2017年7月23日
多くの人は、何かの「渇き」に駆り立てられているかのように生きています。すべての人の心の底にある「渇き」とは何でしょう。
それを箴言19章22節は、「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」と述べています。「変わらぬ愛」とは、ヘブル語のヘセドで、「誠実」とか「真実」とも訳すことができます。
この書の名がルツ記と呼ばれるのは、モアブの女ルツの「真実」がテーマになっているからと言えましょうが(3:10)、その背後には、神の真実(ヘセド)があります。新約では「あわれみ」とも訳されます。
モアブは、聖書では「のろわれた民」と描かれています。その娘の真実な生き方のゆえにイスラエル王家の母になるという不思議を前に、私たちは自分の出生や過去の罪を卑下する必要がないことが分かります。
1.「あなたの神は私の神」と告白したモアブの娘
「さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった」(1:1)とは、イスラエルの民の「心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え」た結果、「主の怒りが燃え上がり、主が天を閉ざし……雨が降らなく」なったために起こった悲惨と考えられました(申命記11:16,17)。それは主がイスラエルの民を約束の地に導き入れて間もなくの時ですから、そのように解釈するのがこの時期としては当然でしょう。
そして、そこで民に求められていたのは、主に立ち返ることでした。ところが、そのとき、ユダのベツレヘムに住むエリメレクは、主から与えられた相続地を離れ、モアブの地に下ったというのです。これは、約束の地に導き入れてくださった主への反逆とも見られます。「ナオミの夫エリメレクの死」は、それに対する主のさばきとも解釈できましょう。
しかも、そこで、「ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた」というのです。申命記には、「モアブの……十代目の子孫さえ、決して、主(ヤハウェ)の集会に、入ることはできない」(23:3)と、彼らとの分離が命じられていましたから、これも主のみこころに対する明確な反抗です。この二人の息子がともに死んでしまったということも、神のさばきと考えられて当然です。
ただ、「こうしてナオミはふたりの子供と夫に先立たれてしまった」(1:5)という表現に、彼女の何とも言えない絶望感が伝わってくるようです。
ところがその後、ナオミは、「主(ヤハウェ)がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いて」(1:6)、ユダの地に戻る決意をします。彼女は自分の悲惨が、「主(ヤハウェ)の御手が私に下った」(1:13)と、ひたすら謙遜に受け止めていますが、同時に、今は、主の「あわれみ(ヘセド)」に必死にすがろうとしています。そして主もまた彼女が約束の地に戻るのを待っておられました。主の「あわれみは尽きない」からです。
ナオミはふたりの嫁に実家に帰るように勧め、ルツには、「あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところに帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい」(1:15)と言いました。
しかし、ルツはそれを退け、彼女に向かって、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(1:16)と答えました。彼女は、この告白によって、神の目には、モアブの娘から神の民イスラエルの娘となったのです。
後に天才パスカルは自分の回心が、自分の知恵によるものでないことをこのことばで表現しました。私たちは多くの場合、キリスト者との出会いから信仰に導かれますが、その際、これが自分の告白となっているのです。
モアブの起源は、ロトとその娘との父娘相姦という忌まわしいものです(創世記19:36,37)。彼らはモーセに率いられたイスラエルを、バラムを雇ってのろわせようと計り、またモアブの娘たちはイスラエルを偶像礼拝に誘いました(民数記25:2)。これらの結果、彼らは「のろわれた民」となったのです。
しかし、この物語で興味深いのは、かつてはイスラエルを偶像礼拝に誘ったモアブの娘が、暗黒時代のイスラエルに信仰者としての模範を残そうとしているという点です。
一方、このとき姑のナオミも、「全能者が私をひどい苦しみに合わせた」(1:20,21)と言いながら、なお主にすがり続けています。主は、「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」(申命記32:39)と仰せられました。
自分を誇る理由を何も持たない者こそが、創造主だけが、人を生かし、いやす方であることを腹の底で理解できるのではないでしょうか。主は、人間的な希望が見えないところにこそ、ご自身の栄光と御力を現してくださるからです。
