同性婚裁判 藤本満著「LGBTQ 聖書はそう言っているか?」を読んで

 昨日(2024年10月30日)、東京高裁において、同性婚を認めない民法や戸籍法の規定は違憲であるとの判決が下されました。これは社会認識の大きな変化を示す象徴的な出来事です。人権の観点からは、当然のことでしょうが、聖書の結婚観が世界を変えて来たという信仰的な視点からは、注意が必要かもしれません。

 少し長くなりますが、同性婚を教会でも認めるべきという趣旨で書かれているご本に関しての対話をご紹介させていただきます(著者の了解済み)。

 敬愛する藤本満先生がお書きになった「LGBTQ 聖書はそう言っているか?」を二回、丁寧に読ませていただきました。
 一度目に読んだ後に、藤本先生に感謝とともに疑問や反論をメールさせていただきました。すると先生は、このような対話ができること自体を非常に喜んでくださり、僕の疑問に対しても丁寧にお答えくださると同時に、僕の解釈の問題点も率直にご指摘くださいました。そのような対話が五回ばかり続きました。それを受けて、もう一度読み直す必要を感じさせられました。

 僕はもともとLGBT運動の行き過ぎに警告を発した米国保守派を中心としたナッシュビル声明に共感し、その翻訳を手伝い、広めるような働きにも加わって来た保守的な立場に属しています。福音自由の全国の牧師研修会でもこの問題に関して、世界の動きを整理して させていただいたこともあります。
 ところが、藤本先生のご本をお読みして、いろんな意味で、自分の聖書解釈の未熟さを示されました。藤本先生はこの聖書が記された当時のことばの用い方や、当時の文化的な状況を詳しく説明しながら、同性愛行為を非難しているように見える箇所一つ一つに関して、それを現代のLGBTQの問題に適用することの危なさや、それが適用できないことを、丁寧に解説してくださっています。

 たとえば、僕は35年前から、女性が礼拝説教をすること、女性が一教会の牧師となることに賛成して来ました。
 ただその際、「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ静かにしていなさい」(Ⅰテモテ2:12)、「女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません」(Ⅰコリント人14:34) と記されている箇所に関しては、これは当時の教会で特殊な事情を正すためのパウロのことばで、他のパウロのことばとのバランスを考えれば、パウロが女性のリーダーシップを否定していたと考える必要はないと解説してきました。

 つまり、聖書はその表面的なことばどおりに解釈してはならない場合もあり得るということを自分の解釈の原則としてきました。
 藤本先生は現在のLGBTQの問題にこれと同じアプロ―チをしています。現代の人権問題とされていることは、最近の科学的な発見によって明確になってきたことで、たとえば同性愛を求める傾向は、生まれながらの気質で、修正ができないものであるとのことです。
 それに対して聖書が禁じているように見える行為は、異性愛者の常軌を逸した情欲が同性にまで向かってしまったもので、現在の誠実な同性愛者にそのまま適用することはできないというものです。

 クリスチャンのLGBT肯定派の方々が主張しておられることは、聖書の大切な結婚観を、同性のパートナーシップの方々にも適用できるようにすることで、世間で誤解されるような男女の結婚制度を軽視るすることではありません。
 保守派の方々は、聖書の結婚観や性の聖別を軽んじる運動をクリスチャンのLGBT擁護派も同意しているように誤解しがちですが、決してそんなことはありません。
 彼らはイエス様が何よりも大切にされた結婚関係の中に、誠実な契約関係のもとに生きようとする同性カップルをも招くことを、教会が愛を持って決断すべきであると言っておられるだけです。
 また、性自認の葛藤に関しても、それを性転換で解決できる問題と考えているわけではありません。未信者のLGBT運動と、クリスチャンのLGBT擁護派には大きな違いがあります。

 これらのことは、僕もかなりの程度理解していたつもりですが、藤本先生がみことばを丁寧に解き明かしてくださったことによって、より確信することができました。
 ですから、私たちは、LGBTの方々に一方的な聖書解釈を押し付けて、彼らに生き方を変えるようにと勧めることは控えるべきかと改めて確信できました。
 もちろん、僕は藤本先生と違った解釈があることも分かっていますし、僕もLGBTQ肯定派に回心するまでには至ってませんが、そこに合理的な解釈がある限り、教会はその人の良心の自由を尊重し、ときに反論を控えることも大切かと思います。またその方々の信仰を尊重し、個人的に祝福を祈ることもできると思います。

