マタイ17章14〜21節「山をも動かす信仰とは?」

2021年6月20日

人は誰しも毎日を楽しく、気力にあふれて目の前の課題に取り組みながら、「生きていて良かった!」という感動を味わいたいと思っています。書店ではそのための様々な方法 (How to) を書いた本が平積みにされていますが、すべてがそれで解決できるなら、神を求める必要などなくなってしまうことでしょう。

しかも多くの場合、そこで根本的に見落とされている問題があります。それは、すべての人間は、日々数多くの失敗を繰り返しており、すべて前向きに生きようとする人は必ず、何度も失敗しているということです。

大切なのは、諦めずにチャレンジできるという心のあり方と言えましょう。

聖書のメッセージはある意味で簡単です。それは、人はみな神に向けて創造されており、神を忘れては、神の望まれるような人生を歩むことができないということです。目先の方法よりも人生の方向とあり方が問われています。

イエスの弟子たちは、主の身近にいて、主がどのように問題を解決するかをつぶさに見ていました。そしてイエスが三人の弟子たちと一時的に山に登っているときに、残された九人の弟子たちはイエスの方法を試してみました。

ところがそれは機能しませんでした。それは、彼らが最も大切なことを見落としていたからではないでしょうか。「からし種」のような信仰があれば、山をも動かすことができると言われますが、「からし種」は、その小ささというよりも、そこに驚くべき成長力が宿っていることに特徴があります。

1.「お弟子たちのところに連れてきたのですが、治すことができませんでした」

イエスは、ペテロとヨハネとヤコブの三人だけを連れて山に登り、一時的に天の栄光の姿を表されました。

ところが彼らが山から降りて群衆のところに行くと、一人がイエスに近寄ってきました、御前にひざまずき、言っていた。『主よ、私の息子をあわれんでください』と記されます (14、15節)。

マルコの並行記事では「群衆」に関して、「彼らが……戻ると、大勢の群衆が弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた」 (9:14) と記されています。それは、残された弟子たちが人々に失望を与えており、それが律法学者たちの介入さえ招く大騒動になっていたというのです。

そしてこの息子の病状が、「彼はてんかんにかかっています。大変苦しんでおります。何度も火の中に倒れております、何度も水の中にも。そこで息子をあなたのお弟子にたちのところに連れてきました。しかし彼らは息子を治すことができませんでした」と説明されます (15、16節)。

「てんかん」と訳されたことばは原文では「月に打たれた」と記されています (15節脚注)。ただ、マルコの並行記事ではその症状が、口をきけなくする霊につかれ……その霊が息子につくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます」と描かれています (9:17、18)。

それはてんかんの強直間代発作(15~30秒の強直発作【つっぱり】と30~90秒の間代発作【がくがく】を起こす)と同じに見えます。ただてんかん発作には、倒れることもない軽いけいれんのような発作もあります。この病は原因を特定できない場合も多く、脳で発生する何らかの電気信号のようなものの異常から起こるとも言われ、百人に一人ぐらいの発症率があると言われます。

日本では狐に憑かれたなどと見られ、差別を受けてきました。二千年前のパレスチナでも悪霊に憑かれた者として忌み嫌われ、それが「月に打たれた」という表現になったのだと思われます。なお共同訳では「発作で苦しんでいます」と、病名を特定せずに訳しています。

なお、残されていた弟子たちがこの少年を癒すことができなかったという理由で、それが律法学者たちを巻き込む議論になり、多くの群衆を寄せ集めていたということ自体が不思議です。

それは、弟子たち自身が、自分たちには悪霊を追い出す力があると思い込み、また、群衆もそれを期待していたからかと思われます。10章1節以降に描かれていたように、十二弟子は「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒す」ための「汚れた霊どもを制する権威を」をイエスから授けられてガリラヤ地方の村々を巡り歩いたことがあったからです。

ですから、残された弟子たちはこのとき、この少年を癒すことが簡単に思え、群衆もそれを期待していたからでしょう。しかし、期待に反して、弟子たちは癒すことができませんでした。

彼らは五千人のパンの給食、四千人のパンの給食でも、イエスの手の中で増えたパンを人々に配るという特権にあずかっていました。

その間の15章30、31節では、「すると大勢の群衆が、足萎え(あしなえ)、盲人(めしい)、不具(かたわ)、聾者(おし)、そのほか多くの人をみもとに連れてきた。そして彼らをイエスの足元に置いた。それでイエスは彼らを癒された。群衆は、聾者(おし)が話し、不具(かたわ)が治り、足萎え(あしなえ)が歩き、盲人(めしい)が見えるようになったのを見て、驚いた。そして、イスラエルの神をあがめた(原文は各障害が一言で表され、簡潔に響いてくるため)と描かれていました。

