私たちはみな心の底に、「愛への渇き」を持っています。そこから、人々の愛になさに失望して互いに非難し合うという連鎖になるのか、反対に、アダムの罪の原点に立ち返ってイエスの生き方に倣い、主の御父に「お父様!」とすがることができる自由を味わい、愛の交わりを広げることもできます。
天地万物の創造主に向かって「求め、探し、たたく」という積極的な姿勢を持つことで天の父の愛を体験するとき、あなたは隣人に対しても、愛の心で接することができます。愛への渇きから、愛の連鎖を生み出してゆくのです。
1.「さばいてはいけません」ー 自分を神の立場に置いてはなりません ー
「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」(7:1) とは、「人からさばかれたくなかったら……」という損得勘定が記されているように感じられます。しかしこの後半は「そうしないと、あなたもさばかれることになりますよ」というニュアンスが込められており、そこには「互いにさばきあう」という連鎖を止める意味があります。
昔から、どのような喧嘩も戦争も、自分の正義を主張し、相手の非を責めることから始まります。「さばいてはいけません」とは、アダムの罪の原点に立ち返ることばで、「自分を神の座に置いて、人を評価してはいけない」という意味です。
蛇はエバに禁断の実を指して「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となる」(創世記3:5) と言いました。それは全くの嘘ではありません。神はこの後「見よ。人はわれわれのうちの一人のようになり、善悪を知るようになった」と言われ、彼らが「いのちの木からも取って食べる」ことのないようにエデンの園から追い出されました (3:22、23)。
私は昔、神学校で学んでいたとき、多くの若い学生が、レポートの期限を平気で破っているのを見て、義憤に駆られ、「あなたがたはそれでも、教会から遣わされている献身者と言えるのか……」という趣旨のことを何度か言ってしまいました。野村證券時代は、「期限を守れない者は、人間ではない」かのように厳しく指導されてきたからでもあります。
すると、あるときある先輩が、「高橋さんは、まるで神のようだ」と言ってくれました。それは決して賞賛ではなく、「おまえは何様のつもりか!」という感じの意味でした。しかし、私はそれを通して、アダムが「神のようになって善悪を知る者」となったことの意味が、腹の底に落ちました。
多くの場合、私たちは他人が置かれた事情を理解しないまま、上から目線で人をさばいてしまいます。これは特に、善悪の基準をいつも明確にして、それによって安心感を得たいと思っている人に起きることです。
そして、人を一方的にさばくことによって起こることが、「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその量りで量り与えられる」(7:2) と言われます。私は野村の基準で他の神学生をさばいていましたが、教会開拓を始めてみると、野村的な成果基準で自分の伝道者としての働きを評価していました。この教会での礼拝が始まったのは1989年10月でした。その二か月後にバブル経済の崩壊が始まり、日本全体のムードも一変します。私は証券会社にいた割には、時代の変化を読むことができていませんでした。それまで福音自由教会は礼拝出席者が急増して行く教派として有名でした。特に東京武蔵野教会は開拓からたった五年で礼拝出席者数が160名に達していました。
ところが立川での礼拝を始めると、新しい人々が信仰に導かれないどころか、いっしょに働きを始めたはずの方々が徐々に教会を去って行きました。私はひどく落ち込みました。そのことをニュースレターに書き、ヨーロッパの仲間にも送りました。
すると多くの方々がお祈りし、何人かの方は慰めのみことばをお送りくださいました。まさに、人をさばくと、自分で自分をさばくことになり、反対に、自分の痛みを表現すると、人はそこに慰めを与えてくれます。
確かに「自分がさばく、そのさばきでさばかれる」とは、たとえば「人の遅刻を責めると、自分が遅刻したときに厳しく非難される」ということとして現れます。しかし、人間心理からすると、時間のことで人を非難する人は、時間をいつも気にする人ですから、その基準で自分が非難されると、驚くほどに落ち込むか、反撃が帰って来ます。
よく、「あの人はいつも厳しいことばかり言うから、言い返してあげよう!」などと思ってそれを実行すると、恐ろしい破局が待っています。人を厳しく非難する人は、自分で自分を非難し続けているものです。セルフイメージが低いからこそ、人を厳しく非難するという心の作用を理解すべきです。
また、「自分が量るその量りで量り与えられる」とは、人を評価したその同じ基準が自分にも適用されるということで、厳しく人を責める人は、自分も厳しく責められることになり、また人の過ちに寛大に対応する人は、寛大に見てもらえるということでもあります。
