マタイ1章1〜25節「インマヌエルと呼ばれる方による平和の実現」

2024年12月22日

「約束」という漢字には、糸を引き締めた目印を付け、木を束ねて縛るという意味が込められています。つまり、「約束」には互いを束縛する取り決めを忘れないようにするという意味があるのです。

これはヘブル語の「契約」の場合も同じです。当時、契約を結ぶ儀式には、「のろい」の警告と「祝福」の約束が付随していました。人は基本的に束縛を嫌いますが、結婚は束縛し合う関係でもあります。事実、子供が生まれれば子どもに束縛され、それから逃げようとすると、家庭が壊れ、子ども傷つきます。

しかし、どんなに困難な中でも、互いの約束を守り通そうとするときそこに祝福が生まれます。つまり、契約に伴う「祝福」と「のろい」は身近な関係でも確認できることでもあるのです。

神はイスラエルの民と契約を結びましたが、彼らは神を裏切り「のろい」が実現しました。しかし神は彼らをその「のろい」の束縛から救い出すためにご自身の御子を遣わされました。

イエスを救い主と信じる者は、その「のろい」をイエスに引き受けていただき、反対に主の祝福を受け取らせていただけます。そしてイエスは「新しい契約」を十字架の犠牲によって保障してくださいました。

教会ではクリスマスのたびにイザヤ11章が朗読されますが、そこには救い主が、私たちを狼が子羊とともに住み、ライオンと小さい子供がともに遊び、乳飲み子がコブラの穴の上で戯れることができるという神の平和(シャローム)が満ちた世界を創造すると約束されます。

神の御子は、その約束を成就するために人となられたのです。その神のシャロームの完成の約束は、必ず実現します。

1.新しい創世記としてのキリストの系図

この福音書の最初は、「ビブロス・ゲネセオス」Book of Genesis(創世記)と記されます(新改訳「系図」)。これは「起源の記録」という意味で、キリストの起源とは、神による新しい創造を語ることなのです。

旧約も新約も Book of Genesis(創世記)ということばから始まるのは何とも不思議です。聖書はアブラハムからイエスに至る神の「契約」の物語です。ここに記されるのは系図ですが、それは血筋ではなく、契約の歴史を語るものです。

だからこそ「系図、イエス・キリストの」ということばの後に「ダビデの息子の」ということばが記され、その後に「アブラハムの息子の」という順番で続きます。

しかも、キリストとは「救い主」という以前に、厳密には「油注がれた者」(ヘブル語はメシヤ)で、それはダビデの家系を受け継ぐ「王」という意味があります。ですから、この方は当時、「ダビデの子」と呼ばれました。

ここには血縁関係のないヨセフに至る系図が記されますが、これは養子縁組に似ています。そして聖書では、法律上の親子関係が重視されます。実際、最近の英語訳(ESV、NIV、NRS 等)では、「Abraham was the father of Isaac, and Isaac the father of Jacob. . .」と、「beget(生む)」の代わりに「父となる」という表現が使われています。

しかもこの系図には時代上のギャップがあります。また、アブラハムからダビデに至る世代を十四代でまとめるのは、それはダビデという名前を構成する三つのヘブル語のアルファベット子音(デレク、ワウ、デレク)に由来するもので、それぞれのアルファベット上の順番は、4、6、4になります。これを合わせると14という数字になります。

この系図が血筋ではなく契約を受け継いだ系図なので、系図にギャップがあるのは何の問題でもありません。だからこそ、イエスは契約の上で、「ダビデの子」であり、また「アブラハムの子」なのです。

アブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。神は彼にひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげよとの命令を与えましたが、彼はそれに従うことによって、自分を神、善悪の基準とするアダムの罪に勝利しました。

そして神は、この信仰の応答に対して、「あなたの後の子孫の神となる」(創世記17:7) という祝福を約束し、契約のしるしとしての「割礼」を定めました。アブラハムには子孫が約束の地を占領することと、その子孫が天の星のように増えるという約束が与えられましたが、聖書の物語の核心とは、アブラハムに対する(ヤハウェ)の契約が成就するというものです。

