マタイ19章16〜30節「イエスの麗しさに魅せられて従う」

2021年10月3日

イエスは山上の説教で、「だれも二人の主人に仕えることはできません……あなたがたは神と富とに仕えることはできません」と言われました (マタイ6:24)。

しかし現実生活の中では、これほど「腹に落ちにくいことば」もないと言えるのかもしれません。旧約聖書で意味する「祝福」とは、家族が増え、富と力が与えられることを意味し、それを求めることがどうして悪いというのでしょう。事実、お金も、地位も能力も本当に大切です。

今回の箇所の最後でもイエスはご自身に従う者への豊かな報酬を約束しておられます。

イエスの話は逆説的です。富も力も手段に過ぎませんが、それが目的となるとき人生で最も大切なものを忘れてしまいます。それが心から理解できるのは、誰かを好きになるという体験かもしれません。

信仰に一番近いのは恋愛体験とも言えます。大切に思う人のためだったら、何を失っても惜しくないと思えます。

あるご婦人が、「金持ちの青年に対するイエスの命令は理不尽に思える」と言っておられました。その方に、「でも、目の前に本物のイエス様が現れて、『すべてを置いて、わたしについて来なさい』と言われたらどうしますか?」と聞いたところ、すぐに、「もちろん私はついて行きます」と答えられました。

1.「永遠のいのちを持つためには、どんな良いことをすればよいでしょうか

すると見よ、一人がイエスに近づいて来て言った」(16節) と記されますが、ルカはこの人を「ある指導者」と描きます(協会共同訳では「議員」と訳される)。この人は、「先生。永遠のいのちを持つ(得る)ためには、どんな良いことをすればよいでしょうか」と尋ねました。

彼はこの地上でも既に地位を富も、すべてを得ていましたが、永遠に続く「天の御国」に入れていただけるという「救いの確信」がありませんでした。

それに対してイエスは、「なぜ、良いことについてわたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです」と答えます (17節)。それはこの人の目を、「良いことをする」ことから、天の父なる神に目を向けさせるためでした。

その上でイエスは、「いのちに入ることを望むのなら、戒め(命令)を守りなさい」と言われました。それに対し、彼は「どの戒め(命令)ですか」と尋ねます。

これは何とも不思議です。当時の人々なら、「聞け、イスラエルよ。主 (ヤハウェ) は私たちの神。主 (ヤハウェ) 唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) 愛しなさい」(申命記6:4、5) という「命令」を思い浮かべるはずだからです。それこそが「良い方はおひとり(唯一)です」とセットの戒めだからです。

ただし、「 (ヤハウェ) を愛する」ということでは、「完全になれた」という感覚を得ることはできません。それでこの青年は、より具体的な How to を知りたがっていたのでしょう。それでイエスは彼の基準に合わせて語られました。

そのことが、「そこでイエスは答えられた。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない』」(18節) というごく当たり前の答えとして記されます。

この青年は何らかの秘儀的な教えを求めていましたが、イエスは神の教えは、すべてのイスラエルの民に既に十分に明らかにされている」と言われたのです。

ただし、これらの直後に、『父母を敬え』と言われ、さらにそれらすべてをまとめるように『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』と言われたことには大きな意味があります (19節)。この二つは肯定命令で、「完全」の基準は明確にしにくいからです。

ところが「この青年は」、「私はそれらすべてを守ってきました。何が欠けているのでしょう」(20節) と答えてしまいます。

この青年の問題は、自分の良い行い」と引き換えに、「永遠のいのち」を獲得するという発想に生きて来たことにあります。彼は自分を正当化する代わりに、心の底にある葛藤や不安を正直に打ち明けて、イエスにすがりつくべきでした。

そうできない青年に対するイエスのことばは驚くほど厳しいもので、「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい」というものでした。マルコでは、「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」(10:21) ということばが加えられ、主のあわれみが強調されます。

ここでもイエスは、敢えて「そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります」(21節) と付け加えておられます。「」とは、天国のことではなく、目に見えない神のご支配を指したことばで、それこそ「永遠のいのちを持つ」ことと同じ現実を指しました。

しかもイエスは、「そのうえで、わたしに従って来なさい」(21節) と言われ、彼をご自分の弟子として招いておられます。これは主が、ペテロやヨハネやマタイを招いたときと同じことばです。彼らも、すべてを捨てて従っています。

