イエスの時代のイスラエルの民は、自分たちを苦しめているのはローマ帝国だと教えられてきました。しかし、一般民衆を苦しめていたのは誰よりも、当時の宗教指導者であったという見方があります。
土地を持たないはずのレビ人たちが大地主になり、民の十分の一献金ばかりか小作料によって肥え太っていました。それはエゼキエル34章に描かれていた「自分を養っているイスラエルの牧者たち」の再来でした。
これはしばしば、日本の朝鮮半島支配の過酷さが、当時の半島で利得を得ていた同国人の子孫によって過度に強調されるようなものです。人はいつも誰かを悪者に仕立てることによって自分の立場を守ろうとします。
イエスは真のダビデの子として、ユダヤ人をユダヤ人の支配者から解放したとも言えましょう。
1.「あなたがたの信仰のとおりに、あなたがたになるように」
9章27節で「イエスがそこから進んで行くと」と記されますが、これは9章18-26節の「会堂司の娘」を死者の中からよみがえらせた記事からの続きという意味で、その終わりでは「この話はその地方全体に広まった」と描かれていました。
それはガリラヤ湖西岸の商業都市カペナウム近辺でのできごとです。とにかく当時の人々は、イエスを預言者エリヤとかエリシャの再来かのように受け止めたことでしょう。
そして続くことばは、「二人の盲人がついてきていた、『私たちをあわれんでください、ダビデの子よ』と叫びながら」と描かれます。新改訳で差別用語を意識し、「目の見えない二人の人」と訳されますが、本来は侮蔑的なニュアンスがあったと思われます。なぜなら、イエスも弟子たちも群衆も、この二人の叫びを無視するかのように、進んでいたかのように描写されているからです。
それでも彼らは「あわれんでください」と叫び続けながら、イエスについて行きました。これは「会堂司の娘」が人々の同情と注目を集めていたのとは対照的です。当時の人々は、盲人を、神の「のろい」を受けた人かのように蔑んでいました。
ところがそこで続けて、「イエスが家に入られると、盲人たちがみもとに来た」(9:28) と記されます。イエスがどこの家に入ったのかは不明ですが、これはイエスが「盲人たち」の叫びを聞きながら、彼らと向き合って静かに対話する機会を探っていたことを示唆します。彼らはイエスの招きで御前に出て来ることが許されました。
そこでイエスは彼らに、「わたしにそれを行うことができると信じているのか」と不思議な質問をします。ここでは「目を開く」ということばを直接的に入れないことによって、「おまえたちは本当にわたしが何でもできると、信頼しているのか?」というニュアンスを強調したのだと思われます。
これまで彼らは、イエスに「あわれみ」を願う際に、「ダビデの子よ」と呼びかけ続けていました。当時の人々にとって「ダビデの子」とは、イスラエルを新しくするメシア(救い主)を意味しました。多くの人はそれを、ローマ帝国からの独立を導く軍事的な指導者のようにイメージしていました。
それに対し、イエスの質問は、彼らがどのような意味でイエスを「ダビデの子」と呼ぶのかを確かめるような意味があったのかもしれません。
イザヤ35章1-6節には、神の救いが実現するときに生まれる新しい世界の希望が歌われながら、「神は来て、あなたがたを救われる」(4節)、「そのとき目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(5、6節) と記されていました。
ある意味でイエスは彼らに、ご自身がイザヤの預言を成就する救い主であることを期待し、信じているのかと尋ねたのだと思われます。旧約聖書をあまり知らない現代人は、そのような預言を当時の盲人が理解するはずがないと思われるかもしれませんが、当時の会堂では聖書朗読が大切にされていましたから、聞く気のある人であれば、当然耳にしていたことばであると思われます。
とにかく、イエスの質問に彼らは簡潔に、「はい、主よ」と答えます。
そこで、「イエスは彼らの目に触れられた」(9:29) と、イエスの手が、目の見えない彼らのまぶたに触れたという感動が示唆されます。彼らはイエスの手のぬくもりは身体全体で感じ取りました。
そこでイエスのことばが、「あなたがたの信仰のとおりにあなたがたになるように」と、聞こえました。これはまるで彼らの信仰自体に癒しの原因があるかのような表現です。それは彼らが「のろわれた者」と見られていたことに対し、彼らに誇りを生み出すためのことばとも言えます。
そしてここでは「すると、彼らの目が開かれた」(9:30) と記されます。彼らは本当に心の底からイエスを、イザヤ預言を成就する「救い主」と信じることができた幸いを味わったことでしゅう。
当時の盲人は、道端に座って物乞いをするしか生きる道はなかったことでしょうが、彼らはどこかでイザヤ35章の預言を耳にし、そのような時代を「ダビデの子」がもたらすと期待し、イエスが目の前を通り過ぎたと知ると、ただただ「あわれんでください、ダビデの子よ」と叫び続けまして。
