エレミヤ30、31章「神の痛みから生まれた新しい契約」

2024年10月27日

キリスト教会のシンボルは「十字架」ですが、これは理性では理解しがたいものかもしれません。

申命記21章23節では「木にかけられた者は神にのろわれた者」と描かれ、パウロは「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13) と記します。

私たちは神にのろわれた」方を、神として崇めているのです。しかし、キリストの御傷から流れる血には、御父の痛みと悲しみと同時に、「真実の愛(ヘセド、恵み)」が込められていました。

ルターは「神のあわれみ怒りの下に隠されている」と言いました。

神はイスラエルの背きの罪に「燃える怒り」を注ぎ、同時に「わたしのはらわたは、彼のためにわななき(痛み)、あわれまずにはいられない」と語られました。

神はご自身の「はらわた」を痛ませながらイスラエルにさばきを下し、同時にそこから「新しい契約」を生み出し、「神の民」にご自身の聖霊を注いで新しい歩みへと導いてくださいました。

私たちの救いは、罪人に対する神の痛みとあわれみから始まり、聖霊による再創造によって実現します。

1.「まことに、わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす」

エレミヤ29章10、11節において、主(ヤハウェ)はバビロンに捕囚とされているエコンヤ王や貴族、職人などに向かって、「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみ(善)の約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている——主 (ヤハウェ) 」のことば——それは平安 (シャローム) を与える計画である、わざわいではない、あなたがたに将来と希望 (ティクヴァ) を与えるためのものだ」と言われました。

そして30章2節では、主(ヤハウェ)はエレミヤに「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ」と命じられます。その核心は、「見よ。その時代が来る……そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる——主 (ヤハウェ) は言われる——わたしは彼らを、その先祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する」(30:3) というものでした。

「その時代」とは、七十年後の救いを超えた「終わりの日」のことを指します。

そこで主(ヤハウェ)は、「恐れてわななく声を、われわれは聞いた。『恐怖だ、平安 (シャローム) がない』と……なぜ、わたしは勇士がみな産婦のように、腰に手を当てているのを見るのか。また、どの顔も青ざめているのを」(30:5、6) と問いながら、これを、喜びをもたらす「産みの苦しみ」にたとえています。

その上で、「わざわいだ(ああ)。実にその日は大いなる日、比べようもない日。それはヤコブには苦難の時。だが、彼はそれから救われる」(30:7) と、主のさばきとイスラエルの民の救いを告げ知らせます。

しかも主は、「その日になると……わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。彼らは彼らの神、主 (ヤハウェ) と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕える」(30:8、9) と言われます。これはダビデ王国再興の希望です。

そして主は、「わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない」(30:11) と言われます。

神はご自身の命令を軽蔑する者に対して「すべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる」(申命記28:15以降等) と警告しておられました。それで、神はイスラエルの民を「懲らしめ」「罰せ」ざるを得ないのですが、それでもアブラハムの子孫である彼らを「滅びし尽くすことはない」というのです。

さらに主はイスラエルの民に、「あなたの傷は癒されがたく、あなたの傷は痛んでいる。あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒す者もいない」(30:12、13) と言われますが、これは主の懲らしめを受けるとき、人間的な解決策が何の助けにもならないことを知らせるためです。

ただそこで主は、あなたを傷つけた敵に復讐をしてくださると同時に、「まことに、わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす」(30:17) と保障されます。

ですから、「私は今、主の懲らしめを受けているのではないか?」と感じておられる方に何よりも求められていることは、主のふところに飛び込むことです。

そして主は「見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ……都はその丘の上に建て直され……彼らから、感謝の歌と、喜び笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして……尊く扱う(栄光を与える)ので、彼らは小さな者ではなくなる」(30:18、19) という祝福を約束します。

そしてその王国を実現する王が、「その権力者は、彼らのうちの一人……から出る……彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか」(30:21) と描かれます。これはキリスト預言であり、その方は神に近づくためにいのちをかけてくださるというのです。