ところが、「青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである」(22節) と、彼の葛藤に満ちた反応がリアルに描かれています。

たぶん、彼がペテロのような貧しい漁師であったなら、またマタイのように人々から軽蔑されていた取税人であったなら、すべてを捨ててイエスの招きに応じることができたことでしょう。しかし、彼の場合には失うものが多すぎました。

なおこれは、この青年の現状に対してイエスが言われた固有の「召しでした。別にイエスに本当の意味で従う者には、まず全財産を売り払うように命じられたわけではありません。

この青年にこのような過激なことが命じられたのは、周りに貧しく飢え死にしそうな人がたくさんいるような社会状況の中で、神が彼に「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と厳粛に命じられたことを、「それらすべてを守ってきました」と言い切っていたからです。

ルカ10章29節では、律法の専門家が、「では、私の隣人はだれですか」と質問したことに対して、強盗に襲われたユダヤ人の隣人になった「一人のサマリア人」のたとえが紹介されます。イエスはそこで、隣人の範囲を限定せずに、「隣人となる」という発想の転換を求めておられます。

マザー・テレサは、「富は、悪ではなく、不幸である……富は人の気前のよさをなくし、心を閉ざし、窒息させてしまうからです」と言っていました。3億円の宝くじが当たった人は、後に悲惨な人生を歩むという調査があります。それはその人の管理能力を超えたお金を急に手にするからです。事実、無駄なものを買う、金額に鈍感になる、欲が出てくる、人が寄ってくる、人から騙されるということが起りがちです。

管理能力では、いくら得たかではなく、どれだけ、どのように用いることができたかが問われます。これはお金の問題に限りません。私たちのうちにある、自分の「知恵」に対する「誇り」なども同じです。

「自分には知恵がある、能力がある……」という人は危ない面を抱えています。イエスに必死に尋ねてきた青年は、お金も、能力も、知恵も、地位もあり過ぎてそれらに囚われ、神の恵みの世界が見えなかったのです。

それは人にとってはできないことです。しかし、神にとってはすべてが可能なのです

その後、「そこで、イエスは弟子たちに言われた」(23節) と記されますが、マルコでは「イエスは周囲を見回して、弟子たちに言われた」と描かれ (10:23)、ルカでは「イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた」と描かれています (18:24)。

とにかくイエスご自身も、この青年が、「悲しみながら立ち去った」ことに深く心を痛められたのでしょう。ですからイエスご自身もこの人の応答の姿にしばし呆然となり、周りを見回した上で、弟子たちに神の国についての真理を分かち合ったということだと思われます。

原文の語順では、イエスは、「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。もう一度あなたがたに言います。らくだが針の穴を通る方がまだやさしいことです、金持ちが神に国に入るよりも」(23、24節) と言っておられます。

ここでは最初と最後の「金持ちが天の御国に入る……神の国に入る」ということばに挟まれるように、「らくだが針の穴を通る」というあり得ないたとえが描かれます。

これは厳密には、「難しさ」の程度として「らくだ」の話しが登場していると言えます。これは、SFまんがにあるように、「らくだ」を小さくできたら可能になることとも言え、それは神には不可能なことではありません。

ですから、イエスはまず、「金持ちが天の御国に入ることは難しいことです」と言っておられます。マルコでは、「なんと難しいことでしょう、神の国に入ることは」という語順で描かれています (10:24)。

とにかくイエスは不可能なことを言ったのではなく、難しさを修辞的に強調しておられるのです。

これは、「優秀な人が、天の御国に入ることは難しいことです」、「人から尊敬されている立派な人が……」、「成功している人が……」などと言い変えても良いことばです。自分の力で人生を切り開いてきたという自負がある人は、しばしば、「すべてが恵みである」ということが分かりません。

パウロは自分の知恵を誇っている人に対し、「いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7) と厳しく迫っています。

たとえば、人の外見も知能指数も腕力も、大部分が既に生まれながら決まっているのではないでしょうか。それは、まさに「もらったもの」であって、誇るべきものではありません。それは神からの賜物です。

私たちが問われていることは、それをどのように用いたかということです。それは人間的な意味での「信仰」という心の世界にも当てはまりましょう。

それに対して、「弟子たちは、これを聞くと大変驚いて言った」と記されます。これはイエスのことばが弟子たちのそれまでの常識を覆すものだったからです。彼らは、「裕福であるのは、神から特別に愛される理由があったからであって、そのような人こそ、誰よりも神の国に近い」と考えていたからです。

