2008年3月31日
メッセージをしながら改めて思わされたイザヤ書の面白さがあります。それは目の前の危機的状況の解決から、「新しいエルサレム」へのイメージが膨らむということです。それは、たとえば、「祈りが聞かれた」というひとつの体験が、「私はもう天国にいるも同然!」という感動に結びつくようなものです。確かに目の前には、なお問題が山積してはいます。しかし、永遠のいのちを受けたものにとっては、すべての問題は、神の栄光を見させていただけるチャンスへと変えられています。それが、今、私たちが新約の時代に生かされているという恵みです。残念ながら、私たちに与えられた救いの偉大さを味わう前に、義務を果たすようにと駆り立てられている信仰者が多いように思えます。私たちは、今、預言者イザヤが夢見た救いの時代にすでに入れられているというイメージを膨らませることができるような福音が語られる必要を感じさせられています。
「私たちは、キリストによって救われました」と福音的な信仰者は言いますが、その「救い」とは何を意味するのでしょうか?イザヤ書には驚くほど多面的な「救い」の表現があります。心に落ちる表現を探してみましょう。
28章から35章には六回にわたって、「ああ」という主の嘆きが記されています。それは28章1節、29章1節、29章15節、30章1節、31章1節、33章1節です。つまり、31、32章が第五番目の「ああ」という主の嘆きとしてもまとまり、また33章から34章が第六番目のまとまりと考えられます。それらの箇所では、主がご自身のみこころを痛めながら国々をさばく様子が記されています。そして、35章は、さばきが完了した後の、喜びと希望の歌です。バプテスマのヨハネが獄中から弟子を派遣して、イエスに、「おいでになるはずの方は、あなたですか」(マタイ11:3)と尋ねたとき、主は、「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」と言い送りました(同11:4-6)。それは明らかにイザヤ書35章を意識してのことばであり、ご自身こそがこの預言を成就し、新しい主の恵みの時代をもたらす救い主であることを語ったものでした。私たちもかつては、主が「ああ」と嘆いたような存在でした。その私たちにどのような意味での「救い」が実現したのでしょう?
1.「あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ」
31章では、まず、北からのアッシリヤの攻撃に対して、「助けを求めてエジプトに下る者たち」へのさばきが述べられます(1節)。彼らは、「イスラエルの聖なる方に目を向けず、主(ヤハウェ)を求めない」からです。目に見える力は人々の心を魅惑します。しかし、主に逆らう者は、「みな共に滅び果てる」(3節)ことになるというのです。
4節ではアッシリヤ帝国が「獅子」または「若獅子」にたとえられています。獅子が羊の群れに向かってほえるとき、牧者が集められますが、獅子は牧者の声に、脅かされたり、動じたりすることはありません。それと同じように、エジプトが助けにきてもアッシリヤはひるむことはないというのです。「そのように、万軍の主(ヤハウェ)は下ってきて、シオンの山とその丘とを攻める」とは、アッシリヤによるエルサレム攻撃の背後に主ご自身がおられるという意味です(10:5,6参照)。ただ、同時に、エルサレムが滅亡の危機に瀕するそのときに、突然に方向を変え、「万軍の主(ヤハウェ)は飛びかける鳥のようにエルサレムを守り・・これを助けて解放する」というのです(5節)。つまり、主はエルサレムを攻撃する方であり、同時に、守ってくださる方でもあるというのです。日本人の宗教観では、幸いをもたらす神とわざわいをもたらす神の両方がおり、それぞれの神々に役割分担があるかのようです。しかし、主はかつてモーセを通して、「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」(申命記32:9)と言っておられます。「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出る」(哀歌3:38)のであれば、何かの問題に直面したとき、その解決策をいろいろ考える前に、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(申命記6:5)という原点に立ち返ることが求められています。つまり、主の御前に静まり、主との関係を見直し、主にすがることがすべてに先立つべきなのです。
そのことを前提にして、「イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ」(6節)という悔い改めの招きが記されます。そして、「その日・・」とは、イスラエルが主に立ち返って、「偽りの神々を退ける」という日ですが、その日に、「アッシリヤは人間のものではない剣に倒れる」(8節)という主の奇跡的な介入がなされ、アッシリヤが退却するというのです。このことはまもなく現実のこととして起きます。主は何よりも信仰的な浮気を嫌われます。聖書の神を信じていると言いながら、同時に、まるで保険をかけるように他の神々のご機嫌を取ろうとしたり、またこの世の権力者に媚を売ったりするようなことは、自分で自分の首を絞めていることになります。
