ローマ14章13〜23節「ユダヤ人と異邦人からなる神の国」

2025年5月25日

ローマ人への手紙14章13–23私訳と関連聖句

ローマ書は「手紙」として記されています。手紙は相手の状況を聞いた上で書かれていますが、それを読むのは、あなたが誰かと誰かの電話の会話の一方だけを聞くようなものです。ですからローマ人への手紙を正しく解釈したいなら、当時のローマの状況を調べることはとっても大切です。

使徒の働き18章2節には、パウロがコリントでアキラとプリスキラに出会って伝道を手伝ってもらったようすが描かれていますが、そこには彼らのことについて、「クラウディウス帝が、すべてのユダヤ人をローマから退却させるように命じたので、最近イタリアから来ていたのである」と描かれています (紀元49年頃)。つまり、この夫婦はローマの教会に集っていた中で、皇帝の退去命令でコリントに来ていたのです。

そしてパウロはその約8年後の紀元57年にコリントからこの手紙を書いていますが、そこではプリスキラとアキラがローマに住んでいることになっています (16:3)。それはネロがローマ皇帝になって間もなく (紀元54年)、ユダヤ人がローマに戻ることができたからです。

ですからローマ教会はユダヤ人を中心に始まり、まもなくユダヤ人がローマから追放され、ローマ教会が異邦人中心の教会に代わり、この手紙が記される数年前からユダヤ人が少しずつ戻ってくる中でユダヤ人と異邦人の食生活の違いで教会に不協和音が生まれており、それに対してパウロが緊急に手紙を書く必要が生まれたと推測できます。

もちろん手紙の目的にローマ教会の人々にキリストの福音の基本を教えることがありましたが、肉食の問題こそが緊急課題だったと言えましょう。

1.「もし何かが汚れていると見做す人がいるとするなら、それは汚れたものなのです」

14章13–15節は次のように訳すことができます。

13 こういうわけで、もはや、私たちは互いにさばき合わないようにしましょう。いやそれ以上に決心しなさい(さばくことにしなさい)、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないということを。
14 私は主イエスのうちにあって、知っており、また確信させられています、それ自体で汚れているものは何一つないということを。ただ、もし何かが汚れていると見做す人がいるとするなら、それは汚れたものなのです。
15 というのは、もし食べ物のゆえにあなたの兄弟が嘆いている(心を痛めている)のなら、もはやあなたは愛によって歩んではいないからです。あなたの食べ物のことで、キリストが代わりに死んでくださったというほどの人を、滅ぼしてはなりません。

パウロはまず、食べ物のことや日を守ることに関しての見解の相違から、「互いにさばき合わないようにしましょう」と命じます。ただ同時に、「それ以上に決心しなさい」と勧めますが、この動詞は「さばく」と同じギリシア語です。つまり、互いに「さばく」代わりに、「兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものは置くことはしない」ということを「決心する(さばく)」ように勧めているのです。

それは、具体的には「偶像に献げた肉」(Ⅰコリント8:1) を目の前に置くとか、ユダヤ人の前に血を完全に抜いていない肉を置かないことを意味します。

ただしそこで同時にパウロは、異邦人クリスチャンに寄り添うように「私は主イエスのうちにあって、知っており、また確信させられています、それ自体で汚れているものは何一つないということを」とまず述べます。 事実イエスは、「外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心に入らず、腹に入り排泄されます」と言って、「すべての食物をきよいとされた」と記されています (マルコ7:18、19)。

またペテロがローマの百人隊長であるコルネリウスから招きを受けた時、異邦人の家の客となることを最初は躊躇しましたが、「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」(使徒10:15) と言われ、異邦人の家の客となることを受け入れたと記されています。

そこで大切なのは、「神がきよめた物」という視点です。神は異邦人をそれまでの食生活を変えさせることなく受け入れてくださいました。ですからパウロはすべての前提として、すべての異邦人の食生活を受け入れるとも語っているのです。

ただ同時に、「ただ、もし何かが汚れていると見做す人がいるとするなら、それは汚れたものなのです」という不思議な論理を展開します。それは具体的に、命がけで食物律法を守って来たユダヤ人クリスチャンに「あなたの福音理解は足りない」と言う代わりに、その人を感情に寄り添うという行動を取ることです。

たとえば、当時のユダヤ人の間で語り継がれていた物語が旧約聖書外典のマカバイ記第二7章に記されます。シリアを支配するギリシア人の王が七人の兄弟とその母親を捕らえ、彼らをギリシア化しようと、豚肉を食べないなら、舌を切り、頭皮を剥いで、手足を切ると脅しました。

