イザヤ44章24節〜46章13節「期待はずれの現実の中に神の救いを見る」

2008年5月18日

大地震やサイクロン被害など、「神がおられるなら、なぜこんなことが・・・」と思える悲惨が次から次と起こっています。しかし不思議に、そのような中にこそ、人の勇気や善意が輝いて見えるということもあるのではないでしょうか。問われているのは、様々な痛みへの対応の仕方です。先日、私は肩を痛めてしまいましたが、運動の専門家から、「身体が歪むことがないように、痛みに耳を傾けながらも、周辺の筋肉を鍛え、新しいバランスを目指すように・・」と助言をいただきました。これは、期待はずれの現実への対処法を示唆する一般原則となりそうに思えました。

1. 「わたしは主(ヤハウェ)、これらすべてを造る者」

イザヤは北王国イスラエルがアッシリヤ帝国に滅ぼされた直後、ユダとエルサレムも国を失う苦しみを通して回復するという希望を告げますが、不思議にもここに、イザヤの死後、約150年たって登場するペルシャ帝国の王の具体的な名が記されます。多くの学者は、これを記したのはイザヤよりずっと後の人物であると言い切りますが、そのような一見合理的な解釈は、この預言を無意味なものにします。しかも、ここには「クロス」という王の名の他は、具体的な救いのプロセスは何も記されていません。後の時代の人なら、もっと別の書き方ができたのではないでしょうか。しかも、現実には、ユダヤ人はエルサレム神殿を失いバビロンに捕囚とされるという絶望を通して神の民として整えられました。それは、彼らが、自分たちを具体的に救ってくれたクロス大王の背後にイスラエルの神、主(ヤハウェ)を認めることができました。それは、イザヤの預言があったからこそ可能になったとはいえないでしょうか。

44章24節は、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる」という書き出しとともに、「その方は、あなたを贖い、あなたを胎内で形造った」と紹介され、その方のことばが、「わたしは主(ヤハウェ)、わたしはすべてを造った。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただわたしだけで、地を押し広げた」と記されています。そして、45章7,8節それぞれの終わりで、それとほぼ同じ意味をもつことばが、「わたしは主(ヤハウェ)、これらすべてを造る者」、「わたしは主(ヤハウェ)、わたしがこれを創造した」と繰り返されます。そのような枠の中で、44章28節と45章1節で、エルサレムとユダを解放し再建する王の名が、「クロス」と紹介されます。それと同時に、主は、「わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる」(44:26)と、ご自身が預言者にことばを授け、それをご自身が成就するという原則を強調されます。主ご自身が、ユダの町々の再建、廃墟の復興を導き、帰還を妨げる海(淵)や川々を支配しておられるのです(26,27節)。その上で、「クロス」が、第一には、「わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる」(44:28)者として紹介されます。なお、「エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う」のは、主である前に、クロス自身であると解釈できます。事実、エズラ記の初めには、エルサレム神殿の再建を、ペルシャの王クロスが主(ヤハウェ)の霊に動かされて命じたということが記されています。

そして45章1節では、「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。油そそがれた者、クロスに」と記されます。そして、そのクロスについての説明が、「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じないようにする」と描かれます。彼はペルシャの王であり、異教徒であり、偶像礼拝者です。その彼を、主ご自身が世界の王としての任職の油を注ぎ、彼を通して世界を支配するというのです。

そして、2節から7節は、主(ヤハウェ)ご自身からクロスへの語りかけのことばです。その第一は、「わたしはあなたの前に進んで・・・」と、クロスの進軍の道を開くということです。そして、第二は、「わたしは・・財宝と・・・宝をあなたに与える」というものです。そうされるのは、「わたしが主(ヤハウェ)、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ」とあるように、主ご自身がクロスの名を呼んで召し出したこと、また主がイスラエルの神であるということを、クロス自身が認識できるようになるためです。つまり、主は、イスラエルを救い出すという目的のために、クロスの名を呼ぶというのです。しかも興味深いことに、「あなたはわたしを知らないが・・」と4,5節で繰り返しながら、「あなたに肩書きを与え・・力を帯びさせる」と言われます。つまり、クロスは、自分が誰によって立てられ、誰によって力を与えられているかをまったく知らないままに主の働きのために用いられているというのです。

