2007年2月4日
詩篇51篇
聖歌隊の指揮者のためのダビデの詩。
ダビデがバテ・シェバに通じた後で、
預言者ナタンが彼のもとに来たとき。
あわれんでください。神よ。あなたの真実の愛によって。 (1)
豊かな情けによって、私のそむきの記録を拭い去ってください。
私の咎(とが)を、ことごとく洗い去り、 (2)
私の罪から、きよめてください。
まことに、この私は、自分のそむきを知っています。 (3)
私の罪は、いつもこの目の前にあります。
あなたに、ただあなたに対して、私は罪を犯し、 (4)
御(おん)目に悪であることを、行ないました。
それで、あなたが宣告されるときは正しく、
さばかれるとき、純粋であられます。
ああ、私は生まれたときから 咎(とが)の中にあり、 (5)
母が私をみごもったときから罪の中にありました。
ああ、あなたは心の内側の真実を望まれ、 (6)
奥深い部分に、知恵を授けてくださいます。
ヒソプをもって罪を除いてください。そうすれば、きよくなれます。 (7)
私を洗ってください。そうすれば、雪よりも白くなれます。
楽しみと喜びとを、私に聞かせ、 (8)
あなたが砕かれた骨を、喜び踊らせてください。
御顔を、私の罪に、お向けにならないで、 (9)
すべての咎(とが)の記録を拭い去ってください。
神よ。きよい心を、私に創造し、 (10)
揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。
御顔の前から、私を投げ捨てず、 (11)
あなたの聖い霊を、私から取り去らないでください。
御救いの喜びを、回復させ、 (12)
自由の霊が、私を支えますように。
私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。 (13)
すると罪人たちは、あなたのもとに回復されましょう。
血の罪から助け出してください。神よ、私の救いの神よ。 (14)
この舌は、あなたの義を、高らかに歌います。
主(主人)よ。この唇を開いてください。 (15)
この口は、あなたへの賛美を知らせます。
今、私がささげても、いけにえを喜んでくださいません。 (16)
全焼のいけにえにさえも、満足してくださいません。
神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれ、打ちひしがれた心。 (17)
神よ。あなたは、それをさげすまれません。
どうかシオンを受け入れ、そこにいつくしみをほどこし (18)
エルサレムの城壁を築いてください。
その時あなたは、義のいけにえ、全焼の完全なささげ物を喜びとされ、 (19)
祭壇には、雄牛のいけにえがささげられることでしょう。
ヘブル語原文から再翻訳 2007年 高橋秀典
1節の「真実の愛」とはヘブル語の「へセッド」、つまり契約を守り通す愛を指すことば。
5節は原文で、「私はとがのうちに生まれ、罪のうちに母は私をみごもった」と記されている。
1節,9節の「記録を拭い去る」の「記録」は原文にはないことば。意味を明確にするために付加。本来、羊皮紙のインクを拭い去って記録をなくすることに由来することばだから。
10節の「聖い霊」は、イザヤ63:10、11で「聖なる御霊」とも訳されることがある。また、新約でもローマ1:4では「聖い御霊」という表現もある。
12節「自由の霊」の「自由」とは「高貴な」「強制されることのない」という意味。
16節の「今」は原文にはない付加。本来価値ある全焼のいけにえも、このときのダビデの力からすればほとんど何の犠牲も払わずにできることだったから。ここは、「あなたはいけにえを喜んでくださいません。私はささげたいのですが、あなたは全焼のいけにえにも満足してくださいません」とも訳すこともできる。
17節の「砕かれた」とは「粉々にされた」とも訳されることば。骨を砕かれたときのように自分の力で立つことができないほどの弱い状態。また「打ちひしがれた」とはしばしば「悔いた」とも訳されるが、本来は、圧倒的な力によって「押しつぶされ」、辱められた状態を指す。両方のことばとも、決して、尊敬される「徳」ではなく、軽蔑の対象とされる状態を指す。