すると兄弟たちはそれぞれ自分の舌と両手を差し出し、「私はこれらを天から受けたが、主の律法のためなら惜しくない。主からこれらを再び受けることを希望している」(10節) という復活信仰によって、殉教の死を遂げました。

七番目の息子が残った時、王は母親に説得を勧めますが、母はこの息子に「息子よ、お前を九カ月の間胎内に宿し、三年の間乳を飲ませ、お前を養い、この年になるまで育ててきたこの私を憐れんでおくれ……この死刑執行人を恐れず、兄たちに倣って、死を受け入れなさい」(27、29節) と勧めたと記されています。

それは紀元前164年頃のことで、パウロがこの手紙を書いた約220年前の歴史的な事実だった見られています。

この時代のユダヤ人はそのような物語を聞いて、ローマ軍に抵抗していました。これほど心に根付いた感覚を断ち切ることは困難です。このような人は、食物律法から自由に生きるように勧められたとたん、すべての神のことばを相対化して信仰を捨てることになりかねません。

彼らがそれでもクリスチャンの交わりの中に留まり「野菜を食べていること自体を、尊敬をもって受け入れるべきなのです。

これはアルコールを断つことを自分にとって信仰の戦いと考えている人に、お酒を飲むことを勧めるような愚かなことです。

続けて、「というのは、もし食べ物のゆえにあなたの兄弟が嘆いている(心を痛めている)のなら、もはやあなたは愛によって歩んではいないからです。あなたの食べ物のことで、キリストが代わりに死んでくださったというほどの人を、滅ぼしてはなりません」(15節) と記されます。

何よりも目の前の人が「食べ物のゆえに……嘆いている(心を痛めている)」という状況に「責任を感じる」かどうかを、「愛によって歩んで」いるかどうかの判断基準とすることです。

確かに、「あの人がどう感じるかまで責任を問われても……」とも言えるかもしれませんが、その人の信仰をつまずかせるほどの要因となることを私たちは避けるべきなのです。

私たちはキリストが私たちの罪を負って十字架にかかられたという真理を福音として伝えています。それを受け入れようとする人を、食物律法の解釈という非本質的なことで福音への疑問を感じさせ、結果的にその人を滅ぼすことになってはいけません。

ここには、教会の交わりに来られなくさせることを、その人のたましいを「滅ぼす」ことと表現しています。これは14章4節で、「あなたはいったい何者なのですか、他の家のしもべをさばくとは。自分の主人次第で彼は立ち、また倒れます。しかし、彼は立つことになります。なぜなら、主はその人を立たせることができるからです」と記されていたことを思い起こさせます。

教会は罪人の集まりですから、行き違いや誤解が生まれることは避けられません。しかしその人の信仰的な良心を軽んじるような行為をしていながら、「そんなことでつまずく方が悪い」というような態度を取ることは、神が一人ひとりを、時間をかけて育てようとしておられる愛のみわざの邪魔をすることになるというのです。

2.「神の国は、食べることや飲むことではなく、聖霊における義と平和と喜びだから」

16–19節は次のように訳すことができます。

16 ですから、そしられないようにしなさい、あなたが善いとすることに関して。
17 なぜなら、神の国は、食べることや飲むことではなく、聖霊における義と平和と喜びだからです。
18 それは、このことにおいてキリストに仕えている者は、神に喜ばれ、また人々にも認められるからです。
19 ですから、私たちは平和のことを追い求めようではありませんか、またお互いへの建て上げを。

最初の「ですから、そしられないようにしなさい、あなたが善いとすることに関して」(16節) とは、異邦人クリスチャンにとって善いと見做す食べることや飲むことに関して、ユダヤ人の目からは神への冒涜と思えることがあるという前提のことばです。この時代のユダヤ人が、食物律法を命がけで守るという雰囲気の中に生きていたことを尊重するようにという勧めと理解できましょう。

ただし同時にパウロは、「なぜなら、神の国は、食べることや飲むことではなく、聖霊における義と平和と喜びだからです」(17節) と述べることで、その行き過ぎを指摘もしています。当時のユダヤ人が異邦人と一緒に食事をしなかったのは、食物律法をないがしろにされるからでした。

それに対してキリストにある福音はユダヤ人とギリシア人の和解を促すものでした。イスラエルの民がバビロン捕囚という神のさばきを受けたのは、異教徒の偶像礼拝の習慣を自分たちの礼拝に持ち込んだからです。その反省に立ったユダヤ人は、捕囚帰還後に異邦人との分離を強調することで、偶像礼拝に巻き込まれないようにしました。しかしそれが、肝心なことを見えなくさせました。

