今から三千数百年前、聖書の神ヤハウェは、奴隷の民「へブル人の神」(5:3) に過ぎない存在でした。一方、世界最強のエジプトの王ファラオは太陽神の化身と見られ、すべてが可能になる支配者と見られていました。この王が奴隷民族の神にひざまずくなど、当時の誰が予想できたでしょう?
現代も多くの人々がこの世の富と権力に怯えながら生きているのではないでしょうか。私たちの救いは、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(コロサイ1:13) と描かれます。
イスラエルはファラオの奴隷状態から、神に仕える民へと変えられます。それは私たちの場合も同じです。
1.「主 (ヤハウェ) とはいったい何者か。私がその声に聞かなければならないとは……」
主(ヤハウェ)は柴の燃える炎の中からモーセをイスラエルの民の指導者として召し出しましたが、彼はまだミデアンの祭司イテロに仕える婿に過ぎませんでした。しかしイテロは「安心して行きなさい」(4:18) と送り出してくれ、モーセは「妻と息子たち」(4:20) を伴って帰国します。
「モーセは神の杖を手に取って」(4:20) いましたが、主は彼に「わたしがあなたの手に授けたすべての不思議を心に留め、それをファラオの前で行え」(4:21) と言われながら、同時に「しかし、わたしが彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせない」と期待を挫くように言います。
これは、ファラオが自分を神にしている結果、イスラエルの神の権威を見せられれば見せられるほど、自分の支配力を誇示するような行動をとらざるを得ないという意味と思われます。
そして、これから起こる十のわざわいの結論が予め知らされるように、主はファラオに対し「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である……わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す」(4:22、23) と言うように命じます。ここにイスラエルの民の選びとすべての民族に対する使命が示されます。
そしてファラオが神の長子を行かせないなら、ファラオの長子も生きることはできないというのです。なお、イスラエルが集合的に一人の長子と言われていることからすると、ファラオの長子とは、彼自身の息子であるばかりか、エジプトのすべての長子を指しているとも解釈できます。二種類の「長子」の対比こそが何よりも注目されるべきです。
その後、モーセとアロンはファラオに主のことばを告げますが、神を自認するファラオが、「主 (ヤハウェ) とは何者だ。私がその声に聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは」(5:2) と答えたのは当然でしょう。
それで彼らは、「へブル人の神が私たちと会ってくださいました……荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主 (ヤハウェ) にいけにえを献げさせてください」(5:3) と礼拝のためとの目的を述べます。これは嘘ではありません。「三日」とは象徴的に長い道のりを指し、当面の目標は、約束の地に入る前にシナイ山で主を礼拝することでした (3:12)。それは神の民として整えられるために何よりも必要なことでした。
出エジプトの目的は、約束の地に導き入れられること以前に、律法が授与されることにあったということを決して忘れてはなりません。最終ゴール以前に、その途上で、神の民として整えられることに意味があるのです。
それは私たち自身にも当てはまることです。「新しい天と新しい地」に入れられること以前に、今ここで、主の御教えを受け、新しい天と新しい地に住むのにふさわしい民へと整えられることこそが大切だからです。
それは同時に、イスラエル人の支配者はファラオではなく主(ヤハウェ)であることを認めさせる意味がありました。それに対しファラオは苦役をさらに重くすることで、彼こそ真に恐れられられるべき神であることを思い知らせようとします。
それはイスラエル人に「れんがを作る藁(わら)」(5:7) を与えず、エジプト全土から自分たちで刈り株を集めるようにさせて (5:12)、それまでと同じ分量のれんがを作らせるという命令でした。
この「定められた分」(5:14) をロシア語にすると「ノルマ」になります。そこには労働者は「なまけ者」(5:8、17) なので厳しい達成基準を課す必要があるという発想です。利益誘導を否定した社会主義はノルマで労働者を管理しました。
ここではイスラエルの人夫がしらたちが打ちたたかれました (5:14)。彼らがファラオに訴えると、モーセの願いのせいでこのようになったと告げられます。これはイスラエルを分断させるためです。
期待とは反対に苦役が増し加わった彼らは、モーセとアロンに「主 (ヤハウェ) があなたがたを見て、さばかれますように」(5:21) と不信を顕にします。
またモーセも主に向かって「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか……私が……あなたの御名によって語って以来、彼はこの民を虐げています。それなのに、あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません」(5:22、23) と言います。
それに対して主(ヤハウェ)は「わたしがファラオにしようとしていることが今にわかる」(6:1) とモーセをたしなめます。 さらに主は、「彼 (ファラオ) は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ」と言われます。