2.「ついには、上からの霊が私たちに注がれ」
32章では、「見よ。ひとりの王が正義によって治め」という預言から始まります。これは9章、11章にあった救い主預言と基本的に同じです。イスラエルの堕落は指導者たちが私利私欲に走ったことから始まりましたが、預言された王が登場するとき、指導者たちは「みな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになる」(2節)というのです。そのとき、「見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる」(3、4節)というのです。たとえば、日光東照宮にある「見ざる、言わざる、聞かざる」の本来の意味は、「悪いことを見たり、聞いたり、言ったりしない」ことの勧めだったようですが、これが、権力者の意に沿わないことを「見たり、聞いたり、言ったりしない」という呪縛の効果を持ったような面がないでしょうか。キリストが支配する世界では、権力者や人の批判を恐れる必要はありません。私たちはこの世の悲惨にも「目を閉ざす」必要もなく、面倒な話にも「耳を傾け」、この世界をより良くするために言うべきことは「はっきり語る」ことが許されます。これは現代の教会において成就していることです。私たちが、互いをしっかりと見つめ合い、互いの痛みを聞き合い、本音で語り合うことができるという安心がどれほど大きな恵みかを忘れてはなりません。
「しれ者」(5節)とは、原文で「ナバル」(アビガイルの夫の名と同じ)と記されています。「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」(詩篇14:1)と記されているのと同じ心の状態で、「愚か者」と訳されることばです。残念ながら、「愚か者」が王となり、「高貴な人」と呼ばれることから国の堕落が始まります。その「しれ者(愚か者)」の問題は6節で改めて描かれ、「愚か者は愚かなことを語る」という語呂合わせの後で、「主(ヤハウェ)に向かって、迷いごとを語る」と描かれます。この部分は新共同訳では「主について迷わすことを語る」と訳されていますが、その方が文脈にあっていると思われます。「愚か者」が指導者になるとき、人々の信仰が堕落してしまいます。しばしば、この世の基準で頭が良いと見られる人が、主の前でのとんでもない「愚か者」である場合があります。そして、それこそ神の民にとっての悲劇となります。また、しばしば、国が乱れる大本は、王の側近に「ならず者」がついて「上流の人」と呼ばれることから始まります(5節)。「ならず者」は、権力者に媚びへつらって自分の地位を得ますが、彼らは、7節にあるように、「貧しい者」や「身分の低い者」に対しては極めて横暴に振舞い、彼らを虐げます。
これらと対極にあるのが「高貴な人」(8節)です。それは出生の良さよりは、神を恐れ、自分の命に代えてでも社会的弱者を守ろうとする真の指導者としての生き方を指します。私たちもキリストにあって高貴な人とされているのですから、「高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする」と言われる者でありたいものです。
9節から14節までは、「のんきな女たち」や「うぬぼれている娘たち」への警告が記されていますが、原文では、それぞれ、「穏やかな女」「安心している娘」と、一般的には美徳と見られることばで表現されています。穏やかで心に安心感を持っている女性は、人との交わりを豊かにしてくれますが、半面、国が危機的な状況に陥っているときには対処を誤らせる力にもなります。ですから、ここでは、主ご自身が、「立ち上がって、わたしの声を聞け・・わたしの言うことに耳を傾けよ」(9節)と訴えています。そして、彼女たちに、「おののけ」「わななけ」「胸を打って嘆け」と訴えられています(11,12節)。それはエルサレムに危機的な状況が迫っていることを覚えさせるためです。私たちも「穏やかさ」が「のんき」にならないように、また「安心」が「うぬぼれ」にならないように注意すべきでしょう。