そこにいる皆から無視されているように感じられる中で、ひたすら叫び続け、それがイエスに認められたのです。彼らは自分の意志で世界を開くことができました。しかし、そこから別の問題が生まれると、誰が理解できたことでしょう。
2.「それでイエスは群衆を見て、深くあわれまれた」 エゼキエル34章が描くダビデの子
そこで不思議に、「イエスは彼らの厳しく命じた、『だれにも知られないように気を付けなさ』と言われながら」と記されます (9:30)。彼らの家族や知人は、彼らの目が開かれら理由を知りたがるはずですから、これは「無理な命令?」とも言えます。
しかし、当時の人々にとっての「ダビデの子」には余りにも政治的な意味が伴っており、そのことばが独り歩きすることにイエスは強い警戒感を抱いたのだと思われます。そうなると、「イエスにおいて、天の御国が今、この地に広がっている」という福音が理解できなくなります。
しかし、イエスからその信仰を評価されたと思い込んだ彼らは、その厳しい戒めを忘れたかのような行動をしました。それが、「しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた」(9:31) という表現です。
当時の宗教指導者の間では、ローマ帝国に対抗するか、それとも権力と折り合いをつけて自分たちの礼拝の自由を守るかということで、ユダヤ人の間で国論が二分されていました。政治に対する見方は、その人が置かれている立場や友人関係で、決定的な対立感情を生み出します。
政治的なニュアンスが先行して伝わると、それだけで、「あの人の発言の裏には政治的な意図がある」と誤解にされ、真のメッセージが伝わらなくなってしまいます。イエスはそのような事態を回避したかったことでしょう。
そして続いてここでは、「その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに口のきけない人を連れて来た、悪霊に憑かれた人を」(9:32) と記されます。ここではまず「口のきけない」という状態に注目され、その理由が「悪霊」によるものと描かれます。悪霊はさまざまな被害を人にもたらしますが、この場合は、口をきけなくすることでした。
そして、ここでは単純に、「悪霊が追い出されると、口のきけない人が話すようになった」と描かれます。イエスのみわざの核心は悪霊を追い出したことにありましたが、同時に、それは先のイザヤ書35章6節の、「口のきけない者の舌は喜び歌う」という預言の成就にもなりました。
それで「群衆は驚いた。『こんなことはいまだかつて見られたことがない、イスラエルにおいて』と言いながら」と描かれます。これは人々が預言の成就を見て、感動したという意味です。
ただそれに対し「パリサイ人たちは言っていた、『彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ』と」(9:34) と記されます。この論理の矛盾をイエスは後に詳しく説明しますが、そこでも「群衆はみな驚いて、『もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか』と言った」(12:23) と記されています。
とにかく、イエスが悪霊を追い出す偉大な働きをするたびに、当時のユダヤ社会の支配者層はそれに危機感を覚え、イエスがサタンの手先だと宣伝するようになります。つまり、これこそ、盲人であった二人が、「イエスこそがダビデの子である」と言い広めたことの結果となったのです。そしてそれがイエスの十字架に向かいます。
残念ながら、イエスがイザヤ35章の預言を成就するたびに、イエスに敵対する勢力が策略を練って行きます。皮肉にも、イエスの働きを「悪霊のかしら」によると見たパリサイ人こそが悪霊のかしらに動かされていたと言えましょう。
つまり、悪霊の働きは、何よりも神のみわざを見えなくすることにあるのです。
9章35節では「それからイエスは、すべての町や村を巡られた、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒されながら」と描かれます。ここではイエスがガリラヤ中の町々や村々を忙しく動き回るようすに焦点が当てられます。
その目的はご自身においてイザヤ35章に描かれたような神の救いが実現しているということを、教えと癒しの両面から証明することにありました。それはまるで、「イエスがダビデの子である」という意味を巡って、それを政治的な独立運動に捉える勢力の広がりに対抗するかのように、みことばと癒しの両面から神の救いを現わして行く動きとなっていました。
ただイエスの働きの根本にあった動機が、「それでイエスは群衆を見て、深くあわれまれた」と描かれます (9:36)。「あわれみ」こそがイエスを動かす感情です。その原文の意味は「はらわたが震える」という感じで、目の前の人の痛みを、自分自身の痛みかのように、心の奥底から感じ取る感覚です。
続けてその理由が「彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである」と記されます。
