2008年3月2日
私たちは様々な恵みの賜物を受けています。しかし、それは常に両刃の剣です。富が罠となるように、ある種の才能も罠になります。たとえば、「僕には、道産子の忍耐心がある!」などと自分を誇っていると、それは同時に、「融通の効かない頑固さ」として、人を振り回すことになってしまいます。しかし、ふと、「自分にとっての忍耐心とは、失敗したときに転がり墜ちるのを防ぐために神から与えられたセイフティーネットのようなもの・・」と思うと、他の人に与えられている様々な恵みの賜物も喜ぶことができるようになりました。同じように聖書の教えを、聖人君子になるための教えなどと思うとパリサイ人の傲慢になってしまいます。律法も預言者も、あなたの生き方を正すという以前に、神のあわれみを示すものではないでしょうか。神があなたに預けてくださった富や才能ばかりか聖書の教えさえも、その用い方が問われています。すべてが神と人との交わりの中で再評価される必要があるのです。
イエスは、「不正な管理人」のたとえで、この世の富の奴隷にならずに、それを賢く用いることを勧めました。しかし、「金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた」(16:14)というのです。パリサイ人が「金が好き」と記されているのは猛烈な皮肉です。彼らは、先にあった油や小麦を貸すことによる利益を、「不正の富」として軽蔑していたからです。その彼らに対して、19節から31節に続く「金持ちとラザロ」のたとえが語られました。彼らは「不正な管理人」とは対照的に、その富を隣人のために用いようとはまったく考えてはいませんでした。そこで、物乞いのラザロはアブラハムのもとにある平安の世界に行き、金持ちはハデス(よみ)の苦しみに落とされたというのです。これは、「不正の富で、自分のために友をつくろうとしなかった人」の悲劇と言えましょう。
1.「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です」
イエスは、まずこのパリサイ人たちに、「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です」(15節)と言っています。そしてイエスは、彼らの偽善を指摘する意味で、「神は、あなたがたの心をご存知です」と言われた上で、「人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます」と驚くべき逆説を言われました。多くの人の心の内にある最後の願いは人から尊敬されることですが、それが人を偽善に駆り立てます。人から評判はほとんどの人にとってお金よりも大切です。ところが、パリサイ人たちは、この名誉欲の罠にあまりにも無防備なばかりか、自分の評判を正当化していました。しかし、富と名誉は、人間にとって何よりの偶像となってしまうものです。
「律法と預言者はヨハネまでです」(16節)とは、バプテスマのヨハネに至るまで、預言者たちは旧約聖書に記された「神の国」の実現を待ち望みながら、人々に心からの悔い改めを強く迫っていたからです。旧約聖書最後のマラキ書では、「主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と預言され、そのエリヤこそがバプテスマのヨハネであるとイエスは語りました。つまり、イエスの時代は、その待ち望まれた「神の国」が目の前に来たというときなのです。「それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています」(16節)とは、イエスのもとに取税人や遊女たちが押しかけている様子を語ったものです。また、それは先に、「不正な管理人がこうも抜け目なくやった」(8節)様子を指したものでもあります。
その上で、「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです」(17節)とは、イエスを通して神の国に入る者は、一見、律法を軽んじているように見えたとしても、かえって律法の原点に立ち返っているということを示唆したのだと思われます。なぜなら、律法の核心とは、罪人に対する神のあわれみだからです。ところが、パリサイ人は、律法に極めて熱心でありながら、その文言ばかりに囚われて律法の基本を忘れていました。その実例として、離婚と再婚に関することが語られます。申命記24章には、「妻に何か恥ずべき事を発見したとき」には妻を離縁できるとも解釈され得る箇所があります。それをもとに当時の律法学者は、それは具体的にどのような状況を指すかを議論しました。多くの律法学者たちは、「妻が夫の食事を台無しにしたり、道で他の男と話したり、夫の親の悪口を言ったり、隣の家に聞こえる声でわめいた場合には、離婚が正当化される」などと大まじめに主張していました。しかし、この規定は、本来、女性を男性の気まぐれから守るための規定であったことは文脈から明らかです(拙著参照)。それが男性のきまぐれを正当化するための教えへと変えられていたのです。