たとえば、自分の生涯を振り返るときに、私が主を知る前から、主が私の名を呼び、私を導き、私を通してご自身のみわざを進めておられたと思えるときがあります。つまり、不信仰な者をさえ、主は用いることができるのです。私たちの信仰とは、その事実に気づくということに他なりません。多くの信仰者は、「私は信仰が弱いから、主は私を用いることができないのでは・・・」と自分を卑下しますが、信仰の出発点とは、バプテスマのヨハネが言ったように、「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる」ということを信じることです(マタイ3:9)。自分の信仰に頼るのではなく、力を抜いて主の真実にゆだねること、自分を忘れることこそが出発点です。

自分の信仰如何に関わらず、主のみわざが進むということを知るとは、この世界が自分の期待通りには進まないことを受け入れることでもあります。そのことを、主ご自身が、「わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主(ヤハウェ)、これらすべてを造る者」(7節)と言われます。私たちは、明日の自分に何が起こるかを知らなくても、明日を支配しておられる主ご自身が、この私を高価で尊いものと見てくださるということに信頼することができるので、目の前の「やみ」や「わざわい」の中でも、誠実な生き方を全うする勇気を持つことができます。また、これは同時に、私自身がイスラエルのように罪深く、自業自得で苦しみに会っているとしても、主は、クロスのような異教徒を用いてさえ、私たちを救い出すことができるということを信じることでもあります。

「天よ・・・雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義をともに芽生えさせよ。わたしは・・・」(8節)とは、主ご自身が、天と地に語りかけて、イスラエルのために救いを、そして正義を実現してくださるということです。私は無力でも、主はこの世界のすべてを導いて、この地に正義と平和を実現してくださいます。ですから私はこの世の様々な不条理にいきり立って、不条理を引き起こす人々に怒りを燃やす必要はありません。

2.「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神」

イスラエルの民が期待した「救い」は、ダビデのような王が再び現れ、自由と繁栄を実現してくれることでしたから、主が異教の王を用いてエルサレム神殿を復興するというのは受け入れ難いことです。それは、イスラエルがなおも外国の支配に屈するままに置かれることを意味するからです。しかし、そのような不満は、陶器が陶器師に抗議したり、粘土が形造る者に「何を作るのか」と言い、また、子供が父や母に、「どうして自分を産んだのか・・・」と抗議することと同じく、愚かで無意味な疑問であると説明されます(9,10節)。私たちも、自分の創造主に対して、「これから起こる事を・・・尋ねようとする」ことも、「命じる」こともできません(11節)。ただ、主がすべてのことを支配し、異教の王のクロスを用いて「捕囚の民を解放する」(13節)という期待はずれの救いを受け入れるしかありません。しかも、そこに何らかの裏取引があるわけもなく、すべては主のみこころのままに進んでいるというのです。

14節では、エジプトやその南のクシュとセバがイスラエルに服従する様子が語られますが、これはイスラエルが北からのアッシリヤやバビロンの攻撃に対して、常に、南のエジプトの力に頼ろうとしていたことの愚かさを指摘する意味があります。彼らはそのときエジプトを自分たちの救い主かのように求めたのですが、エジプトの方から反対に、「神はただあなたのところだけにおられ・・・ほかに神々はいない」と告白するようになるというのです。

その上で、「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神」(15節)という不思議な記述がなされます。エルサレムの再建は、人間の目には、ペルシャの王クロスの働きであって、主の救いとは見られないからです。同じようなことが私たちの日常生活に起きています。主は、ご自身をこの世で起こる様々な出来事の背後に隠しておられます。ですから、人々が「神がおられるなら、なぜこのようなことが起こるのか・・・」と思うのは当然です。そのような中で、人々は偶像礼拝に走りますが、彼らは恥を見ることになります。しかし、この方は、「地を・・・茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方」であり、その方は、「わたしは隠れた所、やみの地の場所で語らなかった。荒地(茫漠の中)で、ヤコブの子らにわたしを尋ね求めよと言わなかった」と記されます(18、19節)。この中心は、「むなしく(茫漠に)創造せず・・・むなしさ(茫漠)の中に・・尋ね求めよとは言わなかった」と訳すことができます。それは、神が初めに世界を豊かに創造され、人の罪で混乱させられた世界をなおも導き完成してくださるという神の善意を、私たちはみことばの中に見ることができるという意味です。また、「ご自身を隠す神」は、「隠れた所、やみ・・で語らなかった」という表現によって、ご自身を隠す神は、みことばを通してご自身を現されたという事実がかえって強調されます。「みことばは、あなたのごく身近にある」(申命記30:14)からです。

