2008年3月9日
目の前の問題に圧倒されていたとき見えなかったことが、ふとしたことで解決が見えたというようなことがないでしょうか。「知恵の輪」をはずすのと同じように、「何だ、こうすればよかったんだ・・」と思うようなことがあるかもしれません。熱くなりすぎたり、力づくになってしまうことは、かえって問題を複雑化させてしまいがちです。平安の祈りに、「一日一日を生き、今、このときを楽しみながら、困難を平和への道として受け入れさせてください」という祈りがあります。困難の背後に、またその中に、神がおられます。すべては神との交わりを豊かにする契機になります。
1.「見よ。わたしはシオンにひとつの石を礎として据える・・これを信じる者は、あわてることがない」
「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠・・・」(28:1)とは、北王国イスラエルがまるで酒に酔って正気を失っている様子、また、それによって自分を誇っている様子を、主が深く悲しんでいるものです。「見よ。主は強い、強いものを持っておられる」(28:2)とは、主がアッシリアを用いてエフライムをさばこうとしていることを表現したものです。しかし、「その日、万軍の主(ヤハウェ)は、民の残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾り輪となり・・」(28:5)とは、さばきを通して謙遜にされたものへの祝福の約束です。つまり、酔いどれの愚かな誇りから自由にされた者にとっては、主ご自身が喜びと誉れ、また、「攻撃して来る者を・・追い返す・・力」(28:6)になってくださるというのです。
ところが、エルサレムにおいても、「祭司も預言者も、強い酒のためによろめき・・混乱し・・ふらつき」(28:7)ながら、預言者イザヤをからかって、「彼はだれに知識を与えようとしているのか・・乳離れした子にか・・」などと言いながら、イザヤのメッセージを嘲っています。10節の新共同訳は、わざと原文の発音を残して、「ツァウ・ラ・ツァウ(戒めに戒め)、ツァウ・ラ・ツァウ(戒めに戒め)、カウ・ラ・カウ(規則に規則)、カウ・ラ・カウ(規則に規則)」と記しています。また、「ここに少し、あそこに少し」も原文では、「ツエル・シャム、ツエル・シャム」という繰り返しです。つまり、イザヤのメッセージは何の意味もない、口うるさいだけの幼児のことばであるかのように嘲っているのです。
しかし、主がイザヤを通してエルサレムに語っておられたことの核心は、それとは正反対に、「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある」(28:12)という、父親が子供に優しく語りかけるような安息への招きでした。しかし、「彼らは聞こうとはしなかった」のでした。それで、主は、「もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる」というのですが、それはかつて彼らがイザヤを嘲ったという10節の意味不明のことばそのままの繰り返しです。つまり、主は聞く耳のない人へのさばきを実現するために、意味不明なことばを語られるというのです。ですから、「これは、彼らが・・・捕らえられるためである」(28:13)と記されています。主は預言者イザヤを召されたとき、「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ・・・主が人を遠くに移し、国々の中に捨てられたところがふえるまで」(6:10-12)と不思議な命令を与えておられましたが、それが成就するのです。
このイザヤの時代との対比で、「今は恵みのとき、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)と言われます。その現れとして、救い主イエスは無学な人にも分かることばで語られました。そして新約の福音は当時の国際語であるギリシャ語で記されました。神のことばが誰にでも分かるように記されたということ自体が救いなのです。
ところでこのときエルサレムの支配者たちは、「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる」(28:15)と言ったと記されます。これは死者礼拝の盛んなエジプトとの同盟に活路を見出そうとした者たちへの猛烈な皮肉です。彼らは、「にわか水があふれて、超えて来ても、それは私たちには届かない」(28:15)と言いながら、アッシリヤからの攻撃が来てもエジプトが防波堤となってくれると期待しています。また、「私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきた」というのも彼らへの皮肉です。彼らは、エジプトが自分の利益で動いているだけで、約束を疑う必要があることは分かっていたはずです。国際政治とは、そこにある嘘を見抜きながら、なお相手を自分のために利用することだからです。しかし、それでも目に見えない神に信頼するより合理的だと思ったのでしょう。
