昨日、厚生労働省から贈り物が届きました。今、巷で「アベノマスク」とか呼ばれているものです。早速、着用してみましたが、何か、とっても悲しい気持ちになりました。「これは何に使うことができるのだろう……僕には小さすぎる……あまりにも中途半端……」と思えたからです。
これを日本政府が力を込めて行っていることのはずなのに、何でこんなことになるのだろう……厚生労働者の職員の方々も本当に一生懸命働いておられるのに……」とそれは政権に対する失望というよりも、日本の組織運営に関する痛みです。
日本人は、職人技術とサービス精神で世界に誇ることができます。それは反復行動において習得されるものです。しかし、想定外?の問題に直面したときの対応力が驚くほど弱いと言われます。
日本の組織論の弱点を描いた「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」という本があります。そこで危機に直面した時の日本組織の弱点として、まず第一に、多くの場合戦略目標が曖昧で何をしたいのか分からない……ということがあります。第二に、その場の「空気」で物事が進んで行って、厳密な危機への想定ができない。第三に、疑念が湧いてもそれを謙徳的に議論することが難しい、第四に、過去の事例にこだわって、新しい発想を受け入れにくい、第五に、現場の声が上層部に伝わりにくい……、第六に 細部にこだわって全体像が議論されない、第七に、急激な構造変化へ柔軟な適応が難しい……などのことがあると言われます
つまり、「アベノマスク」の不手際は、首相の人格や能力以前に、日本的な組織運営の結果として生まれるとも考えられるのです
そして、その日本的な村社会の矛盾は私たち自身を追い詰めることがあります。とくに、神の前における良心のゆえに、この日本的な問題に意見を言おうとするなら、たちまち「村八分」にされる恐れだってあります。
そのようなときに支えになるのが、詩篇43篇です
この詩は、先の42篇と明らかにセットになっています。ここで著者は、まず最初に、まわりの現実に再び目を向けながら、「神よ、私のためにさばいてください」(1節) と必死に祈ります。
私は、この祈りを目にしたとき、ほんとうにとっても心が楽になりました。自分の周囲にある不条理に対する不満を神にストレートに訴えることが許されているからです。
聖書の中では、「さばき」ということばはしばしば、神の敵、また信仰者の敵に対して用いられていますが、ここでも「私の訴えを取り上げ……欺きと不正の人から私を助け出してください」と訴えています。
そして、「あなたこそ、私の神、私の隠れ場です」(2節私訳) と告白しながら、再び「なぜ……私を拒まれたのですか」と自分の絶望感を訴え続けます。それはイエスが十字架上で感じておられたお気持ちでもあります (マタイ27:45、46)。また、それは自分が敵の前にいかに無力なものであるかを謙遜に認めることです。
ですから著者は続いて、「あなたの光と、あなたのまことを遣わしてください」(3節) と願いました。私たちにとっては、イエスこそ、「光」であり、「まこと」です。そしてこれは、イエスと同じ助け主である聖霊が遣わされるようにとの祈りでもあります。
何と多くの人々が、表面的な笑顔の奥底に、底知れぬ絶望感を抱えながら生きていることでしょう。その意味で、自分の無力さを真正面から受け止め、絶望感を深く味わいながら、主に必死に叫ぶことこそ、いのちの始まりです。それこそ、サタンの敗北、神の勝利なのです。
私たちの真の敵は、人間ではなくサタンです。十字架はサタンの勝利と見えましたが、復活ですべてが逆転しました。この地に見えるのは、サタンの最後の悪あがきに過ぎません。神の正義の実現は目前です。
作者は、神の「光」と「まこと」によって、神の神殿に戻され、喜びと感謝に満ちて礼拝することを願います (3、4節)。これが今、コロナでの外出自粛を余儀なくされている私たちにとっても現実的な希望となっています
ただし、最終的に、私たちにとっての真の希望は天のエルサレムです。私たちはこの地にいる限り、旅人であり寄留者として、神との交わりへの「渇き」を持ちつづけます。しかし、神の御顔を直接に仰ぎ見るという「救い」は、既に保証されています。ですから、偽りの「新しい時代」(ニューエイジ)、「うお座」に続く「水瓶座の時代」が提供する霊的な恍惚感に惑わされる必要はありません。「渇き」を覚えたまま「絶望」を味わうことが祈りの始まりであれば良いのです。
しかも、神が造られたこの世界に関心を持ち、人の痛みに耳を傾け、ともに「うめく」ことから「愛」が始まります。ローマ人への手紙8章22-26節には、「被造物」、「私たちの心」、「御霊」による「うめき」の三重奏とも言える状態が描かれていますが、それは、世界に愛が広がり、世界に平和が実現するという過程でもあります。
私たちは、矛盾に満ちた地に遣わされるのですから、ときに落ち込み、絶望感を味わうことがあるのは当然です。しかし、それに呑み込まれて、自己憐憫や被害者意識の中に閉じこもる必要はありません。自分の気持ちを優しく受けとめつつ、「なぜ、……うなだれているのか」と、自分のたましいに語りかけ、その気持ちを神にゆだねることができます。
イエスご自身がこの詩篇を生きてくださいました。私たちもその御跡に従います。暗闇は、光を輝かせる舞台に過ぎないのです。
祈り
主よ、私たちは世界の不条理を見ながら、それに怒り、同時に無力感を覚えることがあります。そのようなときに、あなたの「さばき」を求められることを感謝します。
以下のユーチューブで、メンデルスゾーンの有名な合唱曲である詩篇43篇をお聞きいただくことができます。以下の私訳の流れに沿って歌われています。不思議にこの曲では、切実な訴え、悲しみの告白、それと同時に明るい希望が交叉して行きます。
それは下記の翻訳からもお分かりいただけると思います。2分50秒ぐらいのところから、最後の「私のたましいよ、なぜうめいているのか」という女性コーラスが始まり、「神を待ち望め」という全体の合唱が「ハーレ、アウフ ゴッド」と歌われ、神への期待の内に終わります。
私たちが自分の揺れる心を正直に訴えて、神に最終的な解決を期待することができます。そのように祈りながら、私たちは人の目を恐れずに、目の前のことに誠実に向き合って行くのです。
厚生労働省からのマスクがご不要の方は、封を開けることなく当教会にお持ちください。住所のない方へお送りするなど、いろんな使い道があると思われます
神よ。私のためにさばいてください。 (1)
私の訴えを取り上げ、不真実な民の言い分を退けて下さい。
欺きと不正の人から、私を助け出して下さい。
あなたこそ、私の神、私の隠れ場なのですから。 (2)
なぜ、私を拒まれたのですか?
なぜ、私は敵の虐げに、嘆いて歩き回らなければならないのですか?
どうか、あなたの光と、あなたのまことを、遣わしてください。 (3)
それらに、私を導かせて下さい。
あなたの聖なる山、御住まいに向かって。
そして私は、神の祭壇、私の最も喜びとする 神のみもとに行き、 (4)
立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。
神よ。私の神よ。
私のたましいよ。なぜ、うちしおれて(絶望して)いるのか? (5)
なぜ、私の前でうめいて(思い乱れて)いるのか?
神を、待ち望め。私はなおもたたえよう。私の顔の救い、私の神を。