そして、「主 (ヤハウェ) の燃える怒りは、去ることはない。主が心の思うところを行って、成し遂げるまでは。終わりの日に、あなたがたはそれを悟る」(30:24) と記されますが、今、私たちの主イエスがこの神の怒りを引き受け、私たちに対する神の怒りを去らせて下さったのです。

その神秘をパウロは、「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから購い出してくださいました……それは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶため」(ガラテヤ3:13、14) と記しています。

イスラエルの民は自業自得によって神ののろいを受けました。しかし、神は彼らを見捨てることなく回復させてくださいました。今のこの時代、既にキリストが異邦人である私たちの身代わりにのろいを受けてくださいました。

ですから、私たちは既に、祝福の中に置かれています。私たちが受ける苦しみは、決して「のろい」ではなく、「主はその愛する者を訓練し(鍛え、しつけ)、むちを加えられる、受け入れるすべての子に対して」(ヘブル12:6私訳) と記されるように、主に特別に愛され、受け入れられているしるしです。

それは、「霊の父は、私たちの益のため、ご自身の聖さにあずからせようとして訓練される」(同12:10私訳) と記されるように、神の子とされていることのしるしです。

2.「わたしのはらわたは……わななき……彼をあわれまずにはいられない」

31章1、2節では、エレミヤの百年余り前にアッシリア帝国によって滅ぼされた北王国イスラエルに対する希望が、「そのとき……わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを見出す。イスラエルよ、出て行って休みを得よ」と記されます。

捕囚とされることが、「休みを得る」こととして描かれるのは何とも不思議です。

彼らは遠い国々へと強制移住をさせられていますが、そこで、「主 (ヤハウェ) は遠くから私に現れた」というパーソナルな出会いを体験し、主ご自身による、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」(31:3) という語りかけを聞くというのです。

「真実の愛(誠実)」とはヘブル語の「ヘセド」の訳で新改訳では多くの場合は「恵み」と訳されていますが、この箇所は、「契約を守り通す愛」というこのことばの意味を端的に表現しています。

そして、その回復の希望を主(ヤハウェ)は、「おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される……再びあなたはサマリアの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植え、その初物を味わう」(31:4、5) と言われますが、これは、神を侮るものへののろいが、「ぶどう畑を作っても、その初物を味わうことはない」(申命記28:30) と預言されていたことと対照的です。

ただし、その際、彼らは主 (ヤハウェ) に向かって、「主 (ヤハウェ) よ。あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を」と叫ぶ必要がありました (31:7)。歴史的には強制移住させられた多くの民は、アッシリアの民族同化政策に屈服して神の民としてのアイデンティティーを失っていましたが、それでもそこには「残りの者」(レムナント)と呼ばれる信仰を全うしている人々がいました。

そして、彼らの帰還のことを主は、「見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には目の見えない者も足の萎えた者も、身ごもった女も臨月を迎えた女も、ともにいる……彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る」(31:8、9) と約束されます。

ここで主は、ヨセフの子でサマリアの地を相続したかつての北王国の中心的な部族「エフライム」を、その後、徹底的に堕落した恩知らずの彼らを、「エフライムはわたしの長子である」と言っておられます。

今も、神の民としての歩みを始めながら、この世で様々な苦しみを体験し、信仰を捨ててしまったと思えるような人がいます。しかし、その人も、「残りの者」として神の御名を呼び求めるなら、どんなに堕落した状態からでも回復させていただけるのです。

31章10–14節では神の民の回復が、「イスラエルを散らした方がこれを集め……ヤコブより強い者の手から……買い戻された……彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い……彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことは無い……『わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる……わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りるー主 (ヤハウェ) のことば』」と感動的に描かれます。

31章15節での、「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ」とのことばは、イエスの誕生の際、ヘロデ大王がベツレヘム周辺の二歳以下の男の子をみな殺させたという記事に結び付けて引用されます (マタイ2:18)。イエスの誕生は、神がイスラエルの民の悲しみのただなかに降りてこられたという意味を持っているからです。

ラマはエルサレムの北8㎞にあるベニヤミン族の中心都市で、そこに後にバビロン捕囚として連行される人々が集められました (40:1参照)。ラケルはヨセフの母で、彼女からエフライムとマナセという北王国の中心部族が生まれましたから、北王国の悲しみがラケルによって表現されているのだと思われます。