この背後には、主がイスラエルの政治権力者の横暴を非難したエゼキエル34章があります。
そこで主 (ヤハウェ) はイスラエルの支配者たちに向かい、「わざわいだ、自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。あなたがたは……弱った羊を強めず、病気のものを癒さず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力づくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた」と言われます (2-5節)。
それと同時に主 (ヤハウェ) はイスラエルの権力者を一掃するという意味で、「わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる」(10節) と語られます。
その上で主 (ヤハウエ) ご自身のみわざとして、「わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける……わたしは正しいさばきをもって彼らを養う」(16節) と約束され、さらにダビデの子、メシアの現れを、「わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。主 (ヤハウェ) であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる」(23、24節) と約束しました。
イエスはご自身の働きが、エゼキエル34章の成就であることを意識しながら、「失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける」という真の羊飼いとしての働きを、深い「あわれみ」の心で行っておられました。
しかし、当時の多くの人々が期待していたのは、そのような「ダビデの子」の姿ではありませんでした。それはエゼキエルの預言はいつの時代にも、政治権力者や宗教指導者には都合が悪いものとして、隠されていたからかもしれません。
当時の人々の間では約200年前にイスラエルをギリシャ人の王国であるアンティオコス朝シリアの支配から解放した ユダ・マカベオス のイメージが頻繁に話されていました。いつの時代の人々も戦いによる解決を望むからです。
3.イエスの権威を委ねられた収穫の働き人、羊の牧者たち
9章37、38節では、「そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に強く願いなさい、ご自分の収穫のために働き人を送ってくださるように』と」記されます。
これは先の文脈からすると明らかに、「羊飼いのいない羊の群れ」を世話する「羊飼い」の働きのはずですが、それが「主ご自身の収穫のための主の働き人」と呼ばれるのは不思議です。しかも、それがどうして急に、「収穫が多いが働き人が少ない」という文脈になるのでしょう。
これもエゼキエル34章の文脈から考えるべきです。その11、12節では、主 (ヤハウェ) ご自身が、「見よ、わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。牧者が、散らされた羊の群れのただ中にいるときに、その群れの羊を確かめるように、わたしはわたしの羊を確かめ、雲と暗黒の日に散らされたすべての場所から彼らを救い出す」と語っておられます。
それは、主がかつてイスラエル王国を滅ぼし、その民を散らしたのは、彼らを悪い牧者から解放し、ご自身で直接彼らの世話をするためだったからです。そこで主はさらに、「わたしは諸国の民の中から彼らを導き出し……イスラエルの山々や谷川のほとり……で彼らを養う。わたしは良い牧草地で彼らを養い……わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる」(34:12-15) と約束されます。
ですから、ここでの「主の収穫のための働き人」とは、主 (ヤハウェ) とともに、また新しい「主のしもべダビデ」(34:23、24) とともに、主ご自身によって集められた羊の世話をする人を指すと考えるべきでしょう。
10章1節では、イエスご自身が弟子たちに「働き人が送られるように強く願う」ように命じられた結果が描かれます。それは「十二弟子」こそが、祈りの答えとなったという意味です。
そこで、「イエスは十二弟子をご自身のもとに呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった、それは霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわざわいを癒すためのものであった」(10:1) と記されます。つまり、イエスが十二弟子に授けた賜物とは何よりも「汚れた霊どもを制する権威」であり、それによって、悪霊を「追い出し」、また、あらゆる病気やわずらいを「癒す」ことができたというのです。