ただし、アブラハムは家長としては大きな欠点を持っており、それがイサク、ヤコブに受け継がれます。ヤコブはラケルから生まれた息子のヨセフを偏愛することで、十人の兄息子たちのねたみを引き起こしますが、神は兄たちに奴隷に売られたヨセフを用いてヤコブ一族をエジプトで増えさせる計画を進めてくださいました。

このプロセスでヤコブの第四男「ユダ」が家族をまとめる大きな働きをし、ダビデは彼の子孫です。ユダの子を産んだ「タマル」(3節) は、本来、息子エリの妻として迎えられましたが、彼は神のさばきを受けて死に、また弟のオナンもオナニーの罪によって死にます。

ユダはタマルの夫となった者が次々に死んだことに怯え、彼女をやもめのまま残そうとします。それに対し「タマル」は遊女の姿をして義父を欺き、子を設けます。ただし父と息子の嫁の関係は死罪にあたる罪とも思われました (レビ20:12)。

ところが、神はタマルの心の真実を見られ、その子を祝福してくださいました。そして3節では「ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み」と記されます。

その後のヘツロン、アラム、アミナダブ、ナフション、サルマという系図では (4節)、ヘツロンはヤコブと共にエジプトに下り (創世記46:12)、出エジプトの際の族長が「アミナダブの子ナフション」と描かれます。エジプトでの四百年の間にはアラムとアミナダブの名しか描かれていないことになります。

また「サルマがラハブによってボアズが生み」(5節) とは旧約のどこにも記録がなく、神がマタイに特別に示してくださった事実かと思われます。ただし、「ラハブ」は、ヨシュアがエリコ攻撃の前に遣わしたスパイを命がけで逃したエリコの遊女です。

神は滅ぼすべきエリコの住民、しかも遊女のラハブの信仰を喜ばれ、サルマに嫁がせたのだと思われます。なお、サルマとボアズの間にも士師記のかなりの年月が隠されていると思われます。

「ボアズがルツによってオベデを生み」(5節) と記されますが、「ルツ」はモアブの女でした。申命記23章3節ではモアブ人の子はその十代の子孫さえイスラエルの民の交わりに入れてはならないと記されましたが、神はルツの信仰を喜ばれ、ボアズの嫁へと導きました。そしてそこからオベデ、エッサイが生まれます。つまり、ダビデの曾祖母はモアブ人だったのです。

なお、「ルツ」が「ボアズ」に嫁いだとき、町の人々は「主 (ヤハウェ) がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように」(ルツ4:12) と祝福を祈りましたが、それが成就したのです。

遊女の姿になってユダとの関係を持ったタマル、ヨシュアに味方したエリコの遊女のラハブ、のろわれた民モアブの娘のルツがダビデの系図に名を連ねるとは何とも驚きです。

そればかりか、「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」とは、「ウリヤの妻」のバテシェバとの不倫関係を強調するかのようです。

しかもウリヤはダビデの忠実な家来になった外国人です。これはダビデが忠実な家来の妻を奪い取ったことを現します。しかし神は、「のろわれた関係」さえも「祝福」に変え、そこから生まれたソロモンに最高の知恵と力、富と名誉とを与えられました。

この四人の女性に共通するのは、「のろい」が「祝福」に変えられたことです。血筋の上では「のろいですが、彼女たちはアブラハム契約に身を寄せた結果として、祝福の基と変えられたのです。

キリストが「のろい」を「祝福」に変える「救い主」であるということが明らかに示されています。

2.神がダビデと結んだ契約

ダビデの子ソロモンから「バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ」(11節) と記される間に、20人の王がいましたが、そのうちの14名だけがこの系図に記されます。

