今年は日本での普通選挙法公布から100周年記念の年です。普通選挙法が実施されるまでの大正デモクラシーの中心人物と言えば吉野作造氏です。彼は敬虔なクリスチャンでした。そして、昨日になって大発見できたことがあります。
吉野作造は、昨年のノーベル経済学賞を受賞したトルコ出身のダロン・アセモグルと英国出身のジェイムズ・ロビンソンと同じようなことを言っていたということのようです(2月9日日本経済新聞 文化時評参照)。
この二人が記した「国家はなぜ衰退するのかー権力、繁栄、貧困の起源」(ハヤカワ文庫)を早速買って読んでみました。
そこに書いてあったのは、持続的な経済成長のためには、長期的な包括的経済制度(自由で公平なルールに基づく市場経済、民主主義的な政治制度)が不可欠であるとの主張です。それに対比されるのが、収奪的な政治制度と権威主義的な独裁であるとのことです。
短期的には、収奪的で権威主義的な独裁が経済成長を促すように見えても、それは一時的であり、やがて自由な技術革新の発想を妨げてしまうとのことです。
そこで興味深かったのは、メキシコ以南のラテンアメリカ諸国と、米国やカナダとの違いです。
ラテンアメリカ諸国は、スペインの支配下に入る前にはそれぞれ中央集権的か国家群と、おびただしい財宝が蓄積されていました。スペイン人は既にあった階級社会を利用して、その地の財宝を収奪し、その地の下層民を奴隷化しました。そこから収奪的な政治制度が生まれ、それが今も持続しています。
一方、アメリカ合衆国の元となる地域は、極めて貧しく、統一的な王朝もありませんでした。収奪すべき富が無かったばかりか、階級社会の下層民を奴隷として買うということすらできませんでした。
それで合衆国建国の初めから、そこにある富や人を支配するシステムの作りようもなく、互いの労働意欲を刺激し合って、個人の努力による私有財産と財の蓄積を奨励するシステムを作る必要があったということが記されています。
ヨーロッパでも、早くから王権の制限がなされた英国や、フランス革命の影響を受けて、それまでの階級制度がなくなった国では産業革命、経済発展が際立って行った一方、封建的な階級制度が残っていた東ヨーロッパやロシアは経済発展が遅れたというものです。
現在の中国は、共産党政権のもとで、自由な市場経済が保障され、急速な経済発展を遂げたものの、共産党支配という収奪システムによって、成長が阻害されるだろうとのことです。
僕は証券会社出身ということもあり、市場経済システムはとっても大切だと思っています。そしてそれは個人的な信仰の自由、生きる気力と不可分な関係にあると信じてきました。それがこの二人のノーベル経済学賞学者によって証明されたように思い、とってもとっても感動しています。
まだ吉野作造については勉強ししていませんが、彼にも同じような発想があったと知って、とっても嬉しくなっています。
大切なのは、創造主に結びついた一人の自由な発想と行動なのです。
神が、たったひとりを救うために天から御手を差し伸べてくださると記されているのは詩篇18篇です。
詩篇18篇6–19節「主は、天を押し曲げて降りて来られた」
この詩はⅡサムエル22章にも記され、ダビデの生涯の総まとめ的な意味があります。彼は長い間、イスラエル王国の初代の王サウルから命を狙われ、同胞もからも裏切られ、絶体絶命の危機に何度も追いやられました。
そのような中でダビデは、「主 (ヤハウェ) を呼び求め」ますが、すると「私の叫びは、御耳に届いた」(6節)と記します。
そして、主が彼を助けてくださるために、不思議にも「天を押し曲げて降りて来られた」というのです。しかもその際、「暗やみをその足の下にして」と描かれます。
ルターは「空が明るいとき、雲は高いところにある。しかし、地が暗く、暗い雲が低く空を覆っているとき、私たちの神は近くにおられる。主は暗闇を足台としておられるのだから。もちろん私たちは雲の中に神を見出すことはできない。かえって、雷鳴を聞きながら、神が私たちに怒っているようにしか感じられないが……」と、暗闇の中で主が近づいてくださる神秘を描いています(ルターの詩篇注解からの私訳)。
つまり、神が私たちの心の奥底からの叫びを聞いてくださるとき、かえって目の前の状況はさらに暗く、悪くなり、神が怒っているようにしか感じられないことがあるのです。
10–15節には、主が私たちに近づいてくださるときの神秘が描かれます。そこでは、「暗やみ」と「御前の輝き」、また「雹」と「火の炭」のように、自然では相反する現象が同時に迫ると記されます。
主の臨在は、人の想像をはるかに超えているからです。
なおここで、この地に近づく主の怒りは、私たちの敵に向けられています。一方で、「主は、いと高き所から御手を伸べて……私を大水から引き上げられた」(16節) と記されます。
そして、そこから生まれた余裕が、「主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された」と描かれ、その理由が、「主が私を喜びとされたから」と記されます (19節)。
そして、主は、今、主の前に静まっておられるあなたを「喜び」としておられます。
【祈り】 主が私を喜びとされ、私の叫びに耳を傾け、天を押し曲げて降りて来られる方であることを感謝します。主が近づいてくださる不思議を覚えさせてください。