ルカ19章1〜27節「持っている者は、さらに与えられ……」

2008年10月12日

あなたは、教会で自分の信仰に劣等感を感じたことがないでしょうか。私は、「あの高額の所得を惜しみもせずに……」などと言われたことがありますが、実際には、神学校に入ったとき、感動的な献身の証しを聞きながら、「こんな不信仰な者が牧師になろうとして良いのか……」と深く悩んでいました。しかし、「神のみことばに感動し、それを語ることが嬉しくてたまらない……」ということは紛れもない事実でした。そこに私は、神の選びと使命を感じました。私たちは知らないうちに、神の恵みへの感動を語る代わりに、自分の信仰を量ってはいないでしょうか。J.I.Packerは、「Knowing God」という名著において、「心理学的には、信仰はわれわれの側の行為ですが、神学的には、それはわれわれの内における神のわざです」と記しています。世の人は信仰を心理学的に見ますから、私たちもその影響を受けて自分の信仰を、神のわざとして見ることを忘れてしまいがちです。「せっかく神様に目をかけていただきながら、いつまでたっても人と自分を比べてばかり……」という現実がないでしょうか。心理学的には、信仰と最も近いのは、恋愛感情かもしれません。そのとき人は、愛する人のことばかりを思い浮かべ、何をしたらその人に喜んでもらえるかを考えます。つまり、自分のものを守ろうとばかりするような内向きな生き方から無意識のうちに自由になっているのです。そのことを、嫌われ者の取税人ザアカイの生涯から考えて見ましょう。

1.ザアカイを捜し救ってくださったイエス

「それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった」(1節)とありますが、これはイエスが十字架にかかるためにエルサレムに向かう途中のことです。そこに、「ザアカイという人」が登場します。彼は、「取税人のかしらで、金持ち」でした(2節)。そして、理由はわかりませんが、「イエスがどんな方か見よう」という思いが強烈にありました。ただ、「背が低かったので」、「見ることができなかった」と記されます(3節)。その職業からしても、彼が嫌われ者であったことは確かです。当然、誰からも席を譲ってもらえません。それで、「前方に走り出て、いちじく桑の木に登った」ということまでしてイエスを見ようとしました(4節)。ここに、彼の熱心な求道の思いを読み取る方もいるかもしれませんが、それならば、「ちょうど……そこを通り過ぎようとして」おられたイエスを上から見下ろす場に自分を置くような失礼なことはしなかったのではないでしょうか。彼を支配していたのは好奇心かもしれません。これは、彼の人生を象徴しているような行為とも言えます。彼は、「ちびのザアカイ……」などと馬鹿にされながら育ったのではないでしょうか。社会から暖かく迎えられている人であったなら、取税人になどなろうとはしなかったはずです。彼は悔しさをばねにしてのし上がり、お金と権力を手にしました。そして、ここでも自分の居場所を確保するために、いちじく桑の木によじのぼりました。どちらも、人を見下げる立場に立ったということで共通しています。

ところが、「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて、『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから』」(5節)と言われました。イエスは多くの人々に取り囲まれていましたが、その中で一番失礼な態度をとっている人の名を呼ばれました。なぜザアカイの名を知っていたのでしょう。しかも、イエスは、厳密には、「わたしにはあなたの家に泊まる必要がある」とご自分の側の事情を言っておられます。まるで彼の家がご自身と弟子たちが休む上で最高の場であるかのような言い方です。しかし、実際は、イエスが上から見下ろしているザアカイの気配から、その深い孤独感ばかりか全生涯の痛みを瞬時に感じ取られ、そのまま通り過ぎることができなくなられたのではないでしょうか。イエスはそれを感じられながら、「あなたは闇の中に住んでいる……」などと彼の問題を指摘する代わりに、ただ、ご自身の必要として、彼の広い家に泊まりたい旨を伝えられたのです。これは、ザアカイには、想像だにしなかった名誉なことでした。