そして主はモーセに「わたしは主 (ヤハウェ) である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神 (エル・シャダイ) として現れたが、主 (ヤハウェ) という名では、彼らにわたしを知らせなかった」(6:3) と言われます。それはこの地のすべての権力者の前でイスラエルの神だけが「わたしはある」と言える権威を持っていることを明らかにします。
ファラオの心を動かすのはモーセのことばでも民の独立運動でもなく、主ご自身なのです。そこには主がアブラハムの子孫と立てた「契約」があります。
ここで「今わたしは……イスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした」(6:5) と記されるのは2章24節と同様に、主がご自身の契約を忘れたことがあったという意味ではなく、今これから神の契約の通りに歴史が動き始めることを強調するための表現で、それをモーセに明確に思い起こさせるためでした。
今、様々な支配力を行使してあなたを苦しめる人がいたとしても、あなたは自分でその人と戦う必要はありません。神こそが真の支配者であられるからです。あなたの主、あなたの王は誰なのかが、日々問われています。
モーセがイスラエルの民に語りかける最初のことばは、6章2節と同様「わたしは主 (ヤハウェ) である」(6:6) との宣言です。私たちはそれを聞く中で、聖書の神以外の誰をも恐れる必要のないことが示されます。
主こそが歴史の支配者です。あなたは自分の人生のゴールを知っているでしょうか。そして主はイスラエルの民を「重い労働からから救い出し……伸ばされた腕と大いなるさばき(ご支配)によって贖う」と言われます。「贖う」(ガアル)には、主ご自身がイスラエルの民の見受け保証人となり、奴隷状態から代価を払って買い戻すという意味があります。
そればかりか主は、イスラエルをエジプトの奴隷状態から解放する目的を「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」(6:7) と述べられます。
同じように今、主があなたをサタンの奴隷状態、「自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行ない」という状態から救い出してくださいました (エペソ2:2、3)。
その人生のゴールは「神は人々とともに住み、人々は神の民となる……神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示21:3、4) という状態にあります。
神は、さらにイスラエルに約束の地で平和と繁栄を与えると約束され、モーセはそのことをイスラエルの民に話しますが「彼らは失意と激しい労役のために、モーセの言うことを聞くことができなかった」(6:9) と描かれます。
彼らは将来の約束よりも、目の前の問題解決だけを願っていました。神が彼らを約束の地に導くのは、神との親密な交わりを味わう舞台に過ぎません。
神は、あなたの目の前から苦しみを除き、平和と繁栄を与えることができますが、それ自体が目的ではなく、神との親密な交わりの回復こそが救いのゴールなのです。
私も若いときは、目の前の目標の達成ばかりを目指しましたが、目標が達成できても心の渇きは癒されませんでした。しかし心の渇きとは、神との親密な交わりへの渇きだと今分かってきました。
2.「わたしはファラオの心を頑なにし……しるしと不思議を……数多く行う」
主(ヤハウェ)は、民がモーセのことばにまったく耳を貸さなくなったのを見ながら、なおも「エジプトの王ファラオのところへ行って……告げよ」(6:11) と命じます。
しかし彼は「イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょう」(6:12) と答えます。その際モーセは「私は口べたなのです」と付け加えますが、これは厳密には、新改訳の脚注にあるように「唇に割礼を受けていないのです」と記されています。これは6章30節でも繰り返される表現です。それは「唇の働きが覆われている」という意味なのかもしれません。
ただそれを無視するように「主 (ヤハウェ) は……イスラエルの子らをエジプトから連れ出すよう……エジプトの王ファラオについて彼らに命じられた」(6:13) と記されます。これとほぼ同じ表現が26、27節に繰り返されます。
割礼をアブラハムの子孫に命じられた神には、それによって彼らに神の契約の真実を繰り返し思い起こさせるという目的がありました。ですから大切なのは主(ヤハウェ)の意思とご計画なのです。
それにはさまれるようにモーセとアロンに至る系図が描かれます (6:14–25)。モーセは自分の唇の無割礼を嘆いていましたが、神ご自身は割礼の民をしっかりと導いておられたのです。
実は、神はモーセ以上にモーセのことを知っておられます。その前で、人の能力など何の問題にもなりません。
主(ヤハウェ)は、「見よ。わたしはあなたをファラオにとって神とする」(7:1) と言われ、語り続けることを命じながら、「わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で数多く行う」(7:2) と言われます。
そこには、「エジプトは、わたしが主 (ヤハウェ) であることを知る」(7:5) という目的がありました。彼らの使命は、成果を出すことではなく、従うことです。ですからその後、「モーセとアロンは……主 (ヤハウェ) が彼らに命じたとおりに行った」(7:6、10、20) と繰り返されます。