そして、この当時、ユダヤの国主ヘロデ・アンテパスは、自分の妻を離縁して、自分の兄弟ピリポの妻になっていたヘロデヤを妻にしました。ヨハネはそのことを公然と非難したために捕らえられ、首をはねられたのでした(マタイ14:1-10)。つまり、この離婚に関する律法解釈は当時の最も熱い議論の的だったのです。そして、このときパリサイ人たちは、ヨハネのように命がけでヘロデの行動を非難する者はいなかったのだと思われます。それどころか、彼らの律法解釈は、ヘロデが自分の行動を正当化することに用いられたことでしょう。しかし、律法の原点である創世記に立ち返るとき、そこでは、創造主ご自身が、「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」(2:18)と言われ、その上で彼らが一体になることができるようにと、女を男のあばら骨から創造され、「それゆえ男はその父と母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(2:24)と結婚を聖別されました。イエスは、それをもとに、「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(マタイ19:6)と離婚を創造主への反抗と断罪されました。つまり、結婚こそは最も基本的な創造の秩序なのです。その関係を自分の欲望のまま破壊することを正当化するようなことをしていながら、「自分たちは律法を守っている・・」などと言い張るのは何という図々しい神経でしょう。
イエスが律法を守ることの大切さを語ったとき、この離婚問題を語ったことには大きな意味があります。それは当時の社会的な弱者であった女性の立場を守るという大きな流れを作りました。イエスは、これによって一夫多妻から一夫一婦制という流れを作りました。また女性の社会的地位の向上という方向へ歴史を大きく動かしました。イエスは神の律法の原点に立ち返ることによって、人類のその後の歴史を決定的に変えることができたのです。その意味で、神のみことばこそが、歴史を動かし、この天と地を保っているということを覚えるべきでしょう。
2.腹を満たしたいと望んでいたラザロと、苦しみの中でアブラハムをはるかかなたに見た金持ち
19節から31節は、しばしば、死後の世界に関しての聖書の教えとして用いられますが、文脈から明確なように、イエスはこれを、死後の世界に関しての疑問を持っている人に向けてではなく、「金の好きなパリサイ人」また、「人の前で自分を正しいとする者」の生き方の矛盾を正すために語られたことが明らかです。つまり、自分に与えられた富と名誉を正当化することの問題を指摘したものといえましょう。ですから、この箇所を拡大解釈して「死者のたましいの状態」というような問題に深入りしないように注意すべきです。なぜなら、聖書は一貫して、この歴史のゴールが、「新しい天と新しい地」また、「新しいエルサレム」にあることを述べているからです。
このたとえは、「ある金持ちがいた」から始まりますが、その彼は、厳密には、「毎日を豪華に喜び楽しんでいた」と記されています。これは15章での父が放蕩息子のために祝宴を開いたことと同じような意味ですから、それ自体が悪いとは言えません。問題は、「その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた(望んでいた)」と描かれるほどの貧しい人の切実な願望がある中で、その隣人にまったく無関心であったことです。しかも、「犬もやって来ては、彼のおできをなめていた」とは、この貧しい人は犬を追い返す力もないほどに弱っていたことを表しています。当時の犬は人々から軽蔑されており、死体を食い漁ることもありました。彼の最後の願いは、犬のように残り物を漁ることだったというのに、それさえも適いませんでした。ここで強調されているのは、この金持ちがラザロを死んだ人間のように見なしていたという隣人への無関心と、このラザロの無力な願いです。金持ちは自分の富を自分のためだけに使っていました。
ところが、「この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた」という一方で、「金持ちは、死んで葬られ、ハデスで苦しみの中に置かれつつ、目を上げながら、アブラハムをはるかかなたに見ていた」(22,23節私訳)というのです。ここでは、貧しいラザロは人々から葬られることもなかったけれど御使いの迎えがきてアブラハムのふところという安らぎの世界に引き上げられたということと、その反対に、この金持ちは丁重に葬られながらも、地の下のハデスに落され、苦しみの中に置かれたという対比が強調されています。何という鮮やかな立場の逆転でしょう。かつてラザロは、金持ちの食べ物を、遠くに思い浮かべながら飢えの苦しみに耐えていました。一方、ハデスに落された金持ちは、ラザロの平安を、遠くに見ながら、苦しみに耐えているのです。金持ちにとっては、アブラハムがはるかかなたに見えること自体が、彼の憧れを刺激し、苦しみを増し加える要素となります。これは、かつてラザロが金持ちの門前で、金持ちの食べ物に憧れを抱き、無力感に苛まれていたことと対照的です。何という劇的な、鮮やかなコントラストでしょう。イエスは当時の人々の常識を逆転させました。