ナオミは夫と二人の息子の最後を看取りました。彼女はそこにあった神秘を体験することによって、「全能者が私をひどい苦しみに会わせた」と言いつつ、主にすがる思いを深めたとも言えましょう。
最近、まさに働き盛りのご主人の最後を看取られた方がその状況を、「十日間、私は病室に泊りこみました。夫の呼吸だけが静かに聴こえ、神様から与えられている命の重さを実感したのです。創世記2章の『神である主は……人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた』が思い出され、夫の呼吸を聴き、じっと心臓を見つめ、何度もその「いのちの息」を確認したのです。自分自身の呼吸も苦しくなるような気持ちでした」と書いておられます。
葬儀が終わった後のことを、「一人で自宅に戻ったとき、ことばに言い表せない深い寂しさがこみあげて来ました……そして、夫が息を引き取った時、何の声もかけてあげられなかった自分を責めるような気持ちもありました」と記しておられますが、その後、奥様の最後を看取られらジェームス・フーストン先生の証しを聞いたときに、それに深い共感を覚えると同時に、「私が夫に声をかけてもかけなくても、神様がしっかり夫のたましいを御手で包んでくださり、命の活力を神様に明け渡して行く大切な瞬間に私はそばにいた。夫のそばに私が呼ばれた……神の神秘に立ち会わせていただいたことへの畏れのような気持ちが湧いて来たのです。主はそこにいたのです」と振り返っておられます。
彼女のご主人は、仕事も教会奉仕も真剣に取り組み、多くの方々から尊敬されていました。私たちは無意識のうちに因果応報的な発想で、早すぎる死の原因を分析したりします。
しかし、ナオミは自分の過去を反省する代わりに、ただ、「私は満ち足りて出て行きましたが、主(ヤハウェ)は私を素手で帰されましたと」と告白します(1:21)。そして「主(ヤハウェ)は私を卑しくし、全能者が私をつらい目に会わせられました」と、すべてが「わたしはある」(ヤハウェの意味)と言われる全能の神(エル・シャダイ)のみわざと認め、自分の夫や息子たちの死も、人間的な原因結果を越えた「神の神秘」と受け止めました。
そして、そこに主の御手があったのなら、主(ヤハウェ)は自分のこれからの人生を変えることができるはずと、主に改めてすがる生き方を始めたとも言えましょう。息子の嫁のルツが、「あなたの神は私の神です」と告白したのは、「神の神秘に立ち会った畏れのような気持ち」が、ナオミの姿に実際に見られたからではないでしょうか。
「苦しみ」「つらい目」にあった原因を理屈で説明する必要はありません。ただその背後に主がおられることは確かです。
問われているのは、その体験が私たちをどこに導くかという将来の方向です。
2.「はからずも……」、「その翼の下に避け所を求めて来た」、「恥ずかしい思いをさせてはならない」
ベツレヘムに着いたルツは、糧を得るために落ち穂を拾いに出かけますが、「それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった」(2:3)と記されます。
「はからずも」とは、「偶然」とも訳せることばですが、その背後に神の御手があることがさりげなく示されています。私たちにも、「はからずも」ということが起きますが、それを神の御手の中での「必然」と受け止めるなら希望が生まれます。
そして、その様子を「はからずも」見たボアズは、彼女に親切を尽くします。それは、ルツが夫を失った後、姑のナオミに誠実に仕え続け、生まれ故郷を離れて、自分の民を軽蔑する国に来て、必死に働くその真実な生き様を聞いていたからです。彼は、モアブの女としてのルツのうわべではなく心を見たのでした。
そして彼は彼女に、「主(ヤハウェ)があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主(ヤハウェ)から、豊かな報いがあるように」(2:12)と語りました。これこそこの書のテーマです。
神は、あなたの出生や、過去に関りなく、今の真実な思いに豊かに報いてくださる方です。そこで問われているのは、詩篇91篇に描かれた主の御翼の陰を求める、「いと高き方の保護(shelter)のもとに座る者は、全能者(シャダイ)の陰に宿っている……主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。その翼の下にあなたは身を避けている」(1,4節)という告白ではないでしょうか。
そして、ボアズは若者たちに彼女がなるべく多くの落ち穂を拾うことができるようなさりげない配慮を命じ、その際、「あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない」(2:15)と言います。実は、このさりげないことばに、神の律法の精神が反映されています。
申命記では、「あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない」(24:20)と命じられます。
