箴言3章〜4章「あなたの行く所、どこにおいても、主を認めよ」

2007年7月8日

聖書の時代、ほとんどの人に、職業選択や住む場所を選ぶ自由ばかりか結婚の自由さえありませんでした。現代は基本的人権によって、それぞれが自分の幸福を追求する権利が保障されています。

しかし、その自由をもてあまし、悩みの種となることがないでしょうか。よくよく考えると、私たちは国籍も親も、教師を選ぶこともできませんでした。人生の根本は、選ぶことができないものから成り立っています。しかし、そのどこにおいても、主を仰ぎ見ることができます。

1.「長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる」ために

「私のおしえ」「私の命令」を守ることで「長い日と、いのちの年と平安」(3:1、2) が約束されますが、「私」とは「知恵」が自分を擬人化したものと解釈でき、私たちにとってはイエスの「おしえ」と「命令」に従うことの「幸い」を意味します。

人は自分のいのちの輝きと平安に憧れますが、イエスはそれ自体を目標とすることの危険を示し、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」(マタイ16:25) と言われました。

健康ブームのなかで、長生きや健康、いつまでもぼけないための秘訣が話題になっていますが、注意しなければならないのは、自分を守ることばかり考えていると結果的にいのちの喜びがなくなるということです。

蝋燭の輝きが自分の身を削ることから生まれるように、いのちは神と人とのために身を削るところから輝くという原則を忘れてはなりません。確かに、人ぞれぞれの個性や感性を抑圧して枠にはめるような律法主義によって苦しんで来られた方もおられますが、それが行き過ぎて自分の都合優先になってしまってはかえって信仰の喜びを失ってしまいます。

先日、野田秀先生が、「最近は、燃え尽きないように生きる」というのが美徳のように語られているけれど、それに首をかしげると言っておられました。燃え尽きることを恐れすぎて、不完全燃焼を起こし、「この人は何のために生きていたのか……」とまわりの人からも言われるような生き方に陥ってしまっては本末転倒です。

「恵みとまことを捨ててはならない」(3:3) において、「恵み」とはヘブル語のヘセッド、神がご自身の契約に真実であられること、「まこと」とは「アーメン」の語源のことばで、神が罪人にまで誠実を尽くしてくださることを指します。つまり、これは神の真実に自分の方から背を向けてはならないという意味です。

私たちが生きているのは、神の「恵みとまこと」のおかげです。私たちが警戒すべき「燃え尽き」とは、人から見捨てられることを恐れ、過剰に人に合わせようとして、神から与えられた個性を殺してしまうことではないでしょうか。私たちは、人の期待ではなく、神の「恵みとまこと」に応答して生きようとするときに、それぞれのいのちが、固有のあり方で輝くことができます。

「それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ」(3節) とは、神があなたに尽くしてくださった「恵みとまこと」の記録を書きとめ、首飾りのようにして自分の身に着けることではないでしょうか。しかも、それは装飾品として飾るというより、「心の板」に書き記して、いつでもどこでも思い起こし続けるという意味です。

また「神と人との前に、好意と聡明を得よ」(3:4) とは、私たちが信仰以外のことで、人から非難をされるようなことをしてはならないという極めて当然の教えです。ここでは「神と人の前に」という点に心を留めたいものです。人の評価は大切ですが、それが神の評価に優先されてしまっては本末転倒です。

2.「心を尽くして主 (ヤハウェ) に拠り頼め……あなたの行く所どこにおいても……」

「心を尽くして主 (ヤハウェ) に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所、どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(3:5、6) とは、信仰生活の黄金律と言えましょう。

私は就職して三日目に、「僕は主のみこころを読み間違えた!」と後悔しました。しかし、皮肉にも、八年経って、いよいよ辞めようとするときに、「これは主が置いてくださった職場だったのだ……」と納得できました。それはもちろん、自分が伝道者に召されているという確信と共に、このような道を通るのは、主の導きだったのだという意味においてですが……。

結婚してから「主のみこころを読み間違えた……」などと言う人もいます。しかし、「あなたの行く所、どこにおいても」とあるように、「みこころの職場、みこころの伴侶、みこころの住まい」などと言うのではなく、今の職場、家庭、住まいにおいて、そこにある主の「恵みとまこと」に目を留めることこそ、「みこころの生き方」ではないでしょうか。

僕にとって何よりも幸いだったのは、就職した後も、学生時代と同じ教会に通い続けることができたことでした。それで、「自分に証券セールスなど決して向いていない!」と確信しながらも、祈りと礼拝の生活を続けられました。毎週、ノルマに追い立てられながら、「そんなの無理です……」とつぶやきながら、逃げ場がないので、必死に、所構わず神に向かって助けを求め続けました。また、一週間に一日の休みの日には礼拝を休んでは自分の精神が持たないと思っていましたので、目を開けていられない疲れの中でも礼拝には欠かさず出席しました。

まさに選択の余地がない形で「主に拠り頼む」しかなかったのです。そして、結果的には毎回ノルマを達成できました。そして、三年が経過したとき、同期で入社した百数十人の営業マンの中で唯一、二年の留学をさせてもらえるという道が開かれました。

まさに、「主はあなたの道をまっすぐにされる」、または「成功させる」と約束されている通りです。

3.「すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。」

「わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。それらは、あなたのたましいのいのちとなり、あなたの首の麗しさとなる……」 (3:21、22) とありますが、「私にはすぐれた知性も、思慮もない」などと謙遜ぶってはいけません。すべてのキリスト者は、「私たちにはキリストの心がある」(Ⅰコリント2:16) と胸を張って言えるからです。先に、「恵みとまこととを捨ててはならない。それをあなた首に結び……」と言われたのと同じように……。

