」こと自体は、聖書に記された大切な礼拝方法の一つですが、それが、神との取り引きになる恐れがあります。そうなると、誓願とは神を動かす手段となります。しかし、誓願の真の意味を知るなら、軽々しく、神に誓うなどということはできなくなるはずです。その上で、「あなたの口があなた自身を罪に定めないようにしなさい。使者の前で、『あれは間違いでした』などと言ってはならない。神があなたの声に怒り、あなたの手のわざを滅ぼさないだろうか。夢が多いこと、それは空しい。またことば数が多いことも」(5:6、7) とありますが、これも、人が自分の夢に駆り立てられ、また「ことば数を多く」しながら、自己アピールをすることの危険を指しています。神はこの世界の創造主であり、またすべての善悪の基準であられます。そして、これらの結論として、「それゆえ神を恐れよ」と命じられます。これこそ、私たちが日々心がけるべきことです。太宰治の「人間失格」において、「悪の反対語は善であるが、罪の反対語は何か……」という問いかけがありました。それは難問です。いろんな答えが思い浮かぶかもしれませんが、聖書全体のストーリーを見るとき、罪の反対語は「神を恐れること」ではないかと思います。

人は、「神のかたち」に創造されています。それは人間が動物にまさった能力を持っているという意味ではありません。それが能力を意味するなら、サタンこそ最高の「神のかたち」になります。「神のかたち」とは、神と人、人と人、人と世界という関係をあらわす言葉です。そして、「神のかたち」は何よりも、イエスの生涯の中に見られるものです。イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15:12) と言われました。それにしても、「イエスの愛に自分の意思で習うことができるぐらいなら世話がない、十字架も必要なくなってしまう……」というのが現実でしょう。しかし聖書は、私たちの心が、獣と同じような「霊」ではなく、「イエスの御霊」に導かれると教えます。私たちは人の醜さばかりか、自分の醜さに唖然とすることがあり、そのような嫌悪感から自由になることもできません。しかし、そんな私たちを罪の支配から解放するためにイエスは十字架にかかり、罪と死の力に勝利を収め、ご自身の霊を授けてくださいました。私たちは生物学的には猿とほとんど変りません。しかし、神の御子ご自身が私たちと同じ肉体をとってくださったのです。それは私たちが人生で味わうすべての苦しみをご自身で体験し、その上ですべての罪を負って十字架にかかり、三日目に死人の中からよみがえって私たちにご自身の霊を授けてくださるためでした。そこに「希望」があります。しかも、イエスの御霊は天地万物の創造主である三位一体の神の第三位格の聖霊なる神です。創造主なる神が私たちのうちに宿ってくださるのですから、不可能はありません。私たちのうちに完全な愛への憧れを与えた方は、同時に、ご自身の創造の御力によって、愛が完成する世界を再創造してくださいます。それがあなたにすでに始まっているのです。