詩篇62篇「ただ神に向かって、私のたましいよ、沈黙せよ」

2007年1月21日

詩篇62篇(交読文)
指揮者のために。エドトンによって。ダビデの賛歌

ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している。 (1)

この方から 私の救いが来る。

この方だけが 私の岩、救い、また砦の塔。 (2)

私は決して 揺るがされない。

いつまで おまえたちは人を襲うのか。 (3)

傾いた城壁か、ぐらつく石垣かのように、こぞって押し倒そうとしている。

彼らは 人の尊厳をおとしめることばかりを 計り、 (4)

偽りを喜び、口では祝福しながら内側ではのろっている。 セラ

ただ神に向かって、私のたましいよ、沈黙せよ。 (5)

この方から 私の望みが来るからだ。

この方だけが 私の岩、救い、また砦の塔。 (6)

私は揺るがされない。

私の救いと私の栄光は 神のもとにある。 (7)

私の力の岩と避け所は 神のうちにある。

民よ。いかなるときにも、この方に信頼せよ。 (8)

あなたがたの心を御前に注ぎ出せ。 神は私たちの避け所。

まことに、人間の子らは 息のようなもの、 (9)

人の子らは 欺くもの。

はかりに載せると上に上がる。

彼らを合わせても息よりも軽い。

暴力に信頼するな。略奪をむなしく誇るな。 (10)

強さが 結果を生んでも、それに心を留めるな。

神は、一度告げられた。 (11)

二度、私はそれを聞いた。

力は 神のもの。

主 (「アドナイ」主人) よ。真実の愛 (ヘセッド) も あなたのもの。 (12)

まことに、あなたは、報いてくださる。

それぞれの人の行ないに応じて。

2007年 高橋秀典訳

注:1.エドトンとはダビデから任命された聖歌隊の指揮者の名だと思われるが (Ⅰ歴代誌16:41)、調べまたは歌い方を指しているという解釈もある。
2.4節は厳密には「彼の高くされた状態から突き落とすことばかりを計る」と訳すこともできる。
3.9節は原文で「アダムの子ら……」「人(男)の子ら……」となっており、これを「身分の低い人々」「高い人々」と区別して訳する場合がある。ただ、それもひとつの解釈に過ぎず、ここでは原文のまま人間一般の言い換えと理解した。

多くの信仰者にとっての落とし穴とは、主ご自身を仰ぎ見ることよりも、自分の「生き方」に目が向ってしまうことではないでしょうか。また、キリストご自身以前に、他の信仰者の成功例に習いたいという誘惑もあります。

ある人が高校時代に放蕩三昧の生活に堕落して敬虔な両親を傷つけていましたが、深夜に帰宅し、そっと自分の部屋に入ろうとしたところ、親の寝室のただならぬ雰囲気に気づきました。母は涙を流しながら自分のために必死に祈っていたのです。彼はその様子を見て、瞬時に神に立ち返りました。ところが、その証を聞いたある父親は、その母親の模範に習おうと、自分の息子の帰宅が後れたときを見計らって、息子に聞こえるように大声を出して「私の息子を救ってください!」と叫びつつ祈ったとのことです。しかし、何も起きはしませんでした。その母親は明日の見通しがないまま、ただ必死に神に向かって心を注ぎだしていました。しかし、その模範に習おうとした父親は、「こうしたら、このような結果が生まれるはず……」という方法に身を委ねていたからです。

今回は、「沈黙の祈り」という昔大切にされ今は忘れられがちな祈りに目を向けますが、その際、「神に向かって」という沈黙の方向を忘れてはなりません。それは救いの時期も方法も「神の自由」に委ねることです。振り返ってみると、私は何よりも失敗することを恐れて生きてきました。そのため人の行動を予測し、管理したいような思いがあり、予想外の事態に腹を立てることがありました。その態度は神にも向けられていたような気がします。そのため、神から示された道もまた意外な恵みも数多く見逃してきたような気がします。あなたはどうでしょう?

1.「ただ神に向かって……沈黙している」

「ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している」(1節) とダビデは告白しています。彼があれほど大きな神の祝福を体験できた鍵は、人間的な打算を超えて神に期待し続けたことにありました。しかも、彼は人間的な意味での成功も、すべてが神のみわざであることを認めていました。この「沈黙」は「黙って……待ち望む」と意訳されることもあります。「信頼」と「沈黙」は、表裏一体のもので、信頼のないところに沈黙は生まれないからです。それは、「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります」(詩篇131:2) と告白できる状態です。母親に必要を満たされた幼児は、目の前に母親がいること自体を喜んで、嵐の中でも安らいでいられることがあります。ですから神の御前に沈黙できることは、神への最高の愛の表現です。ではあなたは神の前でどれだけ沈黙できているでしょう?