そして、主は、今、私たち地のすべての者に対して、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」(22節)と語りかけておられます。しかも、「すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は・・・『ただ、主(ヤハウェ)にだけ、正義と力がある』と言う」という表現を、パウロは言い換え、「すべてがひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10,11)というキリスト賛歌を記します。それは、イエスこそが、すべての者が仰ぎ見て救われるべき主(ヤハウェ)であるという意味です。

世の人々は、この世的な成功や繁栄の中に、神を見出したいと願います。しかし、そのような人々に対して、主は「ご自身を隠され」ます。それに対し、パウロのキリスト賛歌では、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・・自分を卑しくし・・・十字架の死にまでも従う」という中に、神の栄光が現されたと歌われます(ピリピ2:7,8)。パウロの宣教によって生まれたピリピの教会には分裂がありました。それで彼は、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」と言いつつ、キリストの姿に習うように勧め、そこからこの賛歌が生まれました。そして、その書き出しは、「キリストは神の御姿であるので、神のあり方を捨てることができないとは考えず」と訳すべきでしょう。つまり、キリストが神であることは、何よりも、アダムとは逆に、自分を低くする自由があるという中に見られるというのです。たとえば、ハワイのモロカイ島には、今から百三十年余り前、ハンセン氏病の方が隔離されていましたが、そこにダミアン神父がひとりで入り込み、彼らの世話を始めました。彼はやがて自分自身が感染しますが、それによってかえって、この働きに献身する人々が次から次と起こされました。その島を後にアメリカの小説家スティーブンソンがこの島を訪ねたとき、このような詩を残しました。

「ライの惨ましさを一目見れば、愚かな人々は神の存在を否定しよう。

しかし、これを看護するシスターの姿を見れば、愚かな人さえ、沈黙のうちに神を拝むであろう」

つまり、神の栄光は、世界から不条理な病や悲惨がなくなるということよりは、自分の利害を超えて人に尽くすことができるという心に現されるのです。世界が自分にとって都合良く動いて欲しいと願う中から、際限のない自己主張と争いが生まれますが、まわりの状況に左右されない心の平安からは、この地の平和が始まります。

3.「あながたがたしらがになっても、わたしは背負う・・・わたしは背負って、救い出そう」

46章に記された、「ベルはひざまずき、ネボはかがむ」とは、バビロン帝国の主神である「ベル(バアル)」とその息子で知恵の神である「ネボ」が、荷車に載せられ、荷台の動きに合わせ、ひざまずいたりかがんでいるように見える様子を皮肉った表現です。これらの偶像は、人を救うどころか、「疲れた獣の重荷となる」ことしかできません。

それと対照的なのが、イスラエルの神、主(ヤハウェ)です。主(ヤハウェ)は、荷物として運ばれるような方ではなく、反対に、ご自分の民を担い(荷物と同じことば)、運んでくださる方です。なお、「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ」(3節)とは、バビロン捕囚という苦しみを潜り抜けてきた民を指します。そして、「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ」とは、この苦しみのときを、主ご自身が守り通してくださったという意味です。そして、4節においては五回にわたって「わたし」という代名詞が敢えて用いられ、イスラエルの残りの者を守り通したのが、主ご自身の働きであることが強調されながら、「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あながたがたしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」という全能の主の断固な意思に基づく約束が記されています。

多くの人に親しまれている「フットプリント」という詩は、このみことばをもとに作られました。そこで著者は神に「私の人生でいちばんつらく、悲しいとき・・・、あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、私にはわかりません・・」と訴えましたが、そのとき神は、「わたしの大切な子よ・・・足跡がひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた」と語られたというのです。その神の足跡を、霊の目で見るときに、私たちの人生は変わります。

