イスラエルの歴史でエルサレムの陥落とバビロン捕囚がなければ救い主への待望が生まれませんでした。
先週までで列王記が終わりましたが、バビロン捕囚の悲しみがほとんど表現されていませんでした。それで今回は二回にわたって哀歌を取り上げ、エルサレムが廃墟とされた悲しみに思いを向けたいと思います。イスラエルは毎年、アブの月の九日(真夏の日)に、一日中断食をして、哀歌を歌い、この紀元前586年に起きた悲劇を思い起こし続けています。
哀歌とクリスマスは、実は密接な関係があるのです。
ところで、今週発売になる百万人の福音一月号には、小生の詩篇の私訳と解説が六ページにわたって掲載されます。ぜひお読みいただければ幸いです。それは、今回出版させていただいた「心を生かす祈り」二十の詩篇の私訳交読文と解説ーの一部が抜粋されているものでもあります。その本も、合わせてお読みいただければ幸いです。
映画「マリア」では、その最初と最後で、ヘロデ大王によってベツレヘム近郊の幼児が虐殺されるという「嘆き」が描かれています。それは、神の御子が、世界の嘆きのただなかに降りてきてくださったことを意味します。救いとは、苦しみがなくなること以前に、苦しみのただ中に「愛、喜び、平安……」(ガラテア5:22) が見出されることにあるからです。そして、その暗い中にひときわ輝いているのが、ヨセフとマリヤの愛の交わりでした。この世の暗さやさみしさは、神の光を輝かせる舞台となっています。すでに、「光はやみの中に輝いている」(ヨハネ1:5) のですから……。
1.「主 (ヤハウェ) よ。ご覧ください。私は苦しみ……」
哀歌は紀元前586年のエルサレム陥落の悲劇を歌っています。Ⅱ列王記25章は淡々とこの悲劇を、町がバビロン軍に包囲される中で、「ききんがひどくなり、民衆に食物がなくなった。そのとき、町が破られ、戦士たちはみな夜のうちに……町を出た」、またバビロンの王の家来は、「主 (ヤハウェ) の宮とエルサレムのすべての家を焼き……エルサレムの回りの城壁を取りこわした……主の宮のすべての……器具……を奪った……こうして、ユダはその国から捕らえ移された」と描きます。そして、この悲劇を感情面に焦点を当てて描いたのが「哀歌」です。それは、はるかに遠い昔の遠い地の出来事のようでありながら、現代の私たちが味わう何らかの喪失体験と結びつきます。
最初のことばは、「ああ」という嘆きから始まります。これこそが五つの章全体を貫くテーマです。1、2章ともそれぞれの節の始まりの単語は、ヘブル語のアルファベットの順番に並んでいます。それは悲しみを残すことなく包括的に表現しようとする意図の表れかもしれません。「諸州のうちの女王は、苦役に服した」とは、天地万物の創造主によって女王のように大切にされ飾られた都が、廃墟とされたという意味です。そして続けて「彼女は……」という表現とともにエルサレムの嘆きが表現されます。また、バビロン捕囚のことが、「ユダは悩みと多くの労役のうちに捕らえ移された」(1:3) と描かれます。「シオンへの道は喪に服し……」とは神殿が廃墟とされた痛みの表現です。
そして、それらの原因が、「エルサレムは罪に罪を重ねて、汚らわしいものとなった」(1:8) と、この悲劇が神のさばきによってもたらされたものであると描かれます。しかし同時に、「主 (ヤハウェ) よ。私の悩みを顧みてください。敵は勝ち誇っています」(1:9) と、この悲劇を直接的にもたらした敵の傲慢さに目を留めてくださるように訴えます。
ここに聖書が示す世界観の核心があります。当時の常識では、エルサレムの陥落は、イスラエルの神、主 (ヤハウェ) が、バビロンの神々の力に負けたことを意味します。しかし、イスラエルの敗北は、その神が弱かったためではなく、主 (ヤハウェ) が敵の国を用いてイスラエルの不誠実をさばかれたという意味なのです。そのことが、「道行くみなの人よ。よく見よ。主 (ヤハウェ) が燃える怒りの日に私を悩まし、私をひどいめに会わされた」(1:12) と描かれます。
そして、それはまた、「主 (ヤハウェ) は正義を行われる。しかし、私は主の命令に逆らった」(1:18) という告白です。それと同時に、「主 (ヤハウェ) よ。ご覧ください。私は苦しみ、私のはらわたは煮え返り、私の心は私のうちで転倒しています……私の敵はみな、私のわざわいを聞いて、喜びました……彼らのすべての悪を御前に出させ……彼らにも報い返してください。私のため息は大きく、私の心は痛みます」(1:20-22) と、自分の苦しみを主に訴え、自分を苦しめた者へのさばきを、自分を懲らしめているはずの主に訴えています。ここで興味深いのは、自分を懲らしめている張本人は、神であると言いながら、なおも神にすがろうとしていることです。多くの人は、自分をいじめる者からは離れようとします。しかし、この人は、その方にすがるばかりか、敵へのさばきまでを訴えています。そこにあるのは、主 (ヤハウェ) こそがこの世界の真の支配者、すべての根源であるという信仰告白です。