それに対し、神である主は、「見よ。わたしはシオンにひとつの石を礎として据える・・これを信じる者は、あわてることがない」(28:16)と言われます。これは主がご自身の約束をエルサレム神殿の礎に置かれたことを指します。ソロモンが神殿を完成したとき、主は、ソロモンとその子孫がダビデのように歩むなら、その王座は堅く立つと言われた一方で、ほかの神々に仕え拝むなら、この宮も廃墟となると言われました(Ⅱ列王記9:3-8)。後にペテロはこのみことばを引用しながら、イエス・キリストを「尊い礎石」と呼び、「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」と言いました(Ⅰペテロ2:6)。パウロも基本的にこれと同じように引用しています(ローマ9:33)。つまり、エルサレムの防衛の鍵は、人間的な解決策ではなく、主(ヤハウェ)の変わることのない約束に立ち返ることにあるのです。
その上で主は、「わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする」(28:17)と、ご自身こそがエジプトなどよりもはるかに信頼できると言われつつ、「まやかしの避け所を一掃し・・隠れ家を押し流す。あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない」とエジプトとの同盟が何の頼りにもならないことを強調されました。
「寝床は・・短すぎ・・・毛布も・・・狭すぎる」(28:20)とは、主ご自身が「ここにいこいがある・・ここに休みがある」(28:12)と言われたことを軽蔑したことへの報いです。また、「ペラツィムの山でのように・・・ギブオンの谷でのように・・・」(28:21)とは、かつて主がダビデやヨシュアに与えた勝利のシンボルが、今度はエルサレムを滅ぼす力のシンボルと変えられることを示しています。そして、イザヤは、「だから今、あなたがたはあざけり続けるな」(28:22)と戒めながら、主は既に、「全世界に下る決定的な全滅」について既に啓示が与えられたと告げ知らせています。
28章23-28節の農夫の働きのたとえの基本は、農夫が種まきから収穫までをよくわかっているのと同じように、主ご自身も計画をもって神の民イスラエルを導いておられるという意味です。そのことが、「これもまた、万軍の主(ヤハウェ)のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんばかりはすばらしい」(28:29)と言われます。
私たちが何よりも注意しなければならないことは、歴史の支配者である神を敵にしてはならないということです。人の助けを頼むことは悪いことではありません。しかし、それは神への祈りの中から生まれる必要があるのです。
2.「私たちの気に入ることを語り、偽りを預言せよ・・・私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ」
29章最初の、「アリエル」とは、「祭壇の炉」(29:2、エゼキエル43:15)と同じ文字で、明らかにエルサレムの言いかえです。そこには主の臨在の約束と、火による主のさばきの両方の意味が込められています。「わたしはあなたの回りに陣を敷き」(29:3)とは、紀元前701年にエルサレムがアッシリヤによって包囲されることを指します。そのとき、エルサレムは、「死人の霊の声・・・ちりの中からのささやきのように」(29:4)壊滅寸前になりますが、そこで突然、万軍の主(ヤハウェ)は、「雷と地震・・・暴風と焼き尽くす炎をもって」(29:6)敵の陣営を乱し、彼らは退散します。その結果、彼らが夢の中で食べたり飲んだりしたように、彼らの勝利は夢や幻のように消えて亡くなります(29:7,8)。
「のろくなれ。驚け・・・主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ」(29:9,10)とは、主が彼らの霊の目を閉じられたので、彼らが主のみこころを理解できなくなるという意味です。事実、申命記やレビ記の終わりには、すでに神の民に対するさばきが明確に記されていましたが、彼らはそれをまったく理解できませんでした。主は、彼らの礼拝が、「くちびるでは・・あがめるが、その心は・・遠く離れている」(29:13)という偽善に満ちたものだったので、主は彼らが聖書を理解できないようにしてしまわれたというのです。
「ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち」(29:15)とは、心の底で主(ヤハウェ)のご支配の現実を否定している見せかけの信仰者たちのことだと思われます。その特徴は、「ものを逆さに考えている」(29:16)ことです。彼らは陶器師である神を粘土と同じようにみなし、神のみわざを自分の基準で批判しているというのです。
そこで突然、「もうしばらくすれば」すべてが逆転し、「聞こえない者が・・聞き・・・見えない者の目が暗闇とやみから物を見る」と記されます(29:17,18)。そのとき、「へりくだる者は、主によっていよいよ喜び、貧しい人は・・楽しむ。横暴な者はいなくなり、あざける者は滅びてしまい」(29:19,20)という神のさばきが明確に実現します。
陶器師であられる主は、このように苦しみを通してイスラエルを練り直します。それは主ご自身が神の民のこころを内側から造りかえられるためです。その結果、「今からは、ヤコブは恥を見ることがない・・彼らはわたしの名を聖とし・・・心の迷っている者はさとりを得、つぶやく者も教えを学ぶ」(29:22-24)という真の信仰が生まれます。
今、私たちには「深い眠りの霊」(29:10)の代わりに、何と、「キリストの心」としての御霊を受けています。それは、使徒パウロが、「いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです」(Ⅰコリント2:16)と高らかに歌っている通りです。何という特権でしょう!
