伝道者の書1〜3章「『日の下の』の空しさと『天の下』の幸い」

2025年1月1日 元旦礼拝 

この書は、「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば」と最初に紹介されており、伝統的にダビデの子、ソロモン王によって今から三千年近く前に記されたと言われます。

ただ、著者名はどこにも記されておらず、文体や内容からずっと後の時代の人によって記されたという見方も有力です。

聖書協会共同訳は、「伝道者」と訳される原文をそのまま用い「コヘレトの言葉」と呼びます。コヘレトとは「集会の説教者」という意味です。

英語のタイトルは Ecclesiastes ですが、これは「集会」「教会」とも訳される「エクレシア」の派生語で、(集会の)説教者のことばというのが最も的確かもしれません。

ただ、著者がソロモンであるとの前提で読んだ方が、内容が理解しやすい面があります。

ソロモンはイスラエルの王とされた時、神から「知恵と判断の心」を与えられました (Ⅰ列王3:12)。そしてシェバの女王は彼に会った時、「なんと幸せなことでしょう……いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる、このあなたの家来たちは」と感心しました (同10:8)。

今私たちは、この書を通してシェバの女王が感嘆した、神がソロモンに与えられた「知恵のことば」を聞くことができます。

1.「空(くう)の空、すべては空(くう)……日の下に新しいことは何もない」

「空(くう)の空。伝道者は言う。空の空、すべてが空(くう)」というこの不思議なことばが最初の1章2節と終わりの12章8節にほとんど同じように繰り返されますから、これがこの書全体を貫く概念であることは明らかです。

「空」という訳は文語訳聖書以来の伝統です。しかしこれを「般若心経」などでの「空(くう)」の理論と混同してはなりません。時代背景も基本思想も全く異なるからです。

「空(くう)」は「霧」「息」「風」などとも訳され、そのことばを重複で「空しさ」や「はかなさ」の最上級を意味します。この箇所は、「『何と空しいことか』と説教者は語る。『何と空しいことか。すべては空しい』」と訳すことができます。

なお、「空(くう)」または「空しい」のギリシャ語訳が新約聖書ローマ人への手紙8章20、21節では虚無と訳され、被造物が虚無に服したのは、自分の意思からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に入れられます」と記されます。

つまり「空(くう)」とはアダムが禁断の木の実を食べて、エデンの園から追い出された後の現実世界をクールに描いた概念とも言えましょう。

「エデンの園」を単なる神話に過ぎないと思う人々も、心の底で「この世界はあるべき状態から離れてしまっている」と感じているのではないでしょうか。その世界の現実が「空(くう)」と描かれます。

同時に私たちは、理想的な世界の現れを望み、神が最終的にそれを実現してくださると信じます。つまり「空」と呼ばれる現実は、一時的な過ぎ行く現実とも言えるのです。

それを前提としてこの書の結論では、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ、悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである」(12:13、14) と記されます。これは聖書全体の要約に他なりません。

しかしそれではこの書での独自な知恵とは何でしょう。それは「日の下」(1:2、9、14等) と呼ばれる目に見える世界の現実と「天の下」(1:13、2:3、3:1) と呼ばれる、目に見えない神が支配する現実を区別する視点です。

簡単に言うと、「日の下」の現実は、不条理ばかりが満ちているように見えるのですが、それを神が支配する「天の下」の視点から見ると、そこに希望と喜びを見出すことができるということです。

ですから、「空の空」と最初と最後で描かれる伝道者の書を全体として見るときに、そこにはジョークに満ちた希望のことばが見い出され、心が楽しくなります。

今から千八百年前のことを記した中国の古典「三国志」の冒頭に、「そもそも天下の大勢、分かれて久しくなれば必ず合一し、合一久しくなれば必ず分かれるのが常である」と記されています。

つまり、人は戦いに疲れると平和を求め、見せかけの平和の中で不満を募らせ、また戦いを始める、人間の歴史はその繰り返しだというのです。

それが、「一つの世代が過ぎ去り、一つの世代が来る……今まであったことはこれからもあり、今まで起こったことはこれからも起こる」(1:4、9) ということの意味だと思われます。

1章5–7節では今から三千年前のソロモンが、この地の気象現象を驚くほど的確に、「日は昇り、日は沈み、また昇ってきたところに急いで戻る。風は、南に吹き北に巡り、巡り巡って吹く。風は、巡る道にまた戻る。すべての流れは海に注ぐが、海は満ちることがなく、流れ注ぐ所にまた戻ってゆく」と描いています。

