ルカ10章29〜42節「どうしても必要なものはただ一つだけです」

2006年7月23日

「善きサマリヤ人のたとえ」は、教会の歴史の中で、単なる「隣人愛の模範」としてひとり歩きするようになり、そのうちに、その人がどのような神々を信じていようとも、隣人愛を実践できているかどうかの方が大切であるとの解釈さえ生まれました。しかし、著者ルカは、この直後に、「マルタとマリヤ」のことを記し、主のみこころを聞くことを後回しにした熱心さによって主を悲しませた実例を紹介します。それは、主の御前に静まり、主の御声を聞くことこそ、すべての隣人愛の原点とならなければならないからです。

1.「愛されている者らしく、神にならう者となりなさい」

イエスのたとえは何よりも、「自分の正しさを示そう」とした律法学者が、「では、私の隣人とは、だれのことですか」と尋ねたことへの答えです(29節)。彼は、隣人の範囲を限定することによって、「私は隣人を愛しています」という「正しさ」を示そうとしていました。ですから、たとえの目的は、「私は責任を果たしています・・」という自己正当化を砕くことにありました。そこで、主は、強盗から半殺しにされた人の横を、祭司もレビ人も通り過ぎて行った中で、軽蔑されている異教徒のサマリヤ人が最高の愛を尽くしたという例を語ります。その上で、主は、「この三人の中でだれが・・隣人となったと思いますか」(36節)と尋ね、「隣人とは、だれか」という問いを、「隣人となるとは?」という問いに発想の転換を迫ったのでした。

そしてこの背後には、主のイスラエルに対する愛を描いたみことば、「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた」(申命記32:10)があるように思われます。つまり、これは、「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」(エペソ5:1)とあるように、自分の限界を自分で設定せずに、神の無限の愛にならうようにとの勧めなのです。ただし、そこから、たとえば、アメリカの救急医療の現場を描いたドラマのような、「どこまでやってもきりがない・・」という、礼拝する時間もなくなるほどに殺人的に忙しい生活への駆りたてが生まれる可能性があります。

イエスは、このたとえを、注意深く描いています。それは、祭司もレビ人も、「エルサレムからエリコに下る道で・・その道を下ってきたが・・・」(30,31節)とあるように、エルサレム神殿で神への礼拝をささげてきたその礼拝の帰り道で、半殺しにされた人に出会うという場面設定です。つまり、ここには、神に仕え、神の愛を受けたはずの宗教家が、その帰りに、今にも死にそうな人の横を知らん振りして通り過ぎたという矛盾が描かれているのです。これは、「神の愛にならう」生き方に真っ向から反します。

それにしても、人によっては、神を愛することと、隣人を愛することの狭間で心が揺れる人もいるかもしれませんが、イエスの答えはその点において極めて明確です。隣人愛の基本は、父母との関係から始まりますが、イエスは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」(10:37)と言われたばかりか、自分の肉の父を葬るよりもイエスに従うことを優先しなさいと命じられ(9:59,60)、常に、主との関係こそ第一である断言されました。それは、私たち罪人は、神の愛を知ることなしに、本当の意味で父母を敬うことも、また自分の隣人を自分自身のように愛することもできないからです。

2.「主よ。何ともお思いにならないのでしょうか・・・」と不満をぶつけたマルタ

「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えし」(10:38)ますが、彼女の家は、エルサレムから東に3kmほどのベタニヤにありました(ヨハネ11:18)。しかし、ここでは村の名前さえも省かれています。17:11では、イエスはまだサマリヤとガリラヤの境にいますから、この記事は、時間的な順番を越えてここに挿入されたということだと思われます。つまり、この福音書の著者はこの記事を「善きサマリヤ人へのたとえ」とセットで読まれることを望んでいるのです。

「マルタという女が喜んで家にお迎えした」(10:38)とあるように、この家の主人はマルタでした。そこで、「彼女にはマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」(39節)と記されます。これは当時の常識ではありえないことでした。女性は客を接待するために動き回ることが期待されていたのに、彼女は、既にイエスの身近な弟子であるかのように、「主のことばに聞き入っていた」というのですから・・・。姉のマルタは、そのマリヤの態度にキレてしまいました。たぶん、「あなたは何様のつもりをしているの・・・」という感じだったことでしょう。当時の文化でマルタがそう思うのは当然でした。

それにしても、マルタはマリヤへの不満を何と、客であるイエスにぶつけて、「主よ。何ともお思いにならないのでしょうか?妹が私だけにおもてなしをさせているのを・・」(40節)と言いました。彼女は、マリヤが何も動こうとしないことを怒ってはいるのですが、この状況を許しマリヤの常識外れの態度を喜んでみことばを語っておられるイエスにも腹を立てたのです。マルタは、本来イエスに喜んでいただきたいと忙しく動き回っていたはずなのですが、イエスを悲しませることばを発してしまいました。マルタは、自分にも注目して欲しいと内心で思ったのかもしれませんが、このことばは何とも失礼の極みです。