ところで、彼らはファラオの前で、「杖」を「蛇」に変える不思議を行ないますが (7:9、10)、ファラオに属する呪法師たちも自分の杖を投げて蛇にすることができました (7:11)。
エジプト王のミイラは、頭に立ちあがったコブラの記章をつけています。イスラエルでは忌み嫌われた蛇は、エジプトでは人を毒で殺すことができる神聖な動物と見られていました。しかしここでは、「アロンの杖は彼らの杖をのみこんだ」(7:12) と記されます。これによって、主(ヤハウェ)はエジプトをも支配する神であることを示されます。
ただ、それでも「ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった」(7:13) と描かれていますが、そこには同時に「主 (ヤハウェ) が言われたとおりであった」と記されます。
その次から十のわざわいが下されます。第一はナイルの水が血に変わることでした (7:17)。第二のわざわいは、「蛙が這い上がって、エジプトの地をおおった」ことでした (8:6)。第三のわざわいは、エジプト全土に「ブヨ」が満ちたことでした (8:16)。
第四のわざわいは「エジプトの家々も……アブの群れで満ちる」(8:21) ことでした。このときファラオは妥協点を捜そうとし「荒野で、おまえたちの神、主 (ヤハウェ) にいけにえを献げるがよい」(8:28) と言います。しかし「あぶ」がいなくなると、「ファラオはまたも心を硬くし」(8:32) と描かれます。
第五のわざわいは「非常に重い疫病」によって「馬、ろば、らくだ、牛、羊」などエジプトの家畜がことごとく死ぬということです (9:1–7)。このときは単純に「ファラオの心は硬く、民を行かせなかった」(9:7) と描かれます。
第六のわざわいでは「かまどのすす」が人と家畜につき「うみの出る腫れもの」(9:10、11) になりました。「しかし、主 (ヤハウェ) はファラオの心を頑なに(強く)されたので……聞き入れなかった」(9:12) と描かれます。
「頑なになる」とは本来「強くなる」という意味、「心が硬くなる」とは「重くなる」という意味ですが、ファラオは自分に被害が及ぶと低姿勢に懇願しますが、わざわいが過ぎ去ると再び強情になりました。
一方、水が血に変わり、ぶよが満ち、疫病で家畜が死んでも、自分が苦しまずに済んだので心は動じませんでした。
第七のわざわいの前に、主(ヤハウェ)はファラオを疫病で消し去る力があると示しつつ「このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らせるためである」(9:16) と付け加えます。
パウロはこれを引用した上で (ローマ9:17)、「神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです」(ローマ9:18) と、神の一方的な選びについて説き明かします。
神が横暴な支配者を敢えて立てておかれるのは、この世の権力者との対比でご自身の力を見させ、人々の心を支配者への恐れから解放するためです。ここでも主はファラオに「あなたはなお、わたしの民に向かっておごり高ぶり」(9:17) と、傲慢さを指摘します。
そして主は「激しい雹を降らせる」と警告し、エジプト人に奴隷や家畜を避難させる猶予を与えました (9:18)。「ファラオの家臣のうちで主 (ヤハウェ) のことばを恐れた者は」(9:20)、わざわいを避けることができました。その際も「ゴシェンの地には、雹は降らなかった」(9:25、26) と描かれます。
これを見てファラオは「今度は私が間違っていた。主 (ヤハウェ) が正しく、私と私の民が悪かった。主 (ヤハウェ) に祈ってくれ……おまえたちを去らせよう」(9:27、28) とへりくだります。
ただ「ファラオは雨と雹と雷がやんだのを見て、またも罪に身を任せ……その心を硬くした。ファラオは心を硬くなにし、イスラエルの子らを去らせなかった。主 (ヤハウェ) がモーセを通して言われたとおり」(9:34、35) と記されます。
第八のわざわいの前に、主(ヤハウェ)は「わたしは彼 (ファラオ) とその家臣たちの心を硬くした…………わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたがたが息子や孫に語って聞かせるためである」(10:1、2) と言います。
そしてファラオに「いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか」(10:3) と迫りながら、「いなごが地の面をおおい……雹の害を免れて……残されているものを食い尽くす」(10:5) と警告します。
このときは、家臣たちまでが、「この者たちを去らせ、彼らの神、主 (ヤハウェ) に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか」(10:7) と譲歩を迫ります。
実際の被害を見たファラオは、「私は……主 (ヤハウェ) とおまえたちに対して過ちを犯した。どうか今、もう一度だけ、私の罪を見逃してくれ」(10:16、17) と願います。ただここでも「主 (ヤハウェ) がファラオの心を頑なにされたので、彼は……去らせなかった」(10:20) と描かれます。
第九のわざわいでは、「エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった……しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった」(10:22.23) と描かれます。
ただここでも20節と同じく、「主 (ヤハウェ) がファラオの心を頑なにされたので」(10:27) と描かれます。これは、自分の力を誇っている者は、かえって対抗心を起こすという結果に過ぎません。
