毎日の世界のニュースを見ながら、心が騒ぎ、空しさを感じさせられる日々です。全能の神様のご支配の中にある平安(シャローム)とは程遠い現実を示す対立や、不安定な現実に、信仰を空しく感じる人もいるかもしれません。
今朝もそのような気分の中、自転車をこぎながら、詩篇23篇のヘブル語を思い巡らしていました。そこで、「ロー・イラー・ラー、キー・アター・イマディー」(恐れはしません、わざわいをも。それは あなたがともにおられるからです」ということばが迫ってきました。
詩篇23篇の始まりはとっても牧歌的な平安をイメージさせますが、よくよく見ると、ダビデが戦いの不安のただ中で書いた詩であることが明らかになります。
伝統的な教会暦では、昨日(3月5日)から受難節に入っています。
イースター(今年は4月20日)までの40日間と6聖日、イエス様の十字架への歩みを思い起こす日々を過ごすという意味があります。
そして、イエス様の十字架を思い起こすとは、私たちが不安とわざわいに満ちた世界のただ中に生きる覚悟を求めさせることでもあります。ただ、それは自分で自分の心を律するとか、わざわいを克服できる力を養うという意味とは正反対の概念です。
私たちはみな、基本的に平穏、平安、平和を求めています。それはヘブル語でシャロームと表現されます。
そして、歴史をよくよく見ると、人類は、自分にとって心地よいシャロームを求めるからこそ、現状を変えようとして争いを引き起こしているということが分かります。シャロームへの希求が争いの原因となるという皮肉が見られます。
もし私たちみなが、不安定なただ中で、主にある平安を味わうことができるなら、目の前の不安定な変えようと必死になって争いまで引き起こす必要が無くなります。
主の御手の中にあって、わざわいをも引き受けようとすることから生まれるシャロームがこの詩で歌われています。
以下は、原文の語順やリズムを生かした詩篇23篇の直訳です。
主 (ヤハウェ) は 私の飼い主 (1)
私は乏しいことがありません。
緑の牧場に主は私を伏させ、 (2)
憩いの水際(みぎわ)に伴われます。
主は私のたましいを 立ち返らせ、 (3)
義(ただ)しい道筋に戻されます、
御名のために。
たとい私が歩んだとしても (4)
死の陰の谷の中を
恐れはしません わざわいをも。
あなたが私とともにいてくださいますから。
あなたの鞭(むち)と杖(つえ)
それらが私を安心させます。
あなたは食事を整えてくださいます (5)
私の敵の前において。
あなたは頭に香油を注いでくださいます。
私の杯は溢れています。
まことに恵みと慈愛とが私を追い続けます、 (6)
私の生きている間。
主 (ヤハウェ) の家に私は住み続けましょう、
とこしえまでも!
詩篇23篇「主 (ヤハウェ) は私の羊飼い」
この詩は主の御名(「ヤハウェ」と発音したかと思われる)を呼び、自分を羊にたとえて、主を「私の飼い主」と告白することから始まります。
作者ダビデは、ライオンや熊の口から羊を救い出したほどの勇敢な羊飼いでしたが、ここでは自分を愚かで臆病な羊にたとえています。羊は極度の近視で、わけもわからず進んで崖から落ちたり、道を踏み外して転んだり、良い飲み水さえ区別することもできません。
まさに羊は、羊飼いがいなければ、どんなに環境が良い所でも、緑の牧場に伏すことも、いこいの水のほとりに行くことも、正しい「義の道」に戻ることもできない愚かで臆病な動物です。
ダビデは世界中で最も尊敬されている王でありながら、自分と神との関係を、羊と羊飼いにたとえました。
ダビデは、自分の愚かな罪が家族の争いを引き起こし、息子アブシャロムから一時的に王座を奪われる中で、徹底的に謙遜にされ、主の守りなしには自分は一瞬たりとも生きて行けないことを悟り、このように告白したのでしょう。
「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても……私の敵の前で、あなたは私のために食事を整え」という表現にはその時の体験が生々しく描かれているのだと思われます。
アルコール依存や薬物依存など、様々な依存症に陥る人は、「私は偉大だ!」という幻想を追い求めずにはいられない心の弱さがあると言われます。
しかし、ダビデの強さは、何よりも、自分の弱さや愚かさを徹底的に直視できたことにあったのです。
天地万物の創造主ご自身が、「私の飼い主」であると心から告白できるなら、何があっても、「私は、乏しいことがありません」と告白することができるようになります。
良い羊飼いに導かれた羊は、雑草を消化しそれを肥料に変え、荒れ地をも緑に野に変えることができます。
同じようにあなたも、主に従い続けるなら、自分の生きた後に、美しい緑の牧場を残すことができます。その感動が最後の6節に描かれています。
【祈り】天地万物の創造主ご自身が「私の飼い主」になってくださったことを感謝します。愚かな強がりを捨てて、主に信頼できる平安を心から味わうことができますように。