先日、当教会からバザーや秋の音楽会の収益金、指定献金等をお送りしましたが、船越先生から以下のような感謝のおことばが届いております。
ウクライナ支援の献金、本当に心から励まされています。本当にありがとうございました。心から感謝いたします。大切に使わせて頂きます。
以下は、今朝届いた祈祷課題です
いつもウクライナを覚え、祈り続けてくださっていることに心から感謝します。
私たちは守られて活動を続けています。
ウクライナ東部ドンバスではロシア軍の猛攻が続いており、要衝ポクロフスク3kmの地点にまでロシア軍が迫っており、ウクライナ軍は苦戦を強いられています。
クルスク方面でも、北朝鮮兵が多数投入されたようで、激戦が続いています。前線にいる兵士たちの守りをお祈りください。
この日曜日にはヘルソン教会のオレグ牧師をお招きしてみことばのメッセージをいただきました(3人の子どもたちも一緒に来てくれました)。
厳しい状況の中にあって、ヘルソンにとどまりつつ、主を信頼して宣教・牧会を続けている姿に強く励まされました。オレグ牧師家族と教会の守りをお祈りください。
私たちは12月24日にヘルソン教会、ポサド・ポクロフシク教会に食料物資を届けに行きます。
愛するみなさまの尊いお祈りに心から感謝しています。
以下は、本日の詩篇黙想です
詩篇7篇6–11節『主よ。私を弁護してください』
この詩がどのような背景のもとで記されたについては諸説があり、断言はできません。ベニヤミン人とはサウルの部族ですから、サウルから追われているときのことと考えた方が、意味が通じると思われます。
ここでダビデは、自分の身に覚えのない理由で一方的に責められ、攻撃を受けていると感じています。その危機的な状況下で、ダビデは必死に主にすがります。
6節では、主に三つの訴えが立て続けに叫ばれます。
第一は、「御怒りを持って立ち上がってください」。
第二は、「私の敵の激しい怒りに向かって」立ってください。
第三は、「私のために目をさましてください」ですが、それは「さばき」をすみやかに執行してくださるようにという切なる願いと結びついています。
7、8節は、主がさばきの座に「お帰り」くださって、公正に「諸国の民をさばかれる」ことへの期待を述べたものです。
8節の二番目の文章は、「私を弁護してください」から始まりますが、これは厳密には、「私をさばいてください。主 (ヤハウェ) よ。私の義と、私にある誠実さに従って」とも訳すことができます。
ダビデは自分が不当な理由で攻撃を受けているので、主のさばきは自分にとっての救いになると固く信じています。
「正しい神は、心と思いを調べられます」(9節) と言いながら、神のさばきは自分の救いになると信じ、重ねて、「神は心の直ぐな人を救われる」(10節) と告白します。
ダビデの祈りを見ながら、現代の私たちは内省的になりすぎているのではないかと考えさせられました。
私自身もそのような者のひとりですが、それでも、自分が不当な批判を受けていると思うときには、過去の様々な失敗を棚に上げて、必死に自分の正しさを訴えたくなるものです。
しかし、そのように自分の気持ちを正直に訴えることこそが、「心の直ぐな人」と言えるのかもしれません。そして、意外にも、そのように訴えることができて初めて、自分の罪が示されるものです。それこそ祈りの不思議です。
【祈り】 不当な苦しみに会っていると思えるとき、主の公正なさばきを信じて、大胆に祈る者とさせてください。そして、その後で、私の罪をお知らせください。