ただし、ここでは続けて、「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ……あなたの将来には望みがある……あなたの子らは自分の土地に帰って来る」(31:16、17) と告げられます。ここでの「あなたの将来には望みがある」という表現は、先に主が、「わたしの計画は……あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」(29:11) と言われたことに結びつきます。

イエスの誕生の際には、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子の悲劇があり、今もイエスを主と信じることによってかえって家族や共同体に分裂と悲劇が到来すると思えることがあるかもしれません。しかし、それは力の均衡によって保たれていただけの見せかけの平和が崩されるということです。

しばしば、自分の回心によって家族を敵に回したと思われる人が、最終的に全家族の救いの始まりであったということがあります。真の自由と平和をもたらしてくださるのは神です。神にのみ将来と希望があります。

そして主(ヤハウェ)は今、裏切りの民に対するご自身のお気持ちを、「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき(もだえ、痛み)、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(31:20) と描かれます。

日本で唯一世界的に有名になった神学者、北森嘉蔵は「我が腸(はらわた)……痛む」という「異常な言葉を見出して以来、私は昼も夜もこの言葉を考え続けてきた」と記していますが、その黙想から「神の痛みの神学」という名著が生まれました。それは拙著、「哀れみに胸を熱くする神」の出発点となる洞察です。

それはご自身に背き続ける者のために、ひとり子を十字架にかける神の痛みでもあります。ですからここでは続けて主は、「おとめイスラエルよ。帰れ……背信の娘よ。いつまで迷い歩くのか」と彼らの回心を訴えます (31:21、22)。

そのときに起こる不思議が、「主 (ヤハウェ) はこの地に、一つの新しいことを創造される。女の優しさが一人の勇士を包む」(31:22) と預言されます。当時の常識は「強い男が弱い女を包む」ですが、神の力が弱さの中に表されるとき、この逆転が生まれます。

イエスはひ弱な一人のマリアという女性に抱かれて成長しました。そして、今も、多くの強がる男性の信仰は女性によって守られ支えられています。どちらにしても、神の愛が「女の優しさ」に現わされるという逆説が描かれています。

3.「見よ、その時代が来る……わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ」

そしてエレミヤは、31章23節で、主(ヤハウェ)が再び民の真ん中に住む希望を、「ユダの地とその町々で」、かつて廃墟とされたシオンの山に向かって、「主 (ヤハウェ) があなたを祝福されるように、義の住まい、聖なる山よ」と「語る」という夢として描きます。

その上で主の祝福の約束が、「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせる」(31:25) と記されます。

そして、「ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった」(31:26) と嘆きの預言者が平安に満たされる様子が記されます。

そして31章27、28節では、「見よ、その時代が来る」という宣言とともに、主ご自身が神の民と家畜を新しく増やすという約束を、「かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る」と言われます。

これは主ご自身が「のろい祝福に変える」という宣言です。

しかも、「その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ」(31:29、30) と預言されますが、これは当時の人々が、「なぜ父の咎の責任を、子が担わなければならないのか?」という不満を述べていたことへの答えだと思われます。

「十のことば」で、主(ヤハウェ)は「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(出エジ20:5) と警告しておられましたが、当時の人生の常識では「三代、四代」は「七十年」と考えられ、七十年のバビロン捕囚はその成就と理解できました。

しかし、新しい時代には、親の失敗の責任を子供が担うという、のろいの連鎖は断ち切られるというのです。

31章31節ではこの書での最も画期的な福音が、「見よ、その時代が来る……そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ」と記されます。

これは旧約聖書中で唯一「新しい契約」を明言する箇所です。「新約聖書 (a new testament: covenant)」ということばはそれに由来します。また31–34節はヘブル人への手紙8章8–12節で新約聖書中最も長い旧約からの引用としてギリシャ語七十人訳のことばが書き写されます。

そこではまず「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは、彼らの主 (husband) であったのに、彼らはわたしの契約を破った」(31:32) と描かれます。

その上で「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主 (ヤハウェ) のことば─(わたしは)わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(31:33) と記されます。

