2006年9月24日
聖書は、この世に人間の尊厳を教えてくれました。しかし、同時に、人々が聖書を「道徳の書」かのように受け取るようになったとき、最も大切な真理が見過ごされることになりました。それは、全宇宙の創造主が、私たちを恋い慕ってくださり、私たちの一途な愛の応答を求めておられるという、愛の関係です。
1.「隠されているもので、知られずに済むものはありません」
イエスはパリサイ人や律法学者を厳しく非難しました。それは彼らが聖書の教えをゆがめて、神の国に「入ろうとする人々を妨げた」からです(11:52)。そのため彼らも「イエスに対する激しい敵対」の思いを抱き、「イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った」(11:54)のです。イエスは、それを知っておられ、弟子たちに、「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです」(12:1)と言われました。パン種は、古いパンを発酵させ、新しいパンを膨らませるために用いますが、そのように彼らは見せかけを良くすることに長けています。「偽善」は英語でhypocrisyと呼ばれ、それはここで用いられているギリシャ語に由来し、目に見える姿とその下に隠されているものが正反対になっている状態を指します。事実、彼らはイエスのまわりに多くの人々が集まってくると、公然と非難する代わりに、表面的に好意を示して食事に招いて訴える材料を探したり、またスパイを用いたりしていました。
イエスはそれを背景に、「おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません」(12:2)と言われました。キルケゴールは神のさばきについて、人は罪を犯すたびに自分自身でその報告書を書いている、それは神秘なインクなので、永遠の世界での光にかざされる時はっきり見えるようになる、しかもそれは自分の良心が認識しているので神の前で弁明の余地がなくなる、また、神の前から逃走しようと急ぐほど、その報告書が顕わにされるときが早くなると説明しました。イエスはパリサイ人の内に隠されているものを顕わにすることで、彼らが永遠のさばきを今から意識できるように計っておられます。それは彼らを永遠のさばきから救い出そうとする「愛」です。
なお、彼らはその偽善によって、イエスと弟子たちをこの地上の裁判の席に引き出そうとしています。それによって、「あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められる」(12:3)というのです。たといイエスの弟子たちが人々の攻撃を恐れて「隠れキリシタン」として生きようとしても、彼らの信仰は必ず顕わにされます。それはたとえば、あなたが人々から仲間はずれになることを恐れて自分の信仰を隠しても、周りの人が既に、「あの人、ちょっとおかしくない。何かクリスチャンらしいわよ・・」とうわさしているということかもしれません。ですからマタイは、自分を守ろうとする代わりに積極的に、イエスが、「わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい」(10:27)と命じられたことを記録しています。
キルケゴールは、世の道徳を説くキリスト教は、罪の反対を「徳」(善行)と描くが、キリストご自身は、罪の反対を「信仰」として描いていると指摘していますが、そのことがここに表されています。つまり、「現され・・知られる」ことになるのは、隠されたパリサイ人の罪であるとともに、弟子たちの信仰なのです。
2.「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。」
そして、イエスは弟子たちを、「わたしの友」(12:4)と呼びながら、「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい」(12:4,5)と、「恐れる」という言葉を四回も繰り返して印象的に語っておられます。あなたは誰の前にひれ伏すのか、誰にすがるのか、誰のことばを重んじるのかが問われます。たとえば、私たちは、自分が心から尊敬する人のことばは、ひとことも聞き漏らすまいと集中するように、神を「恐れる」なら、みことばを真剣に心で聴くはずです。また、人よりも神のさばきを「恐れる」なら、神に必死にすがりつくという姿勢が生まれるはずです。しかし、パリサイ人たちは、神に向かって自分の敬虔さをアピールするばかりで、「主にすがる」(申命記10:20、30:20)という謙遜さが見られませんでした。
「五羽の雀は二アサリオン(一アサリオンは一デナリ《労働者の一日分の賃金》の十六分の一、直径三cmぐらいの銅貨)で売っているでしょう」とは、「五匹のいわしが二百円」のように、一羽で売られないほど無価値という意味です。そして、「そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえもみな数えられています。恐れることはありません。あなたがたはたくさんの雀よりすぐれた(区別された)ものです」(12:6,7)と言われます。頭の毛は約14万本もあると言われますが、それを神は数えておられます。そして、雀の一羽一羽の命を守っておられる神は、私たちひとりひとりを特別な存在として見分けておられるので、「あなたがたの父のお許しなしには」(マタイ10:29)、誰も危害を加えることはできないというのです。私たちが、どんな悲劇や困難に出会ったとしても、それは神のご支配の中にある災いです。そして、神は、どんな悲惨をも、将来の益に変えることがおできになるのです。
