詩篇8篇「人とは何者なのでしょう」

2006年12月24日

詩篇8篇
指揮者のために。ギデトにあわせて。ダビデの賛歌

主 (ヤハウェ) よ。 (1)

私たちの主(主人)よ。

御名は全地で、なんと威厳に満ちていることでしょう。

そのご威光は、天を越えたところに輝いています。

あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられ、 (2)

刃向かう者を沈黙させ、敵と仇(あだ)とを動けなくさせました。

あなたの指のわざである天を仰ぎ見、 (3)

あなたが配置された月や星を見ますのに、

人とは、何者なのでしょう。

これを御心に留めてくださるとは。 (4)

人 (アダム) の子とは、何者なのでしょう。

これを顧みてくださるとは。

あなたは彼を、神よりわずかに低いものとされて、 (5)

栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいます。

あなたは御手のわざの数々を彼に治めさせようと、 (6)

すべてのものを彼の足の下に置かれました。

すべて、羊も牛も、また、野の獣も、 (7)

空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 (8)

主 (ヤハウェ) よ。私たちの主(主人)よ。 (9)

御名は全地で、なんと威厳に満ちていることでしょう。

2006年高橋訳

注:
ギテトの意味は諸説があり定かではないが、立琴の一種ではないかと思われる。
1節最後の行は原文で、「それ(御名)は、あなたの威光を諸天の上に置かれた」となっている。
2節の「(刃向かう者を)沈黙させ」は、「幼子と乳飲み子の口」との対比での意訳。
4節の二行目の「(人の子とは)何者なのでしょう」は、原文では省かれていることば。
5、6節の「彼」は、本来4節の「人」または「アダムの子」を指し人類全般を意味するが、
ヘブル2:7、Ⅰコリント15:27、エペソ1:22では「キリスト」を指す代名詞として理解されている。
5節、6節は、動詞の時制として、「低いものとされて」は完了(厳密にはワウ倒置未完了)、
「冠をかぶらせ」は未完了(未来的な意味)、「治めさせようと」は同じく未完了(未来)、
「置かれました」は完了という区別が敢えてつけられていると解釈できる。

私は、クリスマスを、「イエス様のお誕生日」としてよりは、「太陽を造られた神が赤ちゃんとなった日」として描くのが好きです。ルカによる福音書ではイエスの誕生の記事は、臨月を迎えたマリヤが旅先で宿屋にも入れてもらえず、自分で産み、布にくるんで飼い葉おけに寝かせるというわびしいものに描かれています。マタイによる福音書では、時の権力者ヘロデ大王からいのちを狙われ、ヨセフが幼子イエスと母を連れてエジプトに逃れるという悲劇と結びつけて描かれます。しかし、そのひ弱な乳飲み子は全能の神によってしっかりと守られていました。そして、その弱さのうちに表わされた神の力を前に、世々の権力者たちは沈黙し、動くことができなくなったのです。私たちはより強く、より賢くなることを求めるのが常ですが、人の価値はそのような基準ではかれるのでしょうか?

1.天に表わされた神の栄光

この詩篇にはダビデによって記されました。万軍の主は、彼を「羊の群れを追う牧場からとり……イスラエルの君主とし」(Ⅰ歴代誌17:7) たばかりか、ダビデ王家は永遠に続くと約束されました。それを聞いたダビデは、「神、よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家について、はるか先のことまで告げてくださいました。神、よ。あなたは私を、高い者として見ておられます」(Ⅰ歴代誌17:16、17) という感謝の祈りをささげました。これこそ、詩篇8篇が記された背景です。そしてこれは、ダビデばかりか、イエスを自分の救い主として信じるすべての人にとってのかけがえのない告白となっています。それは、今、神が、キリストのうちにある私たちひとりひとりを、何と、ダビデのように「高い者」として見ておられるからです。

ダビデはまず「主 (ヤハウェ) よ」と、神のお名前を呼びかけます。神はご自身を、「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジ3:14) と紹介されました。多くの人々は、自分の必要から始まって神を求めます。私もそうでした。ただ、そうすると、「祈りがかなえられた。確かに神はおられる!」と感謝できることがあるかと思えば、そのうち、「あれは単に偶然が重なっただけ……この私が頑張ったから……」などと思ったり、期待はずれのことが起こると、「神を信じようと信じまいと、人生に大差はない……」などと思うことになりかねません。そればかりか、そこには本当の意味での「生きる目的」も生まれません。聖書は、ただ「初めに神が天と地を創造された」という宣言から始まります。つまり、すべてに先立って神がおられるという前提を信仰をもって受け止め、「神がおられるから世界が存在し、私が存在し、私が神を知ることができる」と考えるように求められているのです。そして、その創造主である神を、「私たちの主(主人)よ」と呼びかけます。これは、当時の奴隷が主人に向って使う表現です。もちろん、神は私たちを奴隷のように扱いはしませんが、神は、私たちのための御用聞きのような方として存在しているのではなく、私たちに自分の命を賭けてでも成し遂げる任務を与えることができる絶対者としておられるという告白です。多くの人は、何のために生きているのかが分らないという倦怠感の中にいますが、神は真の生き甲斐を与えてくださいます。