弟子たちはそれらをつぶさに眺めながら、癒しの方法を学ぶことができたと思っていたのかもしれません。しかしよく調べると、イエスの癒しのみわざは毎回ユニークで、同じ方法の繰り返しはないように見えます。

ただ、そこに共通している原則があります。それは目の前の一人ひとりに心から注目し、同時にそこには父なる神への祈りがあり、神の栄光を求めていたということです。How to ではなく、主の目の方向に注目すべきです。

2.「ああ、不信仰な曲がった時代だ」

イエスはこの父親の説明を聞き、それに「答える」かのように「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と「言われました」(17節)。それは弟子たちに向けてのことばです。主はいつも人々に優しく接するわけではありません。特に、ご自身の十字架のことを予告されてからの弟子たちに対することばには非常に厳しいものがあり、ペテロの傲慢な態度に「下がれ。サタン」と応答されたほどです (16:23)。

時代(今の世)」という表現には、弟子たちを含めたそこにいるすべての人への叱責が込められています。イエスは彼らの「不信仰」と同時に「曲がった(歪められた)考え方」を責めておられます。

しかし、弟子たちの失敗自体を責めているのではないと思われます。問題は、弟子たちが悪霊を追い出す方法を会得したかのように思い込み、また群衆が弟子たちにそのような能力があると期待したこと自体にあるのではないでしょうか。

多くの人々は「不信仰」ということばを誤解しています。その裏には、信仰が深くなれば期待通りの結果を出すことができるはずだという誤解があるように思えます。

しかし、聖書が語る「不信仰」とは、不真実とも訳すことができ、神の真実を信じる代わりに、神を不真実と見ることを指します。「あの人は、信仰深いから……」などと評価する代わりに、その人が神をどのような方と見ているかが、問われるべきです。

残念ながら、人は神のみわざを人間的な能力ととりかえてしまう落とし穴があります。そこにいる人々は、悪霊追い出しを神のみわざとしてよりは、人間の働きかのように誤解し、また弟子たちもかつての成功体験に酔いしれていたのかもしれません。それらこそ、「曲がった(歪められた)」信仰の姿勢と言えましょう。

続けてイエスが弟子たちに向かって、「いつまであなたがたといっしょにいることになるのか。いつまであなたがたにがまんすることになるのか」と言われたのは、イエスの人間としての感情を表しています。イエスはご自分の気持ちが通じなくて、悲しんでおられたのです。

私たちも同じような気持ちになることがあるかもしれませんが、人間関係から生まれる苦しみは既にイエスご自身がすべて体験してくださいました。人間関係の悩みのただ中にイエスはともにいてくださいます。

そのような嘆きを味わっているとき、あなたは要領が悪いのではなく、イエスの御跡を従っているという誇りを持って良いのです。

ところでイエスは、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われました (17節)。主はご自身の心の痛みを表現されながら、決して目の前の必要から目を背けるようなことはなさいませんでした。

そして、イエスがお叱りになられた。すると悪霊は出て行った。まさにそのときからその子は癒された」と描かれます (18節)。ここではイエスが「その子」または「悪霊」を叱ると、すぐに「悪霊が出て行った」こと、それが同時にこの子の病の癒しにつながった流れが描かれています。

そこにはイエスが創造主である父なる神と一体の方として、病をもたらしていた悪霊を追い出した創造の力がありました。

ところでマルコの並行記事ではその癒しの前に、「(その子が)イエスを見ると、霊がすぐに彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら、ころげ回った」と、症状がかえって悪化したようすが描かれます。それは悪霊がイエスを恐れていたからです。

イエスの聖さが迫ってくると、人の中のみにくいものがクローズアップされます。それによって、一時的に問題は悪化したように感じられます。しかし、それは癒しのプロセスの始まりに過ぎません。

それをご覧になったイエスは、その子の父親に、「この子にこのようなことが起るようになってから、どのくらいたちますか」と尋ねます (9:21)。それは、父親の絶望感に寄り添いながらも、その気持ちを敢えて引き出すような質問をされたことを意味します。

