ニック・ブイチチというオーストラリア人がいます。彼は生まれた時から両手両足がなく、たった一つの短い足の先しか使えません。しかし彼は普通の学校に通い続け、大学で会計学の学びを修了し、水泳が好きでサーフィンを楽しんでいます。 “イザヤ56章1節~57章16節 「神の安息への招き」” の続きを読む
ローマ人への手紙1章1〜17節「信仰の従順を生み出す御霊の賜物」
私は大学の交換留学制度によって約一年間の米国留学中に、イエス様を自分の人生の主とする信仰告白に導かれました。その時点では聖書をほとんど読んだことがありませんでした。旧約聖書の構成など知りもしませんでした。 “ローマ人への手紙1章1〜17節「信仰の従順を生み出す御霊の賜物」” の続きを読む
イザヤ54章1節~55章13節「平和 (シャローム) の契約は動かない」
日本に住む多くの人々は、失敗をすることや、人々から非難されることを異常に恐れてはいないでしょうか。せっかく信仰に導かれても、「敬虔なクリスチャン」という看板を背負って、窮屈な生き方をすることがあるかもしれません。 “イザヤ54章1節~55章13節「平和 (シャローム) の契約は動かない」” の続きを読む
詩篇96篇「主 (ヤハウェ) は王である……喜べ天よ 喜び踊れ 地よ」
先日、ウクライナで傷ついた兵士たちの魂の叫びに耳を傾けている船越先生から、「戦争が回避できないこの壊れた世界に生かされている現実と、同時にすでに神の国に属する者とされているクリスチャンとしての使命の大きさとの間で、『何が正解なのか』、本当に分からなくなることがしばしばあります……闇が深すぎて自分たちが進むべき道を見失ってしまうことがあります」という悲痛な叫びが届きました。 “詩篇96篇「主 (ヤハウェ) は王である……喜べ天よ 喜び踊れ 地よ」” の続きを読む
使徒の働き2章22–42節、36–42節「宣教——置かれたところから世界へ」(バリー・ポッター 東京武蔵野福音自由教会英語部牧師)
2023年10月15日
イザヤ52章3節~53章12節「あなたの神が王となる」
あなたは、「イエスを救い主と信じることによって、何が変わるのですか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょう。 “イザヤ52章3節~53章12節「あなたの神が王となる」” の続きを読む
詩篇19篇「被造世界とみことばに動かされる私たちのこころ」
「初めに、神が天と地を創造した」(1:1) とは、聖書の神がどのような方かを一言で宣言する記述ですが、ユダヤ人の間で広く用いられている英語訳 (Jewish Publication Society : Tanaka Translation) では、1–3節が一つの文章で、「When God began to create heaven and earth—the earth being unformed and void、 with darkness over the surface of the deep and a wind from God sweeping over the water—God said、 “Let there be light” and there was light」(神が天と地を創造し始められた時、地は形なく空しく、闇が大水の上にあり、神の息が水の上を動いていたのだが、神が『光があれ』と仰せられると、光があった)」と記されています。 “詩篇19篇「被造世界とみことばに動かされる私たちのこころ」” の続きを読む
イザヤ51章1節~52章2節 「目覚めよ!あなたへの主の愛に」
神の民にとっての歴史は、「エデンの園」から始まり「新しいエルサレム」で完結します。私たちはその両方に目を向ける必要があります。 “イザヤ51章1節~52章2節 「目覚めよ!あなたへの主の愛に」” の続きを読む
黙示録20章「『千年』後の『第二の死』を恐れる必要のない者はだれか」
黙示録は聖書の中で最も誤解されやすい書物とも言えますが、信仰者にとって不可欠な励ましの書とも言えます。それは22章10節に「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです」と記されているからです。この書は、使徒ヨハネが信仰のゆえにパトモスという地中海の島に流されている中で啓示されたもので、迫害を受けている人々への慰めと希望のことばです。日本においてクリスチャンが受けて来た迫害は世界最悪のものの一つでしたが、もし江戸時代や第二次大戦時に黙示録が正しく読まれていたとしたら、もっと多くの信仰者が信仰を全うすることができたのかもしれません。 “黙示録20章「『千年』後の『第二の死』を恐れる必要のない者はだれか」” の続きを読む
テサロニケ人への手紙第一4章9節~5章11節「今も再臨後も、主とともに生きる」
聖書の教えの基本は、十分な教育を受けられなかった人にも分かるものでなければなりません。その点で私は深い反省を迫られております。今回の箇所を選んだのは「携挙」に関しての質問があったからですが、礼拝説教が神学議論の場になってはいけないとも言えます。 “テサロニケ人への手紙第一4章9節~5章11節「今も再臨後も、主とともに生きる」” の続きを読む