 しかし、LGBTの方々をそのままで受け入れることが大切だということが分かると同時に、やはり、この社会の価値観に明確に聖書の価値観を述べ伝えることの大切さも示されました。
 簡単に言うと、藤本先生の聖書解釈に感心すると同時に、別の危機感が湧いてきたのです。藤本先生は、この本はあくまでも、聖書を神のことばと信じるキリスト教会に向けて書いているもので、未信者の方々を想定はしていないと言っておられます。

 しかし、この社会では、LGBT運動の広がりとともに、それぞれが自分の性自認を、自分で決めることができるとか、男女の間の結婚関係にイエスの福音がどれほど革命的な影響を与えたかが軽視されるような傾向が生まれてきています。
 ある北欧の国では、「創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造されました』」(マタイ19:4) ということばを、そのまま述べることがLGBTの方々に対する差別につながるという批判までなされるようになっているようです。
 しかし、キリスト教会の大切な伝統としての、男女の結婚を神による聖定と考え、また性の営みを神の認めた関係の中でのみ行うという価値観は、世界の道徳観を変えてきました。血筋を残すことが大切な日本の天皇家においてさえ、一夫多妻が許されなくなったのは、明らかに聖書的な価値観が世界を変えて来た結果です。

 同性愛行為に関しても私たちはその広がりに注意の目を向ける必要があります。そこには妊娠の可能性がないために、それを否定する価値観が無くなるときに、社会全体に広がるという懸念があるような気がします。
 一方で、同性愛は生まれながらの傾向なので、伝染性を持つようなことはないとも言われます。
 しかしそれでも、今も昔も、少年の性被害は大きな問題であることは明らかです。

 僕は、50年近く前に旅行でニューヨークの安価なYMCAホテルに泊まりました。そのとき僕はイエス様を信じたばかりのときで、机の真ん中に日英並行訳の聖書を置いていました。
 僕が外の洗面所から部屋に戻ろうとすると、白人の若い男性が僕と話したいと部屋に入ってきました。そこには彼の明確な意図があり、それを彼は言語化しました。しかし、僕の部屋のテーブルにある聖書を認め、僕に、「Are you religious?(あなたは信者なのか)」と尋ねてきました。僕は、「Yes I am」と明確に答えました。すると彼はおとなしく去ってくれました。
 当時の米国人にとっては、クリスチャンは同性愛行為に反対しているというのが常識だったからです。ところが、今の米国では、教会の中でLGBTに対する対応が分かれていて、内輪の論争ばかりがあって、聖書が語る明確な性道徳を発信することができなくなっているような気がします。

 イエス様は、「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」(マタイ5:28) と、厳しい性道徳を教えてくださいました。また、どのような結婚に関しても、そこに両性の合意がある限り、その関係を「神が結び合わせたもの」(マタイ19:6) と聖別してくださいました。
 男女の性の営みなしに、人間の子孫は生まれません。その基本を、創造主ご自身が聖別するために男女の結婚を特別なものとして聖別してくださいました。LGBTQ擁護の方々も、これらの点に関してはまったく同意してくださっていると思います。
 ただ、その際、どの面を強調するかによって、伝わり方が違うということも認識する必要があるかとも思わされています。
 どちらにしても、キリスト教会の中で、互いに見解の違いを尊重しながらも、イエス様が二千年前に言われたことの基本は、今の私たちにとって、そのままのことばで多くの人々にとっての救いになっているということを改めて覚えたいと思います。

 最後に、僕は聖書が語る「結婚」は、一組の男女に間に認められているもので、この価値観が世界を変えてきたと信じていますから、同性婚を「結婚」と呼ぶことには賛成できません。
 しかし、基本的人権、また合理的な聖書解釈の多様性の観点から、同性パートナーシップに結婚と同じ権利を保障するべきだとも考え続けています。それは、どんなに聖書の価値観を広げたいと思う方でも、偶像礼拝を法律で禁止することには賛成できないと思われることと同じかと思われます。
 また、聖書が同性愛行為を「自然に反するもの」(ローマ1:26) と言っていることは、現代のすべての同性愛行為に適用できるように今も僕は考えていますが、藤本先生は僕の解釈に異論を唱えてくださいます。それでいて、互いに切磋琢磨できる関係であることを喜ぶことができています。そのような互いの違いを尊重する関係が、日本のキリスト教世界に広がることを期待しています。