8月10日に福知山、篠山の二つの福音自由教会の合同礼拝にお招きを受け、寺村先生のご家族や親しい方々とのお交わりは本当に祝福の時となりました。
その後、有馬温泉経由で大阪万博を見に行って来ました。今、一日の来場者数を見ると私たちが行った8月12日は19万人、13日は19万3千人と最高レベルの入場者数でした。これは山梨県甲府市の人口よりも多い人数が一つのイベント会場に集まるという途方もない人の移動です。
僕は1970年の大阪万博には行けなかったのですが、米国留学中に1974年のワシントン州東部で開かれたスポケーンで開かれた万博には参加したことがありました。それは5年に一度の万博とは違ったものですが、基本コンセプトは同じです。一日でほとんどすべてのパビリオンを見回ることができる小さなものでした。
しかし、大阪万博はこの時代に流れの逆行するような大規模化を最初から目指していました。たとえば米国のパビリオンを見学するために炎天下で2時間待ちするというのは、どう考えても異常です。一方、日本の多くのパビリオンは事前予約制になっていましたが、私たちを含め多くの高齢者はスマホを使いこなせなくて適時な予約ができずじまいでした。
幸い私たちは70歳以上ということで、ドイツ、韓国、中国のパビリオンにはほとんど並ばずに入れていただけました。韓国の場合は、主催者側が、「あなたがたは70歳以上ではないですか」と声をかけてくださいました。さすが年長者を大切にする国は違います。ただ、展示の内容は、私たちのような老人の心には響きにくいものでした。
ただ二日目の13日は人は多すぎて、そのような配慮はどこにもありませんでした。私たちは熱中症になりそうなので早めに会場を後にしましたが、その日の夜に、あの電車が止まるという悲惨を迎えます。
一日に20万人来場者を受け入れるというのはデジタル技術が不可欠です。しかし、多くの展示の内容は、そのデジタル技術で、どこでも見ることができるようなものにすぎません。何のためにあのような場所に行く必要があるのかと思わされました。
ただ、ドイツとフランスが同じ種類の持続可能社会の実現をテーマにしながら、極めて実用的なドイツと、芸術的なフランスの対比が興味深かったです。混んでいる中、フランスパビリオンの中のレストランで一休みしましたが、あまりにも高価で、パンとチーズを一人分ずつとフランス固有の飲み物をたのんで分けて食べるのが精一杯でした。でもそれは美味しかったですが……
小さな国の展示で、マザーテレサの出身地が、昔はユーゴスラビアであったのが今は北マケドニアという国の誇りになっているというのが意外でした。
万博に反対するわけではありませんが、規模において世界に誇れるようなものを企画するという発想が、すでに時代に逆行する考え方ではないかとつくずく感じさせられました。
大屋根リング作った発想はすばらしいと思いますが、「大きいことは良いことだ!」というバブル時代の発想から自由になってほしいと思いました。
詩篇73篇では、神を知らない者が繫栄しているように見える中での、本当の幸せとは何かが語られています。これは聖書のほぼ真ん中に位置する神の啓示ですが、同時に内容的にも神の啓示の核心と言えるかと思います。
詩篇73:1–5、11、12、16–19、23、24「悪しき者が栄えるのを見て」
この詩は第三巻の初めで、「アサフの賛歌」はここから83篇まで続きます。アサフはダビデが契約の箱をエルサレムに運び入れた時の音楽家です (Ⅰ歴代誌15:17、16:5)。
1節では聖書の真理が描かれます。しかし2節では、「けれどもこの私は 足がつまずき……歩みは滑りかけた」と記され、その理由が、「私が悪しき者が栄えるのを見て 誇り高ぶるものをねたんだからだから」(3節) と描かれます。
それは彼らが死においてさえ「苦痛がなく」「からだは肥え」「苦労」もなく、「打たれることもない」からです。そのような中で彼らは自己中心的で乱暴な生き方を押し通し、「どうして神が知るだろうか」(11節) と、神の公平なさばきを軽蔑するようなことを続けます。
そして12節は皮肉な現実が、「見よ これが悪しき者。彼らはいつまでも安らかで 富を増している」と描かれます。まさに著者は、「正直者がバカを見る」という現実を見て、心を痛めています。
そのような一方で著者は、精一杯誠実に生きようとするのですが、かえって自分の立場は苦しくなるばかりでした。しかも、それを正直に語れば、人々をつまずかせるとしか思えませんでした。彼はこのような不条理をなぜ神が許しておられるのかを「理解しようと」しましたが、それは「私の目には苦役であった」というのです (16節)。
しかし、17–19節では、「ついに私は 神の聖所に入って 彼らの最期を悟った」と描かれ、その啓示された現実を神に向かって、「まことに あなたは彼らを滑りやすい所に置き 彼らを滅びに突き落とされます。ああ 彼らは瞬く間に滅ぼされ 突然の恐怖で 滅ぼし尽くされます」と告白します。
著者はこの世の不条理を見ながら、「私の歩みは滑りかけた」(2節) と言っていましたが、実は「悪しき者」こそが「滑りやすい所に置」かれていたのです。イエスもルカの福音書16章19–31章で、「ある金持ちが……毎日ぜいたくに遊び暮らしていた……門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた」という話から初めて、死後、金持ちは炎の中で苦しみ、ラザロはアブラハムのふところで慰めを受けるという対比を示されました。
金持ちはそこで初めて自分の愚かしさを悔い、自分の兄弟に警告がもたらされることを願いますが、それに対して、真理はすでにモーセと預言者たちを通して十分に知らされていると言われます。このイエスのたとえこそ、この詩への何よりも明確な解答です。実は、聖書を知らない「悪しき者」でさえ、どこかで超越者の存在とさばきを聞いています。しかし、それがなかなか実現しない中で、自分をますます危機的な状況の中に追い込んでいるだけなのです。
その一方で神に向かって著者は、「あなたは私の右の手を しっかりとつかんでくださいました。あなたは 私を諭して導き 後には栄光のうちに受け入れてくださいます」と告白します (23、24節)。そしてこの詩の終わりでは、「私にとって 神のみそばにいることが 幸せです」(28節) と告白します。
それこそ、私たちがこの世の不条理の現実を越えて味わいつつけることができる「幸い」です。目に見える栄華は、すべての豊かさの源である創造主からの賜物ですが、それを自分の功績と誇る者には望みがありません。与えられている豊かさは、私たちの生き方を試す、神からの試験でもあるのです。
【祈り】主よ、悪しき者の栄えを見て、彼らへの同情を抱く者とさせてください。まことに豊かさは神の恵みの招きによる試験です。その厳しさをも私たちが味わえますように。