イザヤ66章1〜14節「父性的であるとともに母性的である神の愛」

2024年3月17日

イザヤ66章10–14節は、キリスト教に対する偏見を決定的に砕く預言のようにも思えます。母親が大好きな僕は、「あなたがたは乳を飲み、脇に抱かれ、膝の上でかわいがられる」という「新しいエルサレム」で実現する「救い」の描写に、何とも言えない平安(シャローム)を感じます。 “イザヤ66章1〜14節「父性的であるとともに母性的である神の愛」” の続きを読む

ローマ人への手紙4章1〜12節「不敬虔な者と義と認める方への信仰」

※ 機材不良によるノイズ発生でところどころ聞きにくくなっています

2024年3月10日

私たちプロテスタント教会の流れの中にある人は、「人は善い行いによってではなく、キリストへの信仰によって、神の前で義(正しい)と認められる」という教えを信仰の核心としています。その教えが「信仰義認」と呼ばれます。 “ローマ人への手紙4章1〜12節「不敬虔な者と義と認める方への信仰」” の続きを読む

イザヤ65章16~25節「わたしは新しい天と新しい地を創造する」

2024年3月3日

私たちは今、「すぐに結果を出さなければ……」というプレッシャーの世の中に置かれています。私自身もかつてそのような職場に身を置き、その発想を身に染み込ませて牧師になりましたが、そのために信仰生活が苦しくなった時期があります。なぜなら、あまりにも結果が見えなさ過ぎるからです。それは目に見える教会の成長のことばかりではありません。「これだけ神のみことばに親しんでいるのに、どうしてこうも僕は成長できないのだろう……」と思ってしまうことがあります。 “イザヤ65章16~25節「わたしは新しい天と新しい地を創造する」” の続きを読む

ローマ人への手紙3章19〜31節「私たちに与えられた圧倒的な救いとは?」

2024年2月25日

神の「愛」と「義」が同じことを表わすことは、親子関係を考えるとよくわかります。たとえば、自分の子が不良仲間に入りながら、そこで我に返って、そこから抜け出たいと願っているとき、そこで求められる親の正義とは何でしょう。「悪の勢力と関係を持つことは自分の正義の基準に反する。自業自得なのだから、自分でどうにかしなさい」と言うのが親の正義でしょうか。 “ローマ人への手紙3章19〜31節「私たちに与えられた圧倒的な救いとは?」” の続きを読む

イザヤ63章18節~65章16節「アーメン(真実)の神によって祝福される歩み」

2024年2月18日

世の人々にとってのクリスチャン生活には、「天国に憧れながら、この世の不条理を忍び、悔しいことがあっても微笑みながら生きる」というイメージがあるかもしれません。しかし、そんな生き方では、息が詰まってしまいます。 “イザヤ63章18節~65章16節「アーメン(真実)の神によって祝福される歩み」” の続きを読む

ローマ人への手紙3章9〜24節「神の義はどのように与えられるのか?」

2024年2月4日

福音がしばしば単純化されて、「すべての人が罪を犯して、地獄の火のさばきに定められているけれども、神が遣わしてくださったイエスを信じることによって、天国の保証が与えられた」と説明されることがあります。その際に頻繁に引用されるのが本日のローマ人への手紙3章です。 “ローマ人への手紙3章9〜24節「神の義はどのように与えられるのか?」” の続きを読む

イザヤ62章4節~63章17節「諦めることなく、主 (ヤハウェ) に訴える」

2024年1月28日

「あきらめ」とは「明きらむ」から生まれた言葉で、そこには「心を明るく楽しくする」という意味があったようです。依存症の原因に、自分では変えようのない過去への後悔や恨みがあると言われますが、目の前の現実を明らかに見るときに、断念すべきことがわかります。 “イザヤ62章4節~63章17節「諦めることなく、主 (ヤハウェ) に訴える」” の続きを読む

ローマ人への手紙2章17節~3章8節「聖霊の働きによる心の割礼」

2024年1月21日

昨年の大河ドラマ「どうする家康」の評価はまちまちでしたが、敢えて評価できるとすると、徳川家康を神格化しようとした後の歴史文献を徹底的に洗い直し、そこにある矛盾から、家康の愚かさとか弱さを発見し、等身大の姿を見せようとしたことにあると言われます。 “ローマ人への手紙2章17節~3章8節「聖霊の働きによる心の割礼」” の続きを読む