間もなく参議院議員選挙の投票日を迎えます。そのような中でSNS情報の発信や受け取り方が話題になっております。
以前も紹介しました、ユヴァル・ノア・ハラリの「NEXUS(ネクサス)情報の人類史」に次のようなことが記されていました(下巻第9章民主社会PP159、160)
デジタル時代に民主社会がどうすれば生き延びて繁栄できるかの……第一の原則は「善意」だ。コンピューターネットワークが私についての情報を集めるとき、その情報は私を操作するのではなく助けるために使われるべきだ。
この原則は医療などの多数の伝統的な官僚制度ですでに大切に守られている。たとえば家庭医は長年の間に、私たちの健康状態や家庭生活、性的習慣、不健康な悪習などについての膨大な個人情報を収集し得る……私たちは……自分の健康を守ってもらえるように、医師を信頼してこれらの情報をすべて伝える。
もし医師がそれらの情報を第三者に売り渡したら、それは倫理にもとるだけではなく、違法でもある。
ほぼ同じことが、弁護士や会計士やセラピストにも当てはまる。私たちの個人生活を知り得るときには、私たちにとっての最善の形で行動する信任義務が伴う。この明白で古くからの原則を、コンピューターやアルゴリズムへも拡張してはどうだろう?……
私たちは、医師や弁護士には彼らの提供するサービスに対して料金を支払うが、グーグルやティックトックにはたいていお金を支払わない。これらの企業は、私たちの個人情報を利用して稼いでいる。
これは問題含みのビジネスモデルであり、他の状況では許されないだろう……それなのになぜ、電子メールサービスや社会的つながりや娯楽を巨大テクノロジー企業から無料で提供してもらい、それと引き換えに自分の最も個人的なデータの支配権を差し出すことに同意しなければいけないのか?
SNSでの情報提供の背後には、いろんな形で集められた個人情報の蓄積があります。また私たちに届く情報も、私たちの個人的な課題や関心や政治信条に合うものが選ばれて届いてきます。
たとえば、僕がビートルズに関して何か発信すると、ビートルズに関する情報が Facebook で優先的に入って来ます。ですから僕はたとえば Facebook などでは、自分の信条には合わない人のグループにも敢えて入れていただくことで、異なった立場の情報が入ってくるように工夫しています。
とにかく、あなたにSNSで届く情報は、あなたの好みに合うものしか届かないというのが最大の問題になります。情報的提供の優先順位をつけるアルゴリズムは、それがあなた個人にとって益となるかなどは何も考えようがありません。
医師や弁護士が信頼関係の中で、個人情報を得ているのと同じように、教会の牧師は多くの個人情報を得ています。そこには厳しい守秘義務が課せられています。ただ、情報発信の背後には、その関係者にとっての益となることを優先的にお分かちするという動機があります。
聖書の神様も同じように、あなたを動かすための情報ではなく、あなたを生かすためのメッセージを聖書を通して語ってくださいます。
SNS情報がこの世界をますます分断させるような中で、人と人ををつなぐような情報提供が求められています。
ところで、私たちは自分の心の底にある真の必要を分かっているようでまったくわかっていないことがあります。以下の詩篇62篇は、神の前における沈黙を通して、自分を知り神を知るための大切な原則が記されています。
詩篇62篇:1–8節「神の御前での沈黙」
1節の原文の直訳は、「ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している」です。この「沈黙」が「黙って……待ち望む」と訳されるのは、信頼のないところに沈黙は生まれないからです。預言者イザヤは「悪しき者は荒れ狂う海のようだ。まことに、それは鎮まることができず、その水は海草と泥を吐き出す。悪しき者には平安がない」(57:20、21) と言いました。
私たちはときに、口先では「信頼」を告白しながら、行動では、人を恐れ、力や富を頼りにしています。その心の分裂状態が、沈黙の中で顕わにされます。
僕の場合は以前、沈黙すると、心の底に押し殺していた不安や憎しみ、欲望が吹き出て、収集がつかなくなるように感じられました。それを避けるため、心と身体を休みなく動かし続けてきた面があります。しかし、マイナスの感情は、押し殺しても、腹の底に確かにあり、私を動かし続けていました。その結果、さして重要ではないことにエネルギーを傾け、周りの人々までも振り回してきたことがあるような気がします。
しかし、黙想の訓練を通して、幸いにも徐々に沈黙することが苦痛ではなくなりました。それは一時的な混乱を通り越しさえするなら、心は落ち着いて来るとわかったからです。
その際、「ただ神に向かって」という沈黙の方向性こそが鍵になります。羅針盤の針が常に北極を指すように、「私はいつも、主を前にしています」(16:8) と告白するのです。心の目を、世の富や権力、人の評価などにではなく、ただ創造主に集中します。なぜなら「私の救い」は世のすべての背後におられる「この方から……来る」からです。
ところが、私たちは「神こそ……わが救い……私は決して揺るがされない」(2節) と告白しても、すぐに周りの状況に心が揺すぶられます。それでダビデは、自分の「たましい」に、「沈黙せよ」と命じる必要がありました (5節私訳)。1節の「沈黙」は名詞でしたが、ここは動詞形で、今回の翻訳改定でも命令形へと変えられています。たましいはいつも何かに固着しようとしますから、穏やかに優しく語りかけることが大切です。
そして5節では、1節にあった「私の救い」の代わりに「私の望みは神から来る」と告白されます。それは沈黙を通して、「たましい」が自分の願望からしだいに自由になり、神から与えられる「望み」を、「私の望み」とするように変えられるからです。
僕も自分の願望に縛られ続けてきたように思います。世的に何かをやり遂げたという誇りがその構えを強化させることになるからです。しかし、期待が強過ぎると、現実の中で失望し、疲れることも多くなり、感謝の代わりに不満が鬱積するという悪循環に陥ります。
しかしダビデは徐々に力を抜いて、「私は揺るがされることがない」(6節) と告白できるようになりました。これは2節の繰り返しのようでも、嵐をくぐり抜けたことで、「決して」という「力み」が抜けています。彼は、心が大きく揺るがされることを体験した後に、そんな自分が神によって支えられていると実感することができたのでしょう。
なお、「あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ」(8節) とあるのは、沈黙に至るプロセスとして理解できます。自分の不安や葛藤を正直に認め、それを神の御前に「私はこう感じています」と「注ぎ出す」のです。神はそれをすべて受け止めてくださいます。
【祈り】主よ、あなたが私の混乱した心を受け入れてくださることを感謝します。混乱を経て、あなたにある平安を体験させてください。柔軟に落ち着く心へと導いてください。