そして、「ああ。反逆の子ら」(30:1)とは、アッシリア帝国の脅威が迫ってくるという危急のときに、「イスラエルの聖なる方、主(ヤハウェ)」により頼むのではなく、当時の国際政治の常識?にしたがって、北からの脅威に対しては、南のエジプトの力に頼って生き延びようとしか考えない者たちのことです(30:2)。それに対して、主は、「エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす」(30:3)と言われます。これは、「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」(詩篇91:1)と言われる霊的な現実と正反対です。そして、ここで主はエジプトを「役に立たない民」と呼び、そこに頼ろうとする者たちは、「恥となり、そしりとなる」と非難します(30:5)。
「ネゲブの獣に対する宣告」(30:6)とは、エルサレムからエジプトに遣わされた使者たちを皮肉った表現です。彼らは、エルサレムの南に広がるネゲブの荒野からペリシテ人の住む海沿いの地を経てエジプトに下りましたが、そこには獅子や蛇がいました。その危険な地を、彼らは多くの貢物を運んでエジプトの助けを求めに行きましたが、そのエジプトは、「何もしないラハブ」(30:7)と呼ばれます。ラハブとは当時の神話にあった海の怪獣を意味しますが、それは大きな口を空けて貢物ばかりを求め、何の役にも立たないエジプトを皮肉った表現です。
「今、行って、これを彼らの前で板に書き・・」(30:8)とは、30章1-7節の内容を書き記すようにという命令です。そうすべき理由が、9-14節まで説明されています。そこでは、エルサレムの民が、「反逆の民・・・主の教えを聞こうとしない子ら」と呼ばれ、心の奥底では、「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りを預言せよ・・・私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ」(30:10,11)と求めているというのです。これはいつの時代にも起こりえることです。聖書は人の罪や醜さを赤裸々に描きますが、多くの人々はそれが直接的に語られるよりも耳障りの良い言葉を語ってくれる教師を求めてしまいます。そこから神の民の堕落が始まります。
「それゆえ、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる・・・」(30:12)とは、聖なる方の警告を「ないがしろにし、しいたげと悪巧みに・・たよった」ことの必然的な帰結として、「あなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって」(30:13)、裂け目をもたらし、その城壁を内側から崩してしまうという意味です。エルサレムの真の城壁は、主ご自身であられるのに、それを捨ててしまってはどんな敵にも対処できなくなるのです。
この世の多くの人は、利害関係で動きます。だからと言って、露骨な便宜供与で人の心を買おうとする者は、自滅への道を歩んでいます。なぜなら、お金で動くような人は、あなたをお金で売るような人だからです。この世的に無力な人でも、また厳しいことを言う人でも、主との豊かな交わりのうちに生きている友をこそ求めるべきです。
3.「立ち返って静かにすればあなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」
そのような中で、神は、エジプトではなく、彼らの「主(アドナイ)である主(ヤハウェ)、イスラエルの聖なる方」、つまり、イスラエルにとっての真の主人、その民を選んでおられる聖なる方に、「立ち返る」ことを命じます。それは、回心を迫る招きであり、放蕩息子の帰還を待つ父親の気持ちに通じます。「静まる」とは、「憩う」(28:12)とも訳せることばで、「エジプトの陰」(30:3)の代わりに、全能の神の御翼の陰に安らぐことの勧めであり、放蕩息子が父親の抱擁に身を委ねる姿でもあります。そして、そうすることによって、彼らの神が、彼らを「救って」くださるというのです。