パウロはこの表現を用いながら、福音から離れそうなコリントの信徒に向けて、「あなたがたは……キリストの手紙であり、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたもの……文字は殺し、御霊は生かすからです」(Ⅱコリント3:3、6) と励まします。

律法の核心である「十のことば」は「石の板」に記されましたが、イスラエルの民はそれを守ることができず、自ら「のろい」を招いてしまいました。それをパウロは「文字は殺し」と表現しました。

しかし新約の時代には、神が私たちのうちに「生ける神の御霊」を与え、心の内側から作り変えてくださるというのです。自分の心の内面を見るとき、御霊の働きを感じられないことの方が多いかもしれません。しかし私たちが、「私の心は何と醜く、空っぽなのだろう」と謙遜に認めていること自体の中に御霊の働きがあるのではないでしょうか。

なぜなら、パリサイ人のように、「私は善意に満ちている」と思っている心を神は満たすことはできないからです。

そして今、「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主 (ヤハウェ) を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ」(31:34) という預言が実現しつつあります。

私たちは自分の回心の体験を振り返るとき、一方的に新しい知識を教え込まれたという以前に、不思議に、心の中にイエスの救いを慕い求める思いが沸いてきたということがなかったでしょうか。それは、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:1) とある通りです。

そして主(ヤハウェ)は、そのときに実現することを「わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない」(31:34) と言っておられますが、それこそが十字架のみわざです。

私たちは御霊の働きを誰の目にも霊的な立派な人に変身できることと考えがちですが、29章11–13節においても「わたしを見つけること、この箇所においても「わたしを知る」ことと記されています。

つまり、主との交わりの回復こそ御霊の働きの中心です。御霊は私たちに罪の赦しの福音を確信させるものです。

そして31章35、36節では、天地万物を治める主の全能の力が描かれながら、「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら……イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない」と記されます。

これは、もし(ヤハウェ)が太陽も月も星もまた海をも支配しておられないとしたら、イスラエルに対する神の計画も成就されることがないと言えようが、実際、神は全宇宙を治めておられるのだから、イスラエルをも新しくすることができるという意味です。

しかも主は、「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける」(31:37) と言われます。

これは、どれほど人間の知恵が進んでも天や地の基の神秘を知り尽くすことができないのと同じように、神の救いのご計画は人間には計り知れないものであるという意味です。

実際、イスラエルの不順順を見るならば、彼らは神から完全に見捨てられ、滅ぼされても当然なのに、神はご自身の民に対して、私たちの想像を超えたご計画をお持ちなのです。

そして31章38–40節では、「見よ、その時代が来る……この都は……主 (ヤハウェ) のために建て直される……死体と灰の谷の全体と、東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑は、みな主 (ヤハウェ) の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こぎにされず、壊されることはない」と、エルサレム周辺ののろいの場さえも聖なるところとされるという途方もないことが記されています。

エレミヤは7章30–34節で、エルサレムの南のベン・ヒノムの谷で、モレク神への幼児犠牲礼拝が行われていることへの主のさばきを宣告していましたが、今、そののろいの谷聖なる場とされるというのです。

なお新約聖書で、永遠のさばきの場が「ゲヘナ」と呼ばれているのは、この「ヒノムの谷」がギリシャ語化されたことばであると言われます。

「人には自分の行いがみな純粋に見える」(箴言16:2) と記されますが、人は自分の生き方が行き詰まることがない限り、自分を正当化し続け、「生き方を変えよう……」とは思うことができません。

それに対して神は、ゲヘナ(地獄)にふさわしい罪人に「燃える怒り」を示しながら、ご自身の御子の十字架をとおして私たちの罪の贖いを行い、私たちに聖霊を与えてくださいました。

イエスは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3) と不思議なことを語りました。それは、自分の心の貧しさを理解した者にこそ、聖霊のみわざが現わされるからです。

その中心は「神を知ること」に他なりません。「見よ、その時代が来る……わたしは……新しい契約を結ぶ」という主の約束を、エレミヤはそのような時代の到来に心の底から憧れるような気持ちで聞いたことでしょう。今、それが私たちに実現しました。