この後者の恵みの連鎖を私たちは望むべきでしょう。私たちの教会は、互いに寛容であることによって寛容の連鎖を広げる交わりであるべきでしょう。
2.「自分の目から梁を取り除きなさい」
3節では、「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか」と言われますが、ここからは単数形の表現で、一人ひとりの問題に具体的に入り込む形になっています。
イエスは5章20節で、「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人のそれより、はるかにまさっているのでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません」(私訳)と言われたことを思い起こさせます。イエスは、当時の律法学者やパリサイ人を意識して、これを語ったと考えるべきでしょう。
彼らは当時、イスラエルが神のみ教えを軽んじた結果、バビロン帝国、ペルシャ帝国、ギリシャの王が支配する国々、ローマ帝国の支配下に次々と屈さざるを得なくなったと考えていました。ですから彼らは人々に、安息日を守ることの大切さや、何が偶像礼拝になるかなどを実生活に適用して語り、民全体が神の基準に達するようにと互いに励まし合っていました。
彼らは、みんなが神の前に誠実に生きるようになれば、神がイスラエルの憐れみを注ぎ、救い主を遣わして、ダビデ王国を再興してくださると信じていました。
これは現代で言えば、地球温暖化の問題に適用できます。その意識が高い人にとっては、ゴミの分別やプラスティックゴミを減らすことは何よりも大切な課題です。人によっては、授業を休んで、議会の前に座り込むことを通して、危機感をアピールするほどです。
そのような危機感は大切ではありますが、問題意識を高く持ち過ぎて、他人のごみの分別に対しても黙っていられないということになるかもしれません。もし、あなたが自分の家のゴミの分別に関して隣人から具体的に指摘されたら、どのように感じるでしょう。多くの場合、自分が無分別な人間とレッテルを張られ、蔑まれたと感じてしまいます。その結果、人によっては、「言われた通りにはするものか!」と意地を張ります。そしてそこに何より恐ろしい「争い」が生まれます。
イエスが、「自分の目にある梁」に気づくようにと指摘した「梁」とは、何よりも人を軽蔑する心と言えましょう。パリサイ人たちは取税人や遊女を徹底的に軽蔑し、「あんな奴らがいるから、国が良くならない……」と、心の中でそれらの人を「殺して」いました。
それでイエスは彼らを「偽善者」と非難されました。このことばはもともと、演劇で仮面をかぶって変装しながら、何かの役を演じることを指しています。その際、仮面の下の本当の顔を隠していることが、人間関係に現れると偽善者と呼ばれることになります。
パリサイ人は神の正しさを現わそうと善意で頑張っていましたが、その結果、自分の心の闇を隠し、人の過ちばかりを非難する姿勢を取ってしまいました。しかし、それこそ、「自分を神の座に置く」というアダムの罪に倣うことでした。
アダムは、神から「おまえは……食べたのか」と聞かれただけで、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので」(創世記3:12) と言い訳しましたが、そこでは「この女のせいだ」と言いながら、女を自分のそばに置いた神を非難しています。
私たちすべてにこのアダムの心が受け継がれています。「自分の目にある梁に気づく」とは、自分の内に生きているアダムに気づくことに他なりません。それは、自分に問題が起きたら、その原因をすべて神と社会のせいにするような姿勢です。
それに対し「自分の目から梁を取り除く」とは、アダムの生き方を否定して、キリストの生き方に倣うことと言えましょう。それは、「キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり……自らを低くして……十字架の死にまで従われた」という謙遜な生き方です (ピリピ2:6-8)。
自分の正義を訴える代わりに、罪人の仲間と見られることを厭わない姿勢です。
私たちの世界を混乱させているのは、ゴミの分別に対する無頓着さ以前に、互いに対する愛が欠けていることです。地球温暖化への対応も、誰かを非難する姿勢以前に、愛の動機から始まる必要があります。
またその際、人の愛の欠如を非難することから始めてもいけません。どこの教会でも、去って行く人の最も典型的なことばは、「この教会には愛がない!」というものです。私たちはそのような批判を受ける時に自分たちのあり方を反省する必要はありますが、過度に自分たちを責める必要はありません。それ以上に、そのように人を非難せざるを得ない人の中の「愛への渇き」の思いを優しく見る必要があります。
