私たちはこの地で生きるときに、誤解され、また不当な非難を受けるときに、「辱められた」と「心が傷つきます」。しかし今日の箇所では、二回にわたって、「この方に信頼する者は、恥を見ることがない」と記されます。十字架刑の目的は辱めにありました。しかし、イエスは死者の中からよみがえって、主を辱めた者たちが恥を見ることになりました。
私たちもイエスを主と告白する歩みの中で様々な誤解や非難を受けることがあるかもしれませんが、それはキリストの御跡を歩むという栄光への道へと変えられています。
1.「つまずきの石、妨げの岩……この方に信頼する者は、恥を見ることがない」
9章30、31節は、「それでは何を私たちは言いましょう。義を追い求めていなかった異邦人が、義を獲得しました。それは信仰からの義です。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていましたが、その律法に到達しませんでした」と記されています。
最初の問いかけの仕方は9章14節と同じですから、ここに話の転換点があることが明らかです。しかもここでの「義」とは3章5節での「では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、何を私たちは言いましょうか」という表現を思い起こさせます。
そして3章22–24節では「すなわち、神の義がイエス・キリストの真実によって(を通して、媒介として)、すべての信じる人に与えられたのです。そこには分離(区別)はないからです。それはすべての人が罪を犯して、神の栄光を受けるに値しなくなっているからです。それで、神の恵みによって価なしに(無償で)義と認められることになりました、それはキリスト・イエスによる贖いを通してのものです」と記されていました。
「義を獲得した」(9:30) とは、「不義」を抱えたままの私たちが「イエス・キリストの真実」を信じ受け入れることによって「価なしに義と認められる」(3:24) ことを指します。
しかしイスラエルに適用されるのは3章20節にあったように「律法の行いによっては、すべての肉なる者は、神の前で義と認められない(義とされません)……律法を通しては罪の知識(認識、意識)が生まれる」という「さばき」の原則です。
彼らは「義の律法を追い求めていた」(9:31) と記されますが、これは7章22、23節での「神の律法」「罪の律法」とも異なる表現です。ガラテヤ3章21節でパウロは「律法による義」によって「いのちを与えられる」という可能性を論じましたが、「義の律法……」とは、律法の本来の目的の「いのち」を得ようと「追い求め」それに「到達」しようとして失敗したことを指します。
つまり、異邦人は「義を追い求めていなかった」にも関わらず「信仰によって」「義を獲得した」と言われる一方で、ユダヤ人は「義の律法」を真剣に「追い求め」ながら、肉の力の限界のため、本来「律法」とともにあった「いのち」に到達できなかったという皮肉な現実が論じられています。
そのことが、9章32、33節では、「なぜなのでしょう。それは信仰からではなく、行いによるかのようにしたからです。彼らはつまずいたのです、つまずきの石に対して。それは、『見よ、シオンにわたしは置いている、それはつまずきの石、妨げの岩である。そしてこの方に信頼する者は、恥を見ることがない』と書いてあるとおりです」と記されています。
ユダヤ人は人間的な「行い」によって神の前に義と認められることを目指しましたが、それは神がキリストにあって与えられた一方的な恵みを忘れさせることになりました。これはバビロン捕囚の反省の反動と言えましょう。たとえばエゼキエル20章12–24節には神のさばきの理由が、四度にわたって「安息日を汚した」ことによると記されています。その強い反省が生まれました。
バビロン捕囚後のユダヤ人は「安息日を聖なるものとする」ことに命がけになり、それを守る具体的な規定を作りました。
たとえば「安息日に歩くことが許される道のり」(使徒1:12) という基準を生み出しました。それは礼拝所までの距離の限界で、ヨシュア記3章4節で「契約の箱」と民との間に二千キュビト(約1、050m)という記述に由来します。
その他、安息日に持ち運べるもののリストや、「労働」に相当しない働きなどの細かな生活規定が生まれました。たとえば本を読んでも良いが、ペンをもって書き留めてはならないとか、料理を作るのはいけないが、それを温めることは許されるなどという決まりが生まれました。
それは、安息日を聖なるものとするという「行い」によって、神の前に「義と認められる」という運動になりました。
しかしそのような人にとっては、神が「キリスト・イエスによる贖いを通して」「価なしに義と認められる」という福音は「つまずきの石」「妨げの岩になった」のです。
これはイザヤ8章14節からの引用です。その文脈では、神の救いが見えない中で、「神がわたしたちとともにおられる」(インマヌエル)という神の啓示に信頼することですが、それはエルサレムの安全をアッシリアという大国との条約によって守ろうと考えていた人々にとって「妨げの石」「つまずきの岩」でしかありませんでした。神よりも、目に見える権力者の方が頼りになると思えたのです。