そうなったのはマルタが、「いろいろともてなしのために気が落ち着かなかった」(40節)からです。これは、仕事が能力の限界を超えた(overcapacityになった)という意味です。ただ、この家の主人はマルタですから、それは彼女自身の責任です。彼女は、粗末な接待では自分を許せなかったのでしょうか、最高のもてなしでイエスを迎えたいと願って自分を駆り立てたあげく、パニックになり、言ってはならないことを口走ったのです。もちろん、彼女の予定ではマリヤが手伝うはずだったことでしょうが、もし、イエスがマリヤの当時としては常識はずれの行動を喜んでおられるなら、それを受け止めて予定を変更すべきでした。しかし、彼女は自分の理想と社会常識に縛られ、イエスのこころを聞くことができませんでした。

親切の押し売りとも言われる、相手を喜ばせようと頑張ったあげく不快にするという落とし穴があります。それは、自分自身の理想に縛られ、相手が何を望んでいるかを聞いていないことから起こります。

3.「マリヤはその良いほうを選んだのです」

この失礼な態度に対して、イエスは、「あなたは自分勝手に忙しくなっている・・」と責める代わりに、「マルタ、マルタ」と優しく名前を呼びつつ、「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています」と彼女の気持ちに寄り添うことばかけをします(41節)。それは彼女の善意を受け止め、彼女が味わっている「心配」と「混乱」の気持ちを、軽蔑することなく、まずあるがままに受け入れようとすることばです。

それに続く言葉は、脚注にあるように、多くの写本では、「どうしても必要なものはただひとつだけです」(42節)と記されています。それは、彼女が、「いろいろなことに気を使って、心配している」ことに対して、「なくてはならないことは」、ご自身のみことばに耳を傾けることであると諭すことです。本来なら、「見よ。聞くことは、いけにえにまさる」(Ⅰサムエル15:22)とひとこと言えば済むことでしょうが、それではマルタの立場がなくなります。それでイエスは、「マリヤはその良いほうを選んだのです」と言いました。本来、マルタがイエスをもてなすことができるのも、彼女自身の「義務」というよりは「特権」です。実際、彼女は、イエスに仕えることに喜びを感じていました。しかし、動いているうちにそれが彼女にとっての負担になってしまい、そこからつぶやきと怒りが生まれてしまったのです。そして「彼女からそれを取り上げてはいけません」と付け加えたのは、マルタをこの家の主人として認め、マリヤへの寛容を促すことばです。

このことばは、彼女の無礼を責める代わりに、信仰の原点に立ち返らせるものです。「もてなすこと」よりも「聞くこと」の方が大切なのです。それは、イスラエルの民全体の問題でもありました。先の会話でも明らかな律法の核心は、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(27節)でしたが、その原点となる申命記では、その前に何よりも、「聞きなさい!イスラエル。主(ヤハウェ)は私たちの神・・」(6:4)と命じられ、「聞くこと」こそがすべての命令の始まりとなっています。

マルタとマリヤの対比を、活動と黙想の生活の対比の理解にとどめてはなりません。ここでは「聞く」ことを忘れた「奉仕」の悲劇が語られているのです。イエスの時代の律法学者は律法の原点を忘れていました。それは、主が、愛される価値のないイスラエルを一方的に「恋い慕って・・選ばれた」(申命記7:7)ということです。しかし彼らは、その主の愛を味わう前に、主に仕える(「もてなす」と同じことば)ばかりに夢中になっていました。彼らは、「神に対して熱心」でしたが、それは「知識に基づくものではありません」でした(ローマ10:2)。「愛する」ことの基本は何よりも「聞くこと」です。そこから初めて、「主に喜ばれる行い」が生まれます。このときイエスのことばにじっと耳を傾けていたマリヤは、どの弟子よりも敏感に主の痛みを察知しできました。主が十字架の死を迎える一週間前のことです。彼女は、三百デナリ(一年分の給与)に匹敵する高価な香油を、イエスの足に塗り、主のみこころを真に慰めることができました(ヨハネ12:1-8)。

マルタは、今、イエスにとって何が一番大切かを誤解していました。イエスは「おいしい食べ物」よりも、「聞いてくれる耳」をこそ求めていたのです。それは十二使徒のなかにも見出すことはできませんでした。イエスは、ご自身の地上の生活が限られていることを知っていました。それで主は、マリヤのように、「みことばに聞き入る」人を求めていたのです。あなたはどうでしょうか。世の中を生き難くしているのは、無力な人ではなく、有能な人々です。ある人は正義感に燃えて戦争を起こし、ある人は、隣人愛に燃えて人を叱咤激励し人をつぶすかもしれません。世の中はますます生きにくくなっています。それは互いが互いの声を聞く余裕がなくなったからではないでしょうか。「愛する」ことは「聞く」ことから始まります