それに対し父親は、「幼い時からです」と答えたばかりか、「霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました」(9:22) と答えました。これを見る時に、この少年の病は、「てんかん」というよりは、悪霊の働きであるということが明確になります。悪霊の働きは、何よりも人を自暴自棄や破滅に追いやるものです。

しかも、この霊は、取りついた人を公衆の面前で激しく苦しめるものでした。悪霊は、この子を通して、人々を恐怖に落とし入れ、神よりも悪霊を恐れるように仕向けたのだと思われます。

悪霊の働きを表面的にとらえてはなりません。世田谷区にお住まいだった和子さんは16歳の時、編み物を習っている最中に突然ばったりと倒れ、口からあわを吹きだし昏睡状態に陥りました。

彼女はその後何度も発作に襲われますが、その苦しみ以上に、人々の前で惨めな姿をさらすかもしれないという恐怖のゆえに家に閉じこもり、劣等感に悩み、何度も自殺を試みました。しかし、あるとき死ぬために向かっていたはずの松江で、礼拝の讃美歌の声に引き寄せられて教会に入りました。

そして、そこで出会った男性と結婚に導かれ、男の子を出産し、愛に満ちた家庭が与えられ、日本てんかん協会でカウンセラーを長く続け、1996年にはその協会から特別功労賞を受けております。

彼女は「私は、ある時期から、発作が起こった時には、神様が私を訓練してくださっている、と思うようになっていました……私にとって『てんかん』とは、すばらしい人生の巡りあわせだったと言って良いでしょう」とさえ語っています。

悪霊の働きは、わざわいを起こし、それを通して、人が神をのろい、自滅するように追いやることです。ある病が悪霊によるものかどうかなどを軽々に判断してはなりません。大切なのは、その病がその人をどの方向に向かわせているかを見ることです。

現代は、多くの場合、悪霊を追い払うことよりも、その人が神に向かって祈ることができるように導くことが大切です。なぜなら、悪霊は神に祈っている人のもとから去らざるを得ないからです。悪霊の働きは、人に祈ることを止めさせることにあるとも言えましょう。

3.「からし種のような信仰を持つなら……あなたがたにできないことは何もありません」

その後のことが、「それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。『なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか」と記されます (19節)。弟子たちは恥じらいながら、群衆に聞こえないようにイエスに質問したのでした。

それに対し主は、「あなたがたの薄い信仰のゆえに(信仰が薄いから)です」と答えました (20節)。

薄い(乏しい)信仰」とは「オリゴピスティア」という一つの単語です。似た用語では「信仰の薄い者 (オリゴピストス)」と言う表現があり、イエスは弟子たちを何度もそのように呼んでいました。

ガリラヤ湖の嵐の中で舟が沈みそうになって、眠っておられたイエスを弟子たちが慌てて起こして助けを求めたとき、イエスは彼らに「どうして怖がるのか、信仰の薄い人たち」と言われました (8:26)。

またペテロが水の上を歩かせてもらいながら、「強風を見て怖くなり、沈みかけた」ときに、イエスはペテロに向かい「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました (14:31)。

また弟子たちがガリラヤ湖の向こう岸に渡ったとき、パンを持ってくるのを忘れて、互いに議論を始めた時、イエスが「信仰の薄い人たち、パンがないなどと、なぜ論じ合っているのか」と言われました (16:8)。

それらはすべて、イエスと共に神のご支配が現わされていることを忘れて、目の前の恐怖や不安に圧倒されているときにイエスが言われた言葉です。そこでは弟子たちの心が目の前の状況に左右されすぎることが問題でした。

ここでの「薄い(乏しい)信仰」はそれに極めて似ていますが、より厳しいもので、先にイエスが「不信仰で曲がった時代だ」と嘆かれたと同じように、本質から離れた状態が弟子たちの信仰に見られたことを意味していると思われます。

その上でイエスはここで、「まことにあなたがたに言います。もし、からし種のような(ほどの?)信仰を持っているのなら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言うならば、そのように移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことは何もありません」と言われました (20節)。

からし種のような信仰」とは、信仰の「小ささ」というより、「成長力」を示すと考えられます。13章31、32節では、「天の御国はからし種に似ています」と言われ、その成長力が、「どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どんな野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります」と描かれていました。

ですから、ここでは、弟子たちがこの世的には取るに足りない者であっても、信仰において創造主なる神と心を一つにされるなら、全世界を変えるような大きな実を結ぶことができるという「神の国」の不思議を指していると思われます。