申命記などでは、主を愛する者には祝福が与えられ、主を憎む者には、のろいが与えられるという対比が繰り返し強調されています。それをもとに、パリサイ人は、自分が豊かであるのは神に愛され、祝福されているしるしであると受け止め、ラザロのような人は、神から「のろい」を受けた結果として、苦しんでいると解釈しました。貧しさが、神から憎まれている「しるし」であるならば、そのようなのろわれた人にあわれみを施す必要などありません。かえって、人々への見せしめとししながら、「神を愛さない者は、このようにのろわれる」という生きた教材にすべきと考えたのだと思われます。なぜなら今も昔も、「脅し」こそが、人々の心を動かす上で最も効果的だからです。
それに対しイエスは、「すべて、多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(ルカ12:48)と、豊かさに伴う「責任」の方に目を向けさせました。私たちそれぞれには、異なった能力、異なった生活環境、異なった機会が与えられています。人生は、ある意味で、生まれながら不公平です。パリサイ人が、律法を学ぶことができ、それを守ることに集中できたのも、そのような能力と環境が与えられていたからに過ぎません。それなのに、彼らは貧しい人々や無学な人々を軽蔑し、自分の出生や能力を誇っていたのです。金持ちに与えられた富は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という律法の命令を果たすための手段に過ぎません。
一方、ラザロは何かの良い行いをしたわけでもなさそうなのに、アブラハムのふところに引き上げられたのは、彼には良い行いをする力も富も機会も与えられていなかったからに過ぎません。ラザロはただ、神のあわれみのゆえに救われたのです。そして、この原則こそ、信仰の核心です。アブラハム、イサク、ヤコブのすべては、ただ神のあわれみによって神の民として選ばれたに過ぎません。「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(Ⅰコリント1:29)とある通り、私たちは自分に生まれる前から与えられた恵みを誇ることはできません。ただ、私たちは、恵みをどのように受け止め、どのように用いたかという「責任」が最終的に問われるのです。
人が活躍する様子を見て、「神は私を何でこうも無能に造られたのか・・・」などと恨むような人は、反対にぜひ、豊かな人や有能な人が、どれだけ大きな責任を負わされ、危険なところに置かれているかを見てあげて、彼らのために祈って差し上げるべきでしょう。神は最終的に、それぞれに与えた恵みをどれだけ生かすことができたかを問うておられます。パウロは、「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください」(Ⅱコリント6:1)と豊かなコリントの人々に強く迫りました。
3.「彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」
この金持ちは、はるか遠くに見えるアブラハムに向かって、「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません」と叫びました(24節)。これはかつてラザロが飢えの中で、この金持ちに向かって出した心の叫びと同じものではないでしょうか。地獄の存在を信じない人に、ある人は、「この世にこれほど恐ろしい地獄が現実にあるのに、どうして死後の世界をそれほど楽観的に見ることができるのか・・・」と言ったとのことですが、まさにその通りです。
それに対し、アブラハムは、「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、お前は苦しみもだえているのです」(25節)と語り、私たちの人生の収支はこの世界だけでは決算が成立しないということを語りました。昔から多くの哲学者や宗教家が、「なぜ、人生はこうも不公平なのか?なぜこんな不条理が許されるか・・・」と、その原因を探り続けています。そのあげくある人は、「何十代前のご先祖様が、人殺しだった・・・」などという証明不能、荒唐無稽な理屈を考え出し、偶像礼拝に誘ったりするほどです。それに対し、福音の光は、このたった一言で、解決を示します。それは、「この生ののちにもう一つの生がある。その生においては、この世において罰せられず報われなかったことが、罰せられ、報われることになる」(ルター:「奴隷的意思」より)というものです。