私たちはこの世界で様々な苦しみに会います。しかも、それをもたらすのは、多くの場合、まわりの人々の裏切りとか不誠実などの罪です。しかし、それは私たちの神が無力であることのしるしではありません。なぜなら、私たちが直面するすべての痛み悲しみは、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29) とある通り、神の御手の中で起こっていることだからです。
神が苦しみをもたらすのに、三つの理由があると言われます。第一は、自業自得の苦しみです。それはこの世の常識的な考えであり、それは、「罪に対する罰」という意味です。この六百年あまり前に記されたはずのレビ記や申命記には、既にバビロン捕囚のことが警告されています。イスラエルの民がこの悲惨を通して、自分たちの神が無力だったと思う代わりに、神に立ち返ることができたのは、そのことが事前に何度も警告されていたからです。
そして、第二は、「平安な義の実を結ばせる」(ヘブル12:11) という「訓練」のためで、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」(同12:6) からです。しばしば、「風が強い崖っぷちに生えた木は、根を深く伸ばしている」と言われるとの同じように、信仰が根付くためには試練が必要なのです。
第三は、脅しの力(サタン)への勝利のためです。義人ヨブは、自分の苦しみの理由を知りはしませんでしたが、主から目を背けず、主に向かって嘆き続けることで、サタンに打ち勝ちました。たとえば暴力団が、脅しをかけながら用心棒料を請求するように、サタンは「俺にひざまずくならわざわいを取り去って幸せを与える」と誘惑します。しかし、パウロが、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか……」(ローマ8:35) と問いかけたように、どのようなわざわいも私たちに与えられた「永遠のいのち」を損なう力はありません。人は心の底で、死の脅しにも屈することのない永遠の愛への憧れを抱いています。事実、古代キリスト教会の急成長の鍵は、キリスト者のいのちが、苦しみのただ中でも輝いていたからです。苦しみには、神の救いのみわざを成就する力が秘められています。
そして、バビロン捕囚にはこれら三つの要素が含まれています。イスラエルの民は、この苦しみを経て初めて、唯一の神、主 (ヤハウェ) だけを拝む民とされました。このとき以降、ユダヤ人は原則、決して偶像の前にひざまずくことがなくなりました。それが行過ぎて誤った選民意識という傲慢になったという面はありますが、この点は高く評価できます。また、ユダヤ人たちが苦しみを通して、ますます神を慕い求めるようになったからこそ、聖書が世界中で読まれるようになったのです。不思議に彼らは、このバビロン捕囚を通して、世界に唯一の神を示したのです。
2.「シオンの娘の城壁よ。昼も夜も、川のように涙を流せ。」
2章も各節の頭の文字がヘブル語のアルファベットの順番に並んでおり、「ああ……」という嘆きから始まります。そして、「主は……燃える怒りをもって……敵のように、弓を張り……敵のようになってイスラエルを滅ぼし」(2:3、4、5) と、主がイスラエルの敵となられたかのように描かれます。しかし、それに続いて、「主 (ヤハウェ) はシオンでの例祭と安息日を忘れさせ……その祭壇を拒み、聖所を汚し……」(2:6、7) と不思議な記述があります。それはまるで、主が、ご自身が大切にしておられたものを投げ捨て、ご自身を傷つけられているかのような表現です。ここに神ご自身の痛みが伝わってきます。これは、親が涙を流しながら子供にむちを加えているような情景です。真の親なら、子供を打つ自分の手が痛んでたまらないのではないでしょうか。「愛」の反対は、「怒り」ではなく、無関心と言われます。神はご自身の民を心から愛され、無関心になることができないからこそ燃える「怒り」を発せられるのです。
