マタイ7章13〜29節「いのちを生み、教会を建てた教え」

2020年2月23日

イエスの山上の説教は世界を変えた教えです。これほど人々の心を動かした教えはありません。ただ同時に、様々な誤解もあります。

イエスの教えは、旧約の律法を否定したものではなく、そこに新しいいのちを与え、イスラエル民族のための律法を、全世界の民のための愛の教えへと変えました。しかも、イエスの教えはイエスご自身の聖霊の働きなしには全うできません。そこにキリストの教会の誕生もあります。

1.「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう」

7章13、14節の原文は次のような語順で記されています。

入りなさい、狭い門を通って。 それは、門が大きく、道は広いからです、滅びに導いて行くところのものは。 そして、それを通って入って行く者が多いのです 何とその門は狭く、道は細いことでしょう。 いのちに導くところのものは。 そして、それを見出す者はわずかしかいません

狭い門」と「細い道」こそが、私たちを「いのち」に導きますが、それを「見出す者はわずかしかいません」。それと反対に、「滅びに導いて行く」ところの「門は大きく」「道は広い」ように見えており、しかも、それを「通って入って行く者」の方が圧倒的に「多い」ように思えるという現実が、世の中にはあります。

イエスの「山上の説教」の行動規範は、最後に「ですから、あなたがたが望んでいることは何であっても、それは人々があなたにしてくれることに関してですが、あなたがたも同じように人にしてあげなさい。これが律法と預言者です」(7:12) と訳すことができました。

これだけを見ると、イエスの教えの「門は大きく」、「道は広い」ようにも見えます。ですから、今も多くの人が、「イエスの教えの核心は『愛』にあります。それは分かりやすく、簡潔に言い表せるものです」と言います。それからすると、当教会でのメッセージのように、旧約聖書全体を駆け足で解説するような方法は、せっかく礼拝に来たいと思う人を遠ざけるだけかもしれません。

しかも、「礼拝に来る前に事前に予習して来なさい……」などと言うなど、とんでもないとも思えます。だいたい、僕自身は、野村證券に入社した三年間、礼拝に休んだことはほとんどありませんでしたが、同時に、メッセージを聞いていたこともほとんどありませんでした。いつも居眠りばかりをしていました。もし、昔の僕に向かって、このようなことを言っていたら、すぐに別の教会を探していたかもしれません。

それに比べたら、この礼拝に集っておられる方は、昔の私よりもはるかに偉いと思います。しかし、それでもこうせざるを得ないのは、「いのち」に導く「門は狭く」「道は細い」という現実もあるからです。

しかも、先の「律法と預言者」ということばを使いながら、イエスはこの5章17-19前節で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思っては(みなしては)なりません。廃棄するために来たのではなく、成就するためなのです。まことに、あなたがたに言います。天と地が過ぎ去るまで、律法の一点一画でも決して過ぎ去ることはありません、全部が実現するまでは。ですから、これらの戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり(弛めたり)、またそのように人に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます」と言っておられます。

確かに、人が神の御前で「義と認められる」のは「律法の行い」ではなく「福音を聞く」ことによります (ガラテヤ2:16、3:2)。しかし、それこそ「聖書の核心」かと言えば、「そう単純でもない」という面もあります。

なぜなら、イエスは「律法を廃棄するため」ではなく「成就するため」に、人の子となられたのです。それからしたら律法、つまりモーセ五書を説教しない教会があってよいのかとさえ思います。

ただしイエスはここで旧約を軽んじる者は、「天の御国で最も小さい者と呼ばれる」と言いながら、そのような人も天の御国」に入っていると言っておられます。

実際、昔私が集っていた教会は、居眠りしていようと遅刻しようとも、礼拝に来ること自体が何よりも大切だと教えて、咎められることなど一度もありませんでしたが、そのような教会であったからこそ、私は信仰を全うできてきたのかなとも思います。

ただ同時にイエスは、それとの対比で「しかし、それを行い、またそのように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます」と言われながら、私たちが成長することを確かに促しておられます。

そればかりか、イエスは弟子たちに向かって「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人のそれより、はるかにまさっているのでないなら……決して天の御国に入れません」(5:20) と言われました。