私たちも、「神の愛を受けているからこそ、この世で成功することができた」、また反対に、「神に嫌われている結果として、何をやってもうまく行かない……」と考える場合があるのではないでしょうか。

ですから、弟子たちの気持ちとしては、「お金持ちでさえ救われない」というのであれば、「それでは、だれが救われることができるのでしょう」と質問したという意味だと思われます。

しかし、イエスの論理は逆でした。現実は、自分が豊かで、才能があり、自分の力で成功を掴み取ることができると自負する人は、神の必要を感じなくなってしまいがちではないでしょうか。

事実、イスラエルは、約束の地に入って、生活に困らなくなったとたん、偶像礼拝に走りました。神にすがる切迫感が無くなったとたん、刺激を求め始めたからです。

それに対して、「イエスは、彼らをじっと見つめて」、その上で「それは人にとってはできないことです。しかし、神にとってはすべてのことが可能なのです」と言われました (28節)。

私たちは「イエスを救い主として信じることによって、永遠のいのちに入れていただける」と信じていますが、財産も名誉も権力も握っているこの青年は、イエスに従うことができませんでした。

もともと、「財産を売り払って貧しい人に与えなさい……そのうえで、わたしに従って来なさい」というイエスの命令自体が無理な要求とも思われがちです。しかし私たちの場合でも、現実に目の前に憧れのイエス様が現れ、「わたしの特別な弟子にしてあげるから、何も持たずにわたしについて来なさい」とお招きくださるなら、従うことができる人の方が多いのではないでしょうか。

それは恋の気持ちに似ています。たとえば、アニー・ローリーというスコットランド民謡は、17世紀に実在した美女との結婚の約束を果たしたいという恋の歌で、「愛しのアニー・ローリーのためなら私は自分の身を投げ出して死ぬことさえ厭わない」という歌詞が繰り返されます。

それが、「who’ll stand up for Jesus: イエスのために立つことができるのは誰か」という讃美歌の歌詞に変わり、「すべてを捨てて従いまつらん。わがすべてにます、王なる主イエスよ」と歌われるようになります (聖歌582番)。

それは哲学者キルケゴールが、「信仰者とは、もちろん恋する者である。いやしかし、恋するすべての者のうちで最も熱烈に恋する者でも、信仰者に比べると、その感激の点では、実は青二才でしかない」と言いながら、当時の牧師たちがキリスト教の正しさを三つの理由を挙げて証明したり弁護したりすることを礼拝説教と呼んでいることを非難しています(「死に至る病」第二篇Aの付録)。

信仰者とはイエスに恋する者に他ならないからです。そして「」とは自分に固執して、イエスに信頼できないことと言えましょう。

信仰」が神のわざであるというのは、パウロの回心で明らかです。彼は自分の罪に悩んだあげく、救いを求めたのではありません。彼はクリスチャンを迫害する情熱に燃えていましたが、ダマスコ途上で、「突然、天からの光が彼の周りを照らしサウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたからこそ、イエスを信じることができました (使徒9:3、4)。

彼は、自分で求めたのではなく、一方的に捉えられました。復活のイエスがご自身を現わしたからこそ、彼はすべてを捨ててイエスに従いました。

3.しかし、先にいる多くの者が後になり、後の者が先になるのです

しかしこのときペテロは、「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるのでしょうか」と言ってしまいます (27節)。何と無神経で愚かな応答でしょう。

彼はたまたま、この青年より、富も地位も、聖書知識も少なかったからこそ、イエスの招きに従うことができただけなのに、それがまるで自分の功績かのように誇っています。

しかも、露骨に自分たちに対する特別な報酬を期待していました。彼も金持ちの青年とまったく同じ発想の中に生きていたことが明らかです。

ところがイエスは、それを叱責する代わりに、「まことに、あなたがたに言います。わたしに従ってきたあなたがたは、新しい世界において、人の子がその栄光の座に着くそのときに、十二の座に着くことになります。そしてイスラエルの十二の部族を治めるのです」(28節) という途方もない約束をされました。

それは当時の弟子たちが憧れた「神の国」の実現です。彼らは、新しい国がイエスによって実現したとき、自分たちがそれぞれ大臣の座に着けてもらえることを期待していたからこそ、18章1節でイエスに、「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」などという愚かな質問をしました。