実際に、キリストの福音は、ガリラヤ湖の無学な漁師を中心とした交わりから、全世界に広がり、結婚や医療や社会福祉の制度を作り上げ、今も世界の人々の心を変え続けています。

信仰」は「真実」と訳すこともできます。それは人間的な能力や資質というよりも、神の真実に動かされる私たちの心の状態を指します。神のみこころの受信機のようなものとも言えるかもしれません。

ゼカリヤ14章やエゼキエル47章では、終わりの日に、エルサレムの東にあるオリーブ山が南北に分かれて谷を作り、エルサレム神殿から流れ出る「いのちの水」が死海に流れ込み、その湖には非常に多くの種類の魚が多く生きるようになると預言されています。

まさに世の終わりに、神は山を動かされます。あなたの勝手な望みで山が動くのではなく、神のみこころに沿ったあなたの願いが、世界を変えるのです。

人間的な小さな枠に留まって自分の可能性を勝手に狭めてはいけません。あなたの意思が神のご意思と調和するなら、「どんなことでも、あなたにできないことは何もありません」という状態が生まれます。

なお新改訳では21節が省かれていますが、昔の写本の中には、「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」ということばが入っているものもありましたが、多くの学者は、そのことばはマルコ9章29節のことばを引用して、挿入したものではないかと推測しています。

なおマルコの並行記事では、父親はそれまでの弟子の失敗を見たばかりか、イエスの前に連れてこられたこの子の症状が悪化したように見えたので、主の御力に対しても疑問を抱き、「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」と言ってしまいました。

ところが、イエスはこのとき即座に、「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と厳しく迫ります。そこで「するとすぐに、その子の父は叫んで信じます。不信仰な私をお助けください」と答えたという興味深い対話が描かれています (9:22–24)。

最後のことばは、多くの英語訳では、「I believe; help my unbelief!」(信じます。私の不信仰を助けてください)と訳されています (ESV, NRSV)。それは、「信じます!」と叫びながら、自分の心を変え、信じることができるように助けてくださいと願うことです。

私たちの信仰自体が神の賜物です。ただ、その神のみわざに自分の心を開きますという意味で、まず「信じます」と告白する必要があります。私たちは自分の不信仰を認めざるを得ません。しかし、正直にそれを認めながら、なお「私の不信仰をお助けください」と祈る者は幸いです。

自分の不信仰に悩む暇があったなら、このように祈りましょう。とにかくイエスはそこでも「信じる者には、どんなことでもできるのです」という途方もないことを言われました。

私たちの目の前には、「できないことばかり」があるようにも思えます。しかし、イエスはここで基本原則を語っておられます。

真の信仰とは、神の思いと私たちの思いが一つになることです。そのとき、神が全能であられるからこそ、神の思いと一つになった私たちの願いはすべて成就することになります。つまり、真に信じるということは、何よりも困難なことで、それはイエス以外にはできないのかもしれません。

ただしこれは、信仰がない者にはイエスの癒しのみわざは実現しないという意味では決してありません。イエスはそれまで何度も、信仰のない人の痛みに寄り添い、癒して来られました。

マルコの記事でイエスが父親に問いかけられたのは、「もし、おできになるものなら」という逃げ腰の中途半端な態度です。父親の中では、もう何度も失望を味わっていますから、期待通りにならなかったときの備えをしているような気持かもしれません。

同じように今も、「もし、みこころならば……」と、控えめに付け加えるような祈り方があるかもしれません。しかし、みこころならば願いが実現し、みこころでなければ実現しないというのは当たり前なのですから、それを事前に申し上げて、その願いがかなわなかったときの失望に備えるような態度は必要ありません。

祈りの基本は、ただ、「主よ。この私をあわれんでください」と訴えることです。自分の切迫した気持ちをただ訴え、また、主に期待することを真正面から訴えることが信仰です。

からし種のような信仰を持っているのなら」、あなたの前に立ちはだかる山も動くのです。

改めて、「どんなことでも、あなたがたにできないことは何もありません」というイエスのことばを味わってみたいものです。天地万物の創造主を信じるとは、この広大な宇宙が、神のことば一つで生まれたということを信じることです。

そして、さらに大切なのは、それをしてくださるのは天地万物の創造主であり、その方が、父、子、聖霊の三位一体の神として私たちを包み、信仰を生み出してくださることを信じることなのです。