当時、彼らは模範的な市民であり、約束を守り、賄賂も取らず、嘘もつかず、暴力も決して振るわないような人たちでした。彼らに「はるかにまさる義」というのは、イエスの弟子たちにとっては不可能にしか思えませんでした。

つまり、そこでは「律法学者やパリサイ人の方法で「律法を行う」のではなく、イエスとイエスの御霊によって「律法を全うする」という道が示されていたのです。それはイエスの十字架の赦しにすがり、主の御霊によって自分の心が動かされるように身を任せることです。

なお、イエスは22章37-40節で旧約聖書の律法の核心をふたつに、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と要約されました。これは申命記6章5節とレビ記19章18節の教えです。

この核心は「神への愛」と「隣人への愛」ですが、それは私たちの心の奥底の動機が問われていることですから、ハウツー式に教わって実行できるようなことではありません。その意味で、「イエス以外に救いはない」という「狭い門」と、人間の肉の力ではなく聖霊の働きによって心の内側が聖くされるという「細い道」を通るのでなければ、律法を全うして「いのち」に至ることができないのです。

永遠のいのち」へと至る道は、イエスのみわざとその御霊によるしかないという教えは、この世的には極めて排他的で、独善的に見えます。それは仏教もイスラム教も、哲学も様々な霊的な教えも、すべて否定しているとも言えます。

しかし、そこで単純な真理に私たちが気づかされる必要があります。世界のどの教えに、神の御子が私たちと同じ人間になって、私たちすべての罪を負って十字架にかかり、よみがえったという話があるでしょうか。

イエスの十字架と復活ほどにユニークな救いの道はありません。これは人間の理性には納得しがたく思えることです。その意味で、「何とその門は狭く、道は細いことでしょう。いのちに導くところのものはという現実は、人間の理性を超える形で受け止められる必要があるのです。

2.イエスの御名によって大きな働きをした者に対する神のさばき……実によって見分ける

7章15節-20節では「偽預言者」のことが警告されていますが、これは21-23節の多くの人々を恐怖に陥れるみことば、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく」というみことばとセットに読まれる必要があります。

ここでは警告されているのは、不思議にも「律法学者やパリサイ人」の偽善ではなく、イエスに向かって「主よ、主よ」と呼びかけながら、イエスの御名によって「預言し」、イエスの御名によって「悪霊を追い出し」、イエスの御名によって「多くの奇跡を行った」という、尊敬されるキリスト教指導者の偽善です。

多くの人が自分の行いの悪さを嘆き、いつまでたってもイエスの「父のみこころを行う」ことができない現実を認めながら、この箇所を読んで、イエスに向かって「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではない」ということばに怯えます。ときには怯えすぎて、ハーツ―式の弟子訓練の招きに応じる人もいるかもしれません。しかし、聖書は文脈から読むと意味が理解できます。

22節にあるように、イエスの御名を呼び求めながら、「世の終わりは近い、最近のイスラエルの建国から計算して、イエスの空中再臨と携挙の時は……何年以内に実現する」などと言う預言者が、今も昔もいます。また、精神的な病に陥っている人に向かって、悪霊追い出しを実行して、一時的に良くなったかに見える事例もあります。また、多くの奇跡を行うキリスト教指導者もいます。

ネットの世界では、すぐにそのような指導者に出会うことができます。以前は、スキャンダルを起こす米国のテレビ伝道者がいましたが、それこそ、「あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです」(7:20) というみことばの成就とも言えましょう。

それにしても、今も危ないのは、「お金と信仰」をセットにして、「イエス様を信じると、仕事がうまく行って、お金持ちになれる」などと断言する人です。ときに私に向かってそのような話を期待する人がいます。その期待に応える話をすると、私も偽預言者の仲間入りをすることになりますから、お祈りください。

15節から改めて良く見ると、「偽預言者」の特徴は、「彼らは羊の衣を着て」、イエスの弟子になったばかりの人や、様々な生き難さを抱えた人に、優しく寄り添って来ることにあります。

しかし「内側は貪欲な狼で」、彼らはイエスの御名によって「預言し、悪霊を追い出し、多くの奇跡を行い」ながら、自分の弟子を増やすことばかりを願っています。

これはどの伝道者にも起きてしまう可能性のある誘惑です。自分の評判や自分の教会の大きさをまったく気にしないでいられる牧師は、極めて稀とも言えましょう。少なくとも、この私は、心がもともと不安定なところがありますから、そのような誘惑にいつもさらされています。