一方イザヤ28章16節では、主ご自身が「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない」と語っておられます。
これは主がご自身の約束をエルサレム神殿の礎に置かれたことを指します。ソロモンの神殿の完成の時、主は、ソロモンと子孫がダビデのように歩むなら、王座は堅く立つと言われた一方で、ほかの神々に仕え拝むなら、この宮も廃墟となるという趣旨のことを警告されました (Ⅰ列王記9:3–8)。
ですから主がシオンに据えられた「石」とは、主の約束自体を指していると思われます。
ただこのギリシャ語七十人訳では、「これに信頼する」という部分が、「この方に信頼する」と訳され、それが救い主に対する信頼へと読み替えられます。預言された救い主は、神の約束を成就する方なので、主の約束に信頼することと、主が備えた救い主に信頼することは同じ意味になりました。
パウロはそれを前提に、「『見よ、シオンにわたしは置いている、それはつまずきの石、妨げの岩である。そしてこの方に信頼する者は、恥を見ることがない』」(9:33) と記しました。つまり、救いの鍵は人の働きではなく、主(ヤハウェ)の約束にあるのです。
そしてイザヤ28章に8章の記事を挟み込み、キリストは多くのユダヤ人にとって「つまずきの石、妨げの岩」であっても、この方に「信頼する者は、恥を見ることがない」と記しました。それこそイザヤでの「慌てふためくことがない」ことの意味です。
新改訳2017では、「この方に信頼する者は 失望させられることがない」と訳されますが、その脚注に「恥を見ることがない」と記されるように、「恥を見ない」というのが原文の直訳です。聖書協会共同訳でも「恥を受けることがない」と訳されています。
私たちは小さい時から、何か問題に直面するたびに、それをどのように解決するかという具体的な行動を取る訓練を受けています。それは大切な知恵ですが、自分の「いのち」の本質は人間の努力を超えたところにあります。
この世的には十字架に架けられた方を「救い主」と信じることは、「つまずきの石、妨げの岩」でしかありません。しかし、この方の贖いのみわざをただ感謝して受けとめ、日々この方との交わりに生きるところに、真のいのちの喜びが生まれるというのが信仰の基本なのです。
それが「恥を見ることがない」と言われるのは、この世の常識では「恥ずかしい」生き方と見られる現実があったからです。
2.「彼らは神の義を知らず、自分の義を立てることを追い求めて、神の義に服さなかった」
10章1–4節は、「兄弟たち、私自身の心が願うこと、また神への祈りは、それらは彼らに関することで、救いに至ることです。私は証しします、彼らは神への情熱(熱心さ)を持っています。しかしそれは知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らず、自分の義を立てることを追い求めて、神の義に服さなかったからです。それは律法の目的(ゴール、目指すもの)はキリストだからです。それは信じる者すべてを義に至らしめます」と記されます。
ここで改めてパウロは、同胞のユダヤ人の救いを心から願い、祈っていると語ります。その上で彼らが「神への情熱(熱心さ)」を「持っている」ことを「証し」しますが、それは神への正しい「知識に基づくものではない」と語ります。
「神の義」とは、私たちを「信仰に始まり信仰に進ませる」(1:17) という信仰の原点であるのに、彼らはそれを知りませんでした。つまり、「神の義」を自分の信仰の力によって把握する代わりに、「神の義を知る」ことで神への信頼が生まれるというのです。
しかもユダヤ人たちは「神の義」ではなく「自分の義を立てる」ことを追い求めました。それはたとえば、「安息日を聖なるものとする」ことに熱心なあまり、それを具体的な行動として定義し、「安息日の距離以上を歩まなかった」とか、「安息日に掃除も洗濯も勉強もしなかった」と誇っている状態です。
そして具体的な規程に目が向かい過ぎて、安息日が「喜びの日」「栄(は)えある日」(イザヤ58:13) ではなく、互いに監視し合う窮屈な日になってしまいました。
それに対しイエスは、「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません」(マルコ2:27) という発想の転換を求めます。
安息日は人を幸せにするために設けられたという原点に立ち返ることこそ「神の義」に「服する」という意味になるのです。
イエスは、「神の国と神の義を捜しなさい(求めなさい)」(マタイ6:33) と言われましたが、それは具体的には、「空の鳥を見なさい」「天の父は養っていてくださいます」(同6:26) ということを覚えることであり、「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい」「神はこのように装ってくださる」(同6:28、30) という現実を覚えることでした。
つまり「神の義」とは、神の真実なご支配を指すことばであり、私たちが努力して獲得するものではないのです。
私たちは気を付けるべき概念に「自己義認」ということばがあります。これこそイエスがパリサイ人を批判した核心でした。その彼らの態度を、イエスは「自分は正しいと確信していて、ほかの見下している人たち」(ルカ18:9) と描きました。それこそ「自分の義を立てることを追い求める」ことの問題です。
