エレミヤ10章〜13章「あなたがたの神、主 (ヤハウェ) に、栄光を帰せよ」

2008年10月16日

私たちは神を楽しみ喜ぶことができます。しかし、神を自分の目的達成の手段にすることは許されません。そこに偶像礼拝が始まるからです。私たちはこの世のものを「使用する」ことが許されていますが、その延長で、無意識にせよ、神を「使用する」ような発想になってはいないでしょうか。「楽しむ」ことと「使用する」ことの区別が大切です。ウエストミンスター大教理問答の最初では、「人間のおもな、最高の目的は何であるか」という問いに、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」と答えるように教えられています。

1.「人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではない」

主 (ヤハウェ) はイスラエルに向かって、「異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな」(10:2) と言われます。昔の人々は、日食や月食、彗星の出現などに恐怖を覚え、そこに特別な意味を見出そうとしましたが、そのようなものに惑わされてはなりません。今は、このようなことはみな科学的に解明されていますが、それでも星占いが廃れることがないというのは何とも不思議なことです。また、異邦人の偶像に関して、「そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ」(10:5) という断言は、様々な偶像を恐れている人の心を落ち着かせる力があります。たしかに私たちも偶像に取り囲まれると何とも不気味な気持ちに襲われるということがあるかもしれません。しかし、それこそ悪霊の働きかもしれません。悪霊は恐れる必要のないものを恐れさせ、もっとも恐れるべき方のことを忘れさせるからです。そんなときこそ、このみことばを心で繰り返すべきではないでしょうか。また、6、7節の始まりと終わりに、「あなたに並ぶ者はありません」と繰り返されていますが、私たちはこの世の権力者も知者も恐れる必要はありません。ここで、主 (ヤハウェ) が、「諸国の民の王」(10:7)と呼ばれるのは、当時の世界で、民族ごとにあがめられている神が違うような中で画期的なことです。弱小民族イスラエルの神こそ、全世界の王であるというのですから。

そして、8、9節で再び偶像の神々のむなしさが描かれ、10節で、「しかし、主(ヤハウェ)はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない」と力強く宣言されます。なお、11節だけは不思議にもヘブル語ではなく当時の西アジア全域で通用したアラム語で、「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる』と」と記されます。これはイスラエルの周辺の国々の人々にとって、ことわざのようになることを願っての表現ではないでしょうか。偶像礼拝に満ちている日本においても、これをことわざとして心に刻むべきでしょう。その上で、12、13節では、主 (ヤハウェ) が全世界の創造主であるばかりか、すべての自然現象を支配していると語られるとともに、再び偶像のむなしさが告げられ、最後に、「主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主 (ヤハウェ) である」(10:16) と述べられます。私たちはこの世で、あまりに弱く、貧しい者かもしれませんが、私たちの父なる神は、圧倒的な「万軍の主 (ヤハウェ) 」と呼ばれる方であり、私たちはその方の子とされました。日々の生活の中で、ほんの一瞬でも静まり、「主は万物を造る方。私たちは主ご自身の民、子ども。その御名は万軍の主 (ヤハウェ) である」と言われる霊的な事実を思い起こすなら、不思議な平安に満たされ、勇気が沸いてくることでしょう。私たちの主にとって難しすぎることはないのですから。

10章17–25節は、内容的には9章17–22節に続くものです。その初めの、「包囲されている女よ。あなたの荷物を地から取り集めよ」という表現は、エルサレムがバビロンに包囲され滅ぼされるばかりか、その住民が捕囚とされ、長い旅に駆り立てられることを預言しています。この警告の繰り返しこそ、エレミヤ書のテーマです。

その上で、イスラエルの民を代表してのエレミヤの祈りが、「主 (ヤハウェ) よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。主 (ヤハウェ) よ。御怒りによらず、ただ公義によって、私を懲らしてください」(10:23、24) と記されます。これは、現代の裁判でも被告の責任能力の有無によって情状酌量の余地が生まれるように、イスラエルの民が生まれながら正しい道を歩む能力を持ち合わせていないと訴えながら、神のあわれみにすがることばではないでしょうか。そして、「そうでないと、私は無に帰してしまうでしょう」とは、主のあわれみがなければ生きてゆけないという嘆願です。なお、これは人には責任能力がないという居直りではなく、「ただ公義によって、私を懲らしてください」という祈りです。それは、人が、神の導きなしには自分の「歩みを確かにする」ことができないことを謙遜に認めながら、神の懲らしめによって民が自分の無力を悟り、神にすがる歩みへと戻ることができるようにという祈りです。ここでエレミヤは、目の前の苦しみを越えた、より大きな神の救いのご計画に信頼しようとしているのです。人によっては、「私は信仰が弱いから、いつも道がぐらつくばかりで……」と言うかもしれません。しかし、どこに生まれながらの信仰者がいることでしょう。旧約聖書の物語のすべては、生まれながらの人間は、目に見えない神を信じ続けることはできないということを証ししているようなものです。でも、そこに居直ってはなりません。自分の土台の不安定さをしっかりと見据え、自分には神の助けが必要なことを認めながら、「信じます。不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24) と告白すべきでしょう。これは不思議な祈りです。自分の中には神に喜ばれるような信仰がないことを正直に認めながら、神にすがるしかない自分の気持ちに従って「信じます」と告白しつつ、不信仰な自分が「助けられる」ことを願っているのです。

