現在は、イスラエルとイランの間の熱い戦争の動きが心配です。
ただ、歴史を振り返って見ると、イスラエルとイランは深い絆で結ばれています。
イザヤ45章1節では、イスラエルの神、「主 (ヤハウェ) は、油注がれた者キュロスについてこう言われる」と記されながら、神がペルシアの王キュロスを用いて、バビロンに捕囚となっていたユダヤ人を解放し、神殿を再建すると預言されていました。まさにキュロスは、イエス・キリストの先駆けのような存在です。
キュロスのもとでペルシア帝国は、エジプトまでを支配する大帝国になりましたが、キュロスはユダヤ人を助けたばかりか、支配地の民族の主体性を尊重する穏健な支配を行いました。それは強制移住によって民族のアイデンティティーを消し去ろうとしたアッシリア、バビロンと対照的です。
そして、現在のイランでも、キュロス大王は、国民がそろって尊敬する偉大な指導者であるとのことです。イラン人の方に、キュロスの話しをすると、そのとたん表情が明るくなり、会話が弾むということを聞いています。
僕がドイツに行ったのは1979年でした。それはイランがイスラム指導者のホメイニよって、それまでのパーレビ王制を転覆させた直後でした。そして当時のドイツ語学校には、多くのイラン人が亡命を求めながら学んでいました。
日本のニュースばかりを見ていた僕は、ドイツにいるイラン人も、この革命を基本的に喜んで受け入れているはずと思い込んでいました。そのようなことを彼らに言うととんでもない反応が返ってきました。
当時のホメイニによるイスラム革命が、どれほど一人一人の良心の自由を奪う、個々人を枠にはめる恐ろしい体制であるかを切々とみな語ってくれました。
ですからそのとき僕は、イランにおけるイスラム政権と、北朝鮮の体制は基本的に同じだということに気づきました。日本人の誰も、北朝鮮の現体制を応援したいと思う人はいないでしょう。しかし、どういうわけかイランのイスラム原理主義支配には驚くほど寛容です。
これはたぶん欧米人には理解しがたい感覚かと思います。
もちろん、だからと言って、外国人がイランの体制を外からの力で変えようとすることを応援することは、原則的に賛成できません。国の体制を変えるのは、その国の国民自身であると思います。
しかし、私たちは、その体制を変えたいと思っているイラン人には連帯意識を持つことはできると思います。
詩篇58篇は、主ご自身が不思議な形で、抑圧的な政治体制をご自身の時に変えてくださるという希望が歌われています。私たちにはあまりにも長い時間がかかっているように見えるかもしれませんが、主ご自身がその時が来たら、国の体制を変えてくださいます。私たちはそのために祈ることができます。
詩篇58篇1–11節「まことに、さばく神が、地におられる」
この詩は、この世の不正な権力者たちに対する神の公正なさばきを祈っているものです。いつの時代にも、どこにおいても、権力者たちは自分たちの身近にいる貴族や裕福な者たちの特権を守る方に目が向かいます。
一方、貧しい人々には厳しい目が向けられます。マザー・テレサはある研修会で、「あなたは物を無償で与えて、貧しい人たちを甘やかしています。彼らは人間の尊厳を失っています」という批判を受けたことがあります。
それに対してマザーは、「お金持ちを甘やかしている修道会はたくさんあります。貧しい人びとの名において、その人たちを甘やかす修道会が一つぐらいあってもいいでしょう」と答えました。
すると、会場は水を打ったように静まり返ったとのことです(マザー・テレサ「愛のこころ、最後の祈り」奥谷俊介訳1999年「主婦の友社」P69、70)。
この詩ではまず、「力ある者よ。ほんとうにおまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか」と問いかけられます。それは権力者のさばきが、貧しい人々に厳しく、お金持ちには甘くなるからこそ、神の目による「義」と「公正」を求めさせたと言えましょう。
そして2節からは、現実にみられる権力者たちの問題が、「いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐をはびこらせている」と描かれます。「心では」とあるのは、神は何よりも私たちの心の動機を問われるからです。
また3節では「悪者ども」と「偽りを言う者ども」が並列されていますが、神に逆らう者はいつも、表面的には正しいことを言っているようで、そのことばは偽善に満ち、信用できません。しかも彼らは「生まれたときからさまよっている」ので、正すこともできません。
4、5節では彼らが「耳の聞こえないコブラ」にたとえられます。蛇には、空気の振動を感じる内耳のような器官はありますが、哺乳類のような耳はありません。「蛇使い」は笛の音ではなく、笛の動きで蛇を動かすと言われます。権力者たちの最大の問題は、神のみことばも、また一般の人々の声も、その両方が聞こえなくなることにあります。
6節では、権力者たちが貧しい人々を食い物にしていることへの裁きが訴えられます。
7–10節では、彼らに対する神のさばきが切々と祈られ、それが成就することが描かれます。多くの人々は、このような表現に違和感を覚えますが、イエスご自身はマタイによる福音書5章3–12節で9回にわたっての「幸い」を語りながら、23章13–36節では「律法学者、パリサイ人」に向かって、七回にわたって「わざわいだ」という「のろい」を宣告され、その描写は「幸い」よりもはるかに徹底しています。
そして、マルコやルカでは彼らの問題が、見せかけの敬虔さと並んで、「やもめの家を食いつぶし」と描かれています (マルコ12:40、ルカ20:47)。つまり、敵を愛するように勧めたイエスご自身が、貧しい人々を食い物にする当時の宗教指導者を、驚くほど激しく非難しているのです。
11節にすべての結論が簡潔に記されます。それは、「正しい者には報いがある……さばく神が、地におられる」という真理です。
神は最終的に、この地の横暴な権力者をさばいてくださいます。だからこそ、私たちに求められることは、彼らと力で戦うことではなく、置かれた所で誠実を尽くし、さばきを神にゆだねることなのです。
【祈り】主よ、あなたこそがこの地の真の支配者であられることを感謝します。あなたの公正なさばきを信じ、力に力で対抗せず、愛のわざを行なえるようにさせてください。