8節の「ヨシャファテ」は、主の目にかなう良い王と言われますが、北王国のアハブと同盟を結び、その息子のヨラム」にアハブの娘アタルヤを妻に迎えてしまいます。これによって北王国の偶像礼拝が南王国に本格的に入ります。

なお、ヨラムからウジヤの間には三人の王の名が隠されていますが、彼らはみな北の王や家来たちに殺害されています。9節の「ウジヤ」、「ヨタム」は有能な王でしたが、その子のアハズはエルサレム神殿に異教の神への祭壇を建て、神の怒りを引き起こしました。

その子の「ヒゼキヤ」と、ヒゼキヤのひ孫の「ヨシヤ」はダビデに並び称されるほどの王ですが、この二人の間に在位した「マナセ」と「アモン」は最悪の王です。この二人の救いがたい王の名が記されることで、神のご計画はそれにも関わらず進んで行ったということが証しされます。

「バビロン捕囚のころ」(11節) の王「エコンヤ」は、実際は最後から二番目の王ですが、バビロンにすぐに降伏したため、捕囚の地で優遇され、ダビデの子孫を残すことができました。

サムエル記第二7章には、かつてダビデが主(ヤハウェ)の神殿を建てようと思い立ったとき、主ご自身がダビデに、彼から生まれる子が神殿を建てると約束されました。その際、たといその子が罪を犯しても、主は「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまで堅く立つ」と約束してくださいました (16節)。

ただし、かつて神はかつてモーセを通して、「いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く、あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19) と語っておられましたが、ダビデの後継者は「のろい」を選び取ってしまいました。その結果がバビロン捕囚でした。

しかし一方で神は、エレミヤ33章20–22節において、今まさにバビロンによって廃墟にされようとしているエルサレムに対して、神殿が滅びても、ダビデに対する契約が破られることはないことを約束してくださいました。

そこでは「昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約」という表現で創世記8章22節でのノア契約を思い起こさせながら、「ダビデと結んだわたしの契約」も破られることがないと保証されます。

簡単に言うと、目の前には途方もない悲惨が迫っているが、それで神の約束が反故にされはしない、この苦しみの後には、すばらしい祝福の世界が広がっている、それを待ち続けるようにという励ましです。その神の約束の確かさは、この天と地の規則的な動きを見ればわかるだろうと、二千六百年前から言われていることだというのです。

12節では「バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み」と記されますが、このエコンヤを二回数えないと17節の「十四代」が成り立ちません。

これに関しエレミヤは興味深い記述を残します。22章30節には「この人を『子を残さず、一生栄えない男』と記録せよ」と記されながら、最後の52章31節以降には、エコンヤが捕らえ移されて37年目に獄屋から出され、バビロンの王の前で食事をするようになったと描かれます。Ⅰ歴代誌3章17、18節では彼に七人もの子供が生まれたと記されます。まるで二人のエコンヤがいるかのようです。

つまり、バビロン捕囚は主のさばきですが、同時にダビデ契約のゆえに人の目には理解しがたい神のご計画が進んでいるのです。

続けて「シェアルティエルがゼルバベルを生み」(12節) と記されますが、ゼルバベルは前者の孫だと思われ (Ⅰ歴代誌3:17–19)、祭司ヨシュアと共に、廃墟となっていたエルサレム神殿を再建します (エズラ5:2)。それはバビロンを滅ぼした「ペルシアの王キュロス」が、主の導きを受けてユダヤ人の帰還を助け、神殿建設を援助したからです。

なお歴代誌では、ゼルバベルの子の中に「アビウデ」という名はなく、彼からヨセフに至る10人の名は、この福音書以外のどこにも登場しません。その期間は500年余りかと思われますから、これ以外の名も存在したことは確かです。

その上で16節では「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ」と、ヨセフがダビデ契約の後継者であることが強調されます。彼の父が「ヤコブと記されるのも興味深いことです。ヤコブにもヨセフにもダビデにも救い主イエスの原型となる歩みが見られるからです。