しかも、アブラハムは、「そればかりでなく、私たちとお前たちの間には大きな淵があります。ここからそちらに渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらに越えて来ることもできないのです」(26節)と語りました。これはつまり、この現在の生き方が、将来の居場所を決め、死後、その居場所を変えることはできないという意味です。仏教などで、死者の霊に向かって、お経を唱えるのは、彼らが生きている間に忙しすぎて学ぶことができなかった人生の真理を、時間ができた今になって教えて差し上げようというあわれみの心に基づくものです。しかし、聖書は、人生の真理は、死んだ後に学んだのでは遅すぎる、死後に悔い改めの機会はないと語っています。
それを聞いた金持ちは、「ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(28節)と懇願します。ある求道者の方は、「私の愛する人が、イエス様を信じないで地獄にいるかもしれないというなら、私も同じところに行きたいからイエスを信じることはできない」と言っていましたが、この箇所を見て、「もし、本当に、あの人が、苦しみの場所にいるなどということがあったとしたら、この金持ちと同じように、絶対、ここには来ないでほしい・・と願っていることでしょう」と分かったと言って、死んだ人の願いをかなえるためにも、イエス様を信じると決心しました。
なお、これに対し、アブラハムは、「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです」(29節)と言いますが、この金持ちは、なおも、「だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったとしたら、彼らは悔い改めるに違いありません」(30節)と主張します。ここでは、ラザロという名の代わりに、「だれかが・・」と言われ、イエスが、このたとえをご自身の後の復活に結び付けようとしていることが分かります。しかもイエスは、アブラハムの口で、「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない(説得されはしない)」(31節)と言わせることによって、ご自身の復活によっても、パリサイ人たちはイエスのことばに聞こうとはしないと示唆しています。それは彼らが、「モーセと預言者」のことばを、「人の前で自分を正しい者とする」ためにばかり用いていたからです。しかし、このアブラハムのことばは、「もし、モーセと預言者との教えに耳を傾けるなら、だれかが死人の中から生き返るなら、彼らは聞き入れる(説得される)」と言い換えることができるのではないでしょうか。それはつまり、私たちがモーセと預言者との教えに真剣に耳を傾けるなら、自分があのイスラエルの民と同じように、救い難いほどに頑なで、恩知らずで、不信仰な者であり、神の特別なあわれみがなければアブラハムのふところに受け入れられることはできないと分かるということです。そして、そのように自分の罪を自覚し、自分の弱さに悩む者にとっては、イエスの十字架と復活の福音によって悔い改めることができるという意味です。つまり、旧約聖書と新約聖書はセットで私たちを神のもとに導くのです。
なお、ここでイエスが、死んだアブラハムが生きている人に語っているかのような表現を使っているのは、アブラハムを神の教師に仕立てるためではありません。アブラハムは結局、この金持ちの救いには何の役にも立っていないことを忘れてはなりません。それよりも、イエスは、イスラエルの選びの原点が、モーセの律法を実行するという以前に、アブラハムに対する神の一方的なあわれみにあるということを思い起こさせるためです。つまり、イエスは、律法の解釈を巡って議論を戦わしているパリサイ人たちに、律法を記したモーセ以上に、それ以前のアブラハムという信仰の父に焦点を当てることで、彼らを信仰の原点に立ち返らせるようにチャレンジしているのです。
神は、ご自身を忘れて破滅に向かっている世界を救うために、まずアブラハムひとりに目を留め、彼に語りかけ、対話の中で彼を神の友と呼ばれるまでに成長させてくださいました。それはモーセやダビデを初めとするすべての信仰の勇士たちに共通することです。神はご自身との対話によって、人の信仰を育み育ててこられました。
そして、彼らの信仰とは、ひとつひとつの神の恵みの賜物を、自分を誇るためにではなく、神と人とのために用いたという点にあります。そこには恵みが広がってゆく好循環のような過程が見られます。私たちもそれぞれ、神から様々な恵みの賜物を受けています。それを無駄に受けることがないように心がけたいものです。なお、聖書を通して自分の罪や愚かさが示され、また教会の交わりの中で自分の不信仰や弱さが示されても、驚く必要はありません。それは、イエス・キリストにある救いのすばらしさを心から受け止めることができるようになるための舞台に過ぎません。神の最大の恵みは、私たちの頑固な自我が砕かれる中でこそ体験できるからです。私たちが自分の生まれながらの肉の力によって、神の愛の律法を全うできないということがわかるからこそ、私たちはイエスの救いにすがります。そして、イエスは私たちが律法を全うできるようにとご自身の聖霊をお与えくださったのです。