2.「この契約のことばを聞かない者は、のろわれよ」

11、12章は、10章より少し前の時代の預言だと思われます。ヨシヤ王の時代の紀元前622年頃、主 (ヤハウェ) の宮で律法の巻物が発見されましたが、それを前提に記されています。申命記27、28章には、「主 (ヤハウェ) の契約」を守らない者に対する「のろい」が警告されていました。それを要約したのが、「イスラエルの神、主 (ヤハウェ) は、こう仰せられる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれよ」(11:3) です。一方、祝福に関して、主 (ヤハウェ) は、出エジプトの際、「わたしの声に聞き(従い)、すべてわたしがあなたがたに命ずるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言われました (11:4、7:23参照)。なお、ここでは何よりも、「聞く」ということばが強調されています(新改訳の「聞き従い」は意訳)。私たちは行動を考える前に何よりも、主の命令の趣旨を心から理解することが求められているのではないでしょうか。ただじっと「聞く」というプロセスを飛び越えて身体を動かそうとするから、あとで心がついてゆかなくなり、実行できなくなるのではないかと思われます。

そして主はご自身の約束に従ってイスラエルの民を、「乳と蜜の流れる地」(11:5) に導きいれてくださいました。それはこの地において、今述べられたようなエデンの園にあった神と人との親密な交わりを回復させるためでした。エレミヤはその律法の要約を聞きながら、「主 (ヤハウェ) よ。アーメン」と応答しました。それに応じて、主は彼に「ユダの町々と、エルサレムのちまたで」、『この契約のことばを聞いて、これを行え』と叫ぶように命じられました (11:6)。

契約に対する「のろい」と「祝福」は、当時の契約の鍵であり、契約を軽蔑した者に「のろい」は実現させなければならないことでした。ですから、ここでは「のろい」の必然性が強調されています。ところが、主はそれを敢えて遅らせながら、エルサレムに警告を発し続けます。それは、彼らがわざわいに会ったときに、それがイスラエルの神、主 (ヤハウェ) の無力さのゆえではなく、「のろいの契約」の成就であることを知り、主 (ヤハウェ) に立ち返ることができるためでした。それが11章9–13節のことばの意味です。そこで衝撃的なのは、主が、「彼らはわたしに叫ぶだろうが、わたしは彼らに聞かない」(11:11) と語ると同時に、「彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、彼らを決して救うことはできない」(11:12) と繰り返されていることです。彼らの心はあまりにも頑なになっているために、自分がなぜこのような悲惨に会うかの意味を理解できないまま、場当たり的な対応しかしません。それでまず彼らに自分たちの過去の選択の過ちを思い知らせる必要があるということなのです。

私たちは、聖書の教えは、因果応報の教えを超えており、「罰が当たった!」というような言い方はしてはならないと教わります。しかし、一方で、わざわいの中には、原因と結果の関係が明確なものが数多くあります。そのとき、自分の過去の誤った行動が現在の悲惨を招いていると率直に反省できる人には希望があります。残念ながら、何度も同じ過ちを繰り返す人は、多くの場合、自分の悲惨を人や環境のせいにばかりして、自分の側に問題があったことを認められていません。そのような反省能力の欠けた人は、最後の最後まで、神でも人でも、自分の意のままに動かそうと、脅しでも泣き落としでもあらゆる手段を尽くし、結果的に神と人とを敵に回してゆきます。

それで主はエレミヤに、「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいに会ってわたしを呼ぶときにも、わたしは聞かないからだ」(11:14) と語ります。彼らは助けられる前に、自分自身の過ちと向き合う必要があるからです。しかし、彼らの心は主 (ヤハウェ) から遠く離れながら、見せかけの礼拝をしているだけでした。しかし、神の目から、私たちの心の中を隠し通すことはできません。