とにかく、「自分の目から梁を取り除いて」初めて、この世界や人の真の問題が「はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができる」のです。
ただこれは、「人の問題を正すことを諦めなさい!」という意味ではありません。まず、自分の心の奥底に生きるアダムに気づき、それに真剣に向き合い、そして、同じアダムの問題を抱える人の気持ちに寄り添い、その上で優しいことばで正して行くという順番の問題です。
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります」(6節) とは、ふたたび、「あなたがた」という複数形の一般論に戻った表現です。
当時のユダヤ人は異教徒のことを「犬」と呼んで軽蔑していましたし、「豚」を飼っているのは、ユダヤ人ではなく異邦人でした。
イエスは後に弟子たちを派遣するときに、「異邦人の道に行ってはいけません。またサマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい」(マタイ10:5、6) と言われました。
イエスは山上の説教で、当時の律法解釈の問題を指摘しているのですから、旧約聖書自体を知りたいと思わない人には何の意味もありません。最初から聖書を軽んじている人に対して、イエスの「聖なる」教えを必死に伝えようとしても「豚に真珠!」ということになりかねません。それどころか、あなたの熱い思い自体が、聞く人にとっての心理的なプレッシャーになり、かえって反発を招く場合が多くあります。
ですから、聖書の価値を知ろうとしない人と意味ある対話ができるためには、まずその人との共通の土台を築くことに心を向ける必要がありましょう。
3.「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」という積極的な生き方の勧め
7章7節で「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」と記されます。
「求めなさい」とは、6章33節の「神の国と神の義を求めなさい」という場合とは全く異なったことばで、その中心は「願いなさい、頼みなさい」という意味です。その際、「そうすれば与えられます」というのは何と都合の良い話かと思います。
続く「探しなさい」こそ、先の「神の国と義を求めなさい (seek)」というときと同じギリシャ語です。それは、空の鳥をよく見て、また野の百合をよく観察することによって、神の国というご支配の現実と神の義という真実を「見出しなさい」という意味でした。
また「たたきなさい」とは、扉を開けるようにと「たたく」という意味です。それらは、私たちが積極的に神に願い求め、答えを求めて問い続けるということを促すことばです。これは仏教的な諦めとは正反対なことばです。
私は米国で信仰に導かれました。キャンパスクルセードの宣教師は、私の帰国までの数か月間、三つの祈祷課題を毎週祈ろうと言ってくれました。それは、就職と結婚と教会でした。就職だけは、すぐにみこころを読み間違えたと後悔しましたが、今になってみると、これこそ当時の祈りに対する答えだと思えています。
仕事で厳しいノルマに駆り立てられながら、必死に、ノルマを果たせるようにと祈り、その結果、ドイツ留学への道が開かれました。もちろん、「願っても、願っても、叶えられない」と嘆いている方が多くいることも知っています。
確かに、神は私たちの心の奥底の願いは叶えてくださいます。しかしそれは願ったことばの通りになるという意味ではありません。しばしば問題なのは、願った通りにならなかったときの失望に備えるかのように、「みこころならば、かなえてください」と、自分の必死な思いを抑え過ぎることです。「みこころ」でなければ叶わないのは当然なのですから、そんなに遠慮深い態度を取る必要があるのでしょうか。
ある方が信じて間もないころ、創世記に「神は大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水を分けられた」と書いてあるのも見て、「大空の下にある水」が「海」だとはわかるけれど、「大空の上にある水」の意味が分からなくて、不安になりました。それで彼女はすぐに、「神様!大空の上にある水って、何を指しているのですか?」と尋ねたそうです。するとすぐに、通り雨のように天から雨が降ってきました。彼女は、「神様、分かりました、ありがとうございます」と答えました。
これは人間的には、偶然と言われます。しかし、ナチス・ドイツとの戦いを英国民に励ました英国のカンタベリー主教ウイリアム・テンプルは、次のような有名なことばを語りました。「私が祈ると、偶然は起こる。しかし、祈りを止めると、偶然も起きなくなる」