「この人は何という卑怯なことをしたことか。その子供たちが堕落し、自滅したのも無理がない……」と言われるような人、それこそダビデに他なりません。しかし、同時に、彼ほど神に愛され、喜ばれている人もいません。私たちの救い主も、「ダビデの子」と呼ばれ、ダビデが記した詩篇を生涯、愛唱しておられました。それは私たちすべてにとっての祈りの模範であるとともに癒しと慰めの源です。「最悪の罪人で、最高の信仰者」。この神秘の鍵がこの詩篇にあります。私たちはアダムの罪の影響、つまり「原罪」の根深さを本当の意味で知っているでしょうか。私たちはしばしば、「自分の意思の力で神に喜ばれる人になろう……」と空回りを続けてはいないでしょうか。
1.「私のそむきをぬぐい去り、私の咎を洗い去り、私の罪からきよめてください」
この詩篇には明確な背景の説明があります (Ⅱサムエル11、12章参照)。ダビデは、忠実な家来ウリヤからその妻バテ・シェバを奪い取ったあげく、偽装工作に失敗すると、計略にかけて彼を死に至らしめ、約一年近くもの間、模範的な王のふりをしていました。彼は確かに、「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました……」(詩篇32:3) と、良心の呵責に苦しんではいたのですが、自分から罪を認めることはできませんでした。神はそんな彼に預言者ナタンを遣わし、悔い改めに導きました。そこでこの詩篇が生まれました。
その初めは、「あわれんでください」(お情けを!) との叫びです。彼は、何の弁解もせずに自分の罪を認め、「神よ」とすがりついています。その際、「あなたの真実の愛 (ヘセッド) によって」と、自分の不真実を棚に上げるかのように、神がかつて彼に、「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(7:16) と言われた契約にすがろうとしています。そればかりか、「私のそむきの記録を拭い去ってください」と懇願します。「拭い去る」とは、表皮紙に記されたインクを洗い流して、記録をなくしてしまうことです。さらに彼は「私の咎(とが)を、ことごとく洗い去り、私の罪からきよめてください」(2節) と訴えます。これは、「あの過ちをなかったことにし、最初の親密な関係に戻させてください」と、不倫を忘れることを願うのと同じような図々しい訴えです。しかし、この大胆な祈りこそ、神のみこころです。なぜなら、「罪の赦し」とは、神が罪を忘れてくださることに他ならないからです。後に神はイスラエルの罪に対して、「わたしは……あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ43:25) と言われ、また、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思いださない」(エレミヤ31:34) と言っておられるからです。
ところでダビデは、「そむき」(神の基準への反抗)、「咎」(基準をねじまげること、罰を含む概念)、「罪」(基準に到達しないこと)という三つの類語で、自分の過ちを多様に表現していますが、その基本は、神との関係を隔てるものを取り去って、神との親密な関係の回復を願うことにあります。ただし、彼は自分の記憶から過去を消そうとしているのではなく、「この私は、自分のそむきを知っています。私の罪は、いつもこの目の前にあります」(3節) とも告白しています。そればかりか、彼は自分の卑劣さを、世界中の人にオープンにしてしまいました。多くの人は罪の結果として自分の立場がなくなることを恐れますが、彼は神との関係だけを見ようとしています。
彼は、自分の罪を、何よりも創造主に対する反抗と認め、「あなたに……罪を犯しました。それで、あなたが宣告されるときは正しく……純粋です」(4節) と告白します。主はダビデの罪を指摘した際、「わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす……」(Ⅱサムエル12:11) と宣告されましたが、彼は息子アブシャロムによって都を追われるときにも、それを神のさばきの実現として謙遜に受け止めました。もちろん、ダビデはそうならないことを切に祈っていましたが、同時に、「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもする」(ガラテヤ6:7) という原則を受け入れました。殺人を犯した人は、自分の身をもって罪を償うのは当然のことです。しかし、神の赦しを確信した人は、たとえ死刑台に上っても、人々から罵詈雑言を浴びせられようとも、「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22) という神の語りかけを心に聴き続けることができます。それゆえ、私たちはどんな愚かな過ちを犯そうとも、自暴自棄や自己嫌悪に陥らず、明日に向って誠実に生きることができます。たとい、あなたが自分の罪の実を刈り取らざるを得ないとしても、神はあなたとともに歩み、その刈り取りを助けてくださいます。全能の神があなたに微笑んでおられることに勝る恵みはありません。