使徒パウロもガラテヤ教会に向けて、「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまった」(ガラテヤ5:4) と、イエスを主と告白した者のうちにキリストの心、聖霊が住んでくださったことを忘れ、人間的な努力によって恵みを掴み取るというこの世の発想に逆戻りしてしまうことを戒めました。

私たちは「地の塩」としてこの世に遣わされますが、世と調子を合わせて「塩け」を失ってしまう危険と隣り合わせに生きています。

たとえば僕が職場で唖然としたことは、学生時代のような「生きる意味」とか「人の心」に関する会話が皆無になったことです。せっかく受けた宝を「よく見張る」ことができずに「見失い」、余暇には俗悪な会話や娯楽ばかりに流れていることに心が痛みました。

私たちの場合はどうでしょう。学生生活と社会生活の断絶のように、教会と職場の生活が乖離してはいないでしょうか。僕がノルマ達成のために必死に祈り、神が応えてくださったとお証しをすると、「それではご利益宗教と同じじゃないですか……」と首をかしげる人がいます。しかし、それは当時の僕にとっては、生きるか死ぬかのような切実な問題でした。そのような悩みを訴えることができないような信仰は、この世離れした教養に過ぎません。

僕の少し前、当時の学生の雰囲気の中で共産主義に傾倒したような人が次々と大手企業に就職し、資本主義のために滅私奉公を始めました。僕の信条を「日和見主義!」と批判した人がいましたが、「あなたの信念はどうしたのですか……」と問いたくなりました。しかし、よく考えると彼らには、「まわりに適応する」という一貫性があったのかもしれません。

ただし、キリスト者は「この世と調子を合わせる」ことを慎まなければなりません。それはいのちを失う道です。信仰生活と職場生活を分離させてはなりません。与えられた仕事のために必死に祈ることは、その仕事においてキリストの香りを放つことに通じるのではないでしょうか。

「恵みとまこと」の首飾りをつけながら職場や家庭に遣わされるとき、キリストご自身があなたをその場で守ってくださいます。そのことが、「こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、あなたの足はつまずかない。あなたが横たわるとき、あなたは恐れない。休むとき、眠りはここちよい」(3:23、24) と記されます。

残念ながら、仕事の成果を見せるためにやってはならないことに手を染める人がいます。「うちの職場では暗黙のうちにみんなこうやっている……」と思っていても、いざそれが発覚し、それが文書化されたルールに反しているならば、会社はあなたを守ってくれません。見せかけの成績とともにあなたは不安と不眠を手にするだけということがあります。

ですから、成績をあげることより大切なのは、「あなたは、どなたのために仕事をしているのか……」という視点ではないでしょうか。

4.「知恵の初めに知恵を得よ。すべての財産をかけて、悟りを得よ……」

「知恵の初めに知恵を得よ。すべての財産をかけて、悟りを得よ……それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える」(箴言4:7、8) とありますが、「知恵」とは、この世で成功する手段というよりは、「正義と公義と公正」を「体得する」ためのもので (1:3)、私たちにとってはキリストご自身を指します。また「悟り」とは「見分ける」ための理解力を指します。

パウロは、ピリピ教会のために「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが真にすぐれたものを見分けることができますように」(ピリピ1:10) と祈りましたが、ここでの「知恵」とか「悟り」はそれと同じ意味を持つ言葉です。

これは、私たちが真の知恵である「キリストの心」を既に得ていることと矛盾はしません。実際、パウロも、「私はすでに得たのでもなく、完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」(同3:12) と語っています。

私たちはキリストに既に捕らえられた結果として、「知恵と悟り」を受けているのです。その「キリストの心」によって、キリストをより深く知り、主との交わりをもっともっと深めることができるのです。

私たちは本当に価値あるものにはお金を惜しみません。それならば、福音のすばらしさをより深く理解するためにもっとお金と時間をかけても良いのではないでしょうか。たとえばジェームス・フーストン師はカナダのリージェント・カレッジという神学校を始めた理由を次のように語っておられました。

「キリスト教国では聖書を学ぶことが牧師という職業や学者としてのキャリアーを積む手段となる場合があるが、それは信仰の堕落につながりやすい。聖書をしっかり学んだ上で、ビジネスの世界に生きることがあってもよいのでは……」

実際、そのような人が数多く輩出されています。そのうちのひとりは、「学んだことが生かされています!などとは言えないけど、かけがえのない宝物を受けたことは確かです……」と喜んでおられました。

日本でも聖契神学校を初め、信徒のための聖書学校の働きが拡大傾向にあります。僕自身も、そのように聖書を学びたい人のためなら、時間も労苦も惜しみません。

そして、そのような主をより深く知り主との交わりを深めることへの渇きを大切にする者こそ、「正しい者」つまり「義人」です。そして、「義人の道はあけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない」(4:16、17) とあるように、主との交わりを大切にする人は、年を経るほどに輝きを増すことができます。

しかし、「知恵と悟り」を軽蔑した悪人は、人生の中でいろんなつまずきを体験しながら、自分が何につまずいているかも知らずに、「あの人が悪い、社会が悪い……」と恨みを重ねてゆきます。

私たちにとっての首飾りは、主の「恵みとまこと」です。その中で、現在の職場や家族があります。現代は聖書の時代と異なり、選択の自由があるからこそ、「ここは私がいるべき場所か?」などと悩みます。

もちろん、主ご自身が転職や転居を導くことも多くありますが、それであっても、今、ここで主に拠り頼むという「生き方」こそ、主の明確なみこころです。

いろいろ遠回りしているようでも、私たちには、「義人の道はあけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」という力強い約束があることを忘れてはなりません。あなたは光に向って歩んでいます。