先にイエスの働きが「御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された」(9:35) と描かれていました。「御国の福音」とはイエスにおいて「天の御国」がこの地に現れ始めたということで、それは何よりも、天の父なる神への信頼を邪魔する汚れた霊を制する「権威」として現わされます。
また授けられた「権威」は同時に、「あらゆる病気、あらゆるわずらい」を「癒す」ためのものでもありました。この文章のみに基づいて「あらゆる病気」を悪霊に憑かれた結果と考えることは危険です。
弟子たちに与えられたのは何よりも、イエスの代理として働くことができる「権威」であり、それは悪霊を追い出すこととあらゆる病やわずらいを「癒す」ことに結びつきました。
その上で十二弟子の名が記されます。「ペテロと呼ばれるシモン」という記し方に彼のリーダー的な立場が示唆されます。続いて「その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」と記されます。ヨハネ福音書によると、バプテスマのヨハネの弟子の立場からすぐに最初のイエスの弟子となったのがアンデレとゼベダイの子ヨハネであったと思われます (1:40)。
ペテロとヤコブとヨハネの三人は変貌山のときにもゲッセマネの園でもイエスのみそばにいることができました。
続くピリポは有能な現実主義者、バルトロマイはその友人で、ヨハネ福音書ではナタナエルと記され、イエスから「まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」(1:47) と呼ばれた人です。
続く「トマス」はヨハネ20章24-29節では、仲間の弟子が復活のイエスとの出会いを証ししても決して信じようとしなかった内向的人間の典型です。彼とセットに「取税人マタイ」とこの福音書の著者が紹介されます。
マタイの後に名が記される人に関しては、あまりその特徴が分かりません。アルパヨの子ヤコブに関しては名前しか登場しません。
「タダイ」に関してはルカ6章16節では「ヤコブの子ユダ」、ヨハネ14章22節では「イスカリオテでないほうのユダ」と記され、イエスが世にご自身の真の姿を隠すのは「どうしてですか」と聞いた弟子として描かれます。
さらに「熱心党のシモン」とありますが「熱心党」とはローマ帝国からの独立を目指していた政治グループで、ローマ帝国のために税金を集めていたマタイとは真逆の政治的な立場に立っています。
そして最後に「イスカリオテのユダ、イエスを裏切った者」と記されます。イスカリオテとは、「ケリオテの人」という意味だと思われ、他の弟子たちはガリラヤ出身であったのに、このユダだけがユダヤ地方の出身者だったと思われます。
イエスが十二人を特別に選ばれたのは、黙示録21章12、14節で「新しいエルサレム」の十二の門にイスラエルの十二部族の名が記され、また都の城壁に「子羊の十二使徒」の名が記されていたとあるように、新しいイスラエルを十二使徒から始めるという意味があったと思われます。
それにしても、その構成はガリラヤの漁師出身の親しい二家族が選ばれ、そこにピリポとバルトロマイという優秀な友人どうしが加わり、それを核に、全く異なったタイプの人を加えるのという形になっています。
つまり、イエスは十二人のエリートを選んだのではなく、すでに交わりのあるお友達の集団に、異なったタイプの人や政治的に対立する人、最後にご自分を裏切りそうな危険人物を加えたのです。
それはイエスが何よりも新しい神の家族の集まり、共同体を作ろうとされたからです。共同体の核に、幼馴染の集まりがあるのは自然なことです。
イエスが十二弟子を選んだのは「新しい神の民」を牧会させるためでした。彼らこそが新しいイスラエルの牧者として選ばれた人々でした。それは何とも不思議な選び方でした。その中心になったのは二組のガリラヤの漁師の兄弟たちです。しかも現実主義者のピリポや黙想家のバルトロマイ、取税人マタイと革命家シモン、根暗なトマスと、背景不明のヤコブとタダイ、そして最後に裏切り者のユダです。
そこから一つ分かるのは、この十二人は新しい支配者にはなり得ない人々であり、彼ら自身の欠点と限界があまりにも明らかなので、新しい人を加え生かすことができたということです。最初からパウロのような傑出した人物が弟子のリーダーになっていたら、他の人は何も言えなくなります。
イエスは当時の人々が期待したこの世の権力を握る「ダビデの子」ではなく、エゼキエル34章に預言された真の牧者としての「ダビデの子」でした。そして、イエスは羊を優しく養うという働きを受け継げせるために共同体の核として十二弟子を選ばれました。
すべてはエゼキエル34章に描かれた愛によって治められる群れを生み出すためでした。
昨日のドイツの憲法記念日で、メルケル首相は「ウイルスは民主主義への挑戦である」と語り、感染抑制のゆえに基本的人権が侵害されてはならないと強調しました。
権力は目的のために手段を選ばないところがあります。一人ひとりの「神のかたち」としての尊厳を守ることからすべてが始まる必要があります。