そして、この作者自身が、「私の目は涙でつぶれ、私のはらわたは煮え返り、私の肝は、私の民の傷を見て、地に注ぎだされた」(2:11) と、自分の痛みを心のそこから味わいつつ、それをことばとして表現しています。人は、しばしば、激しい苦しみに会うとき、自分の感覚を麻痺させると言われますが、痛みの感覚を麻痺させるものは、喜びの感覚をも麻痺させてしまいます。涙と笑いは矛盾するものではありません。それを誰よりよく知っているのは古典落語家でしょう。悲しみにブレーキをかけると、それだけ回復が遅れてしまうという現実があります。
そして、現実に目を閉ざさせ、「恐れ」の感覚を麻痺させたのが、何よりも偽預言者たちの罪です。そのことは、「あなたの預言者たちは、あなたのためにむなしい、ごまかしばかりを預言して、あなたの繁栄を元通りにするため、あなたの咎をあばこうともせず、あなたのために、むなしい、人を惑わす預言をした」(2:14) と記されます。偽預言者は、威勢の良いことばかりを言って、迫りくる危険を軽く見させ、民の被害を拡大させました。これはC型肝炎の感染の告知を怠って、見当違いの治療を進めさせるのに任せた製薬会社や厚生労働省のようなものです。
確かに、災いの原因を遡っても無意味なこともあります。しかしこの作者は、「主 (ヤハウェ) は企てたことを行い、昔から告げておいたみことばを成し遂げられた」(2:17) と語っています。なぜなら、ヨシヤ王が律法の書を発見したときに、荒布を着て主にすがったという記述があるように、エルサレム陥落の三十年余り前には、偶像礼拝に対するさばきが来ることが国民全体に知れ渡っていました。それにもかかわらず、ヨシヤの後の時代の人々は、場当たり的な対応を続け、その問題に直面することを避けさせてしまいました。目の前の危険やわざわいは、私たちの存在の根本に立ち返らせてくれます。それは、たとえば、心臓疾患を患っている人が、心臓の規則的な鼓動を聞きながら、それ自体が奇跡であると感動するようなことです。いのちは不思議に満ちています。私たちは吹けば飛ぶようなひ弱な存在ですが、創造主によって生かされている存在です。それを思うとき、いのちの喜びを味わうための大前提は、何よりも、あなたの創造主を知り、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛する」ことであることが分かります。しかし、何としばしば私たちは優先順位を忘れてしまうことでしょう。
しかし、それでも私たちは、目の前の問題に圧倒され、原点を忘れて、自業自得で災いを招くことあります。そのときに必要なのは、自分の心の「城壁」を守ろうと自己弁護に走ることではありません。ただ悔い改めの涙を流すことです。それが、「シオンの娘の城壁よ。昼も夜も、川のように涙を流せ。ぼんやりしてはならない。目を閉じてはならない。夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ」(2:18、19) という訴えです。それは自己憐憫の涙ではありません。災難の中で、真っ先に被害を受けるのは、あなたのまわりの社会的な弱者です。ですから、「主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子のために祈れ」という訴えがなされ、その上ですでに起こっている悲惨を、「主 (ヤハウェ) よ。ご覧ください。顧みてください……女が、自分の産んだ子、養い育てた幼子を食べてよいのでしょうか」(2:20) と祈っています。私たちは、耐え難い悲惨を見たとき、「神がおられるなら、なぜ……」という疑問を持ちます。しかし、それは傍観者的な神学論議になっている可能性があります。私たちに求められているのは、何よりもまず、「主よ。ご覧ください!」と、目の前の悲惨を主の前に訴えることです。ことばに表すことのできない幼子の叫びを自分の叫びとして声に出して訴えることです。
3.主の真実は力強い
3章は、三つの節ずつがセットになっています。最初は、「アニー(私は)」という嘆きから始まっています。1節は、「私は主の激しい怒りのむちを受けて悩みに会った者」から始まり、六番目の段落の終わりは、「私の誉れと、主から受けた望みは消えうせた」という絶望で終わっています。そして、19、20節では、「悩みとさすらいの思い出」を「思い出し……思い返す」ということばが強調されています。この七番目の段落こそが転換点です。私たちは「嫌なことは早く忘れる!」ということで心の安定を保つことができます。しかし、「これを思い出しては沈む」というような苦しみの歴史を記念し続けるということも必要なことがあります。イスラエルの民はどのような迫害にも耐えて、主を待ち望み続けていますが、その秘訣は、エルサレム陥落の日を永遠の記念日としたことにあります。