イエスはそれに対して、単純明快に「あなたがたは彼らをその実によって見分けることになります」と16節と20節で同じことばが繰り返されます。ただし、これはイエスが5章20節で、弟子たちに「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人のそれより、はるかにまさっているのでないなら」と言われたことを思い起こすべきでしょう。

イエスは当時の宗教指導者が見せたような外面的な良い行いを語っているのではありません。ですからここでの「良い実」を、世の人々から「敬虔なクリスチャン!」と感心されるような存在になることではありません。

イエスは山上の説教の始まりで、「心の貧しい者は幸いです」「悲しむ者は幸いです」「義に飢え渇く者は幸いです」「わたしのために人々があなたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです」と言われました。

ですから、いつでも元気で、輝いて、みんなから尊敬される人間になることが「良い実を結ぶ」ことだと思っていると、大間違いです。

そう考えると、「良い実」とは意外に、宮沢賢治の有名な詩の姿かもしれません。

その人のことを賢治は、

雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち
慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを 自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり そして忘れず
野原の松の林の陰の小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば行って看病してやり
西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず 苦にもされず
そういうものに わたしはなりたい

と描きました。

それにはモデルがありました。斎藤宗次郎という人です。彼は1877年に岩手県花巻市の禅宗の寺の三男として生まれ、小学校の教師になりますが、内村鑑三の影響を受けて信仰に導かれ、洗礼を受けます。それから内村の非戦論を広めたこともあって激しい迫害に会い、親から縁を切られ、教師を辞めさせられ、ついには9歳の長女が耶蘇の娘として腹をけられ、腹膜炎で死ぬことになります。

斎藤宗次郎

しかし、それでもくじけることなく、牛乳配達と新聞配達で生計を立て、一日40㎞の道を走りながら10m走っては神様に祈り、10m歩いては神様に感謝の祈りを捧げ、「東に病気の子どもがあれば、西に疲れた母がいれば、南に死にそうな人がいれば、北に喧嘩があれば……」という人生を二十年近く送ります。

その後、1926年(昭和元年)に内村鑑三の招きで東京に引っ越します。花巻から出発しようとしたところ、誰も見送りに来ないと思っていたのに、町長や町の有力者を初め、乞食に至るまで驚くべき多くの人が集まり、その中に彼との交流があった宮沢賢治もいました。

賢治は約五年後にこの詩を描き、二年後の37歳で息を引き取ります。この詩が発見されたのは一年後です。日蓮宗の信者であった賢治がクリスチャンの宗次郎の生き方に憧れ、この詩が生まれました。

宗次郎は、賢治の詩が自分を描いたものだとの自覚を持ちはしなかったでしょうし、聞かれても答えなかったことでしょう。イエスが言われた「実を結ぶ」生き方とは、皆から「でくのぼー」と呼ばれる生き方かもしれません。

とにかく、ここでイエスは、「あなたの名によって預言し……悪霊を追い出し……多くの奇跡を行ったではありませんか」と自慢する人に対し、「そのとき」と言われる神のさばきの時に、「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け」と言われるというのです (23節)。

これはイエスが「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(6:3、4) と言われたことを思い起こさせます。

あなたの名によって」とイエスに感謝しているようでありながら、自分の良い行いを数え上げている時点で、みこころに反しているのです。

3.山上の説教を実行した者が岩の上に神の家を建てた……ヘロデ神殿の儚さ

24節から27節には、イエスの「これらのことばを聞いて、それを行う者」と、「それを行わない者」との対比が描かれます。そしてイエスのことばを実行する人は「岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえ」られ、一方で、実行しない人は「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」にたとえられます。

そして、その土台の違いは、「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲う」または「その家に打ちつける」という同じ状況の中で違いが現れます。

前者の場合は「家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたから」と、後者の場合は「倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした」と記されます。

これとほとんど同じ描写がルカ6章46-49節に記されます。そこでは、イエスに向かって「主よ、主よ」と呼びながら、イエスの言われることを「聞き、それを行う人」と、「聞いても行わない人」との対比で描かれます。

そこでも、両方とも洪水になり「川の水が押し寄せる」と言う状況の中で、前者は「びくともしません」と描かれ、後者は「家はすぐに倒れてしまい、その倒れ方はひどいものでした」と描かれます。

