渋谷駅のシンボルともなっている忠犬ハチ公の銅像ですが、ハチは東京帝国大学農学部の博士であった上野英三郎博士のもとで1924(大正13年)年1月14日からたった一年四か月の間ともに過ごします。
ハチは、博士が大学へ出勤する際、毎日のように博士宅(現在の渋谷東急百貨店付近)から一緒に渋谷駅の改札まで見送りに行っていました。博士は列車に乗り、ハチも尻尾を振ってお見送りをしていたのです。もちろんお迎えも欠かしませんでした。博士が帰ってくる時間には同じ場所へ行き降りてくる多くの乗客の中に博士を見つけると大喜びで駆け寄り、家まで一緒に歩いて帰っていたのです。それが毎日の日課でした。
その上野氏は53歳で脳溢血で息を引き取ります。ハチは葬儀の間、何も食べずに過ごしますが、間もなく、別の家に引き取られます。それでもハチはその後約十年間にわたって朝9時に渋谷駅に立ち、また夕方4時に立って、上野博士が列車から降りてくるのを待ち続けたとのことです。
それが日本中の話題となり、1934年にハチの銅像が渋谷駅のハチがいつも立っていた場所に作られ、それから一年後にハチは息を引き取ります。戦時中には銅像が戦時物資として徴収されましたが、戦後まもなくこの銅像が再建され、今も愛する人との待ち合わせ場所として用いられています。
多くの日本人はこのような物語に感動します。そこにあるキーワードは、「恩」とか「義理」ということばですが、それとセットに「甘え」ということばもあります。なぜなら、恩とか義理という関係は、「甘え合う」ことができる関係から生まれるからです。
上野博士とハチ公にはそのような「甘え」の関係がありました。ハチはそれを一年四か月の間に体の根本で体験したので、その後10年間も渋谷駅で待ち続けることができたのでしょう。
今から3年前にジェームス・フーストン氏の という本を、リージェントカレッジで学ばれた方々と共に翻訳させていただきました。
そこでフーストン氏は「アメリカでもっとも誇張されている自我(エゴ)文化に対して「甘え」という薬が適度に処方されることが文化的に有益であると思われます」と述べ、米国の文化がときに「自己実現のカルト」に陥っているとさえ述べています。
また、日本のビジネスパーソンが世界中で信頼されている理由として、Integrity(誠実さ、正直さ、完全さ)という価値観があると言われますが、その背後に「和」「恩」「義理」という日本的な価値観があると言われます。
正直、僕自身は、そのような日本的価値観の悪い面ばかりを見てきました。それが日本的な村社会に人々の自我を殺して結びつける力として働くからです。
しかし、聖書を読むと、誠実さ、真実さということばが頻繁に登場します。
そして聖書のストーリーの核心は、神がアブラハム契約を守り通すという真実さとして見ることができるとさえ言われます。一年四か月間の上野博士の恩を、十年間にわたって表現し続けたハチ公、それと神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放したストーリーを繰り返し思い起こし続けるイスラエルのストーリーと重なる部分があります。
すべての日本人は「神のかたち」に創造されています。ですからこの異教文化で美徳とされる価値観、「和」「義理」「恩」「甘え」の中にも、神にある平和、神の真実、神の契約の愛、神の誠実、神のあわれみなどの片りんを現わす部分があります。
ただ、多くの場合、それは村社会の中に個人を埋没させる力としても働きます。それを神にある自由な共同体を作り出す力として、再適用することができるのではないでしょうか。
詩篇118篇は「主の恵み(契約の愛)」のすばらしさと永遠性を歌ったものです。
これは113篇から続いていた「エジプトのハレルヤ詩篇」の最後、クライマックスの歌とも言えます。最初と最後で「主 (ヤハウェ) に感謝せよ」と訴えられ、その理由の第一が、「主は……いつくしみ深い」と訳されますが、原文では単に「善い(トーブ)方であるから」としか記されていません。
そして、第二の理由が、「その恵み(ヘセド:不変の愛)はとこしえまで続くから」と記されています。そして、2-4節では「イスラエルよ」「アロンの家よ」「主 (ヤハウェ) を恐れる者たちよ」「言え」と繰り返されながら、三度にわたって「主の恵み(ヘセド)はとこしえまで続くから」と繰り返されます。
つまり、主に感謝すべき理由は、何よりも、その主がご自身の契約(約束)を永遠に守り続けられることにあり、それこそが「主は善い方である」ということの意味なのです。
19、20節では「義の門よ 私のために開け……正しい者たちはここから入る」と記されますが、「義」も「正しい者」も原文では同じことばから派生しています。「義の門」とは、神殿の門を指しますが、それは「神の正しさ」を現す「門」であり、文脈から明らかなように、神に信頼し、神にすがる者を歓迎する入り口です。
イエスの時代のパリサイ人は、正しい人の代表のように見えましたが、イエスの目には「神様、罪人の私をあわれんでください」と胸をたたいて祈った取税人こそが「正しい人」でした (ルカ18:13、14)。そして、神の正しさ(義)とは、ご自身の前にへりくだって、日々、主のあわれみにより頼みながら、生きている者を「受け入れ」、決して見捨てないことに現わされています。そこに「主の恵み(ヘセド)」の永遠性が現わされています。
22、23節の「家を建てる者たちが捨てた石」での「石(エベン)」とはイエスが神の「子(ベン)」であることの比喩で、ご自身が当時の宗教指導者によって捨てられることを指します。しかし、神は、捨てられた「石」である御子を死人の中から復活させ、「神の国」の「要の石」としてくださいました。イエスはこの詩篇のことばを引用しつつ、ご自身を信じない者への厳しいさばきをも預言しておられます (マタイ21:42-44)。
25節の「ああ主 (ヤハウェ) よ」から始まる「どうか救ってください」という祈りは、原文で「ホシアナ」と記され、それが後に「ホサナ!」という賛美の叫びになります。イエスが十字架にかけられる五日前にエルサレムに入城されたとき、人々はこの25、26節のみことばを用いて、イエスをダビデの子としてたたえたのです (マタイ21:8、9)。
「主は私たちに光を与えられた」(27節) という表現は、主の新しい「祝福」の時代の到来を意味します。それは神のご支配(国)が目に見える形で現れることを指します。
イエスの時代の人々は、ダビデ王国の再興を待ち望んでいました。それは主がダビデに「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16) と約束してくださったからです。しかし、それは今、「イエスを主」と告白する神の民の共同体(教会)として実現し、同時に、そこから発せられる福音が、世界を変え続けています。
しかもそれは、神がアブラハムに「地のすべての部族はあなたによって祝福される」(創12:3) と契約を結んだことの成就でもあります。それこそ神の契約の愛(ヘセド)の永遠性の現れです。
祈り
主よ、あなたの「恵み(ヘセド)」こそが、この世界の歴史を完成へと導いておられることを感謝します。あなたはご自身に信頼する者を守り通し、永遠の祝福へと入れてくださいます。そのあなたの契約の愛にいつでもどこでも信頼させてください。