続く、「落ち着いて」とは、まわりの状況に振り回されずに気持ちを鎮めることであり、「信頼する」とは、信仰というより望みをかけるという意味です。そうすると、「あなたがたは力を得」て、アッシリア帝国にさえ立ち向かえるというのです。ところが、彼らはそれを望まず、絶望的な状況からの逃亡ばかりを考えていました。それを皮肉ったのが16、17節ですが、律法の書には、主に信頼する者に対して、「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる」(レビ26:8)一方で、主のさばきは、反対に、「ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させる」(申命32:30)と記されていたからです。
なお、「立ち返って静かに・・・」とは、決して現実逃避ではありません。後にヒゼキヤ王は、アッシリアの使者から受け取った脅迫状を、「主(ヤハウェ)の前に広げ」(37:14)、全能の主に信頼する祈りをささげました。その時、主はイザヤを通して希望を語ってくださったばかりか、寝ている間に、「主(ヤハウェ)の使いが出て行って、アッシリアの陣営で、十八万五千人を打ち殺し」(37:36)、主をそしったアッシリア王はその子供に暗殺されたのでした。
私たちも同じようにして、主にある勝利を体験させていただくことができます。世の人々の間でも、しばしば、忙しく動き回るよりも、じっくり腰を落ち着け確信に満ちた行動で道が開かれるという原則が尊重されますが、私たちの場合は、それ以上に、すべてを支配される神が、私たちのために働いてくださることを期待できるのです。
「主(ヤハウェ)は、あなたがたに恵もうと待っておられ」(30:18)とは、心を震わす表現です。主(ヤハウェ)は、イスラエルの民が、ご自身のもとに立ち返るのを待ち焦がれ、特別な恩恵を施したいと願っておられるのです。そればかりか、放蕩息子の姿を遠く見つけた父が「走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20)ように、主は「あなたがたをあわれもうと立ち上がられる」というのです。その理由が、「主(ヤハウェ)は正義の神であるからだ」と記されます。「正義の神」であるとは、罪に目をつむることができないという意味ではなく、彼らの父祖アブラハムへの契約に誠実であり続けるという意味です。なお、この契約関係の成立の条件は、人と人との間の契約と異なり、互いの利益のために相互に責任を果たし合うというようなものではなく、ただ、「主を待ち望む」という一点にあるのです。
神の恵みは良い働きへの報酬であるかのように考えられがちですが、忍耐心や努力できる力だって神からの一方的な賜物であることを忘れてはなりません。事実、自分の働きを自分の功績として誇り、それを神にアピールしたパリサイ人は退けられましたが、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と自分の胸をたたいて祈った取税人は神のあわれみを受けました。信仰の出発点は、自分のみじめさを神の御前に言い表わすことです。しばしば、不必要なプライドを捨てきれずに人の好意を無にしてしまう人がいますが、神の御前でそのような愚かな振る舞いをしてはいけません。神は、あなたに特別な恩恵を与えたいと待ち焦がれているのですから。
「あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み」(30:19)とありますが、私たちの生活には、叫び声をあげざるを得ないことが絶えません。しかし、神は、それに即座に答えてくださるというのです。「必ずあなたに恵み」とは、「恵む」ということばを重ねた強調表現です。確かに、主は、「乏しいパンとしいたげの水」(30:20)という苦難を与えられることはあるにしても、私たちは既に恵みの中に置かれており、目の前から教師たちがいなくなるということはありません。「教師」とは、複数表現で、当時で言えば預言者たちを、現在で言えば、信仰の兄弟姉妹や牧師を意味します。イスラエルの民が偶像礼拝に走ったとき、彼らの間から教師も消えましたが、今の時代は、御霊の賜物がそれぞれの人に与えられるので、私たちは求めさえすれば教師を見続けることができるのです。