太陽も風も水も、休むことなく忙しく動き続けているのですが、常に、もとの所に「戻る」という動きがあるために、全体を見ると悠然としていつも同じ状態に見えます。

私たちの生涯や人間の歴史も、波乱万丈なようでありながら、結局は、同じことの繰り返しです。それなのに、私たちは、なぜ、あせってばかりいるのでしょう。

このような現実を前に、「何もかもが疲れるばかり(「すべてのことが物憂く」(新改訳2017))」(1:8) と言わざるを得ない現実があります。

私は大学生の時、「僕の人生は空しいことの繰り返しだ……何かを達成しても、喜びは一瞬で終わり、すぐに新しい目標に駆り立てられている。一つの不安が解消したと思っても、すぐに新しい不安が芽生えてくるだけだ」と悩んでいました。

まるで、疲れるために生きているようなものです。

しかも、「誰も語り尽くすことはできない。目は見ても満ち足りることもなく、耳は聞いても満たされることはない(1:8) と描かれるように、人は所詮、この地で欲求不満の状態に置かれるのは避けがたい現実です。それなのに、「もっと、もっと」と駆り立てられ、「この先には明るい未来が待っている……」と期待し、裏切られ続けてきました。

ふと、振り返りながら、「何で、あんなことに熱くなってしまったのだろう。おかげで、まわりの人まで振り回してしまった」と思うことがたびたびありました。そして、「あの時、あのすばらしい景色を眺めながら、ゆっくりとしていた方が、ずっと有益だったのでは……」と後悔することもたびたびありました。

そのような中で、「日の下に新しいことは何もない」(1:9) と断言されると、かえって「そんなに人生を急いでどこに行くのか……」と思い直し、ゆっくり休む勇気をいただけます。

しかも、私たちが、「見よ。これは新しい!」(1:10) などと感動するようなことがあったとしても、少なくとも人生の真理に関する限り、それは大昔から語られていることです。それが新しく見えるのは、「昔のことは忘れ去られている」(1:11) とあるように、人が自分たちの歴史をすぐに忘れるからです。

しかし、決して忘れてはならない多くのことがあります。

2.「天の下に起こるすべてのことを、知恵によって調べ探ろうと、心を傾けた」

1章12節で著者は、「説教者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった」と自分を紹介し、その上で、天の下に起こるすべてのことを、知恵によって調べ探ろうと、心を傾けた」(1:13) と語っています。

ここに「天の下」という表現が初めて登場します。つまり、彼の心の中には、目に見える日々の現実の背後にある、目に見えない人生の真理を見極めたいという強い願望があったのです。

それは「神が、人の子らに労させよう(従事するように)と与えた辛い仕事だ」と説明されます。

人は、「私は何のために生きているのか?」「この人生の苦しみに意味があるのか?」などと思い巡らし続けてきましたが、それは「神が与えた仕事」でもあるというのです。

ですから、私たちは、「そんなことを考えたって、一銭の得にもならない!」などと言うのではなく、たといそこに、心の空しさが伴っても、この問いかけに真剣に向き合うべきでしょう。

17世紀のフランスの科学者パスカルは、「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を押しつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だがたとい宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だからわれわれの尊厳のすべては、考えることの中にある」と言っています。

「人間は考える葦である」とは教科書にも載っていることばですが、意味が誤解されがちです。彼の意図は、人が他の被造物に勝っているのは、その能力ではなく、自分の弱さや人生のはかなさを「知る」ことができることの中にあるというものです。

多くの人々は、「私は強く、賢く、美しい」という幻想の中に生きたいという欲求がありますが、真の宗教や思想は、人間の弱さ、愚かさ、醜さ、儚さという現実を直視させながら、なお、そこに希望を生み出すものです。

そこでは、『我』から自由になることが求められます。そのために私たちは心を空(から)にする黙想の訓練が必要ですが、実際には静まろうとすると、普段忘れている様々な「思い」がかえって沸き上がり、心が混乱します。

多くの人々は、自分の心の奥底にある混乱に蓋(ふた)をすることによって、かろうじて心のバランスを保っているとも言えます。ですから黙想には危険が伴います。

しかし、私たちの日々の行動は、自分の心の奥底に隠されている様々な思いに、既に、駆り立てられています。私たちが空しいプライドや勝ち負けにこだわるのは、心の闇に自分が動かされているためです。ですから、たとえ苦痛や危険が伴っても、黙想によって自分の心に気づくことは本当に大切なことです。

創造主の前で静まる際に大切な原則は、静まりの中で沸き起こる思い煩いや悲しみ、怒りなどを、まず自分で優しく受け止め、「主よ……」と呼びかけながら、それらを全能の父なる神にお委ねしてゆくことです。

そして、どのような静まりの方法を通しても分かることは、「日の下で起こるすべてのわざ」の「すべてがむなしく、風を追うようなものだ」(1:14) という真理です。

そして、「ねじ曲がっているものをまっすぐにはできないし、ないものは数えようがない」(1:15) という、人間の努力で解決できないものを見分けるということです。

様々な依存症の方々の自助グループで次のような祈りが繰り返されますが、それは心を静める上で、すべての人に有効だと思われます。

「神様。私にお与えください。変えられないことを受け入れる 平静な心 (Serenity) を。変えられることは変えて行く 勇気を。そして、ふたつのものを見分ける 賢さを」