2.「神よ。きよい心を、私に創造し」
「私は生まれたときからとがの中にあり、母が私をみごもったときから罪の中にありました」(5節) とは、自分の意思の力では、同じ過ちを繰り返さざるを得ない、根深い罪の性質が生まれながら宿っていることを認め、「心の内側……奥深い部分」(6節) から造り変えられることを願ったものです。ダビデが罪を犯したきっかけは、「その女は非常に美しかった」(Ⅱサムエル11:2) としか描かれていません。つまり、私たちも何かのきっかけがあり、そこに社会的な歯止めがかからなければ、何をしてしまうか分らないところがあるのではないでしょうか。実際、私たちも心の中で姦淫や殺人を犯したことがあっても、結果を恐れて実行しないという面があるかもしれません。
「ヒソプ……」(7節) は、過越しのいけにえの血を、かもいと門柱に塗る際に用いられた植物で、これは神の主導で「私」が「きよくなれる」ようにとの願いです。これは、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ1:7) というキリストの十字架を指し示しています。「そうすれば、雪よりも白くなれます」(7節) とは、そのみわざが徹底していることです。そのために神はまず罪を指摘し、私たちの「骨」を砕きます。それは「私は自分の力で立つことができる」という誇りを砕くことです。しかし、それは「喜び踊る」という根本的な変化を内側に起こすためです。私たちは不思議に、自分の罪を知れば知るほど、赦しの恵みの大きさに感動できるからです。3節の自分の罪の自覚の告白と、9節の「御顔を私の罪にお向けにならないで……」という願いは信仰において矛盾しません。それは、私たちが自分の罪を忘れないときにこそ、神は私たちの罪を忘れてくださるという神秘です。
10-12節では、私たちを内側から造り変える聖霊のみわざが記されます。これは旧約の中に隠された新約の希望の福音です。これから四百年余り後、預言者エゼキエルは神ご自身の約束を「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」(36:26) と記していますが、新約の時代とは、その待ちに待った聖霊がすべてのキリスト者のうちに宿るときを指します。ダビデは最初に「きよいこころを創造し」と祈りますが、それは「光があれ。」との一言で光を創造された主による、再創造のみわざです。ただし、医者が患者の同意なしに手術を行なえないように、私たち自身がそれを心から願う必要があります。第一の「揺るがない」とは情欲や欲望に惑わされずに創造主を求める「霊」です。第二の「聖い」とは、「あなたがたの神、主 (ヤハウェ) であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なるものとならなければならない」(レビ19:2) とあるような神の聖さに習う「霊」です。そこでは隣人愛が説かれていますが、ダビデはこれに真っ向から反しました。それで彼は、「御顔の前から投げ捨て」られても仕方がない者でしたが、かつて主の油注ぎとともに受けた「主 (ヤハウェ) の霊」(Ⅰサムエル16:12、13) を「取り去らないでください」と願いました。第三の「自由の」とは強制や報酬によってではなく、「救いの喜び」によって自主的な思いで神に仕えることができる「霊」が、自分を背後から支え、動かしてくれるようにとの願いです。
ダビデの罪はアダムの罪と基本は同じです。アダムは「神のかたち」に創造されながら、「神のようになる」という誘惑に負けました。ダビデは「主 (ヤハウェ) は王である」(詩篇96:10) と告白していたのに、神からあずかった権力を自分の欲望と名誉のために乱用しました。自分を世界の中心、善悪の基準に置くという点でまったく同じです。彼は自分の中にアダムが住んでいることを自分の罪を通して悟り、自分の罪の問題は自分の意思の力では解決できないことを悟ったのです。つまり、彼は自分の罪を通して、キリストの十字架による赦しと、聖霊による新生を預言するものとされたのです。私たちは残念ながら、同じ過ちを何度も繰り返します。しかし、ダビデはひとつの大きな罪によって、神の救いのご計画の全体像を見るように導かれました。私たちも自分の過ちを後悔するばかりでなく、真に自分の弱さ、罪深さを知り、神の霊に心を開くことが大切です。なお、この「霊」とはヘブル語で「ルーアッハ」ですが、発音するときに喉仏が振動することばです。そこに激しい息の響き、生命の躍動が表わされているとも言われます。つまり、「神の霊」のあるところには、真のいのちの喜びと躍動があるのです。