そしてこれらのことをまとめるように、「律法の目的(ゴール、目指すもの)はキリストだからです。それは信じる者すべてを義に至らしめます」(10:4) と記されます。イエスは「律法や預言者を……廃棄するためではなく、成就するために来た」(マタイ5:17) と言われました。
イエスが律法に熱心なパリサイ人を批判したことで、ご自身が旧約に記された「律法や預言者を廃棄するために来た」と誤解する人たちが増えましたが、イエスこそが律法の本来の目的を理解し、イエスにおいて律法が成就するというのが新約の理解の核心です。
イエスに信頼する者のうちには聖霊の働きがあり、そのキリストへの信仰こそが、迷える者のうちに聖霊を与え、その人のうちに律法を全うする力を与え、名実ともに神が義と認める状態へと変えてくださいます。
「自分の義を立てることを追い求めて、神の義に服さなかった」という「自己義認」の罠は、しばしば現代の福音派の教会の問題として現れます。
たとえば LGBT をどう見るかという議論を巡って、互いに異なった見解が福音派の教会で生まれ、それを巡って熱い議論がなされたりします。その際、注意すべきなのは自分を神の立場に置いて、自分と異なった見解を断罪することはないでしょうか。
旧約聖書でも「陰茎を切り取られた者は主 (ヤハウェ) の集会に加わってはならない」(申命記23:1) と記される一方で、イザヤ56章4節には「わたしの契約を堅く保つ宦官たちには……息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える」という祝福の希望が記されています。神の救いは人の期待を超えるものです。
3.「心で信じることは義とされること、口で告白することは救われること」
10章5–7節では、「それはモーセが律法による義について、『それらを行った人間は、それらによって生きることになる』と記しています。 しかし、信仰による義はこのように言います、『あなたの心の中において言ってはならない、『誰が天に上るのか』などと、それはキリストを引き降ろすことです。また『誰が深みに下るのか』などと、それはキリストを死者の中から引き上げることです。しかし、彼(モーセ)は何と言ってるか、『みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある』、これは私たちが宣べ伝えている信仰のことばです」と記されています。
最初の引用はレビ記18章5節からのもので、そこでは「あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる」と記されています。パウロは「それら」という代名詞のまま、その後半部分のみを引用しています。
6、7節では申命記30章11–14節の要約が引用されますが、その元のテキストでは「まことに、私が今日あなたに命じるこの命令は、あなたにとって難しすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるわけではないので『だれが私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか』と言わなくてよい。また、これは海のかなたにあるわけではないので、『だれが私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか』と言わなくてもよい」と記されています。
興味深いのは、これをキリストのみわざに結びつけて、キリストが本来、天にあると思えた教えをこの地に持って降りてくださったこと、また、キリストが手に届かない教えを、死者の中からよみがえって私たちにもたらしてくださったことに結びつけて話を展開し、キリストにある信仰のことばは、私たちの「近くにあり……口にあり……心にある」というキリストにあることばとして説明し直されていることです。
最後の14節は新改訳2017年訳では、「あなたはこれを行うことができる」と記されますが、原文は「みことばは、あなたが行うように、ごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にある」と記され、「できる」ということばは入っていません。
パウロはこの部分を「これは私たちの信仰のことばです」と言い換えています。それは、律法のことばが、キリストのうちにあることばとして再解釈され、キリストに信頼する者たちにとって身近な教えと変えられたからです。私たちはそれを聖霊によって全うできます。
10章9–11節は、「すなわち、もしあなたの口においてイエスを主と告白し、あなたの心において神はこの方を死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われることになります。それは、心で信じることは義とされること、口で告白することは救われることだからです。それは聖書が、『すべてこの方に信頼する者は、恥を見ることがない』と言っているからです」と記されます。
9節は先の「信仰のことば」を受けて、その内容が「もしあなたの口においてイエスを主と告白し、あなたの心において神はこの方を死者の中からよみがえらせたと信じるなら」と言われます。