またレビ記では、「刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない」(19:9)と命じられ、その上で、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(19:18)という聖書の核心のことばが記されていました。
日本の生活保護は、支出まで管理されるようですが、社会的弱者への援助は、彼らが卑屈にならずに済むように、彼らが自分の手で働いて収穫できる場を、さりげなく残す形でなされるべきなのです。
ナオミは、ボアズの名を聞くとすぐに「御恵み(ヘセド)を惜しまれない主(ヤハウェ)」(2:20)と賛美しますが、それはルツをさりげなく助けた彼が、「買い戻しの権利のある私たちの親類のひとり」であり、ルツは「はからずも」そこで働いたのですが、そこに神の御手が働いていたことを知ったからでした。
ナオミはルツに、ボアズの畑で、他の若い女たちといっしょに落ち穂ひろいをすることで、「ほかの畑でいじめられなくても済みます」(2:22)と言いました。ナオミは、ルツのモアブの娘としての辛い立場を気遣っていました。
なお、ユダヤ人の会堂礼拝の伝統では、このルツ記は、過越の祭りから五十日目の「七週の祭り」の日に必ず読まれていました。この落ち穂拾いのテーマは、この春の麦の収穫の時期の物語だからでもありますが、それ以上に、七週の祭りは、イスラエルの民がシナイ山で律法を受け取ったことを記念する日だからです。
イスラエルはこの律法を受けることによって名実ともに神の民として生き始めることができました。そしてモアブのルツも、この社会的弱者に優しい律法の恵みの中に招き入れられて神の民となったからです。
七週の祭りは、現代の私たちにとってはペンテコステです。私たちもかつてはルツのように神の民の外にいましたが、聖霊を受けることによって神の民に加えていただけたからです。全能の神の御翼の下に身を隠すとは、恵みに満ちた神のみことばの下に身を置くことに他なりません。
3.「死んだ者の名をその相続地に起こすために」
ボアズはナオミの家にとって、「買い戻し(贖い)の権利のある……親類」と紹介されましたが(2:20)、「買い戻し」とは、「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない」(レビ25:25)とあったからです。それは、他人の手に渡った神からの割り当て地を、近親者の手で元の家の所有に戻すことです。
旧約での神の祝福は、目に見える土地の上に住む、目に見える家族に表わされるからです。これは日本の「お家再興」に似た面があるかも知れません。まさにボアズは、ナオミの夫エリメレクの家を再興する権利のある親戚でした。
ただし、ナオミは何よりも今後のルツの身の上を心配して、「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか」(3:1)と言っています。決してナオミはお家再興のために、ルツを使おうなどとは思っていません。そこには真実な愛がありました。
ルツは、ナオミの指示に従い、夜ひそかにボアズの寝床を訪ね、「あなたのおおい(翼)を広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから」(3:9)と願います。それは彼がかつてルツを祝福してくれた言葉を用いながら自分との結婚を迫る大胆な願いです。
ただし、彼女は、自分の身の安全ではなく、ナオミの家がモアブに逃れる前の状態に回復されること願ったのです。
それを知った彼は、「あなたのあとからの真実(ヘセド)は、先の真実にまさっています」(3:10)と言います。恥を忍んで男の床に忍び込んだ彼女の心に隠された真実を何よりも認めたのです。
そしてボアズは、自分よりも近い買い戻しの権利のある親類がいることを知らせ、彼が受け入れないとき初めて「私があなたを買い戻します(贖います)」(3:13)と、人間的な情を超えて神の導きに従うと約束します。その上で彼は、彼女を静かに休ませ、朝まだ暗いうちに、彼女が自分の寝所を訪ねたことが人々に知られないようにと、そっと送り出しました。その際、姑への贈り物も持たせ、彼女が拒絶されたと思われないように配慮しました。
ボアズは、買い戻しの権利のある親類をすぐに見つけ、意向を尋ねます。その人は、「モアブの女ルツ」を、土地とともに買い取る必要があることが分ると、その権利を放棄しました。
これを確認したボアズは町の長老たちの前で、「死んだ者の名をその相続地に起こすために……モアブの女ルツを買って、私の妻としました」(4:10)と宣言しました。これによって、ルツは「買い取られ」て、公に神の民とされました。これは人身売買ではなく、救いの表現、「贖い」(買い戻し)に通じます。
肉において異邦人であった私たちも、キリストの血によって「贖われ」て初めて、聖徒たちと同じ、神の家族とされたからです(エペソ2:11-19)。ここで聖霊は、ボアズをキリストとして、ルツを私たち教会の代表として予め指し示していると思われます(伝統的解釈)。
そして、このボアズとルツの結婚からダビデの祖父となるオベデが生まれます(4:13-17)。「モアブの女」がイスラエル最高の王の祖父の母となるなどとは、当時の誰が想像できたでしょう!