3.「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、打ちひしがれた心」
ダビデが、「救いの喜びの回復」(12節) を願ったのは、自分だけのためではなく、「罪人たちの回復」(13節) のためでもあります。彼はその後、試練を受けながらも、神の御顔が自分に微笑んでいるのを確信できたからこそ、自分の恥をさらし、それを見本として「そむく者たちに(神への)道を教える」ことができたのではないでしょうか。
14節の初めは、「助け出してください」という嘆願です。彼は、「このような流血の罪を二度としません」と約束する代わりに、誘惑に陥らないよう助けられることを願っています。しかも、神への賛美さえも、「主(主人)よ」と呼びかけ、「この唇を開いてください」という願いから始め、自分の中に神のみわざがなされること望んだのです。
16節は、いけにえを否定するものではなく、「今、私(ダビデ)がささげても……」という前提があります。彼は、富と権力によって苦労せずに最上のものをささげることができましたが、その力のために恐ろしい罪を犯しました。それゆえ神は彼に、何よりも「砕かれた霊、砕かれ、打ちひしがれた心」(17節) を求められました。これは人間的には、「軽蔑」の対象に過ぎませんが、「神はそれをさげすまれない」というのです。私たちは自分が謙遜で敬虔な人であると見られたいという誘惑がありますが、そこから偽善が生まれます。しかし、ひとりの取税人が、神の聖所から遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて「こんな罪人の私をあわれんでください」と言ったとき、イエスはこの人を喜んでくださいました (ルカ18:13、14)。しばしば、「私は良い人間だ……」と自他共に自負している人は、自分の力に頼って、自分の自我によって、聖霊の働きを阻害してしまいがちです。
そして神が契約の箱の置かれた「シオンを受け入れ、いつくしみを施してくださる」とき、「いけにえを喜びとされ」ます (18、19節)。それはエルサレム神殿が建てられるときを指しますが、驚くべきことに神殿を完成したのは、バテ・シェバから生まれたソロモンでした。まるで神は、彼女がウリヤの妻だったことを忘れたかのようです。そこに神がダビデの「罪から御顔を隠し、咎の記録を拭い去ってくださった」(9節) ことの証を見ることができます。
イエスは、「心(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3) と言われました。ダビデは自分の心の貧しさを痛感しましたが、神はそれをさげすむ代わりに受け入れ、彼が真の賛美といけにえをささげられるように変えてくださいました。神の息吹が私を生かすためには、まず私自身が自分に死ぬ必要があります。神の御前に沈黙しながら、自分の心の混乱が迫ってくることを恐れる必要はありません。それこそ、聖霊のみわざに心を開く出発点です。葛藤や怒り、不安を神に委ねるとき、神の息があなたのうちに息づきます。
パウロは、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた……私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15) と告白しましたが、「罪人かしらが、伝道者のかしらとされた」というのが、ダビデやパウロの記録です。ですから、私たちはどんな過ちを犯しても、「これで私の未来はなくなった……」などと失望する必要はありません。何度でもやり直すことができます。イエスは兄弟の罪を、「七度を七十倍するまで」赦すように命じられましたが、それは神ご自身がそうしてくださるからです。私たちも、キリストなしには、無に等しい存在ですが、聖霊のみわざに身を委ねるなら、罪人たちに神の道を教え、神のみもとに回復させるほどの影響力を発揮できるのです。