その根拠が、八番目の段落の、「主 (ヤハウェ) の恵み(ヘセッド)のゆえに、私たちは滅び失せなかった」という宣言です。この「恵み(ヘセッド)」こそ聖書を貫くテーマです。それは神が、イスラエルの不従順にもかかわらず、アブラハムとダビデに対する契約を守り通してくださることを意味します。それとともに、「主のあわれみは尽きない」とありますが、「あわれみ」とは、民の嘆きに合わせて主のはらわたが震えるような感情をあらわします。主は、苦しんでいる民を、ただ見下ろしているような方ではありません。そして、「それは」とは「それらは」とも訳すべきで、「主の恵み(ヘセッド)とあわれみ」が、「朝ごとに新しい」と歌われます。また、それが変わることのない「真実」であることが、「あなたの真実は力強い」と言い換えられます。これは英語では、「great is thy faithfullness」と訳され、Ⅱ賛美歌191「主のまことは」という賛美がここから生まれています。なお、「真実」とは「アーメン」と同じ語根のことばです。
最後に、「主 (ヤハウェ) こそ私の受ける分です」とは、すべてを失うほどのわざわいに会っても、主との交わりさえ保たれているなら、何も恐れる必要はなく、すべての必要が満たされるという意味です。それとは反対に、どれほどこの世の富を得ていても、主との交わりがなければ最終的にすべてを失うことになるという意味でもあります。
そして25節からは九番目の段落が三節とも、「トーブ(良い)」で始まります。最初の「良い」は、「いつくしみ深い」と訳されていますが、主のすばらしさを味わう何よりの秘訣は、ただ黙って、主の救いを待ち望むことにあります。しかも、「人が、若い時に、くびきを負うのは良い」と、若いときの苦しみこそ、後の人生を豊かにする秘訣であると、苦しみを積極的に評価しています。そして、「口をちりにつけよ」とは、顔を地につけ、奴隷としての姿を受け入れることです。また、「自分を打つ者に頬を与え、十分にそしりを受けよ」(3:30) という勧めをもとに、イエスは、「右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39) と言われました。それは、「主は、いつまでも見放してはおられない……主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは思っておられない」(3:31、33) とあるように、主の救いが期待できるからです。主は、あなたに代わって、あなたの敵に復讐してくださいます。その上で、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口からでるのではないか」(3:38) と、すべてが主の支配下にあることが告白されます。
そして、「生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか」(3:39) とは、「生きている」ことを「つぶやく」のではなく、「生かされている!」という感謝の心を持つ勧めです。それは、22、23節にあった「主の恵みとあわれみが朝ごとに新しい」ことへの感動です。そして、私たちが「つぶやく」べき対象は、神ではなく、自分自身の罪深さではないでしょうか。それは涙を十分に流して泣いた後に起こるべき、人生の振り返りの勧めです。
私たちは、全宇宙の創造主であられる神の御子が、父なる神に信頼して徹底的にご自分を低くされた姿に習うように召されています。イエスの誕生の貧しさに、神の救いの不思議さが現されています。この世には様々な不条理があり、また自業自得の苦しみもあります。しかし、そのような中で、主の前で「嘆く」なら、そこに不思議な慰めが生まれます。ある方は、夫があまりにも早く癌で召されたとき、「なぜ……」と問いながら答えを見出せない中で、「わたしは……知っている」という神の御声を聞き、深い慰めを得ることができました。主は、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている……それはわざわいではなく、平安と希望を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ」(エレミヤ29:11) と語っておられます。これこそ、聖書が語る苦しみの意味です。