15節から20節では、それと対極の平和と繁栄の様子が描かれていますが、その始まりは、「上から霊が私たちに注がれ」るという神の一方的なめぐみのみわざです。現代の新約の時代は、このイザヤの預言が成就し、私たちのうちに神の御霊が宿ってくださったときです。「荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。公正が荒野に宿り、義は果樹園に住む」(15,16節)とは、この地に「エデンの園」が回復されることを指すと思われます。エデンの園は人の罪によって失われましたが、終わりの時代に主は、人にご自身の霊を授けることからこの地に祝福を回復されるというのです。それは人間の力ではなく、神の一方的な恵みとして実現することです。私たちに「上からの霊が注がれた」ということがどれだけ偉大なことかを忘れてはなりません。私たちはすでにエデンの園の入り口に立たせていただいているのです。「永遠のいのち」とは、その祝福が保障されたということを意味します。なお、ここで、「わたしの民は・・・安らかないこいの場に住む」(18節)とありますが、私たちが真の意味で、穏やかで安心していられるためには、自分がどなたに属する民なのかをいつも覚えている必要があります。
なお、19節では、神を忘れた国々の繁栄の危うさが、「あの森」「あの町」として描かれます。イザヤ書では、神のさばきと神の祝福が繰り返し交互に描かれます。私たちはその両面をいつも心に留める必要があります。
3.「今、わたしは立ち上がる」と主(ヤハウェ)は仰せられる
33章では、神の民を虐げる国々へのさばきとエルサレムへの祝福の約束が交互に描かれます。1節は特に、アッシリヤがエルサレムからの貢物を受けながら、裏切って攻撃をしかけてくることが非難されていると思われます(Ⅱ列王記18:14-16参照)。そのような中で、突然、「主(ヤハウェ)よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます」(2節)という信仰告白が記されます。これは外交交渉が失敗に終わり、「万策尽きた・・」という状況になって初めて、主に必至にすがる様子です。そのとき、主は、「あなたがたの分捕り物は・・・集められ」(4節)と、大国に貢物を贈っていた国が、反対に、その軍隊があわてて逃げた後に残した物で豊かにされる様子が描かれます。それは、「主(ヤハウェ)はいと高き方で、高い所に住み」(5節)とあるように、主こそが「王の王。主の主」として世界を支配しておられるからです。そのことを前提に、「主(ヤハウェ)を恐れることが、その財宝である」(6節)と述べられます。世の人は富を求めるのが常ですが、私たちは、主こそがすべての富の源であることを告白します。
「見よ。彼らの勇士たちはちまたで叫び、平和の使者たちは激しく泣く」(7節)とは、アッシリヤとの和平交渉が失敗し、北王国イスラエルも滅亡したからです。そのような危機的状況の中で、「今、わたしは立ち上がる・・・今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう」(10節)と主ご自身が語られます。これは、ご自分を隠しておられた神が、「今」と三回繰り返しながら、誰の目にも分かるような形でご自身の力を表されるということを宣言されたものです。そして、その結果として、アッシリヤの計略が「枯れ草をはらみ、わらを産む」ような無駄な労苦に終わり、「あなたがたの息はあなたがたを食い尽くす火だ」(11節)と言われるような自滅に至ることが記されます。私たちの目にも、神に逆らう者たちが勝ち誇り、主がご自身を隠しておられるようにしか思えないときがあります。しかし、主は、やがて、「今、わたしは立ち上がる」と仰せられるときが必ず来るのです。たとえば、黙示録ではハルマゲドンでの戦いは、神に逆らう勢力が大結集するときですが、その直後に、「事は成就した」という神の勝利の宣言がなされます(16:14-17)。つまり、世界の終わりと思えるときこそ、神の民にとっての勝利のときなのです。
そして、「遠くの者よ。わたしのしたことを聞け」(13節)と異教の国々がイスラエルの神のみわざを聞くと同時に、「近くの者よ。わたしの力を知れ」と、エルサレムの住民に向かって語られます。14節で「罪人たち」とは、「神を敬わない者」と言い換えられています。彼らは、このときになって、「焼き尽くす火」「とこしえに燃える炉」のさばきを恐れるようになるというのです。それに対して、「正義を行う者、まっすぐに語る者・・・」は、敵の攻撃の届かない要害に住みながら、パンと水が確保されるというのです(15,16節)。私たちの現実の生活の中では、主を恐れようと、身勝手に生きようと、その結果に変わらないと思われるときがあります。しかし、この世の快楽をすべて味わった者が見た真理とは、「結局のところ、もう、すべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」(伝道者12:13,14)という一点にあります。私たちの誠実は必ず報われるということを覚えていたいものです。
「あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る」(17節)とは32章1節に記されていることと同じです。そのとき、人々は、敵の勢力の強さや横柄さ、理解し難さを思い起こしながら、目に見える人間よりも、イスラエルの神、主(ヤハウェ)をこそ恐れるべきであることを悟るのです。そして、主の救いが、「私たちの祝祭の都、シオンを見よ」(20節)と描かれますが、興味深いのは、「そこには多くの川があり、広々とした川がある」と描かれていることです(21節)。山の上にあるエルサレムに川が流れるというのは地理的にはあり得ないことですから、これは世界の完成のときに実現する「新しいエルサレム」を示唆するものです。そして、そこにおいては、「主(ヤハウェ)」ご自身が、「さばく方」「立法者」「王」であるというのです。しかも、「そこに住む者は、だれも『私は病気だ』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される」(24節)という神の民としての完成の姿が描かれます。つまり、17節から24節の表現は、黙示録22章につながるものといえましょう。そこには、「いのちの水の川」が流れ、その両岸には、諸国の民をいやす「いのちの木」が生え、「もはやのろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」と約束されています(1-4節)。
イザヤは、アッシリヤに対する主の勝利の話を、この世界のゴールに結び付けて話しています。私たちの場合も、この世で味わう様々な主のめぐみのみわざは、すべて「新しい天と新しい地」の前味のようなものです。
34章は、国々に対する主のさばきが述べられます。これは33章の初めで、「ああ」と描かれた神のなげきの具体的な現れです。「主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し・・・」(2節)とは何とも残酷な表現ですが、これは今から三千年近く前の人々に分かりやすい表現でした。戦争で負けた側が絶滅されるのは常識だったからです。現在の私たちが3-7節にあるような血なまぐさい情景に、嫌悪感を覚えるのは、イエス・キリストの教えが世界に広まり、いのちの尊厳をおぼえることができるようになった結果といえましょう。
ここでは特に、エサウの子孫であるエドムに対するさばきが生々しく描かれています。それはエドムが兄弟であるヤコブの子孫を繰り返し迫害し、裏切り続けてきたことへのさばきです。「それは主(ヤハウェ)の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である」(8節)とあるように、主ご自身が私たちの訴えに耳を傾け、さばきを下す日です。そして、主の復讐を信じることは、私たちがこの世界で平和のために生きることと表裏一体のことでもあります。パウロは、「あなたがたは自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」と勧めました。それは、神が復讐してくださるということを信じる結果として、「もしあなたの敵が飢えたら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい」という教えを実行できるということなのです(ローマ12:18-20)。そして、そのときあなたの敵は燃える炭火を頭に積まれたようにあわてだし、その人の心も変えられるというようなことが起こりえます。またイエスご自身も、神の厳しいさばきを目の当たりに見ておられたからこそ、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られたのです。さばきのないところには赦しもあり得ません。
「エドムの川がピッチに、その土が硫黄に変わり・・・」(9節)とは、天からの火で焼かれたソドムとゴモラに対するさばきを思い起こさせる表現です。そして、そこが廃墟となる結果として、11-15節には廃墟を住まいとする忌み嫌われる動物の名前が出てきます。その上で、「それは主の口が命じ、主の御霊が、これらを集めたからである・・」と、繁栄を極めた町が、忌み嫌われた動物のねぐらとなることが、主のさばきのあらわれとして強調されます。エデンの園で、女が善悪の知識の木の実に手を伸ばしたのは、「それを食べるなら必ず死ぬ」という神の警告を、文字通り受け止めなかったからです。神のさばきを甘く見る者は、自分で自分を滅びに向かわせています。
4.「見よ。あなたがたの神を・・・神は来てあなたがたを救われる」
35章は34章とは対照的に、主の救いが美しく描かれています。ここには、出エジプトやバビロン捕囚からの帰還がテーマとして記されていると思われます。これは同時に、「新しいエルサレム」への旅の途上にある私たちにとっての慰めと希望でもあります。イスラエルの民が荒野を旅して約束の地に導かれたように、私たちも愛が欠けている不毛な世界を旅しますが、その途上で不思議な主の救いを体験することができます。
「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる・・・」(1節)とは、何と美しい情景でしょう。「サフラン」の原文はクロッカスや薔薇とも訳されることがあり、雅歌で「私はシャロンのサフラン(薔薇)」(2:1)と言われるのはキリストを示唆すると伝統的に解釈されます。荒野に小さな花々が咲き誇るのは何とも喜びに満ちた救いの表現です。「主(ヤハウェ)の栄光」「神の威光」が、このような花として表現されるのは極めて異例と言えましょう。