神が求めておられるのは、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい」(申命記6:5)ということでした。神を愛することが何よりも大切で、分離の行き過ぎが問題だったのです。

5章1、2節では、「こうして、私たちは信仰(真実)によって義と認められたので、神との平和を持っています、私たちの主イエス・キリストを通してのことです。この方を通して私たちは信仰(真実)をもとに、ここで立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを誇りとして(喜んで)います」と記されていました。

それがここでは「聖霊における義と平和と喜び」と言い換えられます。つまり、キリストの十字架は私たちを神の御前で義とし、神との平和を創造し、神の栄光にあずかる望みを心から喜ぶ(誇る)ことができるようにしてくださいました。分離ではなく「義と平和と喜び」こそが福音の核心でした。

そのことがさらに、「それはこのことにおいてキリストに仕えている者は、神に喜ばれ、また人々にも認められるからです」(18節) と記されます。「このことにおいて」とは先の「聖霊における義と平和と喜び」において「キリストに仕える」という意味です。

しかし私たちは無意識のうちにも、自分の理想を目指すこととキリストに仕えることを同一視することがあります。たとえば11世紀末の1096年から13世紀にかけてローマカトリック教会が主導した十字軍は、エルサレムを一時的にイスラム教徒の支配から解放しましたが、その過程で憎しみと略奪と暴虐を広げました。しかしそれは、「神に喜ばれ、人々に認められる」という性質のものではありませんでした。

イスラム教の国々は、十字軍のゆえにキリスト教への憎悪を正当化します。

その上で、「ですから、私たちは平和のことを追い求めようではありませんか、またお互いを建て上げることを(求めようではありませんか)」(19節) と記されます。

「平和のこと」とは「平和に役立つこと」とも訳されますが、キリストの福音の核心は「神との平和」、「人と人との平和」の実現にあるということを決して忘れてはなりません。それこそが福音の本質で、私たちはそれを「追い求める」ように召されています。

ただここではそれに加えて、「お互いへの建て上げを(追い求めようではありませんか)」とも勧められます。これは「お互いの霊的成長に役立つことを」とも訳されますが、この基本は「キリストのからだ」(エペソ4:12–16) として互いに組み合わされ、建て上げられることを指します。

この当時はユダヤ人と異邦人が互いの違いを尊重して一つのからだとされることを意味しました。それは特に共に食事ができる交わりから始まりました。

使徒の働き10章では、ペテロがローマの百人隊長のコルネリウスの家に招かれる際の葛藤とその解決が、「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました」(28節) と記されています。

そしてコルネリウスにも神が語っておられたことが分かったとき、ペテロは、「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和を(福音として)宣べ伝えられました。この方こそすべての人の主です」(34–36節一部私訳) と語りました。

イエスが福音として「宣べ伝えた」内容は神の内にある「平和」であり、それはヘブル語のシャロームです。それは争いのない状態ばかりか、イザヤ11章に描かれる「狼が子羊ととも宿る」(6節) ような、弱肉強食がない、すべての必要が満たされる理想の世界です。

イザヤ11章はキリスト預言から始まりますが、そのキリストが実現してくださる世界こそ、神の平和に満ちた世界でした。

3.「それは、信仰から出ていないからです。すべて信仰から出ていないことは、罪です」

14章20、21節は次のように訳すことができます。

20 食べ物のことで神のみわざを壊しては(台無しにしては)なりません。すべての物はきよいのです。しかし、つまずきをとおして(つまずかせる仕方で)食べる人にとっては、悪いものなのです。
21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。

最初の「食べ物のことで神のみわざを壊しては(台無しにしては)なりません」の背後にはパウロの悲鳴が聞こえます。彼がユダヤ人から殺したいほどに憎まれたのは、異邦人に律法の訓練を受けさせないまま「神の民」として受け入れたからです。

しかも彼がこの手紙を書く緊急の必要が生まれたのは、異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンを「キリストのうちにある……新しい創造」(Ⅱコリント5:17別訳) を理解していないと「見下して」(14:3) いたからです。イエスはご自身の十字架で「永遠の贖いを成し遂げられた」(ヘブル9:12) ので、地上の神殿の必要は無くなり、レビ記の食物律法を守る必要もなくなりました。

そのことをパウロはここで簡潔に「すべてのものはきよいのです」(20節) と述べています。これは文脈からすると「すべての食べ物はきよい」ということで、まるでレビ記の食物律法を否定するような大胆な記述です。