それで、「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎え」ました。ただ、これを見た人々は、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言って、「つぶやいた」というのです(6,7節)。人々の目には、これはイエスがザアカイの罪深さを見抜くことができていないしるしでしかなかったことでしょう。

しかし、ザアカイは、イエスが自分のすべてを知りながら受け入れてくださったということが分かり、その熱い愛によって氷のように冷たい心が溶かされ、イエスにもっと喜ばれる人間になりたいとすぐに決断し、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(8節)と約束しました。つまり、自分のためだけに生き、人よりも上に立つことばかりを考えていた人が、貧しい人の痛みを担う者となろうと、方向転換をしたのです。それを聞いたイエスは、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」と、彼の思いを全面的に評価し、喜んでくださいました。

その上でイエスは、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(10節)と言われました。ザアカイは自分の信仰によって救いを獲得したのではなく、イエスご自身が、失われたザアカイを探し出し、その名を呼び、彼の客となることによって、彼に人生の方向転換をさせたのです。救いの主導権は徹底的にイエスの側にありました。これは私たちすべてに当てはまる真理です。救いの主導権は、私たちの信仰以前に、イエスにあります。

しかも、「救いがこの家に来た」という「この家」は、「取税人のかしら」の「家」であり、税金を徴収し、計算する働きの現場、彼の手下たちが指示を受けている現場ではないでしょうか。ローマ帝国が世界に平和な秩序を保つためには、支配地から税金を集めるのは不可欠でした。それはユダヤ人にとっては汚れた仕事だったとしても、神の目には必要な仕事と見られたのではないでしょうか。必要なことは、この仕事をなくすことではなく、この働きが公平に正しく行われることでした。これは推測に過ぎませんが、ザアカイはこれからも取税人としての仕事をしたのではないでしょうか。ただ、それまでと異なり、イエスの眼差しを意識しながら誠実に行ったことでしょう。

2.「王位を受けて帰るため」とは?

そして、不思議なことに、「人々がこれらのことに耳を傾けているとき」、「イエスは、続けて一つのたとえを話された」というのです(11節)。つまり、ザアカイの話と、これからのたとえには深い関連があります。そこには、「イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていた」という誤解を正すという目的がありますが、その際、イエスがこの話をされたのは、ザアカイの家であるという場面設定が極めて大きな意味を持っています。当時の人々にとって、「神の国が……現れる」とは、ユダヤ人がローマ帝国からの独立を果たしてダビデ王国を再現することを意味しました。イエスの弟子たちは、イエスが「ダビデの子」である「王」として即位し、自分たちが大臣になり権威を発揮できることを期待していたことでしょう。しかし、イエスは、今、ローマ帝国の支配の手先である取税人の家でもてなしを受けているのです。彼らには到底理解できないことでした。

その中でイエスのたとえは、当時の政治状況を反映していました。ヘロデ大王の死後の紀元前四年頃、彼の二人の息子アルケラオスとアンテパスがローマに上って、それぞれ自分をヘロデ大王の後継の王にしてくれるように皇帝に訴えるということがありました。その際、アルケラオスの方が優位に立っていました。ですから、イエスが、「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった」(12節)と言われたとき、聴衆の心の中には、そのような具体的なイメージが沸きました。イエスはこのような生々しいたとえを用いながら、ご自分はエルサレムに上ってすぐに王として即位するのではなく、一度、天の父なる神のもとに行き、そこで名実共に王として即位し、栄光のうちにこの地に再び戻ってくるということを理解させようとしました。ヘロデ大王の息子たちにとってのローマ皇帝が、イエスにとっては天の父なる神なのですが、当面は、王権を発揮することができないという点では共通します。どちらにしても、目に見える神の国は、弟子たちの期待通りには実現することがなく、その間、弟子たちは矛盾に満ちたこの世界に取り残され、イエスから与えられた課題を行うことが期待されているのです。

