詩篇37篇〜人よ、罪に泣け

 今週はイエス様の十字架への歩みを覚える受難週です。明日の受苦日礼拝でも毎年歌う曲を紹介します。

 受難週に歌われる有名な讃美歌にⅡ讃美歌99「人よ、罪に泣け」という有名な曲があります。フラット三つの変ホ長調の楽譜になっていますが、もともとオリジナルは シャープ二つのニ長調で歌われていました。
 
 僕は楽譜を読めないぐらいの者ですが、曲調の違いぐらいは感じられます。
 このもともとのメロディーは、人に悔い改めを迫る暗い調子ではなく、私たちが神の子とされるためにイエスが負われた犠牲と、それに対する応答を淡々と告白させる信仰告白の歌です。
 教会讃美歌123番は、ニ長調で聖霊降臨の歌になっていますが、オリジナルなドイツ語賛美ではこのメロディーで「人よ罪に泣け」と歌われます。

 一応、以下で変ホ長調のメロディーをお聞きいただけます

私訳の歌詞は次の通りです

O Mensch, bewein dein Sünde groß(人よ 罪に泣け)
Ⅱ讃美歌99番、教会讃美歌123番 参照

1.人よ、罪に泣け。ながためキリスト 天(あめ)より下る
  神の誉れ捨て おとめより生まれ 人となりたもう
  死せし人生かし 病める人いやし、すべての罪負う
  いけにえとなりて、十字架に死ぬまで 苦しみしのぶ

2.わがため苦しむ 主に感謝ささげ みこころを生きん
  みことばのしめす 罪をしりぞけつ 日々 聖くされん
  キリストに習い 愛の道 歩み
  罪を打つ神の 御怒りを恐れ
  わが思い砕き 主に身をささぐ

 私たちが大きな罪を犯しても、良心の呵責に悩む前に、その罪の結果の方を恐れるという感覚の方が多いと思います。
 ただ、その罪は、周りの身近な人を悲しませるものです。それは何よりも、創造主なる神ご自身を悲しませるものです。
 ですから、この讃美歌では、敢えて、「人よ、あなたの罪の大きさに嘆け」という訴えが歌われた後、そのために神の御子が十字架にかかる必要があったと告白されます。
 あなたがどう感じるかではなく、あなたの罪のゆえにイエス様が十字架にかかる必要があったと歌われます。
 そして二番目の歌詞では、そのキリストの御苦しみを思いながら、神のみこころを生きるという決意が歌われます。これも、淡々の自分の決意が歌われる感じです。

 私たちが大きな罪を犯す原因に怒りの感情があります。人のとんでもない不正を見るときに、それに激しく怒るとともに、自分も正直に誠実に生きることをバカらしく感じ、やってはならないことをするという感覚です。それこそサタンに足をすくわれている生き方です。

 詩篇37篇はそのような怒りの感情にどう向き合うべきかが歌われます。

詩篇37篇1–11節「地に住み、誠実を養え」

 私たちはときに、「怒りで夜も眠られない」などということがあるかもしれません。そのようなとき、「仕返しをしてやりたい」と思うのは自然な人間の感情であり、その答えがこの詩に記されています。
 この全体は一部の例外を除き、四行の組み合わせから成り立ち、段落ごとに意味のまとまりがあります。全体として精巧な組み合わせになっていますから、できたらその全体の流れを見たうえで、最初を深く味わうべきでしょう。

 1節は、「悪を行う者に対して熱くなるな」と訳すこともできます。狡猾な人の行動に「腹を立て」なくなったら、「神のかたち」としての人間をやめてしまうことになるかもしれません。
 これは、「自分を燃やす」ことを諌めたもので、自分で怒りの炎に油をかけ続けることを避ける勧めです。怒りの感情をため込むと、自分の身体を壊し、自分の顔を暗くし、まわりに不機嫌をばらまくことになりかねません。
 怒りは、自分で抑えるべき悪い感情ではなく、主に訴えてゆくべき人間としての自然な感情です。

 そのことが8節では、「怒りを手放し、憤りを捨てよ。熱くなるな」(私訳) と勧められます。詩篇の中には、怒りの感情を、主にストレートに訴えるものが数多くあります (代表例は詩篇94篇、109篇)。
 それこそが、「怒りを手放し、憤りを捨てる」道です。あなたの感情を優しく受け止めてくれる真の友、カウンセラーこそ、主イエスです。

 私たちが悪人に腹を立てるのは、彼らが目的のためには手段を選ばない強引さによって、富を増し加え、権力を握ることがあるからです。「正直者がバカを見る」世の中はあってはなりません。
 それに対しここでは、「彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」(2節) と断言されます。彼らの繁栄は一時的なものに過ぎません。そのことは10節、20節、35、36節でも同じように繰り返されます。
 「あのように邪悪な人間をのさばらせては、世の中のためにならない……」などと計画を練っているうちに、悪人は自滅します。そのことが、「悪者はいなくなる」(10節)、「彼らは消えうせる」(20節)、「彼はもういない」(36節) などという表現で何度も繰り返されています。

 3節では、それと正反対の行動が、「主 (ヤハウェ) に信頼し、善を行なえ。地に住み、誠実を養え」と勧められます。
 「地に住み」とは、ここでの生活を、主が与えてくださった場として積極的に受け止めることです。
 「誠実を養え」の「養う」とは羊を守り、世話をして育てるという意味の言葉です。「誠実」とは「真実」とも訳され、周りの状況に関係なく、主の前に正しいと思えることを黙々と実行する心の在り方です。私たちはそのような誠実さを自分で見守り、羊を飼うようにはぐくみ育てる必要があります。

 4節では、「主 (ヤハウェ) をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」とありますが、私たちは主ご自身ではなく、主がもたらしてくれる成果を喜んではいないでしょうか。
 そして、「愛」こそ心の奥底にある真の願いです。7節では、「主 (ヤハウェ) の前に静まり、忍んで主を待て」と勧められますが、神は最終的に「誠実」に豊かに報いてくださいます。
 その報いは、天国でというよりも、この地での祝福として現されます (11節)。それは、神との豊かな交わり自体から生まれるものです。


【祈り】主よ、「正直者がバカを見る」という現実があるときに、私たちは腹が立ってたまりません。どうか、その正当な怒りを受け止め、あなたの真実を見させてください。