彼らは、「神がともにおられるなら、どうしてこのような不条理が許されるのか」という悲惨を体験しながら、それを通して、神の栄光が現されて行きました。

そして系図の最後に、「キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった」と記されるようにイエスがダビデの正当な子孫であることの保障は、マリアではなくヨセフにあることが明らかされています。

17節では系図が三つの期間に分けられます。第一期は「アブラハムからダビデ」で苦しみを通しての祝福、第二期はソロモンからエコンヤで破滅に向かう時期、第三期のエコンヤ以降は「救い主」を待ち望む時期です。

それぞれが十四代で、七代が六回繰り返されていることになります。つまり、キリストは第七回目の新しい世代、歴史の完成の時代の幕開けとして位置づけられます。

18節では「イエス・キリストの誕生の次第は」と描かれますが、この原文も「キリストの起源 “Christ’s Genesis”」と記されます。これは誕生のようすの報告ではなく、預言の成就、つまり神の救いの計画が実現したことを描こうとしたものだからです。

しかも、ここにはマリアの人柄も信仰も何も述べられずに、ヨセフとの結婚を約束した女性であったことだけが記されます。マリアが「救い主の母」となることができたのは、彼女の信仰が神に喜ばれたものであったことは確かなのでしょうが、神のみわざをただ忠実に啓示しようとするマタイにとっては重要なことではありませんでした。

私たちの信仰とは、そのような神の救いのご計画の中に、このままの自分を差し出すことに他なりません。

3.「その罪からお救いになる……その名はインマヌエルと呼ばれる」

1章18節では続けて「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだいっしょにならないうちに、聖霊によるものを腹に宿していることが分かった」と記されます。ただ「聖霊による子」であることはマリアにしか分かりません。

そこで、「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」(19節) と描かれます。ここでヨセフは内密に去らせようと決め切望し)た」と記されています。

この趣旨は、杓子定規にマリアの罪を裁こうとするのではなく、彼女が今後もどうにかして生きて行かれることを真剣に「望んだという意味だと思われます。

ところが、「彼がこのことを思い巡らしていたころ、見よ、主の使いが夢に現れ」(20節) ます。最初の呼びかけは、「ダビデの子のヨセフ」です。当時の習慣では「ヤコブの子のヨセフ」と呼ぶべきですが、一介の大工に過ぎない彼をそう呼ぶのは不思議です。

御使いは、「恐れないで、マリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(20、21節) と言われますが、生まれる前から名を与えられるとは、神の特別の選びの器であることの証明です。

なお「イエス」という名は、へブル語読みにすると「ヨシュア」、モーセの後継者として、イスラエルの民を約束の地に導いた指導者です。つまり、マリアから生まれる子が、神の民を導いて、神の地を平和(シャローム)のうちに治めるという働きを担うというのです。

その際、御使いはヨセフに、イエスの使命を「この方がご自分の民をその罪からお救いになる」(21節) と言いました。

「罪からの救い」とは、イスラエルをバビロン捕囚の「のろい」から解放するという意味がありました。それは神が再びイスラエルの民の真ん中に住み、彼らをこの地がもたらす飢えや渇き、周辺の国々の攻撃から守り、あらゆる祝福に満ちた平和な国を作ってくださるという約束です。

しかもそれは、イスラエルの民ばかりか、全世界に及び、そこではイザヤ11章に記されていたような神の平和(シャローム)が全地に満ちることになります。

まさに、「罪からの救い」とは、私たちのために「新しい天と新しい地」への道が開かれたことを意味するのです。そしてまた、「罪からの救い」とは、人生の方向が、「のろい」から「祝福」へと決定的に変化することを意味します。

そして、「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」(22節) と記されます。それはイザヤ7章14節の「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言でした。

これはアハズが預言者イザヤの勧めを退けて、人間的な解決を図ろうとして神の招きを拒絶したときに、神が語られたことばです。そのときのアハズの心の声は、「主 (ヤハウェ) に信頼したら、今までの方針を変える必要があるが、それはできない。もうすでに手がけていることがあるから」というものでした。