そのような前提で、「彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った」(13、14節)と描かれます。ヘロデの息子のアルケラオスは自分の不在中のことをその家臣たちに委ねてローマに行きました。ただ、その間、実際に、ユダヤ人たちは皇帝に使いを送って、アルケラオスを王として認めないように嘆願していました。なぜなら、彼はエルサレムで三千人のユダヤ人を虐殺するという残虐行為を行っていたからです。つまり、留守中のことを任された「十人のしもべ」は王とのある意味での信頼関係があったように思われますが、「国民たち」はこの人を王とは認めないというのです。この点でも、イエスとアルケラオスとには共通点があります。イエスも、まったく異なった理由であるにせよ人々から拒絶されます。そして、イエスの弟子たちは、イエスを王として認めない人々の間で、イエスから任された働きをするように委ねられます。少なくともこの話を聞いていたザアカイとその仲間には、イエスのたとえは極めて現実的な意味を持っていたことでしょう。取税人は、ローマ皇帝によって立てられたユダヤの王(またはローマ総督)から任された仕事を行っていました。しかし、彼らが仕えるその王(または総督)は、ユダヤ人からは憎まれていました。人々から憎まれている王の手下として働くことは心地の良いことではありません。

私たちの場合、私たちが主と仰ぐイエスは、人々から憎まれてはいないにしても、この世界の王であるとは認められていません。「私は、王であるイエスのために働きます……」ということを理解してもらえない人々の間で、イエスの眼差しを意識して、イエスから任された働きをするように私たちは召されているのです。

3.報酬とさばき

イエスのたとえでは、この高貴な人は、アルケラオスとは異なり、きちんと王位を受けて帰国しました。その上で、「さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました』」(15,16節)と話が展開されます。一ミナというのは新改訳の脚注にあるように、当時の労働者や兵士の「百日分の労賃」に相当します。ですからたとえば、五十万円の元手で五百万円儲けたというようなことです。これは、かなりリスクを伴う投資を、知恵を使って行い、見事に成功したということでしょう。しかも、このしもべは、謙遜にも、この元本も儲けも、王のものであると認め、すべてを差し出しています。それに対して、主人は、『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい』(17節)と言われました。驚くべき報酬です。その後、二番目の者が来て、『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました』と、先ほどよりは少ないにしても、五倍もの儲けを得たということを、同じように主人のものであると謙遜に申し出ましたが、それに対しても主人は同じように、『あなたも五つの町を治めなさい。』という報酬を与えました(18,19節)。

ところが、「もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから』」と、先のふたりとは正反対の態度を取った人が登場します(20,21節)。彼は失敗を恐れてリスクの伴う投資ができなかったというのです。それは、主人が決して失敗を許さないばかりか、不当な要求を課す横暴な者であるかのように見ていたからです。これは、この主人を、アルケラオスと同じ種類の人間として見ていたということを意味します。

それに対し、主人は彼に、『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか』(22節)と言います。これは、主人が実際にそのような人間であるという意味ではなく、そのしもべが、主人を、そのように評価していたということを非難したものです。その上で、主人は、『だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』と言います。なお、ここで「銀行」というのは意訳で、厳密には、「(両替人や金貸し業者の)テーブル」と記されています。当時はまだ銀行などは存在しません。ただBankということばは、この「テーブル」または「ベンチ」に由来します。ここには、このしもべが主人を、高利貸しと同じ種類の人間と見ていることに対して、それなら同類の高利貸しにでも預けておけば良かったという皮肉を言ったものです。イエスのたとえに Bankの語源が出てくるのは本当に興味深いことです。

その上で、主人は、「そばに立っていた者たち」に、『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい』と言いました(24節)。これは彼が、そのしもべが見ていたと同じきびしい主人として振舞うことを意味します。イエスはマルコ4:24,25節で、十二弟子に向かって、「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます」と言われました。つまり、彼が持っている一ミナまで取り上げられたのは、彼が主人をそのように見ていた、その同じ量りが自分に適用されたという意味です。もし、彼が主人を寛大な人と見ていたとしたら、彼自身も寛大に取り扱ってもらうことができたのです。