そして今、「良い実をみのらせる美しい緑のオリーブの木」(11:16) と呼ばれた民は、バビロンの攻撃による「大きな騒ぎの声」とともに、火で焼かれようとしています。そのことが、「あなたを植えた万軍の主(ヤハウェ)が、あなたにわざわいを言い渡す。これはイスラエルの家とユダの家が、悪を行い、バアルにいけにえをささげて、わたしの怒りを引き起こしたからである」(11:17) と言われます。当時の彼らの礼拝は、まるで、影で浮気を続けたまま、夫婦の関係を修復したいと口先で言い、贈り物で怒りをなだめようとするようなものでした。人は切羽詰ると、ありとあらゆる人や神々にすがりたい思いになります。しかし、主は、何よりも、浮気を嫌われるということを常に心に留めるべきです。主の助けを求める者は、その前に、他の偶像の神々にすがることを断固としてやめなければならないのです。

3.「主 (ヤハウェ) よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます」

11章18節から突然、エレミヤに対するユダヤ人の陰謀を、主ご自身が知らせてくださったことが記されます。そのときエレミヤ自身は、「ほふり場に引かれて行くおとなしい子羊のよう」でした。彼らが、「木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」と計画していました。これはエレミヤを彼の子孫ができる前に殺すことを意味します。しかし、反対にエレミヤを滅ぼそうとする者たちが、主によって滅ぼされるのを、彼が見ることができるようになるというのです。そのことが、「正しいさばきをし、思いと心をためされる万軍の主 (ヤハウェ) よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見ることでしょう」(11:20) という告白です。

アナトテは祭司の町でしたが、そこの祭司たちは、エレミヤがヨシヤ王に受け入れられているのに対してねたみを覚え、「主 (ヤハウェ) の名によって預言するな。われわれの手にかかってあなたが死なないように」と脅していたのだと思われます。それに対し、主ご自身が復讐をしてくださるというのです。エレミヤを預言者として召し出された主は、彼のいのちを守ることができる方です。そして、主のしもべに敵対する者は、主に敵対することになるのです。それは、主がアブラハムに、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12:3) と言っておられた通りです。この約束は、私たちにもそのまま実現しています。私たちは人に助けてもらいながら恩返しができなくても心配ありません。主が代わってその人を祝福してくださるからです。反対に、人から意地悪されても仕返しをする必要はありません。主が代わって仕返しをしてくださるからです。

一方、12章では、そのようになっていない現実を前に、エレミヤは主に正直な疑問を投げかけ、「さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか」と問いかけます (12:1)。それは、「あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結び」とあるように、主が悪者をのさばらせているように見えるからです (12:2)。

そこでエレミヤは彼らの偽善を、「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます」と訴えます。それは、彼らが口先で神をたたえながら、こころが主から遠く離れている現実を指します。ところがその一方で彼は、不当な非難を受けている中でも、「主 (ヤハウェ) よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます」(12:3) と自分の心の中のすべてが主に知られていることに安心し、「どうか彼らを、ほふられる羊のように引きずり出して、虐殺の日のために取り分けてください」と神のさばきにゆだねています。神のさばきを祈ることは、自分で復讐をしなくて済むようになるための前提です。多くの人は、主のさばきを信じられない結果として、自分で攻撃をしかけ、争いを増幅させてしまいます。その上で、エレミヤは、「いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています」と (12:4)、イスラエルの民が、「乳と蜜の流れる」と言われた地を損なっていることを悲しんでいます。

それに対して主は、「あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう」(12:5) と言われます。これはエレミヤが他の偽預言者との戦いや平穏なアナトテの地での苦労を言っていることに対し、バビロンの馬の攻撃や獣の住む密林での生活というさらなる苦しみが待っていることを示したものです。そして、主は彼に、身近な人の裏切りさえも覚悟して生きるようにと語ります (12:6)。私たちは、「この苦しみはすぐに終わる……」と淡い期待を抱くことによって、かえって目の前の困難への姿勢が逃げ腰になり、問題を長引かせることがあります。しかし、「この問題は、そうは簡単に解決しない」と腹をくくって対処するなら、反対にそこで神からの不思議な力を受けることができます。