「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ」と言われ、また心騒ぐ者たちに、「強くあれ、恐れるな」と言われることは(3,4節)、決して、弱さや不安を否定することではありません。これは常に、「見よ。あなたがたの神を・・・神は来てあなたがたを救われる」(4節)という約束とセットで受け止められる必要があります。弱さや不安を覚える中で、主を見上げることによって私たちは力を受けることができるのです。神がキリストにおいて私たちを迎えに来てくださいました。それは放蕩息子を迎えるために走り寄った父親の姿と同じです。
「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(6節)とは、当時の身体障害者の生活を覚えながらその意味を考えるべきでしょう。彼らはしばしば、神ののろいを受けたものとして軽蔑され、社会に貢献するという機会を奪われていました。すべての人から、「役立たず。社会のお荷物・・」と見られながら生きることは非常に辛いことです。イエスの救いは、何よりも、そのように道の傍らに座って乞食しかできなかった人を、道の真ん中を自分の力で歩くことができるように助けることにありました。今も、様々な障害を抱えている人がいます。しかし、彼らもイエスと出会ったとき、道の真ん中を歩んで、神と人とに使える道が開かれるということで、救いが実現しています。
反対に、この世的に頭脳が明晰で目が見えているようでも真理を見えていない人、様々な情報に敏感で耳が聞こえているようでも人の痛みが聞こえていない人、足があるのに動こうとしない人、口があるのに主への賛美も人への感謝のことばも発することができない人、そのような人々こそが、主の救いにあずかる必要があります。
「荒野に水が湧き出し、荒地に川が流れる」(6節)とは、人が内側から変えられるのと同じように、この世界に失われたエデンの園が回復されることが預言されています。聖書は、私たちが新しくされることと、世界が新しくされることを常に並行して記しています。「神は・・世を愛された」(ヨハネ3:16)とあるように、私たちはこの世界から抜け出るのではなく、この世界が変えられることを期待しながら、この世界に生きるように召されているのです。
そのとき先に廃墟がジャッカルのすみかとなったと記されたことの逆のことが、「焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の沸くところとなり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる」(7節)と記されます。
「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる」(8節)とは、「新しいエルサレム」に続く道です。なお、「汚れた者はそこを通れない」とは、自分の汚れを知っている者を排除することばではありません。それは同時に、「これは、贖われた者たちのもの」とあるように、主ご自身の主導によって、聖くされた者たちが歩む道です。イエスを主と告白する者はみな、「聖なる人」と神の目から見られているということを忘れてはなりません。「旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず・・・」との表現は、この世に誘惑や危険がないということではなく、新しいエルサレムへの道を歩みだした者を、主ご自身が確実に導いてくださるということを強調するものです。イエスご自身も、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去ることはできません」(ヨハネ10:28)と言われました。
「主に贖われた者たちは帰ってくる。彼らは喜びながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きは逃げ去る」(10節)とは、すべてが主ご自身のあわれみのみわざによるということを表現するものです。私たちもイエスに従い続けるとき、「嘆きが踊りに変えられ」、悲しみの荒布を着る者が喜びを着る者へと変えられると約束されています(詩篇30:11)。
たとえば、「荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる」という情景を、満開の桜を見ながら思い浮かべてみてはいかがでしょう。この世界には、滅びに向かっているしるしが毎日のように見られますが、同時に、不思議な救いも日々発見することができます。その両方がおひとりの神から出ています。聖書に記された神の救いの物語という窓をとおして、私たちのまわりに起きているできごとを見ることができる「霊の目」を養っていただきましょう。