事実、主はファラオに「わたしの民に向かっておごり高ぶり」(9:17)、「わたしの前に身を低くするのを拒むのか」(10:3) と、繰り返し謙遜になることを勧めておられます。
またファラオも雹といなごの被害に対して二回にわたって「私が間違っていた」(9:27)、「主 (ヤハウェ) とおまえ前たちに対して過ちを犯した」(10:16) と謝罪しながら、目の前の被害が消えると、すぐにそれを忘れているからです。
3.「過越」……「わたしのからだ」「わたしの血による新しい契約」と呼ばれる原点
第十のわざわいが11、12章で描かれます。その初めに「主 (ヤハウェ) は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された」(11:3) と記されます。
これは人々の目には、度重なるわざわいの原因がファラオの強情さと身勝手さにあることが明らかになる一方、モーセの祈りによってわざわいが取り去られるという現実を彼らが見たからです。
ここで主(ヤハウェ)はモーセを通して「真夜中ごろ……エジプトの地の長子は……ファラオの長子……奴隷の長子……家畜の初子に至るまで、みな死ぬ」(11:4) と言われます。
なおその後「モーセは怒りに燃えてファラオのところから出て行った」(11:8) と描かれます。これはファラの頑なさのゆえに、エジプトの民に起こる苦しみを見ていたからだと思われます。
12章初めで「この月を……年の最初の月とせよ」とこれが代々守るべき祭りとなると強調しながら、「この月の十日に……一族ごとに羊を……用意しなさい……十四日の……夕暮れにそれを屠り、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。そして、その夜、その肉を食べる……これは主 (ヤハウェ) への過越のいけにえである……この日は、あなたがたにとって記念となる」(12:1–14) と命じられます。
そして、15–20節までは「七日間、種なしパンを食べなければならない……七日間は……パン種があってはならない」と命じられます。
その上で12章23節では「主 (ヤハウェ) はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主 (ヤハウェ) はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたの家に入って打つことのないようにされる」と記されます。そして「あなたがたは……この儀式を守らなければならない」、その意味を子どもたちに説明するようにと命じられます (12:25–27)。
そして「真夜中になったとき、主 (ヤハウェ) はエジプトの地のすべての長子を……打たれた。そして、エジプトには激しく泣き叫ぶ声が起こった。それは死者のいない家がなかったからである」(12:29、30) という中で、ファラオは「私の民の中から出て行け……行って、主 (ヤハウェ) に仕えよ」(12:31) と奴隷解放を宣言します。
それは仕えるべき相手が、ファラオから主(ヤハウェ)に代わったという意味です。これは私たちの場合も同じです。
エジプトの人々もさらなるわざわいを恐れ贈り物を与えて、送り出します。それが「イスラエルの子らは……エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。主 (ヤハウェ) はエジプトがこの民に好意を持つようにされた」(12:35、36) と記されます。
このとき彼らは「徒歩の壮年男子」だけで「約六十万人」に膨れ上がっていました (12:37)。また「イスラエルの子らがエジプトに滞在していた期間は、四百三十年であった」(12:40) と記されます。
これらは、主がかつてアブラハムに、「あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷になって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る」(創15:13、14) と約束しておられた通りです。
なお12章39節では種を入れないパンを用いる理由が、「彼らはエジプトを追い出されてぐずぐずしてはいられず、また自分たちの食料の準備もできていなかったからである」と記されます。これが現在の聖餐式の原点になります。
イエスは、過越の子羊として、ご自分を十字架でお献げになられましたが、それを記念させるため、過越の食事の最中に、種なしパンを取り「これは、あなたがたのための、わたしのからだです」と言われ、また、杯を取り「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と言われました (Ⅰコリント11:23–25)。
イエスこそは新しい過越の子羊です。主は、私たちの心を、力によって屈服させる代わりに、力を捨てた犠牲によって、罪を赦し、自己正当化と自己防衛の構えから解き放ってくださいました。
「私は自由だ!」と誇る多くの人も、無意識のうちにサタンとその悪霊の支配下に置かれているというのが聖書の世界観です。そして私たちに与えられた「救い」とは、この世の人々が無意識のうちに崇めている支配者から解放され、神とその御子に仕える生き方を始めることです。
自分の権威を保ちたいと思う人は、私たちが創造主の力を証しすればするほど頑なになるように見えますが、やがてすべての人が、この世界の真の支配者がどなたであるかを知るようになります。
すべての人は何かの目的のために生かされています。あなたを造られた創造主に「仕える」ことの中にこそ、真の人生の「喜び」が生まれるのです。