ただし、その上で、主は (ヤハウェ) は、「わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた相続地を侵す悪い隣国の民について。見よ、わたしは彼らをその土地から引き抜き、ユダの家も彼らの中から引き抜く」(12:14) と言われますが、それは主が、この悲劇の後で、バビロンをこの土地から引き抜くとともに、ユダの民をバビロンの中から引き抜き、「わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ、彼らの相続地、彼らの国に帰らせよう」(12:15) と、苦しみをくぐりぬけた民を約束の地に戻すという約束が語られます。そして、「彼らが、かつて、わたしの民にバアルによって誓うことを教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって、『主 (ヤハウェ) は生きておられる』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられよう」(12:16) と、彼らがバアル礼拝をしたことを反省し、神の民としての礼拝をするなら彼らに回復の希望があることを描きながら、同時に、「彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こぎにして滅ぼしてしまう」(12:17) と、悔い改めない場合にはすべての希望が失われることが警告されます。

私たちにとっても、「主は生きておられる」という信仰告白こそ、人生が祝福されるための鍵です。主が私たちにしばしば苦しみを与えられるのは、主 (ヤハウェ) 以外の誰も頼りにはならないことを思い知らせるためです。それは空気がなくなって初めて空気のありがたさが分かるのに似ています。主は、いつでもどこでも生きて働いておられますが、それは人生の暗闇の中でこそ発見できるものです。「主は生きておられる」のなら、主にすがる者の人生が暗闇のまま終わることはあり得ません。私たちは常に、光に満ちた世界に歩んでいることを忘れてはなりません。

4.「彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるため」

13章1–11節では、主がエレミヤに亜麻布の帯を用いての「実演によるたとえ」を命じます。主はまず、「行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ……」と言われます。亜麻布は祭司の服装に用いられましたが (レビ16:4)、これは彼に神の民としての「誇り」を思い起こさせたことでしょう。ところがすぐに主は、「その帯を取り、すぐ、ユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せ」(13:4) と不思議なことを命じました。そして、「多くの日を経て」、主は彼に「あの帯を取り出せ」と命じますが、「その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていた」というのです (13:6、7)。そして、このたとえの説明が主からなされます。それは、主が、「ユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる……この悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる」(13:9、10) ということでした。帯は、主がイスラエルの民をご自身に「結びつけた」ことの象徴です。そして主は、「彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるため」に必要な教えを与えたのに、「彼らがわたしに聞き従わなかった」とご自身の悲しみを表現されます。

主は私たちひとりひとりに、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(Ⅰペテロ2:9) と語りかけておられます。私たちはそのしるしとしての亜麻布の帯を腰に締め、心と身体を引き締めて、主から召された働きにつくのです。主のみことばは私たちに何よりも真の「誇り」を思い起こさせるものです。パウロは悪霊に対する戦いとして、「腰には真理の帯を締める」ように命じています (エペソ6:14)。悪霊の働きは、何よりも、私たちの心の目を神の約束からそらせ、私たちの「誇り」を奪い取ろうとすることにあります。

12–14節は酒つぼのたとえです。主は、「すべてのつぼには酒が満たされる」と言われますが、それは宴会の備えとして当然のことでした。それは、イスラエルの民自身が望むことだったことでしょう。しかし、主の目的は、「この国の全住民、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民をすっかり酔わせ、彼らを互いにぶつけ合わせて砕く」ということにあるというのです。そして、主は、「わたしは容赦せず、惜しまず、あわれまないで、彼らを滅ぼしてしまおう」と言われます。これは彼らが、「主 (ヤハウェ) の手から、憤りの杯を飲む」(イザヤ51:17) ことの象徴でしたが、彼らにはそのような意識はなかったことでしょう。パウロは後に主のさばきを、「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」(ローマ1:24) と描きましたが、人にとっては自分の欲望のままに生きることは望ましいことのように思えますが、それこそ人と人とが互いに滅ぼし合い、自滅してゆく道です。神の愛とは気ままな行動を抑えることであり、神のさばきは、気ままな生き方を、酒を飲ませて励ますことだというのです。

15–17節の警告は、「耳を傾けて聞け。高ぶるな……あなたがたの神、主 (ヤハウェ) に、栄光を帰せよ」という単純明快なものですが、それこそが神との交わりの核心ではないでしょうか。私たちは知らないうちに、神を自分の願望を達成する手段に貶めてしまう傾向があります。それは自滅への道です。それは先のたとえにも明確です。主は傲慢になった人に、「やみを送り」ます。それは神のさばきであるとともに、私たちの愚かさを教える神の愛の現れです。

「主 (ヤハウェ) は生きておられる」とは旧約聖書の歴史のテーマです。それを知った人は祝福され、それを忘れた人はのろわれました。いつでもどこでも、今、生きて働いておられる主との交わりに生きましょう。私たちはどのような状況でも、主を喜び楽しむことができます。幸せは、今、ここにある主との交わりのなかにあります。そしてそれこそ、天国の前味です。今ここでそれを味わうなら、目に見える交わりの現実の中にも天国をもたらすことができます。