3.「私の心はどんな労苦も楽しんだ……これもまた、神の御手によるもの」

2章3節にも「天の下」ということばが出てきますが、1節以降のソロモンの実験の意図が、「私はこの心に、『さあ、快楽で自分を試し、何が心地よいかを見よう』と語りかけた……私は身体をぶどう酒で元気づけ、心は知恵で導かれながらも、愚かさに敢えて身を任せ、人の子らが短い生涯、天の下でどのように過ごすのが善いかを見ようと、自分の心で調べた」(私訳)と描かれます。これは人間の心に関する壮大な実験です。

2章4節では「私は大きなことをやってみた」(私訳)に始まり、4-8節では八回に渡る「自分のために」という表現で、次のように自分の心の実験が描かれます。

自分のためにいくつも邸宅を建て、
自分のためにいくつものぶどう畑を植え、
自分のためにいくつもの園と庭を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植え、
自分のためにいくつもの池を造って、木の繁る林に水を引いた。
また、自分のために何人もの男女の奴隷を、家に生まれた奴隷に加えて、新たに買い、
自分のために牛や羊を、先にエルサレムにいた誰よりも数多く持った。
また、自分のために銀も金も、国々の王侯が秘蔵する宝をも蓄え、
自分のために男女の歌い手たちと、人の子らの喜びとなる多くのそばめをそろえた。

「ソロモンの栄華」と言われますが、彼は豪華な宮殿を建て、ぶどう畑や広大な庭園を造り、奴隷や家畜を増やし、金銀や諸国の宝物を集め、音楽家を雇ったばかりか、多くの側女(そばめ)を手に入れました。

彼は「こうして私は偉大な者となった……エルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった」(2:9)と描きます。彼は自分の心を、一歩、距離を置いて見ています。

ただその際、「自分の目が欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ」(2:10) と描くように、自分の欲望にブレーキをかけずに、自分の心が実際に何を味わうかを調べたというのです。

その結果、彼は「実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これがあらゆる労苦から受ける私の分であった」(2:10) と告白します。つまり、豪邸に実際に住んで贅沢三昧をするよりも、それを計画しそれを実行するというプロセスの中にこそ喜びがあったというのです。

しかし彼は、実際にそれを手にして、「手のわざと、労苦の結果のひとつひとつを振り返ったとき、見よ、すべては空しく、風を追うようなもので、日の下に益になることは何もなかった」(2:11私訳) と言わざるを得ませんでした。その喜びは余りに儚いものでした。

それは「天の下」の視点からは、自分自身の「快楽」のために生きることが「日の下」の現実ではいかに「空しい」かを実験によって悟ったということです。

しかも、ソロモンは、その実験のために、住民に重い税金を課し、近隣の国々に強制労働を課し、人々の恨みを買いました。そればかりか、彼は多くの妻たちの声に耳を貸して、創造主の怒りを買うような偶像礼拝に走ります。つまり、天の下」という視点からは、神のさばきを招く行為だったのです。

私たちは、ソロモンの失敗を軽蔑する代わりに、彼が人間の心に関しての壮大な実験結果を残してくれたこと自体を感謝すべきでしょう。

多くの人々は、億万長者になることや、この世界に影響力を発揮する偉大な存在になることを夢見ます。しかし私たちが学ぶことができるのは、そのような成功を手にした人が、どこに幸せを感じることができたかという事実の確認ではないでしょうか。

2章24節では、著者は突然、「神の御手」ということばを用いながら、「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦の中にたましいの満足を見るより他に善いものはない。私は、これもまた、神の御手によるものであるということが見えたと記します。

労苦から生まれる結果に期待するのではなく、労苦のただ中に喜びを見出すことこそ神のみわざだというのです。たとえば、受験勉強をするのは合格するためであり、結果が見えないことは苦しいことですが、そのような中でも、「食べたり、飲んだり」できること、また、何かに向かって「心を燃やしている」こと自体の中に「たましいの満足」が生まれます。

実際、試験に合格したとたん精神のバランスを崩す人もいるのですから、「今、ここで」の充実感を味わうことが大切といえましょう。これはまた、取れるか取れないか契約を求めて悪戦苦闘するビジネスマンにも適用できる教えです。

そして、「実に、神から離れて、誰が食べ、また誰が楽しむことができようか」(2:25) と続きます。神がいのちを守ってくださるのでなければ、誰も「食べたり」、「楽しんだり」はできないからです。

その上で著者は「神は、善人と認めた人に知恵と知識と喜びとを与え、罪人には、ひたすら集め貯えるという仕事を与え、善人と認めた人に渡される」(2:26) と言います。