不思議なのは、イエスのことばを聞いて「それを行う者」が「岩の上に土台を据えた」ことと描かれる一方、「それを行わない者」が「砂の上に家を建てた人」、「土台なしで地面に家を建てた人」(ルカ6:48) と記されていたことです。

みことばを実行することとしないことが、なぜ「土台を据える」こと、また「土台なしで建てる」ことという対比となるのでしょう。旧約の文脈からは、「みことばを暗唱すること」とか、「思い巡らす」こととして描かれるはずが、ここでは「それを行う」か「行わない」かの違いになっています。

しかもそれがなぜ、「家を建てる」ことにたとえられるのでしょう。しばしば、土台の違いの話にばかり目が向かい、なぜこのたとえが「山上の説教」の終わりに来る必要があるのか、その意味が見過ごされてはいないでしょうか。

イエスの山上の説教はマタイに記された五つの説教の最初で、それはモーセ五書の律法に対応する「新しい契約」とも言えます。モーセ契約の終わりに「のろい」と「祝福」の選択を迫る表現があったのと同じように、ここにおいても明確な「選択」が問われています。

ただ、ここで言われるイエスのことばを「聞いて、それを行う」とは、たとえば当時の律法学者が強調した安息日を守るとか、収入の十分の一を聖別するというような外面的なことではありません。

イエスの教えにおいては、兄弟を「愚か者」と呼ばない、情欲を抱いて女を見ない、自分を正当化するために神の御名を持ち出さない、「右の頬を打つ者に左の頬を向ける」、「自分の敵を愛する」、善い行いは隠れて行う、神と富とに同時に仕えようとしない、兄弟をさばかないこと、自分の心の願いを受け止めながら、隣人の願いをかなえることなど、すべて心の内側の動機が問われており、誰も「私はイエスのおことば通りに生きています」と胸を張って主張できないことばかりです。

ですから、ここでのみことばの実行とは、自己正当化を捨てて、イエスにすがることに他なりません。

そしてそれが「家を建てる」こととして表現されるのは、当時のユダヤ人が神殿拡張工事に熱心に関わっていたことと切り離せません。その神殿が完成するのは紀元66年で、イエスの十字架から30年余りが経過した時です。しかし、その神殿はその4年後にローマ帝国軍によって跡形もなく破壊されます。それはユダヤ人が、「敵との平和」を求めたイエスのことばに逆らって、独立運動を起こしたからです。

しかしイエスの弟子たちは、ローマ帝国をも神の支配のもとにあると受け止めすべての民に対しての隣人愛を実践し、イエスの「からだ」としての神殿を建てて行きました。それはキリストの教会としてローマ帝国の迫害の嵐の中を生き延び、広がり続け、帝国の剣の支配を無効にして行きました。

ですから、「岩の上に建てられた家」とはキリストの教会であり、「砂の上に建てられた家」とはヘロデ神殿を指しています。

ローマ帝国に反抗して見せかけの神殿の栄光を求めた人々は、恐ろしい神のさばきを受けました。しかし、「岩の上に」キリストの教会を建てた人々は、世界の歴史を変えて行ったのです。そこに山上の説教の革命的な意味があります。イエスのことばによって建てられた家は嵐の中で「びくともしなかった」からです。

最後にこの山上の説教を聞いた「群衆は……驚いた」理由が、「律法学者たちのようではなく、権威ある者として教えられた」と説明されます。

それはイエスが、「あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います」と、当時の律法学者たちの解釈を、権威をもって否定した上で、律法の真の意味をモーセの原点から語り直したからです。それは律法にいのちを与える説教であったとも言えましょう。

イエスの教えが、「キリストの教会を建てた」ということを私たちは心に泊める必要があります。それは一人ひとりを生かすこと以上に、世界中の人々に和解を生み出しました。

私たちはキリスト者としての証しを、あまりにも個人的なレベルで見てはいないでしょうか。イエスの御名によって劇的な働きをした人が、イエスから退けられる一方で、「でくのぼー」と見られるような人こそが共同体を建て上げているとも言えましょう。

岩の上に建てられた家」とはキリストの教会に他なりません。私たちも今、そこでともに建て上げられています。それは、決して目立った働きではなく、イエスにすがりながらなされる地味な働きです。