イザヤは「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである」(57:20) と言いました。これは私たちの問題かもしれません。口先では「私は神に信頼している!」と言いながら、行動では、人の目を恐れ、人間的な力や富を頼りにして生きます。その心の分裂状態が、沈黙の中で顕わにされます。ですから、以前、私は、沈黙が恐怖で、敵意さへ感じました。心の底に押し殺していた不安や憎しみ、欲望が吹き出て、収集がつかなくなるように感じたからです。それを避けるため、心と身体を休みなく動かし続けてきたのかもしれません。しかし、マイナスの感情は、押し殺しても、腹の底に確かにあり、それが私を動かし続けたのです。その結果、些細なことにエネルギーを傾け、周りの人々までも振り回してきたことがあるような気がします。しかし、その一時的な混乱を通り越すなら、沈黙を通して、神への信頼が、たましいの奥底に根を張るという世界に入れられます。それは、もはや口先だけの信仰ではなく、神に焦点を合わせた行動が生まれます。

「ただ神に向かって」という沈黙の方向性こそが鍵です。羅針盤の針が常に北極を指すように、「私はいつも、目の前に主 (ヤーウェ) を置く」(16:10) のです。心の目を、世の富や権力、人の評価などにではなく、ただ神に集中します。なぜなら「私の救い」は、この世の人や物の背後におられる「この方から……来る」からです。あなたは解決の「方法」にばかり目が向って、神がどのような方かを忘れてはいないでしょうか。聖書を読んで不思議なのは、神の奇跡は毎回ユニークで同じ繰り返しがないことです。しかも、ひとつのみわざを通して驚くほど多くの人の生き方自体を変え続けて来ました。神の御前に静まりながら、自分の人生を神の救いの大きな物語の一部としてとらえ直してみましょう。あなたの身に起こる悲劇さえ、より大きな喜びの物語の一部とされます。ダビデは不当な苦しみを受け続けましたが、それを通して多くの詩篇が生み出され、苦しむ人々に希望を与えています。

2.「神から、私の望み が来るからだ」

ところが、私たちは「この方だけが私の岩、救い、また砦の塔。私は決して揺るがされない」(2節) と告白しても、すぐにまわりの状況に心が揺すぶられます。ダビデ自身も自分を攻撃する人々のことに心が奪われました。神が「私の……砦の塔」と呼ばれるのは、敵の手の届かない高い所に、私は守られているとの告白ですが、人々にはその土台が、「傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように」(3節) 見えます。ダビデもサウル王のもとで最初は輝かしい栄誉を受けていましたが、サウルから追われる立場になったとたんに、自分の同族であるユダの人々からさえも裏切られました。彼らは自分の身の安全ばかりを考え、「口では祝福しながら内側ではのろっている」ような人たちでした。私たちもダビデと同じように神に選ばれた者としての「尊厳」を与えられていますが、それを見る周りの人々はねたみに駆られ、私たちを「おとしめることばかりを計る」ようなことが現実に起きます。

そんな中で、ダビデは自分の「たましい」に、「沈黙せよ」と命じる必要がありました (5節)。1節の「沈黙」は名詞でしたが、ここは動詞形で、多くの翻訳は命令形と解釈しています。たましいはいつも何かに固着しようとしますから、黙っていると勝手な方向に走り出してしまいます。ですから、様々な思いが湧き起こっても、川の流れを見るように右から左に次々とただ流しながら、「ただ神に向かって……沈黙せよ」と、自分のたましいに穏やかに優しく語りかけることが大切です。その際、分散した心を神に向ける鍵の言葉を持っていると助けになります。それは、「主よ!」のひとことでも、「主よ。あわれんでください」と繰り返すことでも、自分にあったパターンがあります。

そしてここでは、「私の救い」(1節) の代わりに「私の望み」(5節) が、「この方から……来る」と告白されます。この沈黙の中で、たましいは、自分の願望からしだいに自由になり、神から与えられる「望み」を、「私の望み」とするように変えられます。マリヤは受胎告知を受け、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38) と祈り、「神の望み」を「私の望み」としました。私は自分の願望に縛られ続けてきたように思います。しばしば、この世的な成功は、その構えをかえって強化させることになります。しかし、期待が強過ぎると、その通りにならない現実の中で失望し、疲れることも多くなります。しかも、自分の期待に縛られていると、その枠を外れたところに注がれている数多くの神の恵みに気づくことができなくなります。そして不満ばかりに目が向かうと、神からの恵みに心がますます鈍感になり、感謝の代わりに不満が鬱積するという悪循環に陥ります。しかし、沈黙の祈りはそれを逆転させ、日常生活の中に驚くほど多くの神の恵みのみわざを発見させる助けになります。