これは、神の御前での「罪人」は、あくせく働き財産を蓄えても、それを自分で楽しむことができず、それを神は、「善人と認めた人」の手に「渡される」ということです。労苦した人の立場からしたら、「これもまた、空しく、風を追うようなものだ」といわざるを得ません。

ただ神が、ご自分にとって「善人」と思われる人に労苦しなかった富さえ与えることがあるのは、「善人」はそこで神を喜ぶことができるからです。

この世界が神の栄光のために存在しているのならば、神にとっての「善人」とは、富も知恵も、自分で獲得したものではなく、神の恵みであると謙遜に認める人を指すからです。

4.「喜び楽しむこと、労苦の中に幸せを見出すことが神の賜物」

3章では著者の目が、「天の下」という神の支配に向けられ、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」と記されます。

2–8節には七つの大枠によって人生全体を包括する神の時が描かれ、それぞれに二対の対比が描かれます。

第一の対比は「始まりと終わり」で、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある」(3:2) と記されます。

第二の対比は「破壊と建設」で、「殺すのに時があり、癒すのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある」(3:3) です。病原菌は殺し、古い建物は壊す必要があるからです。

第三は「悲しみと喜びの対比」で、「泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある」(3:4) と描かれます。悲しみと喜びはセットに考える必要があります。

第四は戦いを始める時と止める時の対比で、「石を放つのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁を止めるのに時がある」(3:5)です。

第五は財産の所有に関しての対比で、「求めるのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、放つのに時がある」(3:6) です。

第六は諦めるべき時、努力をつつけるべき時、受動と能動の対比で、「引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙るのに時があり、話すのに時がある」(3:7) です。

第七は、隣人やサタンとの関係、真理を巡っての戦いに関してのことを表わし、「愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、平和になるのに時がある」(3:8) と描かれます。

これを見ると、「都合のよい時」ばかりを選ぶことはできないということが分かります。人生には好ましい時と忌まわしい時とが、創造主からセットで与えられているのです。

その真理を著者は、「私は見た。神が人の子らに労させよう(従事するように)と与えた仕事を、神が、すべてをご自身の時に美しくしておられるのを、また、彼らの心に永遠を与えておられるのを(3:11私訳) と記します。

この最初は1章13節での「神が人の子らに……与えられた辛い仕事」の言い換えです。

ここでは、神が与えた空しい「辛い仕事を「見た」と同時に、

神が「ご自身のときに美しくしておられる」という現実を「見た」と言われ、

また神が「人の心に永遠を与えておられる」という現実を「見た」という三つの私の観察が描かれます。

これは、地上のすべての「時」を支配される神が、「ご自身の時」に、「すべて」のことを、「美しい」と言える状態へとあらかじめ備えておられるという意味です。

しかも、神は私たちの「心に永遠を与えておられる」ので、今の忌まわしいとしか思えない状況さえ、神の永遠の視点から見ることができます。

ただ同時にそこでは、「それでも、人は、神のなさるみわざを、初めから終わりまで見極めることはできない」(3:11私訳) とも記されます。それこそ「日の下」で見える現実を、天の下」という神のご支配の現実から見ようとする試みと言えましょう。

そのような中で、「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを」(3:12、13) と記します。

これこそ本書で何度も繰り返される知恵です。この世界を神の観点から見た結果、人の幸せは、何よりも、「今、ここで」味わうべきもの、それこそが神のご計画であるというのです。

原文では3章11、12節は「私は見た」ということばに支配され、3章12、13節は「私は知った(分かった)」ということばに支配されています。

つまり、「私は見た、そして、分かった」という心の流れが描かれているのです。これは力を抜いて、この世界を神の支配の現実から見た時の結論です。

著者は最初に、「空の空」と描いた現実を「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるのだろうか」と問いました (1:2)。

人は、より住み良い世界を作り出すために頑張ってきましたが、それが人の幸せにつながっているでしょうか。現代はインターネットコミュケーションが発達した結果、昼夜を問わずに仕事をせざるを得なくなっています。技術の進歩が競争を世界的なレベルに広げ、心の余裕をますます奪っているのです。

それが「日の下には新しいものは一つもない」(1:9) という「天の下」の視点です。

そのような現実の中で、「生きている間に喜び楽しむ」こと、「食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すこと」は、刹那的な生き方ではなく、これこそ永遠の神の視点から発見できた、神が望まれる生き方、楽しみ方なのです。

これは、人の労苦の結果が、後継者によって壊され、また財産を残すことがわざわいにしかならないような現実との対比で記されていることでもあります。

これからの一年、「日の下」の現実を超えた「天の下」の観点から、神が今、ここで与えてくださった恵みを楽しみ喜びましょう。