そのことばを保証するようにここでは、「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者は開かれます」(8節) と断言されます。何でも偶然と判断し、神に向かって心を開かない人に、神はご自身を現わしてはくださいません。もっと子が親にすがるような姿勢が求められています。
イエスがこのように言われたのは、パリサイ人たちが神のみこころを先回りして解説し、神の前でお利口に振る舞うことばかりを勧めていたからではないでしょうか。もっと大胆に神に向かって、「求め、探し、たたく」ような積極的な姿勢が大切です。
神はご自分が勝手に分析されることを嫌われ、反対に、私たちとの心からの対話を望んでおられます。
ですからイエスは、人と神の関係を、9-11節で子どもと親の関係で説明します。まず、「あなたがたのうちだれが、自分の子がパンを求めているのに、石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか」という率直な質問をします。
それは、しばしば、「すべての苦難も、神の御手の中にある」という神学的な理解が、「神は意地悪を、敢えてなさることがある……」という解釈につながることがあるからです。
11節ではその逆にイエスは、「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」と言われます。
当時の大人たちは生きるだけで精一杯で、子育てに時間をかけるということはありませんでしたが、そのように「悪い親」であっても、「自分の子ども」が率直に願うなら「良いものを与えるということを知っている」という現実も見られました。
それを前提に、まして「あなたがたの天におられる父は」と話を展開します。そこには、天の父は肉の父にはるかに勝っているという前提があります。これこそイエスがこの山上の説教で繰り返していることです。天の父は「隠れたところで見ておられ」、あなたの隠された「善い行い」に豊かに「報いて」くださいます。
12節は、「ですから、すべてあなたがたが望んでいることは何であっても、それは人々があなたにしてくれることに関してですが、あなたがたも同じように人にしてあげなさい。これが律法と預言者です」と訳すことができます。これは「律法と預言者」と呼ばれた聖書の要約であるというのです。ですからこれは黄金律 (Golden Rule) と呼ばれます。
興味深いのは、原文の語順では、自分の心の中にある望みをまず何であっても積極的に思い浮かべることが勧められていることです。これは「求めなさい、探しなさい、たたきない」という積極的な生き方と結びついています。
そしてそれがもし、「何か人々があなたに対してできること」であるならば、「あなたがまず他の人にそのようにしてあげるべき」という勧めになっています。
日本人の道徳律は、「人様に迷惑をかけてはいけません」かもしれません。またイエスの時代の律法学者も「何をするにも注意を払い、すべての行為を節度あるものにしなさい。自分が嫌なことは、ほかの誰にもしてはならない」(旧約外典トビト4・15、2018年聖書協会共同訳聖書から)と強調しました。
しかしイエスは、山上の説教を黄金律としてまとめ、まず自分の心の願いに気づくことを勧め、その文脈の中で、「してはならない」という発想を「しなさい」という能動形に変えました。
私たちは、「このようなことを望んではいけない」と自分の心の奥底から生まれる動きを制御しようとしますが、イエスの教えは心の願いを解放し、いのちの輝きを生み出します。
最初のアダムの罪は、エデンの園に既にあった「祝福」、つまり「神が自分をどれほど愛し、期待しておられるか」ということを忘れ、自分を神の競争者にしたことにあります。ですから、神の前で何より求められている姿勢は、自分の不出来さ以前に、自分が既に神の最高傑作として創造されていることを認めることです。
しかしアダムは、絶対者である神の権威に逆らって「自分を神」としました。それこそが罪の根本です。ですから、互いの欠けを指摘し合って成長を促すという姿勢自体が、互いにさばき合うという「神々の争い」を生み出しかねません。
しかも、私たちはそのような関係から、自己嫌悪感を募らせます。それがまた、自分の心にある正直な気持ちを抑圧するというマイナスの生き方につながります。
しかしイエスはまず、創造主を「あなたの父」と紹介し、その方に「求め、探し、たたきなさい」という積極的な姿勢を取ることを勧められました。
また「すべてあなたが望んでいることは何であっても」ということばから始め、心の奥底にある願いに気づくことから、隣人愛を築くようにと勧められました。
私たちは自分の心の奥底にある愛への渇きを知るからこそ、他の人の心の中の渇きを知り、そこに寄り添うことができます。そこに愛の連鎖が始まります。