彼は「信じたくない!」との思いで一杯でした。これは私たちの場合も同様です。「信じます!」とは、「私は生き方を変えます」と同じ意味を持つからです。多くの人の問題は、「信じられない!」ではなく、「信じたくない!」ということなのです。もし、「私は信じたい!」と心から願うなら、神は、不思議なかたちで、信仰を与えてくださることでしょう。

ただし、イザヤ7章では、「インマヌエル」という名の意味は、困窮と不安と敗北の中で理解できるものと描かれます。

また8章8節では、アッシリアの攻撃がユダ王国を呑み込みそうになるところで初めて、「その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの地をおおい尽くす」と記されます。それはこの世の成功を助ける教えではありません。

幸いこれはイエスの父となるヨセフにとって信仰を生み出すことばになりました。それは彼がこの世の成功者とは程遠い生き方をしていたからです。彼は、御使いが自分を「ダビデの子」と呼んでくれた語りかけに信頼することができました。

かつてのエルサレムの王ダビデの子アハズはこのことばを退けましたが、人間的には悲惨な生活をしている大工のヨセフはこのことばを受け入れることができました。それは自分の弱さを知っていたからです。

そのことが、「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じられたとおりにした」(1:24) と記されます。彼はこれからの人生がどうなるかをわからないままに、神の真実に対して真実に応答しました。

バビロン捕囚直前の王たちは、国を滅亡に追いやりましたが、同じダビデの子孫のヨセフは、神の計画を実現する器になることができました。これこそ私たちに求められている信仰の応答です。

しかも、ここで「インマヌエル」と呼ばれる方は、その後十字架で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46) と叫ばれました。イエスは十字架で七つのことばを発せられましたが、マタイは人を困惑させるこの不思議なことばしか記録していません。それは、「神は今、ともにおられない・・・」という意味の叫びにほかなりません。

しかし、神は三日目にイエスを死者の中からよみがえられました。つまり、「神がともにおられる」という確信は、「神がともにおられない・・・」と思われるような苦しみとあざけりに耐えることを通してこそ、理解されるという霊的事実なのです。

インマヌエル、つまり「神が私たちとともにおられる」という霊的事実は、この世の暗闇の中で見ることができる「光」です。

マザー・テレサは神の招きの声を聞いて、最も貧しい人々に仕える働きを始めました。しかし働きが軌道に乗る中で、イエスの語りかけが聞けなくなります。彼女は「神よ、なぜ私をお見捨てになるのですか……私が求めても、あなたは答えてくださらない……私の信仰はどこに行ったのでしょう……ここにあるのは暗闇と空虚さだけ」と嘆くようになります。

しかしやがて、彼女の中に神への渇きを起こすのが神ご自身であり、孤独を通してイエスのみ跡に従わせていただいているという霊的な事実に気づきます。そればかりかその暗闇の中で最も貧しい人々の気持ちと一つになることができました。

ついに彼女は、「悲しみ、苦しみ、寂しさは、イエス様からの口づけに他ならない。それは、主の口づけを受けられるほど、十字架に近づいたのだから」と言うようになります。

「罪からの救い」とは、どんな悲惨の中にも「希望」を生み出す力、どんな悲劇の中にも「愛の交わり」を生み出す力です。それは、罪が赦されて天国に行けるという以前に、この世の悲惨の中に送り出す力になります。

復活のイエスは弟子たちに向かって、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21) と言われました。クリスマスは、世界の創造主が、私たちと同じ弱い肉体を持つ人となって、この世の痛みや悲しみを背負ってくださったことを思い起こすときです。

神はイエスを私たちのもとに遣わし、そして今、イエスは私たちを暗闇の世界に遣わしてくださいます。私たちはそれによって、罪が支配する世の中で、「祝福の基」となることができるのです。