そしてイエスは、明確な対比表現で、「だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます」(12:8,9)と言われました。この後に、人々の前で「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)と告白することで命を失うような大迫害の時代がやってきます。イエスは、それを見越された上で、神はそれをも支配しておられることを覚えさせ、ご自身への誠実を第一とするように警告されました。
遠藤周作は、「沈黙」という小説で、1633年に日本の代理管区長という重責を担ったフェレイラ神父が迫害を受けて転んだ(信仰を捨てた)という実話に基づきながら、「イエスは、人の命を助けるためならご自身を否認することを勧めてくださる・・」という物語を創作しています。しかし、それはこの聖書の教えに真っ向から反するばかりか、その後の重大な結末を省いています。フェレイラ神父は、その直後「顕偽録」という反キリスト文書を書かされ、日本人と結婚させられ、キリシタンを発見して棄教させる働きを担わされます。彼は結果的に、誰よりも多くの日本人を霊的な死に追いやることに加担させられたのです。これは、やくざの脅しに負けて金を出すと、骨までしゃぶりつくされるということにも似ているかもしれません。イエスは私たちをそのような悲劇の結末から守るために、脅しに負けることを厳しく戒められたのです。
3.「聖霊をけがす者は赦されません。」
ところで、世界で最初に、人の前でイエスのことを知らないと言ったのは誰でしょう。それは一番弟子のペテロに他なりません。それを知っておられた主は、まるでセーフティーネットを張るように、「人の子をそしる(に反する)ことばを使う者があっても、赦されます」(12:10)と付け加えます。それは、「神の御使いたちの前」に出る前に悔い改めることができるためです。実際ペテロはその直後に「激しく泣いた」(22:62)のでした。それは、イエスが、彼の信仰がなくならないように、あらかじめ祈ってくださったことの結果でした(22:32)。そして今、「弱い私たちを助け・・・深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」方が「聖霊」です(ローマ8:26)。ですからイエスはここで、「聖霊をけがす者は赦されません」(12:10)と付け加えます。遠藤は神の「沈黙」につまずきました。しかしそのとき、神の御霊ご自身が、私たちの内側で、うめき叫んでおられたのです。それに耳を塞ぐことこそ「聖霊を汚す罪」ではないでしょうか。神の御許しなしには一羽の雀さえ地に落ちないのなら、絶望的な状況とは、神の圧倒的な勝利を体験するための舞台に過ぎないと断言できます。そして、神は、私たちが聖霊に導かれて叫ぶのを待っておられます。
何より注意すべきなのは、罪を犯してしまうこと以上に、「私は取り返しようのない罪を犯してしまった・・・」と、自分の罪に絶望することです。それは、「私は、本当は善人なのに・・」と思いたい気持ちの裏返しにすぎないかも知れません。「主を恐れる」とは、自分の罪が隠しようもなく、御前から逃げようもないことを認めることです。残された道は、ただ「主にすがる」こと、大胆に赦しを願うことしかありません。それにしても私たちは、心から「ごめんなさい!」と言ったら、自分の存在自体を失ってしまうような恐怖心を心の奥底に持っています。アダムが最初の罪の後に謝罪できなかったように、赦しを願うことは私たちには極めて難しいことなのです。ですから、神は、そのような私たちのかたくなさをご覧になられて、ご自身の御子を十字架にかけてまで、ご自身の「赦し」をあらかじめ私たちに明らかにしてくださいました。
聖霊は創造主でもあられ、私たちの冷めた心の奥底にイエスの贖いのみわざを悟らせ、イエスへの愛を燃え立たせてくださいます。そして、私たちがこの聖霊に導かれて「イエスは主です」と告白し続けるなら、どんな悲惨な体験も無駄にならず、神はすべてを働かせて益としてくださいます(ローマ8:28)。
それにしても、「私は迫害にあったら耐えられるだろうか?」などと心配する必要はありません。それをイエスは、「人々が・・会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」(12:11,12)と保証してくださいました。あなたを守るのは、あなたの信仰心ではなく、聖霊ご自身です。
キルケゴールは、世の道徳宗教を批判し、自分の罪への絶望こそが「死にいたる病」であると説きつつ、「信仰者とは、世の最も熱烈に恋する者にまさって、恋する者である」と述べました。「主よ、人の望みの喜びよ」はイエスへの恋愛の歌です。バッハは当時の賛美歌をアレンジして、「心と口と行いと生命をもって」というカンタータを作りました。そこにはイエスを否認する者へのさばきの警告と、全身全霊をもって主を恋い慕うことの喜びが歌われています。主から恋い慕われて主を恋するという関係の中で生きるとき、あなたは、神に創造されたままの姿で、そのいのちを輝かせて生きることができるのです。