その上で、主は改めて、「わたしをだれになぞらえて比べるのか・・・」(5節)と、偶像とイスラエルの神、主(ヤハウェ)を比べる者の愚かさを指摘します。当時は、それぞれの国ごとにあがめられている神が違いました。そして、バビロンが中東世界を統一したときにはベルがあがめられ、ペルシャ帝国が支配したときにはアフラ・マズダーがあがめられました。この神は、自動車会社マツダの英語名がmazdaと記される謂われであるとされ、またペルシャ帝国で栄えたゾロアスター教は、現存する世界最古の宗教の一つと呼ばれます。19世紀の哲学者ニーチェはこの教祖の名のドイツ語読みツァラトゥストラを用いて独自の哲学を主張しました。当時の感覚では、イスラエル王国の滅亡は、イスラエルの神、主(ヤハウェ)の敗北ととらえられ、ペルシャ帝国のもとでエルサレム神殿が復興することは、イスラエルの神、主(ヤハウェ)が、アフラ・マズダーのあわれみを受けていると解釈されました。しかし、イスラエルの神の特徴は何よりも、金や銀で目に見える姿に表現してはならないという点にあり、それは主(ヤハウェ)が目に見えるすべての世界の創造主であり、支配者であることの現れでした。「イスラエルの神・・はご自身を隠す神」であるとは、目に見える成功や繁栄ばかりを求めるご利益宗教と対極にある教えです。しばしば新興宗教は絢爛豪華な礼拝堂の魅力によって人を引きつけようとしますが、その本尊は、罪と死の支配から人々を解放することはできません。そのことが、「これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない」(7節)と言われます。今、主は、ご自身を、この貧しい会堂の中というよりは、あなたがたお一人お一人の身体をご自身の住まいとしてくださいました。目に見える姿に描かれることを拒絶された神は、今、あなた自身の生き様を通して、ご自身を表そうとしておられるのではないでしょうか。パウロは私たちを、「キリストの手紙」であると呼びました(Ⅱコリント3:3)。とにかく、ペルシャの王クロスのお情けによって国を復興できたユダヤ人が、ゾロアスター教を初めとする当時の宗教を断固拒絶して、イスラエルの神、主(ヤハウェ)をのみ礼拝する民になったということは人間的には奇跡です。それは、イザヤの預言が、挫折体験を通して初めて、ユダヤ人の残りの民に届いた結果です。

8,9節では、「思い出せ」という命令が繰り返されています。「そむく者らよ。心に思い返せ」とは、神に立ち返ることは、歴史に表された神のみわざを思い起こすことから始まるからです。「遠い大昔の事を思い出せ・・・」とは、アブラハムへの約束がひとつひとつ成就したからです。「わたしは、終わりの事を初めから告げ」とは、創世記の冒頭の「初めに、神が天と地を創造した」という記事に、既に、「新しい天と新しい地」の創造の事が示唆されているからです。そして、このイザヤ書には「終わりの事」が繰り返し明らかにされています。また、「まだなされていない事を昔から告げ」とありますが、これから起こるバビロン捕囚のことは、その六百年前のモーセによって既に預言されていたことでもありました。そして、「わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる」(10節)と言われる神のご支配の中で、「東からの猛禽(わし)」としてのクロス王を、「わたしのはかりごと」を行う者として呼ぶというのです。これはたとえば、あなたを助けるために、主は、創価学会の代表者をさえ用いることができるという意味です。パウロはあの皇帝ネロの時代に、「人は、みな上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13:1)と言いました。神が歴史を支配しておられるとは、神はこの世の政治をも支配しておられるということを意味します。

そして最後に、「わたしに聞け」とイスラエルの民に向かって語られます(12節)。それは外国の王のもとでの平和という屈辱的な現実の中に、目に見えない神のご支配を見るようにとの勧めです。「わたしは勝利を近づける・・わたしの救いは遅れることはながない。わたしは・・イスラエルにわたしの光栄を与える」(13節)とは、神がもたらしてくださる「救い」は、私たちの常識や期待をはるかに超えたものであるということを意味しています。

「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神」というみことばは、旧約と新約をつなぐ鍵です。イエスを十字架にかけた人々は、ローマ帝国の支配に不満を覚え、目に見えるダビデ王国の実現を待ち望んでいた人々でした。イエスを支持していたユダヤ人の群集も、イエスが無抵抗にローマ総督のもとに引き出されたこと自体に失望し、それが怒りに代わって、「十字架につけろ!」と大合唱をしました。イエスがダビデの子なら、ローマ帝国からの独立運動を導く勝利者になるはずだと思われたからです。当時の人々が、神は異教徒の国ペルシャ帝国の大王クロスを用いてエルサレムを復興したということを心から理解していたなら、その後、ローマ帝国に逆らう独立戦争を起こしはしなかったでしょうし、ユダヤ人が二千年間の流浪の民になる必要もありませんでした。人の心の中に生まれる理想は、しばしば、絶え間のない争いの原因になります。宗教戦争も、そこから生まれます。私たちも、今、ここで、期待はずれのままの現実に中に、神の救いを見出すことができるなら、この世界にさらなる争いが起きるのを防ぎ、私たちのまわりに神の平和が広がるのを見ることができるのではないでしょうか。