イエスはそのとき一人の子どもを彼らの真ん中に立たせて、「だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」(18:4) と、神の国の大臣の座を競争する彼らの意識を変えました。

しかし、ここでは不思議にも、わたしに従ってきたあなたがたは……十二の座に着くとある意味で大臣の座を保障してくださいました。それは愚かな人間は、報酬の約束があって初めて、「すべてを捨てる」ことを実行できるからです。

どちらにしても、十二人の使徒はキリストの教会全体を象徴する存在であり、これは私たちがキリストとともに王とされ、「御使いたち」をも「さばく」立場に上げられることを指しています (Ⅰコリント6:3)。

それに続けてイエスは、「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」(29節) と約束されました。

なおマルコではこの後半部分は、今のこの世では百倍を受けます、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を、迫害の中で、後の世では永遠のいのちを」(10:30) と記されています。イエスの御名のためにこの世の財産ばかりか大切な家族を失う者に対して「百倍」の報酬をまず約束してくださいましたが、それは死後の天国でというよりも、「この世で」与えられる報酬であるというのです。

それは、キリストにある信仰の家族の交わりとそこにある豊かさを手にすることを指しているとも言えましょう。ただそこには迫害の苦しみが伴います。

しかも、「永遠のいのち」は金持ちの青年が切に求めていたものですが、これは「新しい天と新しい地」で実現する祝福に満ちた「いのち」が今から始めることを意味しますが、それが目に見える形で現れるのが肉体の死と復活の後なので、マルコでは「後の世では」と記されています。

なお、信仰者がイエスのへの信仰を貫いて殉教できる最大の動機に、このような来たるべき世のいのちの豊さに対する憧れがあります。イエスご自身が十字架の苦しみに耐えられた理由が、「この方は、目の前に置かれた喜びのゆえに、辱めを軽蔑して、十字架を耐え忍び、神の御座の右に着座されたのです」(ヘブル12:2) と描かれています。

つまりイエスは、目の前に復活の喜びを思い浮かべることができていたからこそ、十字架の辱めと苦しみに耐えられたというのです。それはアニー・ローリーの作者が、「陽の光を受けた彼女の姿と深い青色の瞳」を思い浮かべることができるからこそ、彼女のために身を投げ出して死ぬことさえ厭わない」と歌ったことに似ています。

信仰を全うできるのは、意志の力というよりも、来たるべき世のいのちの豊かさを思い浮かべることができる想像力とさえ言えるかもしれません。それこそ聖霊の賜物でしょう。

ただ、それに加えてイエスは、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後の者が先になるのです」(30節) と言われました。それは、イエスに従うことにおいて、この世的な競争の発想から自由なるためのことばでした。これこそペテロの打算的な報酬を期待することばへの応答と言えましょう。

しかしイエスは弟子たちの弱い信仰を励ますために、まず報酬を明言し、その後で「あなたの期待通りにはならないよ」という意味の注意を与えたのです。たとえばこのときの十二弟子の中には後にイエスを売り渡すイスカリオテのユダが含まれていました。またヨハネの兄弟ヤコブはその活躍が描かれないままイエスの十字架から十数年もたたないうちにヘロデ・アグリッパに殺されます。

ですからイエスは十二弟子に特別な報酬を約束したというよりも、「あなたの従順は報われる」と約束してくださったと言えましょう。そして、後のパウロの活躍こそ、「先にいる多くの者が後になり、後の者が先になるという現実の現われとなります。

イエスは禁欲主義を教えたのではなく、私たちが富や力の奴隷になることを何よりも警告されたのです。この金持ちの役人がその後、どうなったかは分かりません。しかし、ここにパウロに似た姿を見ることもできるかもしれません。

ひょっとしたら、この人も、後に、復活のイエスに出会い、パウロのような働きができたかもしれません。しかし、そのたびごとに、彼は、イエスが自分にきっぱりと財産を捨てて従うように勧めてくれたことに、イエスの深い配慮を感じて感謝したことでしょう。

イエスはこの青年を冷たく追い返したのではありません。この青年を「いつくしんで」くださったのです。表面的な拒絶の背後に、イエスのあわれみに満ちた招きが見られます。

私たちの信仰生活の中でも、神から冷たく拒絶されるように感じられることが起きるかもしれません。しかし、そこにはイエスの慈しみに満ちた眼差しを見るべきでしょう。