その上で、「しかし、つまずきをとおして(つまずかせる仕方で)食べる人にとっては、悪いものなのです」と述べます。

この解釈は、人をつまずかせながら食べること、または良心の呵責を感じながら食べることの両方の意味が考えられますが、イエスが先のことばの直前に、「外から入って、人を汚すことができるものは何もありません。

人の中から出て来るものが、人を汚すのです」(マルコ7:15) と言われたように、食べ物のことよりも、それを食べる人の心の在り方が問われているのです。それは、あなたは自分に与えられた自由を、隣人愛のために生かしているかということです。自由は隣人愛の手段として用いるべきものです。

14章22、23節は次のように訳すことができます。

22 あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。幸いなのは、自分が(良いと)認めていることで、自分自身をさばかない人です。
23 しかし、もし疑いながら食べる人は咎められています。それは、信仰から出ていないからです。すべて信仰から出ていないことは、罪です。

ここでの「信仰」とは、4章20、21節でのアブラハムの信仰を思い起こさせます。そこでは「神の約束に向かって、彼は不信仰に揺れ動くことはありませんでした。かえって信仰が強められました。それは、神に栄光を帰しながら、また、神には約束したことを実行する力があるという確信させられながら」と記されていました。

ここでの「揺れ動く」と23節での「疑いながら」とは同じギリシア語です。ですから「疑いながら食べる」とは、「自分が(良いと)認めていることで、自分自身をさばかない人」の反対概念です。

つまり、心の平安がないままに、異邦人クリスチャンが目の前に提供してくれた肉を食べることで、ユダヤ人クリスチャンは「咎められている(罪ありとされる)」というのです。

それは、自分自身の信仰の確信ではなく、異邦人クリスチャンからのプレッシャーに負けるように行動しているからです。

その関係で、「あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい」とは、レビ記の食物律法に関しての自分の確信をそのまま堅持することの勧めとも解釈できましょう。ですから、食物律法を守る必要を感じるなら、クリスチャンの交わりのでも野菜しか食べないという生き方を全うすべきということになります。

一方、キリストが食物律法の本来の目的を成就し、神が異邦人の食生活を守るままの自分を受け入れてくださったという確信に立つなら、自分たちの習慣に従って調理された肉をそのまま喜んで食べることを意味します。

ただ14章1節で「信仰において弱い人を受け入れなさい」と命じられていたように、食物律法から自由になれないユダヤ人クリスチャンをそのままで受け入れることが求められているのです。

ユダヤ人クリスチャンが異邦人クリスチャンのプレッシャーに負けて「疑いながら食べる」なら、その行動は「信仰から出ていないから」、咎めを受けると記され、最後に「すべて、信仰から出ていないことは、罪です」という重い宣言が記されます。

私たちは5節に勧められていたように、「それぞれ自分の心の中で確信させられなさい(受動命令)」という、キリストにある確信に導かれるプロセスが必要なのです。

私たちはそれぞれ自分が生まれ育った中で培われてきた価値観や善悪の基準と聖書に明確に記されている善悪の基準が混ざっている場合があります。

たとえば、日本でも韓国でも、年長者に対する言葉遣いと年下や同輩に対する言葉遣いが違います。別にそれは聖書に反しているわけではありません。

しかし日本や韓国の習慣がおかしいと批判し、欧米的なことば遣いで年長者に不快な思いをさせていながら、自分の言動を正当化しているなら、聖書に記された愛の原則に反します。

聖書に反しないさまざまな文化的な価値観がありますが、それが体に染みついている人の価値観を尊重することも「信仰から出る」ことと言えましょう。

私たちの「信仰」とは、神の愛の真実に対する応答としての真実な心の働きです。

パウロはコリント教会での偶像にささげた肉に関しての議論の結論でも、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31) と命じています。

「神の栄光のため」とは、この手紙でもコリント人への手紙の文脈でも「異邦人とユダヤ人が平和のうちに」ともに食事をし、キリストのからだである教会が建て上げられることを指していました。

残念ながら、ヨーロッパ諸国でのその後のキリスト教は、ユダヤ人を異端者として見る文化となりましたが、それこそが福音を根本的に歪めたとも言えましょう。多くのユダヤ人は今も、安息日や食物律法を二千年余り前からの伝統に従って守っています。彼らの生き方を尊重することは、他の民族の習慣を尊重することにつながり、福音の本質を明らかにします。

私たちが今、「ですから、私たちは平和のことを追い求めようではありませんか、またお互いを建て上げることを……。食べ物のために神のみわざを壊してはなりません」というパウロの叫びを真摯に受け止め、その適用を考えるなら、世界の歴史は変わるのではないでしょうか。