ですから、ここでも、この様子を見ている人々が、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています』と言ったことに対し、主人は、『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです』と答えていますが、それは、主人への「信頼」を持っている者、私たちの場合は「イエスへの信仰」を「持っている者は、さらに与えられ」ということの一方で、この主人への「信頼」を持っていない者、つまり、「イエスへの信仰」を「持たない者」は、終わりの日には「持っているものまで取り上げられる」というのです。私たちがイエスをどのように見ているか、そのはかりで、私たちが終わりの日にはかられるのです。

このたとえと似たものが、マタイ福音書25章14-30節で、タラントのたとえとして出てきます。その結論は、ほとんど同じです。ただ、そこでは、「おのおのその能力に応じて」と記されています。しかも、そこに出てくる「タラント」は労働者15年分の給与に相当し、五タラント任された人は75年分の給与と言う途方もない金額でした(タレントということばはこれに由来します)。ここではそれぞれに百日分の給与に相当する一ミナだけが同じように任されています。ただタラントのたとえの場合は、金額を二倍にしただけなのに対し、ここでは十倍、五倍というはるかに高い収益が上げられます。どちらにしても、共通しているのは、任された資産を積極的に運用することが求められていたということです。このたとえで明らかなように、イエスは商売や投資でお金を増やすことを喜んでおられます。

しかも、このたとえの最後では、「ただ、私が王になることを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の前で殺してしまえ」(27節)というきびしいさばきが記されます。それは、イエスを十字架にかけようとしているユダヤ人に対する神のさばきを預言することばでもあります。これから四十年後のエルサレムに、この警告がそのまま実現しました。イエスを拒絶したユダヤ人は、神殿も国もすべてを失ってしまったのです。ですから、イエスの厳しい警告には、ご自身を憎む者たちへの愛が込められているのです。イエスのことばを信じた人々は、エルサレムが滅びる前に逃れることができました。世の終わりにも同じことが起こります。そのときになって後悔しても、イエスを信じなかった者は、救われようがないのです。

ところで、アルケラオスの場合は、ユダヤを平和に治めることができたら正式な王とするという条件つきでローマ皇帝からユダヤの支配を九年間任されましたが、彼は自分に反対したユダヤ人に復讐を果たしてしまい、その結果、ローマ皇帝の信頼を失い、幽閉され、失意のうちに死にました。アルケラオスの場合は、国の支配を一時的に任されながら、「持っている物までも取り上げられ」ました。それは彼が、神と人との信頼関係を築くという神の賜物としての「信仰」を持っていなかったからです。私たちはみな、非常に危ういところに立っています。最終的に、どのような栄華のうちにあったとしても、創造主である神との信頼関係を築くことができなかった者は、すべてを失います。しかし、何も持っていないようでも、イエスとの生きた関係を「持っている者は、さらに与えられ」ます。

ここに登場する王が十人のしもべに等しく一ミナずつ預けたように、イエスは私たちにはひとりひとりに、まったく同じ神の霊、聖霊を与えてくださいました。その際、「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ5:19)という命令を聞きます。御霊は私たちに五倍、十倍の実を結ばせてくださいます。御霊は、それぞれの心の内側に、王なるイエスへの信頼を与え、失敗を恐れず、大胆にイエスの父なる神が支配する国のために生きるように励ましてくれます。それは、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8:15)と記されている通りです。ただ、そのとき、御霊をふろしきに包むようなことをしてしまうなら、すべてが悪循環になります。そこには神への不信が生まれます。そして、神の怒りを買うような行いをかえって行うことになりかねません。私たちは、預けられた「御霊を消す」ことなく、御霊によって生きるように召されています。それは人間的な尺度を越えた、神のみわざの中に生きることです。