そして、「わたしはある」と言われる方の名の意味は、「全地で、威厳に満ちた」ものとして既に証しされています。ですから、霊の目が開かれた人は、「世界は何と不思議に満ちていることか!」と感謝できるようになります。そして、その方の「ご威光は、天を越えたところに輝いています」(1節) とは、天の下に住む者には、天の上に輝く神の栄光は見られないという現実を指します。後に預言者イザヤは、「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ」(イザヤ40:22) と表現しました。いなごが人の心を理解できないのと同じように、人は「天蓋の上に住まわれる」神のことを知ることはできません。ただひとつの道は、創造主ご自身が私たちのレベルにまで降りてきてご自身のことを知らせてくださることです。ただ、この地の多くの人にはその語りかけを聴く耳を持っていません。彼らは自分の目、自分の知恵、自分の力に頼って生きることばかりを考えているからです。

「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられ」(2節) とは、この世の無力なものこそが神のみわざを理解できるということを指します。イエスが神殿の中で盲人や足なえをいやしたのを見て、子どもたちは、「ダビデの子にホサナ」と賛美しましたが、ユダヤ人の宗教指導者は、聖なる宮の中で神以外の方が賛美されるのは許せないと思って、それに抗議しました (マタイ21:14-16)。そのときイエスは、このみことばを引用され、ご自身と神に「刃向かう者を沈黙させ」ました。このように神は、この世の取るに足りない者をご自身の働きに用いられることによって、自分の力を誇っている「敵と仇と」を恥じ入らさせ、「動けなくさせ」られるのです。

神は今も、「私は賢い……私には力がある……」と思っている人々からご自身を隠されます。それは、「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Ⅰコリント1:27) とある通りです。私たちも、自分の知恵や力を証明しようと必死になることでかえって本当の神の姿を見失うことがあるかも知れません。ただ、力を抜いて、神がお造りになられた世界の美しさを鑑賞し、自分の無力さを認めながら、神に向かって祈ることの中で、神はご自身を表わしてくださいます。

2.「あなたの指のわざである天を仰ぎ見……」

「あなたの指のわざである天を仰ぎ見、あなたが配置された月や星を見ますのに……」(3節) とは、街灯のない暗い所で夜空を見上げるとき直感的に感じられる驚きです。夏の夜空に輝く美しい天の川は、銀河系の中心を見ているものですが、その直径は光の速度(一秒で地球を七周半まわる)で八万五千年もかかります。それも数億光年もの広がりがあると言われる全宇宙の中では豆粒のようなものです。それらすべてが、神の「指のわざ」に過ぎないというのです。そのような大宇宙に思いを巡らすとき、「人とは何者なのでしょう。人の子とは何者なのでしょう」(4節) と問いたくなります。その広さから人を見ると、蟻よりもはるかに小さく、吹けば飛ぶようなひ弱な存在に過ぎないからです。しかし、神はその小さなひとりひとりを「御心に留め」、また「顧みてくださる」というのです。「御心に留める」とは、しばしば「覚える」と訳されることばで、神が私たちひとりひとりを御心の中に覚えていてくださることを意味します。また「顧みてくださる」とは、高い地位にある人が無名の人に特別に目をかけるという文脈で使われる言葉です。ダビデは自分がイスラエルの王として選ばれた理由が、自分の能力や信仰が評価されたとは思っていませんでした。ただ、神が一方的に自分に目を留め、覚え、守り、引き上げてくださったと感謝していました。

パスカルはそのことを、「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だがそれは考える葦である。」(パンセ347) と言いましたが、それは、人は、宇宙の巨大さと自分の頼りなさを知ることができるから尊いという意味です。私たちは、自分の頼りなさを知り、孤独を、また見捨てられることを恐れており、それがゆえに、自分の知恵や能力を示し、「私は愛されるに値する存在です……」とアピールしようとします。そこから人と人との比較や競争が始まり、心の中で、「確かに私は弱く愚かだとしても、あの人よりはましだ……」と思うことで慰めを得ます。しかし、自分の絶対的な頼りなさと真正面から向き合うことこそ、人間の尊厳である「考えること」の本質なのです。

私は学生運動が行き詰まりになった時代に育ち、一つの思想信条に捕らわれることの危険を感じ、また「真理」ということばに隠された偽善を見抜くことを覚えさせられました。ですから、この私が聖書を真理と受け止め、牧師となっていること自体が奇跡とさえ思えます。私にとっての信仰とは、自分の側から始まったものではありません。自分に失望しているようなときに、ふと、私の創造主が私を「御心に留め」、また「顧みて」おられるということに気づかされたということに始まっています。まさに神への信仰は、上から与えられるものであるとつくづく思わされます。