ダビデは徐々に力を抜いて、「この方だけが私の岩、救い、砦の塔。私は揺るがされない」(6節) と受動態で希望を告白できるようになってきました。これは2節の繰り返しのようですが、嵐をくぐり抜けたことで、「決して」という「力み」が抜けています。それは、心が大きく揺るがされるのを体験した後に、そんな自分が神によって支えられていることを実感したからです。「私の救いと私の栄光」は、自分の努力以前に、すべて「神のもとにある」からです (7節)。そして「私の力の岩と避け所」は、自分の信仰以前に、「神のうちにある」からです。

3.「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」

ダビデは、実体験を踏まえて、「民よ。いかなるときにも、この方に信頼せよ」(8節) と勧めます。しかも、その上で、「あなたがたの心を、御前に注ぎ出せ」と、一見、沈黙の反対とも思えることを勧めます。それは心の内側にある様々な混乱した思いを「私たちの避け所」である神に、正直に打ち明けることです。神への沈黙は、感情に蓋をすることではないからです。実際、「注ぎ出す」とは、「空にする」とも訳される言葉で、沈黙とは矛盾しません。湧きあがった不安や怒りや悲しみを、優しく受けとめた上で、たとえば「主よ。私は不安です……」と言いつつ、その気持ちを主にささげるのです。すると、感情の嵐は、しだいに落ち着きます。目の前のハエを追い払おうとするならハエは暴れます。しかし、無視するなら、ハエは静かに立ち去ります。それと同じかもしれません。

9、10節は翻訳が困難ですが、人の力に頼ることのむなしさが語られていることは確かです。神は現在、天からパンを降らせる代わりに、人との協力から成り立つ仕事を通してパンを与えられます。しかし、目に見える現実に心が奪われ、神の前に静まることを素通りするなら、人の顔色ばかりを窺うような人間の奴隷になってしまいます。しかも、人は所詮自分の身を守ることに夢中で、いざとなったら「欺くもの」です。また、この世の権力者が人の目にどんなに重く見えても、神の目からは「息よりも軽い」存在に過ぎません。「暴力に信頼するな」(10節) とは、8節の「この方に信頼せよ」との対比表現です。人は「暴力」または「力による強制」に動かされがちで、短期的には効果的ですが、そこに落とし穴があります。それが、「強さが結果を生んでも、それに心を留めるな」という勧めです。富や力を基にした「強さ」は、麻薬のように人を依存させ、目に見えない神を忘れさせるからです。

「力は、神のもの」(11節) とあるように、目に見える力の背後におられる神にこそ目を向けるべきです。そして、王であるダビデは、「主 (「アドナイ」主人) よ」と呼びかけつつ、「真実の愛(ヘセッド)も、あなたのもの」(12節) と、主がご自身の契約を守り通してくださる真実さを賛美します。「神を知る」という黙想の目的は、何よりも「神は真実です」(Ⅰコリント10:13) ということを腹の底に据えることです。そして最後に、主を「あなた」と呼びつつ、この世の因果律や方法論を越えて、ただ神だけが私たちの労苦に公平に「報いてくださる」方であると告白します。確かに、誤解を受け非難されることは本当に辛いことです。しかし、肉なる人間は誰も、あなたを完全に理解し、正しく評価することはできません。それなのに私たちは、「この人にだけは分ってもらいたい……」などと忙しく動き回ったあげく、主の御前に静まるという時間を亡くしてはいないでしょうか。私自身、人から誤解されたくないという思いに駆り立てられて、無駄な時間を過ごしたばかりか、問題を広げてしまったことすらあったことを反省しています。この世の不条理は常に目の前にあることを受け止め、この世の尺度を越えた神の視点にすがるべきなのです。

私たちは常に神に向かって生きるべきです。その始まりは、神の御前に心を注ぎ出し「空」にすることです。黙想の目的は、霊的な恍惚状態を体験することではありません。光は、ちりに反射することで見られるのですから、心のちりに驚く必要はありません。こころを透明に、空にすることで、「キリストの心」(Ⅰコリント2:16) が、「土の器」を通して生きることが可能になります。そのきっかけが神の前に沈黙することです。そしてその「実」は、しばしば黙想の中ではなく、日常生活に知らないうちに表わされます。「実」が見えないことに失望する必要はありません。