当教会での礼拝が始まった1989年10月はバブル経済の真っただ中でした。不思議にバブルの時期は日本のほとんどの教会、特に福音自由教会は急成長を遂げていました。
そして、1990年にバブルが崩壊し、日本が約30年間余りのデフレ経済に入りました。そして不思議にも、デフレ定着の中で、日本のほとんどの教会は成長を止めて行きます。今や日本の多くの教会は存続の危機に置かれています。
今日、日経ダウ平均株価が44,372円と最高値を更新しました。石破政権の退陣が株価上昇につながったという意地悪な見方があるかもしれません。しかし、石破政権のもとでトランプ関税にきちんと向き合い、最悪の事態を回避できたことの安心感と見る方が経済予測に合わせた見方と言えましょう。
株価は2024年初めに34年ぶりに1989年12月のバブル最高値を更新しましたが、その後のウクライナ戦争激化、イスラエルでの戦争などの国際情勢の悪化によって、株価が停滞し、今年の初めからはトランプ関税に対する恐怖から株価が一時的に大きく下げる時期がありました。それがようやく安定を取り戻してきたと言えます。
今はこれ以上の株価解説はやめた方が良いとは思いますが、多くの市場関係者の見方としては、ようやく過去35年間のデフレ経済からの脱却が確認されたということで一致していると言えましょう。しかも最大の選挙の争点であったインフレ率も今年初めの年率4%の上昇から3.1%の上昇まで落ち着き、為替レートも落ち着き、企業業績の見通しも明るくなっています。
35年間近く続いたデフレ経済下では、多くの日本人は現状維持を保ち続け、それが最後はコロナ自粛にまでつながりました。新しいことへのチャレンジができない雰囲気が日本中に満ちていました。
それが今、変わり始めています。バブル経済の時期に、教会に来る人が増え続けたというようにはならないと思いますが、今、少なくとも首都圏にある教会には変化の兆しが見え始めています。クリスチャンホーム以外からの新来会者が増えつつまります。また教会から長らく離れていた人が戻ってくる傾向が見られます。少なくとも、株価最高値更新は日本人の将来の対する見通しの変化を現わしています。
旧約聖書の預言書には、イスラエルが繁栄の中で高慢になったとき、神のさばきが起こり、それがバビロン捕囚に至ったという流れが記されています。
日本の35年前のバブル崩壊は、「日本は世界一!」と誇っていたことへのさばきであったと言えましょう。そして今、日本はそれから抜け出そうともがいています。
詩篇79篇はバビロン捕囚の中で、神に立ち返るという祈りです。
詩篇79篇1–10節a「御名の栄光のために」
「神よ 国々は……あなたの聖なる宮を汚し エルサレムを瓦礫の山としました」(1節) という訴えは、詩篇78篇69節で、エルサレム神殿が「永遠」のものとして「建てられた」と記されたことと矛盾するように思われます。
ただし、詩篇46篇5節では、「神は そのただ中におられ その都は揺るがない」と記されていたのです。それにも関わらず、神の民はその神殿の中に偶像まで置いて、外国の神々を拝み、その聖なる場を汚してしまい、主が「そのただ中に」住むことができなくしてしまいました。そのため、「主の栄光が神殿の敷居から出て行った」と描かれます (エゼキエル10:18)。まさに神は「シロの……幕屋を見放し」(78:60)たように、エルサレム神殿を見捨てられたのです。
そのためバビロン帝国が、エルサレムを徹底的に破壊し、町は屍であふれ、住民の血が「エルサレムの周りに 水のように注ぎ出」されるようになりました (2、3節)。そしてエルサレムの民は「そしりの的となり 周りの者に嘲られ 笑いぐさとなりました」(4節)。それは詩篇74篇の解説に記したように、さばきの預言の成就でもありました。
そしてここでも、「主よ いつまでですか。とこしえに あなたはお怒りになるのですか」(5節) という訴えがなされます。ただ不思議にも著者は、自分たちの罪の赦しを祈る前に、すぐに敵への復讐を願います。そして、エルサレムを滅ぼした神を知らない国々に「激しい憤りを注いでください」(6節) と祈ります。そればかりか、「先祖たちの咎を 私たちのものとして思い出さないでください」(8節) と訴えます。
これはエルサレムの荒廃の責任は先祖に帰すべきであって、自分たちがそれに巻き込まれるのは不条理であると訴えているかのようです。
そして、改めて自分たちの状況を、「私たちは ひどくおとしめられているのです」と言い表します。それはこの悲惨から、ただただ、速やかに救い出されたいという思いに他なりません。
これは、幼児の訴えにも似ています。自分たちの罪を反省する前に、ただ助けてもらいたいだけなのです。しかし、これこそが祈りの基本なのかもしれません。祈りには神学的な瞑想以前の要素があるからです。お行儀のよい祈りよりも、まず自分の正直な気持ちを訴えることが何より大切です。
9節は原文では、「助けてください!」という訴えが冒頭に来ます。そして、そこに「御名の栄光のために」と付け加えられます。それは周辺の国々がイスラエルの神を侮るように、「彼らの神はどこにいるのか」(10節) と言って、神の御名が汚されているからです。著者は、神が何よりもご自身の栄光のために事をなされることを知っています。
さらに「救い出してください!」と訴えつつ、ここで初めて、「罪をお赦しください!」と嘆願します (9節私訳)。それは、「御名のゆえに」とあるように、「聖なる神」との交わりのためには、神ご自身の側からの赦しが大前提だからです。
しかも、その際、「あなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます」(詩編130:4) とあるように「神の赦し」こそが、御名の栄光を現わすことになります。主は御名が侮られることに対してさばきを下すとともに、御名の栄光のために救ってくださる方です。著者は、正直な気持ちを訴えるという過程を経て、神がどのような方かを告白するようになっています。
【祈り】主よ、あなたはご自身の御名のために人の傲慢を砕き、ご自身の御名のために救ってくださる方であることを感謝します。いつでもどこでも御名をたたえさせてください。