3.「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとされて……」

「あなたは、彼を、神よりわずかに低いものにされ」(5節) とは、人がすべて、「神のかたち」に創造され、神と対話することができるという意味です。「栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいます」とは、将来的な約束です。先の「人の子」とは原文で「アダムの子」と記されていますが、私たちはキリストにあってアダムが失った祝福を再び受けるものとされました。「御手のわざの数々を人に治めさせようと」(6節) とは、神が人を創造された本来の目的です。しかし、人が神に逆らい、自分を神のようにして以来、人は反対に環境破壊の元凶になってしまいました。ただし、神は創造の秩序として、既にすべてのものを「彼の足の下」に置いておられます。それは、「羊も牛も、また野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うもの」(7節) すべてに及ぶことです。動物の世界にも広がる弱肉強食の争いは、アダムの罪によって起こったことで、本来の神の意図ではありませんでした。しかし、私たちが「栄光と誉れの冠を受ける」とき、この世界には、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し……雌牛と熊とは共に草をはみ……乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ……」(イザヤ11:6-8) という平和が実現します。預言者たちはこのような世界をもたらすために救い主が来られると預言していました。それがクリスマスに実現し始めたのです。

ヘブル人への手紙2章では、「彼を……」の部分を、人となられた神、イエスを当てはめて解釈しています。最初のアダムは、「神よりわずかに低いものとされた」ことに満足せず、自分を神のように高くしようとして世界の悲惨の原因となりました。しかし、第二のアダムであるキリストは、父なる神と共に世界を創造された神でありながら、敢えてご自分を低くされ、すべての人の罪を負うための十字架の死の苦しみまで味わうところまでご自分を低くされました。そして、父なる神は、このキリストを死人の中からよみがえらせ、私たちの初穂として「栄光と誉れの冠をかぶらせて」くださいました。そして今、神の右の座に置かれ、すべてのものをご自身の「足の下に置かれ」、「王の王、主の主」として「御手のわざを……治めて」おられます。そして、私たちもキリストの姿に習って自分を低くすることで、キリストとともに世界を治めるという使命を一歩一歩、この地にいるときから果たし始めることができるのです。創造主であるキリストが人となられたのは、私たちをご自身の「栄光と誉れ」にあずからせるためでした。また、この方が人々の侮辱に耐えられたのは、私たちが不滅のいのちを受け継ぐことができるためでした。神は、取るに足りない者を高く引き上げるということこそ、ダビデの感動でした。そして、ダビデは神の忠実なしもべとして国を治めました。あなたも同じように神によって選ばれ、神が委ねてくださる働きにつくように召されているのです。あなたは神の代理としてこの地を治める崇高な責任がゆだねられています。それは創造の秩序として既に始まっている責任であり、来るべき世界で完成する責任でもあります。イエスはその点で、私たちの初穂、模範であられます。

最後にダビデは、「主 (ヤハウェ) よ。私たちの主(主人)よ。御名は全地にわたり、なんと威厳に満ちていることでしょう」(9節) と繰り返します。ここに私たちを主への賛美に招こうとする彼の情熱を見ることができます。

キリスト者とは、ご自分を低くされたイエスの生き方に習いたいと願う者です。そこに御霊のみわざが表わされています。そのとき「幼子や乳飲み子たちの口によって、力を打ち建て」られる神が、私たちを通して、ご自身の栄光を表わしてくださるのです。強がりを捨て、幼子のように主にすがりましょう。そこから偉大なことが始まります。 は、イエスが生まれた飼い葉おけの傍らに自分が立っている姿を黙想します。自分の霊、感覚、心、たましい、思いのすべてがイエスからの贈り物であることを思い起こし、それを、自分を大きくするためではなく、飼い葉おけに眠るほど貧しくなられた方にささげようと決意します。そして、イエスが自分のために苦しまれたことを覚え、イエスを喜ばせるために仕え、自分のからだを新たな住まいとして用いていただきたいと祈ります。

飼い葉おけ(まぶね)のかたわらに
1653年Paul Gerhardt作 2006年高橋訳

  1. きみがまぶねに われは来たり いのちの主イエスよ きみを想う
    受け入れたまえや わがこころすべて きみが賜物なり
  2. この世にわれまだ 生まれぬ先 きみはわれ愛し 人となりぬ
    いやしき姿で 罪人きよむる くしきみこころなり
  3. 暗闇包めど 望み失せじ 光 創りし主 われに住めば
    いのち 喜び 生み出す光 うちに満ちあふれぬ
  4. うるわしき姿 仰ぎたくも この目に見えぬ きみが栄え
    ちいさきこころに 見させたまえや はかり知れぬ恵み
  5. 深き悲しみに 沈みしとき きみは慰め 語りたもう
    「われは汝が友 汝が罪すでに われはあがなえり」と
  6. 救いの星よ いといたわし わらと干し草に 追いやられぬ
    黄金(こがね)のゆりかご 絹の産着こそ きみにふさわしきを
  7. 干し草捨てよ わら取り去れ きみがため臥所(ふしど)われは作らん
    すみれ敷き詰め きみが上には かおりよき花びら
  8. おのが喜び 望みまさず われらが幸い きみは求む
    われらに代わりて きみは苦しみ 恥を忍びましぬ
  9. 主よ わが願いを聞きたまえや 貧しきこの身に 宿りたまい
    きみがまぶねとし 生かしたまえや わが主 わが喜び