「あなたが右に行くにも左に行くにも・・・」(30:21)とありますが、これは、歩もうとする前から導きの声が聞こえるとか、悩まなくてすむように指示が与えられるという意味ではありません。迷いながらも、未知の世界に信仰を持って一歩踏み出す時に、「これが道だ。これに歩め」という確信を与えられるという意味です。多くの人は、自分の足で一歩踏み出すことを躊躇し、「みこころがわからない・・」と言ったり、また、他の人の歩みに安易に従おうとすることでしょう。イエスが、「滅びに至る門は大きく、その道は広い」(マタイ7:13)と言われたことを忘れてはなりません。
主との交わりを回復した者は、銀や金の偶像に向かって、「出て行け」と言うようになります(30:22)。そのとき主は、約束の地に豊かな雨を降らせ、地の産物を「豊かで滋養がある」ようにし、「家畜の群れは、広々とした牧場で草をはむ」ようにし、先の「乏しいパンとわずかな水」(30:20)とは正反対の豊かな祝福をもたらしてくださいます。
なお、「大いなる虐殺の日」(30:25)という恐ろしい表現があるのは、神の民にとっての救いの日が、同時に、神の民の敵にとってのさばきの日となるからです。とにかく、その日には「すべてのそびえる丘の上にも、水の流れる運河ができる」とあるように、水のないエルサレムに川が流れるというのです。しかも、「主(ヤハウェ)がその民の傷を包み・・・」といういやしが与えられます。そして、「日の光」も七倍になるとは、太陽が暑すぎるようになるということではなく、「主(ヤハウェ)があなたの永遠の光となる」(60:20)ということの別の表現です。
「見よ。主(ヤハウェ)の御名が遠くから来る。その怒りは燃え」(30:27)とは、アッシリヤがエルサレムの攻撃に来るその向こうから主のさばきが来るということを表しています。30章27,28節には神の民を虐げる国々に対する恐ろしい神のさばきが、そして、29,30節にはそれと対照的に神の民に祭りの喜びが帰ってくることが描かれています。
そして31-33節では、具体的に主ご自身がアッシリヤと戦ってくださることが預言されています。「すでにトフェテも整えられ」とは、神の民の敵を葬る場所(エレミヤ19:11)を指します。
「いつくしみ深き友なるイエス」の原歌詞には、次のように記されております。
イエスは私たちにとって何とすばらしい友でしょう。 彼は私たちのすべての罪と悲しみをになってくださるのですから。 すべてのことを祈りによって神に告げさせていただけるのは何という特権でしょう。 それなのに、何としばしば平安を失い、不必要な痛みを負ってしまうことでしょう。 それはすべて、祈りによってすべてのことを神に打ち明けないからなのです。
私たちの目の前に、いつも何かの問題があるのは当然のことです。それは、神が私たちをあわれみ、ご自身との会話に導くために置かれていることです。ある人は、「解決策はつねにすぐそこに、問題の中にある・・・問題を無理やり抑え込むのではなく、解決策の生みの親になってもらうべきだ」と言っています。そのきっかけが、主の前に静まるということです。そして、それを通して、あなたの前に新しい世界が広がってきます。ところが私たちはそこにある恵みを忘れ、問題の原因となった人を責め、自分の過去の判断を悔やみ、目の前から問題が消えることばかりを望んではいないでしょうか。私たちが祈る前から、「主(ヤハウェ)は私たちを恵もうと待っておられ」、また、祈りを聞いて、「あわれもうと立ち上がられる」のです。確かに目の前の道が心細く思える時もありますが、勇気を持って一歩を踏み出すなら、神のみ声を背後から聞くことができ、目の前の道はどんどん広くなって来るのです。