先の申命記のことばがこのような展開になるのは何とも不思議です。それは第一に、先の「キリストを引き降ろすこと」という受肉の神秘を前提に、私たちと同じ人間の姿となったイエスを、神を呼ぶのと同じように主(キュリオス)と呼ぶことです。
当時のローマ帝国では、ローマ市民はローマ皇帝を主(キュリオス)と呼びましたが、そのような中でイエスを主(キュリオス)と告白することには、ときに「いのち」の危険を伴いました。
またユダヤ人たちは創造主を「主(キュリオス)」と呼んでいましたが、十字架にかけられたイエスを「主(キュリオス)」と告白することは、神への冒涜と思われました。
また第二の「キリストを死者の中から引き上げることです」(10:7) ということばを受けて、ここでの「心において神はこの方を死者の中からよみがえらせたと信じる」(10:9) という告白につながります。
そして、この二つの信仰告白によって「救われることになる」という将来の「救い」が保障されます。当時、イエスを主と告白することにはローマ人とユダヤ人の両方から非難されたことでした。
また心の中でイエスの復活を信じるということは、どのような暗闇の中においても希望を持てる原点になったことでした。
10節では「心で信じること」と「口で告白する」ことが並行して記されますが、それは「心の信仰」は「口で告白する」ことで初めて本物と認められるからです。
イエスも「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います」(マタイ10:32、33) と言われました。
それは、自分の身の安全のために信仰を公にできない者は「救い」が保障されているとは言えないという警告と思われます。
ただしこれは知的な弱さのゆえに明確な信仰告白が困難な人を排除する規定では決してありません。福音自由のような個人の主体性を重んじる教派は、信仰告白が困難な者を排除する教派と非難されることがありますが、それは的外れな議論です。創造主はそれぞれの弱さを理解しながら、それぞれのあり方で救いへと導いてくださいます。
しかし、異教社会で異教徒との軋轢を起こさないために信仰告白を躊躇する者に対しては、イエスの厳しいことばが適用されます。ですから一定の助けがあれば明確な信仰告白ができる者は、周囲の圧力を恐れることなく、明確な信仰告白をすべきなのです。
僭越ながら小生は牧師として、「私には自分の信仰を言語化することはできません」と躊躇するような方の人生の物語にじっと耳を傾けてきました。そこで話しを整理して差し上げると、その人の中にある信仰が明らかにされ、本人自身が感動に胸を震わせるということを何度ともなく体験させていただきました。
ただ11節では「すべてこの方に信頼する者は、恥を見ることがない」とイザヤ28章16節が再び引用されます。この箇所と9章33節との違いは、「すべて」ということばが新たに挿入されていることです。
さらに10章12、13節では、「それは、ユダヤ人とギリシャ人の間に分け隔て(分離)はないからです。というのも、同じ主がすべての人にとっての主であり、この方に呼びかけるすべての人に対して豊かであられるからです。それは、すべて主の御名を呼び求める者は、救われることになるからです」と記されます。
これはヨエル書2章32節からの引用で、そこでは「主 (ヤハウェ) の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主 (ヤハウェ) の御名を呼び求める者はみな救われる……エルサレムには逃れの者がいるからだ。生き残った者たちのうちに、主 (ヤハウェ) が呼び出す者がいる」と記されています。
つまりここでの「救い」とは、この地が真っ暗闇に覆われ、ほとんどの人が滅びに向かうように見える、そのような絶望的な状況の中で、「主の御名を呼び求める」者は例外的に「救われる」と約束されるのです。
これは世界が滅びに向かうと思える中での「救い」なのです。なお、ヨエル書ではこの直前に、「わたしの民は永遠に恥を見ることがない」(2:26、27) ということばが繰り返されます。
ですから「救われる」ということばと「恥を見ることがない」には、ほとんど同じ意味が込められていることが分かります。
さらに12、13節でも「すべて」ということばが強調されています。人は、目に見える状況に神のご支配を認めることができないという絶望の中において、民族の違いやその人の持つ様々な生きにくさや障害などの違いを超えて、すべての人が「主 (ヤハウェ) の御名を呼び求める」ことで「救われる」のです。そこに分け隔てはありません。
私たちの内側に与えられた信仰は、キリストのうちにある生き方として、黙っていても現わされます。当時の信仰告白はまさに命がけの冒険への歩みでした。
今も信仰の告白は、何らかの行動における変化を生み出すことになります。それは、頑張って何かの結果を生み出すということではなく、神の子イエスが私たちのためになしてくださったすべてのことを思い起こすことから自然に生まれる変化と言えましょう。
それは「神の義がイエスキリストの真実によって、すべて信じる人に与えられた」(3:22) と記された通りです。