イザヤ書では、エルサレムが神に背いて自業自得の罪で廃墟になった状態からの救いを、「贖い」として描かれ、「エルサレムの廃墟よ。共に大声を上げて喜び歌え。主(ヤハウェ)がその民を慰め、エルサレムを贖われたから」と記されます(52:9)。
そして、その主の聖なる御腕としての主のしもべの救いの御業が、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」(53:4)というキリスト預言として描かれます。
そして、さらに神の贖いのみわざは、「夫に捨てられた、心に悲しみのある女」に対する神の「永遠に変わらぬ愛」によって、「あなたを贖う主(ヤハウェ)」と描かれます(54:6,8)。
このルツ記で「買い戻す」と訳されている言葉は英語ではredeemで、原文は「贖う」と全く同じ言葉です。つまり、ボアズがナオミの夫エリメレクの土地を買い戻すこととセットでルツを妻としたことは、まさにボアズがルツを贖ったことなのです。
しかも、神の贖いの動機が、イザヤでは「変わらぬ愛」と記されていましたが、これはヘブル語のヘセドの訳です。これは、人の性質の場合には「真実(誠実)」と訳されます。
このルツ記は、ナオミ、ルツ、ボアズそれぞれの「真実」(ヘセド)がテーマです。神の偉大な救いのみわざは表面的にはどこにも描かれていないようでありながら、この三人の心の奥底に神のヘセドが働き、彼らのヘセドを刺激しています。
モアブの女ルツは、ナオミに従ってベツレヘムに来たとき、「恥ずかしい思いをさせ」られ、「いじめ」に会う可能性が非常に高くありました(2:15,22)。
しかし、ルツがボアズの妻とされ、エリメレクの家を再興できたとき、人々はナオミに向かってルツのことを「七人の息子にもまさるあなたの嫁」(4:15)と呼びました。それはルツが後継ぎを生んだからという以上に、ナオミ、ルツ、ボアズの信頼関係への称賛とも言えましょう。
私たちは今、互いの愛を前提として結婚することを常識とする世界に生きています。しかし、それが幸せにつながらないケースが何と多いことでしょう。ルツもボアズも神の民としての使命を果たすことを目的に結婚しました。私たちも、その観点から結婚を考え直す必要があるのかもしれません。
私は結婚の司式の際に、新郎新婦が自分のことばで互いに誓約できるように導きますが、多くの人がその学びの後で、「私たちが共に歩むことで、互いを幸せにするばかりか、まわりの人をも幸せにできるように願います」という趣旨のことばを入れてくださいます。
それこそが、幸せな結婚生活の鍵だと分かるからです。自分の幸せを第一に考えると、無意識にも相手を利用するという姿勢が生まれ、互いの関係が壊れます。
のろわれた民モアブの娘ルツは、「はからずも」ナオミの息子から神の御旨に反して妻に迎えられたことで、主(ヤハウェ)を知るきっかけが与えられ、その後、主に立ち返ったナオミの姿勢に影響され、神の民に加わりました。
人は自分の出生地も両親も自分で選ぶことはできず、世の不条理に振り回されながら生きざるを得ないことがあります。しかし、ルツのように、心から主を第一とした生き方を始めるならすべてが変わります。彼女の真実(ヘセド)は、神のしもべボアズに認められ、救い主の家系に名を連ねるようになりました。
しかも、そのボアズは、マタイの福音書の系図によると、サルモンがエリコの遊女ラハブとの間に設けた子として描かれます。ユダヤ人は血筋を非常に大切にしましたが、ダビデのすぐ前の系図に、エリコの遊女とモアブの女ルツという、社会的には最低ランクの女性が入っていたことは驚くべきことです。
神は、出生や過去に関りなく、どんな人をもご自身の救いの計画に用いることがおできになります。そして、私たちが神の愛に応答して生きて行く際の鍵のことばは、真実(誠実)ということができましょう。