今日から五回にわたる金曜日の夜7時から9時に という上野の神学校で、旧約聖書の詩篇の講義をさせていただきます。
そこに参加する多くの方々は、日中に仕事をしながら、夜の時間に聖書を学び、それを教会での働きに生かしたいと思っておられる方々です。
毎回、10名から20名ぐらいの方々が教室に来られますが、海外からインターネットで参加される方々もかなり多くいらっしゃいます。
詩篇は賛美と祈りの歌です。そして私たちと同じ人間となられた神の御子のイエスご自身が味わい、祈りのために用いられたことは確かです。
イエスのことばに詩篇のことばが反映され、同時に、詩篇のなかにイエスご自身の姿や預言を見ることができます。
4世紀に三位一体論の正統教理を守った最高の神学者アタナシウスは、「ほとんどの聖書のことばは、私たちに語りかけるものであるが、詩篇は私たちのために神に語りかけてくれるものである」と言ったとのことです。
また宗教改革者ジャン・カルヴァンは詩篇を「たましいのあらゆる部分の解剖図」と呼び、次のように記しています
あたかも鏡に写すようにその中に描写されていない人間の情念は存在しないからである。さらにいうならば、そこにおいて聖霊はあらゆる苦悩、悲哀、恐れ、疑い、望み、慰め、惑い、そればかりか、人間のたましいを揺り動かす気持ちの乱れを生き生きと描き出している。
カルヴァン 詩篇注解Ⅰ
私自身、詩篇を祈ることで、自分の中にある不安や葛藤、悲しみや喜び、怒りや孤独感を優しく受け止められるようになりました。
今日ご紹介する詩篇42篇は、自分の中に生まれた絶望感を優しく受け止めさせ、それを祈りに変える最高の詩篇の一つと言えます。
目に見えない神を信じられなくなる気持ちに正直に向き合いながら、それを率直に神に訴えることができるというのは何と幸いなことでしょう。
健全な信仰とは、決して、自分で自分の中に生まれた絶望感や不信感を押さえつけて、自分の心を叱咤激励することではありません。
詩篇42篇1–11節「神を待ち望め」
作者は、自分の心の中に、「鹿が深い谷底の水を慕いあえぐ」ような、激しい「渇き」があると告白します (1節私訳)。
当地での日照りでは、「青草がないために、野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる」(エレミヤ14:5) ほどに、鹿の渇きは切実でした。そして、その水は深い谷底にあり、鹿はそれを遠くに見て、「慕いあえぐ」ことしかできません。同じように作者は、「生ける神」を遠く感じて、「渇いて」います (2節)。
2、3節の、「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」という嘆きは、彼がエルサレム神殿とその礼拝の交わりから遠ざけられ、異教徒たちの間に住み、一日中「おまえの神はどこにいるのか」とあざけられていたことを前提に記されています。
その中で、かつて自分がエルサレム神殿での礼拝をリードし、「喜びと感謝の」賛美の中を先頭に立って歩んでいた体験を、遠い昔のことのように感じ、たましいを注ぎだして祈っています (4節)。
その際、著者は、「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか(新改訳第二版では「絶望しているのか」)」(5節) と、自分のたましいの現実を正面から受けとめようとしています。
多くの人々は、絶望を意識化できないからこそ、無意識に閉じ込められた絶望感に駆立てられ、目標もなく走り回り、この世の成功や快楽によって心を満たそうとしているのかも知れません。
この詩篇の第二部は、「私のたましいはうなだれています」(6節) との告白から始まります。彼は、神の神殿があるエルサレムから遠く離れた当地の北の果て、ヘルモン山のふもとに置かれているのですが、そのような絶望の中だからこそ、「それゆえ……私はあなたを思い起こします」と敢えて表現します。
その際、かつて水のない渇きを感じた彼は、反対に、水が多すぎること、大滝に呑み込まれる恐怖を味わいながら、それを「あなたの波」と呼び、神のさばきと受け止めています (7節)。
そこで突然、「昼には、主 (ヤハウェ) が「恵み(変わらぬ愛)を施し、夜には、その歌が私とともにあります」(8節) と不思議な感謝へと百八十度転換します。
そして、「私のいのち」はこの神との交わり自体、「祈り」にあると告白しています。つまり、「もう駄目だ!」と思ったその時、神を身近に体験できたというのです。それは、絶望と神の臨在の体験は、しばしば隣り合わせにあることを示しています。
さらに、その時こそ、「なぜ……私をお忘れになったのですか。なぜ、私は敵のしいたげに嘆いて歩くのですか」(9節) と自分の気持ちを正直に訴えることができます。
私たちもこの詩に自分の思いを潜め、心の底にある絶望感に耳を傾け、それを告白するとき、不思議が起こります。イエスがこれを祈られ、十字架でその気持ちを味わい尽くされたからです。そのとき、あなたはイエスと一体化しているのです。
そして、暗闇の中でイエスに出会うとき、そこには反対に喜びと希望があふれてきます。その結果、「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を」(11節) という告白が生まれます。ですから私たちは、この世の悲惨に目を閉じることなく、絶望的な状況にも立ち向かって向かって行くことができます。
【祈り】主よ、あなたが私たちの心の奥底にある絶望感をやさしく受け止めてくださることを感謝します。自分の気持ちを正直に受け止め、それを祈りに変えられますように。